忍者ブログ
バレーボールじゃない春高の歴史同好会

 「春高」と言ってもバレーボールじゃないよ。高知市春野町の春野高校、略して春高はかつて園芸高校と呼ばれていた。卒業して就農する生徒はほとんどなく、農業色を払拭してイメージチェンジを図るための名称変更だったのだろう。
 高知市春野郷土資料館企画展として、春野高校歴史同好会展示発表が2月9日(土)〜28日(木)の期間行なわれている。数年前から開催されるようになって、高校生がこのように郷土史を自分たちの手で調べて発表することに好感を持っている。

 同好会の研究成果として壁新聞「春野をゆけば」の展示がなされているが、No.1「あじさい街道は桜並木だった!」を数年前に見て、非常に注目した記憶がある。たしか、同好会を立ち上げた生徒がとても歴史好きだったらしい。研究テーマとしても身近で親しみやすい。 

 現在のあじさい街道には紫陽花(あじさい)はあるが桜並木はない。戦争を契機に切られてしまったというのだが、なぜ切られてしまったのか?
 小林秀雄の講演会のCDを聞いていると、似たような話があった。とても桜好きで山桜の研究をしてきた男が、奈良県の橿原神宮前の道沿いにボランティアで山桜を植林したが、戦時中に切られてしまったという残念な話である。何か春野町の事例と時代的にも通じるものがあるように感じた。


拍手[0回]

PR
【2019/02/11 09:24 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
土佐市戸波の宮原村
1878(M11)年 1月5校開校

 浅井小学校(寺尾崎) 本村小学校(善福寺) 永野小学校(久清)       

 家俊小学校(高添) 市野々小学校(三郎丸)
1888(M21)年合併し2校となる

宮原尋常小学校(本村宮原) 家俊尋常小学校(久保田)
1898(M31)年10月合併し1校となる 戸波尋常小学校と命名する(修業年限4年)

 土佐市に宮原村があったことまではつかめていたが、正確な場所までは分からない。明治時代に本村宮原というところに宮原尋常小学校があって、十年ほどで合併され、なくなったらしい。土佐市の人に聞いても、「宮の内」なら知っているが「宮原」は聞いたことがないという。やはり地名としては消えてしまったのだろうか。

 最後の手段として『長宗我部地検帳 高岡郡下の一』を繰ってみた。戸波(へわ)郷のページに「惣ノ佾給」「常住佾給」「権ノ佾給」と3筆立て続けに「佾(いち)」が登場する。よく見ると「宮原村 前ハ末次名」とあるではないか。ホノギ(小字)は「タケハタ」となっている。その数筆後に「宮ノハラ」のホノギも出ている。

 難しいのはここからである。天正十七年(1589年)の検地の記録であるから400年以上も前。現在は残っていない地名も多い。「佾」が多いことからも付近に大きな神社があっただろうことは想像がつく。また、明治期に尋常小学校があったことから文教の中心地でもあったのだろう。そのような点では佐川町の宮ノ原や夜須町の宮ノ原とも通じる性格を持つことが類推できる。
 『土佐市史』(土佐市史編集委員会、昭和53年)によると、戸波地区本村宮本に宗像神社(土佐市本村940ー2)があり、境内社として神明宮と八坂神社が記載されている。土佐市のホノギに詳しい人に確認したところ、その近辺が旧宮原村であったことが判明した。

▲琴弾八幡宮より旧宮原村方面を望む

 『土佐市史』の表記が「宮本」となっていることも注目である。ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原氏が「宮原の名称も宮本から来ている」と言及していたことