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 高知県下に分布する「コウラ」地名の多くは「高良神社由来」地名であるとの仮説を当ブログで紹介してきた。ところが、地名辞典などではほとんど「強羅(ごうら)」の変形と見て、「岩石の露出している小地域」と説明している。『日本の地名 60の謎の地名を追って』(筒井功著、2011年)でも柳田國男説を踏襲しているようであった。
 将棋では「数多ければ勝つ」という格言もあるが、学問の世界では、沢山の本にそう書いてあるから正しいとは限らない。その原点が柳田國男の説のみに拠っており、その検証をおろそかにして、偉い人が言っているから間違いないというのは思考停止である。そこで“柳田國男の「強羅(ごうら)」は……”で紹介した「強羅」地名の出典に当ってみた。

 『柳田國男全集20』(柳田國男著、1990年)の164ページに次のように説明されている。
   一八 強羅
 箱根山中の温泉で強羅という地名を久しく注意していたところ、ようやくそれが岩石の露出している小区域の面積を意味するものであって、耕作その他の土地利用から除外せねばならぬために、消極的に人生との交渉を生じ、ついに地名を生ずるまでにmerkwürdigになったものであることを知った。この地名の分布している区域は、
 相模足柄下郡宮城野村字強羅
 同 足柄上郡三保村大字中川字ゴウラ
 飛騨吉城郡国府村大字宮地字ゴウラ
 越前坂井郡本郷村大字大谷字強楽
 丹波氷上郡上久下村大字畑内字中ゴラ
 備前赤磐郡軽部村大字東軽部字ゴウラ
 周防玖珂郡高根村大字大原字ゴウラ谷
 大隅姶良郡牧園村大字下宿窪田宮地字コラ谷
等である。西国の二地は人によってコの字を澄んで呼ぶのかも知れぬ。ゴウラはまた人によってゴウロと発音したかと思う。こちらの例はなかなかある。いずれも山中である。
 信濃北佐久郡芦田村大字渡字郷呂
 駿河安倍郡村大字渡字ゴウロ
 飛騨吉城郡坂下村大字小豆沢字林ゴロ
 美濃揖斐郡徳山村大字戸入字岩ゴロ
 但馬城崎郡余部村大字余部字水ゴロ
 美作苫田郡阿波村字郷路
 安芸高田郡北村字号呂石
 長門厚狭郡万倉村字信田丸小字黒五郎
 伊予新居郡大保木村村大字東野川山字郷路
 土佐吾川郡名野川村大字二ノ滝字ゴウロケ谷

 土佐にはことにゴウロという地名が多い。中国ことに長門にもたくさんあるから、かの地の人は地形を熟知しているであろう。
 柳田國男は「西国の二地は人によってコの字を澄んで呼ぶのかも知れぬ」と言っているが、九州を中心とする西日本では圧倒的に「コウラ(高良)」地名が多いので、濁らないほうが主流であることはうなずける。
 また「土佐にはことにゴウロという地名が多い」と言及してくださっていることは嬉しいことではあるが、果たしてそうであろうか。たしかに『長宗我部地検帳』には「ゴウラ」「コウロ」なども記録されている。全数調査はできていないが、これまでの拾ってきた感覚からすると「コウラ」「カウラ」のほうが多いように感じる。私が「高良神社由来」地名としているものである。それをも「ゴウロ」系地名に含めているとしたら、確かに多いということになるだろう。しかしこれらは別系統地名として分けて考えるべきではないだろうか。
 また、「ゴウラ」地名についても、和歌山県東牟婁郡古座町姫字ゴウラに関しては三角州性低地として「河川の土砂が河口付近に堆積して形成された平野部分」といった場所もあるので、単に「岩石の露出している小区域」との説明だけでは不十分かもしれない。

▲宇城市不知火町高良、高良八幡宮あり

 柳田國男の説も特定の地名については的を射ているかもしれないが、こと西日本においては「高良神社由来」地名はかなり汎用性があり、高良神社の鎮座地が「高良」地名で呼ばれている。徳島市の高良神社が鎮座する2か所(応神町古川と飯谷町)の「高良」はその代表的な例だ。その観点抜きで大家の説のみに従っていては真実は見えてこないのではないかと考える。
 これまでにブログ内で紹介したコウラ地名については、次の表にリンクをつけてまとめておく。


<高知県下のコウラ(高良)地名>
 香我美町徳王子の高良神社
 「コウラ」という場所に建つ八坂神社
 いの町枝川の「コウラ」地名
 香美郡に「コウラ」地名が存在していた
 筑紫神社は高知県にもあった②
 越知町横畠北の「高良」地名

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 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している」と書かれている。
 高知県でも奈路は「山の平坦な所」を意味するという。「宮ノ奈路」という地名もあり「宮ノ原」と類縁地名なのかもしれない。県西部の四万十町大正大奈路字宮原は内陸部にあって、やや開けた場所となっている。高岡郡四万十町の大正大奈路を紹介したパンフレットに次のような記述がある。
 「中心街には、下道分校や中津川・下津井各小学校が統合された大奈路小学校があり地域の核になっている。学校の裏の小さな中洲のようなところには天満宮があり、大切に祀られている」
 この旧村社・天満宮(祭神:菅公)の鎮座地が大正大奈路字宮原である。八幡宮、諏訪神社、大倉神社、地主神社、大元神社を合祭していることから、地域の中核的な神社と言えるだろう。

 旧大正町において大奈路は北部地域の中心地であった。天満宮に隣接する大奈路小学校については学制発布と同年の明治五年に開設した歴史の深い学校であり、平成八年には休校になった中津川小学校を統合、平成九年にも下津井小学校を統合したが、残念ながら平成二十五年に閉校(田野々小学校に統合)となっている。
 これまで調べた県内の宮原地名と同様、ここでも「宮原」は宗教的な中心地であると同時に、文教の中心でもあったことが分かる。


これまで調べた県内の宮原地名
 宮ノ原(みやのはら)は九州では「みやのはる」  
 香南市夜須町の「宮ノ原」
 室戸岬・金剛頂寺(西寺)の寺領「宮原庄」
 土佐市戸波の宮原村
 金剛頂寺の寺領「宮原庄」はどこか?

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 室戸岬に近い金剛頂寺(西寺)の寺領として「宮原庄」が存在していたことを以前紹介した("室戸岬・金剛頂寺の寺領「宮原庄」")。

 正安四年(一三〇二)一〇月に神供田の実検が行われ、当時の寺領として「島田庄・浮津庄・大田庄・池谷庄・宮原庄・安田庄」などの名が見える。いずれも浮津から北西の安田に及ぶ海岸の地と思われ、前述の寺記に「応永の比(ころ)迄ハ三千五百石浮津ヨリ海辺安田迄」とあるのは石高は別にしてもある程度裏付けられる。(平凡社『高知県の地名』より)


 ここに登場する宮原庄がどこにあるかと探していたところ、東洋町資料集・第六集『土佐日記・歴史と地理探訪』(原田英祐著、平成30年)に掲載されていた「室戸市字図」(室戸市役所)に目がとまった。室津港のすぐ北に「宮原」地名がある。これこそ「宮原庄」の痕跡に違いない……。鬼の首を取ったつもりになっていた。


 『長宗我部地検帳 安芸郡上』に当然出ているだろうと調べたところ、該当しそうな付近に宮原地名が見つからない。16世紀頃には存在せず、比較的新しい地名ということだろうか。いわゆる「長宗我部地検帳のふるい」("土佐国(高知県)の「C(長宗我部)・Y(山内)ライン」"参照)で、ふるい落とされてしまったのかもしれない。

 室戸市出身の人に確認したところ、確かに「宮原(みやばら)」は存在するが、猫の額のような狭い土地で、八王子神社の関連であり、宮原庄とは無関係であろうとのことだった。
 よく考えてみれば、すぐ隣りが浮津であり、この辺りは「浮津庄」に含まれると見るべきか。やはり、地元の人による土地感というのは大切である。研究は振り出しに戻ったが、危うくとんでもない妄想に走るところであった。
 しかし一方で収穫もあった。『地検帳』に「安芸郡田野庄」の頁に「シマタ」(p550)がある。「島田庄」に由来する地名ではなかろうか。また「池ノ谷 下司名」(p564)も存在する。現在も奈半利川の西に池谷川があり、「池谷庄」に連なる地名と思われる。
 さらに安芸郡東寺地検帳の鹿岡村に「大タ」(p186)、室津地検帳の室津ノ村に「太タ」(p213)がある。ありふれた地名なので「大田庄」に比定できる確証はない。
 現在も使われている地名と合わせて、比定候補地をまとめると次の表のようになる。


島田庄旧田野庄シマタ(田野町)
浮津庄室戸市浮津
大田庄旧鹿岡村大タ or 旧室津ノ村太タ?
池谷庄旧田野庄池ノ谷(田野町)
宮原庄不明
安田庄安芸郡安田町

 そうなると、最後の関門がやはり「宮原庄」である。これまでの経験から、「宮原」地名が宗教的中心地との関連が深いことを考えると、安芸郡の延喜式内社のある室津神社(室戸市室津船久保3241)や多気坂本神社(奈半利町乙中里)の近辺が怪しいが、それらしい地名は今のところ見つかっていない。もうしばらく宿題とさせていただきたい。


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 臼杵の市内には、いたるところに古い歴史と文化を物語る石造物があります。なかでも、稲田にある臼杵神社の境内には、県内でも珍しい石造物があります。その形が、甲冑に身を固めた武人(頭部はつくられていない)に似ているところから、石甲(せっこう)とも短甲型石人(たんこうがたせきじん)とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
 この神社がある小高い丘のようなところは、今から千五百年以上前の古墳時代に築かれた全長87mの前方後円墳で、古代このあたり一帯を支配していた豪族「海人部(あまべ)」の墳墓にあたります。そして、この墳墓の上に立てられた石人は、ここに葬られたものを守衛する番兵としての武人の役割を果たしていたと考えられます。また、この石人について、このあたり一帯では昔から語り伝えられていることがあります。それは、この石人を臼(うす)と杵(きね)に見立て、「臼杵」という地名はこの石人から起こったものであるというものです。

 二基の石人は、長い間野ざらしになっていたこともあり、だいぶ痛んでいますが、その表面からわずかながらも朱の痕跡を認めることができます。おそらく、これらがつくられた当初は全面に朱が施され、さぞかし鮮やかな武人像であったと想像されます。
(https://www.kireilife.net/contents/area/history/1193852_1504.htmlより)


 “臼杵石仏に刻まれた「正和四年」は九州年号か?”では古代にさかのぼる有力な根拠を示すことができなかったが、最新の情報から新たな可能性が見えてきた。結論から言うと、「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵に淵源を持つということである。

 
 昨年、徳島県で赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂(しんしゃ)を採掘していた坑道が見つかった。弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(阿南市水井町)で、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点が見つかったという。これは日本最古の坑道として注目された。
 その約5km離れた加茂宮の前遺跡から、今度は縄文時代後期の水銀朱生産に関連する遺跡が見つかったのである。徳島新聞に次のように報道された。

 徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上や、水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
 
 石臼の大きいものは直径約30センチ、石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、関連した遺物の出土数は1000点に上った。水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
 

 調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
 
  センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
 
 県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末-後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。

 平安時代末期に阿波国那賀郡の南部が分立して海部(かいふ)郡ができた。高知県土佐市宇佐には海部(あまべ)郷、そして大分県臼杵市の海人部(あまべ)とくれば、これらの地域が海上交通でつながりをもっていたことが伺える。

 また、臼杵市周辺に伝わる「朝日長者伝説」は金の鉱脈に関連深い説話であるが、水銀と金の鉱脈はほぼ重なっていると指摘されている。とすれば臼杵市も古代における水銀朱の一大生産地であった可能性が高い。「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵だったのである。


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1878(M11)年 1月5校開校

 浅井小学校(寺尾崎) 本村小学校(善福寺) 永野小学校(久清)       

 家俊小学校(高添) 市野々小学校(三郎丸)
1888(M21)年合併し2校となる

宮原尋常小学校(本村宮原) 家俊尋常小学校(久保田)
1898(M31)年10月合併し1校となる 戸波尋常小学校と命名する(修業年限4年)

 土佐市に宮原村があったことまではつかめていたが、正確な場所までは分からない。明治時代に本村宮原というところに宮原尋常小学校があって、十年ほどで合併され、なくなったらしい。土佐市の人に聞いても、「宮の内」なら知っているが「宮原」は聞いたことがないという。やはり地名としては消えてしまったのだろうか。

 最後の手段として『長宗我部地検帳 高岡郡下の一』を繰ってみた。戸波(へわ)郷のページに「惣ノ佾給」「常住佾給」「権ノ佾給」と3筆立て続けに「佾(いち)」が登場する。よく見ると「宮原村 前ハ末次名」とあるではないか。ホノギ(小字)は「タケハタ」となっている。その数筆後に「宮ノハラ」のホノギも出ている。

 難しいのはここからである。天正十七年(1589年)の検地の記録であるから400年以上も前。現在は残っていない地名も多い。「佾」が多いことからも付近に大きな神社があっただろうことは想像がつく。また、明治期に尋常小学校があったことから文教の中心地でもあったのだろう。そのような点では佐川町の宮ノ原や夜須町の宮ノ原とも通じる性格を持つことが類推できる。
 『土佐市史』(土佐市史編集委員会、昭和53年)によると、戸波地区本村宮本に宗像神社(土佐市本村940ー2)があり、境内社として神明宮と八坂神社が記載されている。土佐市のホノギに詳しい人に確認したところ、その近辺が旧宮原村であったことが判明した。

▲琴弾八幡宮より旧宮原村方面を望む

 『土佐市史』の表記が「宮本」となっていることも注目である。ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原氏が「宮原の名称も宮本から来ている」と言及していたことを、図らずも裏付ける調査結果となった。

 このことは古くは宗像神社が土佐市戸波地区の宗教的中心地であったことを物語っている。おそらく、福岡県の宗像大社からの勧請であろう。また同地区家俊には熊本県天草郡大矢野(現上天草市)から移り住んだ矢野家の先祖・大矢野又十郎家俊の伝承もあり、九州と縁の深い地であったことが分かる。

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 2018年11月11日「古田武彦記念古代史セミナー2018」で中村通敏氏から「郭務悰はどこにいたのか」との論考が発表された。その詳しい内容は「白村江の戦いのあとの唐軍の代表者郭務悰と壬申の乱について」とのタイトルでネット上で閲覧することができる。
 その論考の中で、唐の進駐軍の代表であった郭務悰が「多良」の地にいたとし、その場所を佐賀県藤津郡太良町に比定。その地理的条件を詳しく説明している。
 古田武彦氏は『日本書紀』に頻出する吉野を佐賀県の吉野と比定し、その延長上に「郭務悰の多良滞在説」を出されていたが、中村氏の論考によってさらに補強されることとなった。
 しかし、疑問がないわけではない。①佐賀県藤津郡太良町に7世紀にさかのぼる歴史があるか。②唐軍が駐屯できる基盤があるか。ーーなどの点である。②については中国系の渡来の伝承や物証などが残されているなら申し分ない。
 テーマとなっているのは『万葉集』第27番の天武天皇歌〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕に登場する「淑人(よきひと)」と「多良人」(一般的には「多」→「与」と原文改定されている)の解釈である。
 「よきひとのよし」と始まれば熊本県民であれば、まずは人吉が浮かぶのではないか? そして最後に「多良」と来れば多良木? 
 ホームページ「歴史とロマンの里 多良木町」には次のように説明してある。

 多良木町には1万年以上前の旧石器時代の遺物や縄文・弥生時代の遺物が出土しています。1100年前に編集された百科事典(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょう)には、球磨郡に六つの郷があり、このうちの東村郷・久米郷が多良木町内にあったとされています。

 人吉郷も球磨六郷の一つであるが、多良(木)という地名が当時から存在していたかは定かではない。ひろっぷさんのブログ『古代・中世・近世の繋がり先祖について』によると、熊本県南部の球磨地方は考古学的出土物が豊富で古い歴史を持つこと、呉とのつながりが深いことなどを伺い知ることができる。また、多良木町には王宮神社や池王神社といった由緒ある神社が鎮座する。
 もしかして「多良人」とは多良木町に祀られている高貴な人物を指しているのではないか? 古田説では佐賀県の太良町にいた郭務悰とする。太良町は合併前は多良町であり『和名類聚抄』にも「肥前国藤津郡託羅(たら)郷」と出ている。
 これに対し、ブログ『九州王朝「倭国」は、なぜ “根こそぎ・東遷” したか』のtohyanさんなど、多良人を唐から帰国した薩夜麻(さちやま)ではないかとする説も出されている。その薩夜麻の本拠地はどこだろうか。 
 球磨地方は薩摩とのつながりが深く、球磨の「磨」は本来「麻」から来ているという由来を知り、多良を球磨郡多良木町に比定することで薩夜麻の字義とも全てつながる……。しかし薩夜麻は筑紫の君であり、筑紫はあくまでも福岡県であって九州島との拡大解釈はできないとされている。
 そもそも『万葉集』第27番の歌には「天皇幸于吉野宮時製歌」との説明が付けられており、天武天皇と結びつけることは当然のようだが、要注意である。古田氏自身が『古代史の十字路 万葉批判』(2012年)の中で、「歌そのものが直接史料であり、第一史料である」とし、説明は後付けされたものがあることを警告している。
 まずは歌有りきなのである。第27番の歌に「芳野」が登場するので天武天皇と結び付けられた可能性がある。もしかしたら天武天皇や郭務悰とは全く無関係に詠まれた歌だったのではないか。その可能性も含めて、原文を尊重した多元的な解釈に立ち返ることが必要かもしれない。


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 平凡社『高知県の地名』に次のような記述がある。室戸岬に近い金剛頂寺の寺領として「宮原庄」が登場している。


 正安四年(一三〇二)一〇月に神供田の実検が行われ、当時の寺領として「島田庄・浮津庄・大田庄・池谷庄・宮原庄・安田庄」などの名が見える。いずれも浮津から北西の安田に及ぶ海岸の地と思われ、前述の寺記に「応永の比(ころ)迄ハ三千五百石浮津ヨリ海辺安田迄」とあるのは石高は別にしてもある程度裏付けられる。

 私の知るところでは、高知県の「宮原」地名としては一番古いものではないかと思われる。安芸郡内の浮津から北西の安田に及ぶ海岸の地と推測される。香南市夜須町に「宮ノ原」があることは紹介したが、そこは郡境を隔てており、異なる場所と考えるべきだろう。
 この宮原庄がどこにあったのか。橘氏との関連があるのか、といったことが今後の研究テーマとなってくる。
 ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」で、九州各地の神社調査を行なっている宮原誠一氏は橘一族の後裔であり、「宮原」地名について次のように述べている。

 宮本の名称は、大善寺玉垂宮のある地名、大善寺町大字宮本から来ているのです。また、宮原の名称も宮本から来ているのです。
 「源」の「みなもと」は 氵+ 原 → 水原(みなもと) から採られるように、「宮原」の「原」は「もと」という意味なのです。「みやもと」は神社を司る一族ともいえます。

 地名「宮原」は「みやもと」に通じ、「宮ノ原」もまたしかりである。そうすると宮原家も神社を司る一族なのかもしれない。高知県には橘家神道も一部入ってきていると思われるので、そちらとの関連についても調べてみたいところである。

 『長宗我部地検帳』でホノギ(小字)「宮ノ原」をピックアップすると、よく「惣佾(そうのいち)給」などと出てくる。「佾」というのは神に仕える巫女のような人で、その中心的立場の人物が「惣佾」である。これは男性の場合もある。土佐市に以前は「宮ノ原村」があり、やはり惣佾が住んでいたが、退転したとの記録があり、「宮ノ原」地名も失われてしまったようである。その場所の特定も課題である。
 最後に、「四国八十八ヶ所霊場会」のホームページより、26番札所「金剛頂寺」に関する情報を紹介しておこう。

金剛頂寺の歴史・由来

 室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。その岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺であり、室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。朱印も「西寺」と捺される。当寺から4kmのところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、「行当」はその名残かもしれない。縁起によると、大師が平城天皇(在位806〜9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられている。創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。
 次の嵯峨天皇(在位809〜23)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823〜33)も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれており、以後、16世のころまで全盛を誇った。
 室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、わが国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されている。

金剛頂寺の見どころ

霊宝殿

収蔵する木造阿弥陀如来坐像、板彫真言八祖像、銅造観音菩薩立像、金銅密教法具、金銅旅壇具、銅鐘、金剛頂経などはすべて国指定重要文化財。

奴草

境内に自生する天然記念物。

鯨供養塔

鯨の供養塔があり、別名「クジラ寺」ともいわれる。

一粒万倍の釜

大師が炊いた米が一万倍に増え、人々を飢えから救ったという。



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 「宮ノ原」というと神社関連地名のように見えるが、神社があるからといって、どこにでもこの地名があるわけではない。古来より文教の地とされた高岡郡佐川町庄田の宮ノ原以外に、高知県では香南市夜須町の宮ノ原があり、かつては土佐市戸波(へわ)に本村宮原があった。

 香南市夜須町については『長宗我部地検帳 香美郡 上』(P27)の夜須庄地検帳・宮ノ原に「宮ノ原 弐十代 出三十弐代壱歩 下畠 惣佾給」と書かれている。「佾(いち)」というのは巫女さんのような人であり、必ずしも女性とは限らない。「惣佾」とあるから「佾」をまとめるリーダー格の人物であろうか。
 以前は香美郡夜須村といい、西山宮ノ原には猿田彦神社、伊勢が岡神社(明神様)が鎮座する。この惣佾はどちらかの神社、あるいは西山八幡宮(現・夜須大宮八幡宮)に関係する人物と見られる。
 『和名類聚抄』にも香美郡安須郷が見え、条里制地割も行われていた。『高知県史・古代中世編』によると、夜須庄は平安時代末期に石清水八幡宮宝塔院の荘園となり夜須庄となる。その中心部に鎮座する夜須大宮八幡宮には、その由緒を刻んだ百手碑が立つ。祭神は応神天皇であるが境内社として武内神社を祀る。碑文にも「本社祭應神天皇武内宿禰之神也」と書かれ、共に武神とされている。
 ところが、通常は長寿の神として祀られ、臣下である武内宿禰(武内大臣と表記されることもある)が、「武内宿祢王」として武内神社に祀られているのはどうしたことか。

 『国史大辞典』 (吉川弘文館)によると、高良大社の祭神「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる(古賀寿 「高良大社」)ようになったという。
 荘園の鎮めとして永承5年(1050)に勧請された夜須大宮八幡宮は、はじめは千切に仮休座し、出口、西山中村と社地を転じ、最後に現在地(西山馬場崎)に遷座した。「宮ノ原」に近いこの場所には、古くは九州との関係が深い寺社があったのかもしれない。

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 ここ最近、「宮ノ原」地名に注目が集まっている。ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」“宮原(みやのはる)から見える宮野 ”「ひろっぷ」“旧宮原村古地図と岡原村の神社様”などで紹介されており、九州では「みやのはる」と読み、「〜原」を「〜ばる」と読むことが多い。
 今回は高知県高岡郡佐川町にある「宮ノ原(みやのはら)」にスポットを当ててみたい。やはり由緒ある土地柄のようなので、九州の宮ノ原との比較対照する上で参考になれば幸いである。
 『佐川町史 下巻』(佐川町史編纂委員会、昭和56年)に次のように記されている。

 佐川町黒岩地区の庄田、宮ノ原集落は中世から明治維新まで、邑主深尾氏の城下町佐川に次ぐ、深尾領内唯一の文教の地として栄えた。~(中略)~また宮ノ原には元黒岩領主片岡氏が創建したという宮ノ原八幡宮とその別当寺宮ノ原寺があり、「やはた」と並ぶ繁栄の地であった。この宮ノ原寺は藩政時代には代官役所も兼ね、また近郷の子弟を集めた「宮ノ原塾」ともなっていた。

 今となってはかつての繁栄は面影もなく、のどかで自然豊かな山野が広がっている。宮ノ原寺や八幡宮には多くの古文書類が保存されていたが、明治初年廃屋となる。その中に散佚(さんいつ)を免れ、秘蔵されてきた『八幡荘伝承記』『片岡物語』などの伝承的物語文書があったとされる。

 『八幡荘伝承記』は文明のころ(1470~1490年)、庄田代官橘照助(たちばなのてるすけ)が鯨坂八幡宮の別当寺八幡寺の住僧律仙、勢国らに命じて「時代年歴の書き写し」なるものを作らせたものだと言われる。その写本は後の戦国時代の初めごろまで書き継がれており、元宮ノ原寺の住僧亀鳳法印による一部分の写本、及び原書を保存したという結城有氏の写本が残されている。
 土佐の中世史を埋める貴重な史料を有しているものの、偽書説も発表され、いわゆる「土佐の『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』」といった存在である。ちなみに『東日流外三郡誌』は寛政原本の発見により、偽書説が覆(くつがえ)り、史料としての価値が見直されている。
 いずれにしても、内陸部の片田舎とも思えるような高岡郡佐川町の「宮ノ原」が、なぜ古くからこのように文教の地として栄えてきたのか。その重要性に新ためて気付かされることとなった。

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「コウラ」地名探しについて、「『地名語源辞典』も参考にしたらいいですよ」とのアドバイスもあり、図書館で調べてみた。『日本の地名 60の謎の地名を追って』(筒井功、2011年)の151ページを開くと、「強羅(ごうら)」地名について書かれている。「ゴウラ、ゴウロ、コウラ、コウロ」などの変化あり。神奈川県箱根町強羅について、柳田國男は「岩石の露出している小地域」を意味すると指摘したという。
 高知市鏡のコウラ地名を探していたら、『長宗我部地検帳』には「コウロ」と出てくる。今まで高良神社跡地と思って追ってきた「コウラ」「カウラ」地名は単なる思い込みや幻想だったのだろうか?
 いや違う。徳島市の高良神社が鎮座する2か所(応神町古川と飯谷町)は地名も「高良」である。高知県でもかつて高良神社があったところをコウラ谷(香南市香我美町徳王子)と呼んでいる。コウラ地名が登場するのはほとんど社地である。通常は神社ないしは祭神名と地名が一致していることが多いが、そうでない場合は元々あった神社名が地名として残されている可能性がある。
 柳田國男の説も特定の地名については当てはまるかもしれないが、「高良神社由来説」はもっと汎用性があるのではないかと考える。

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『探訪―土左の歴史』第19号 (仁淀川歴史会、2023年6月)
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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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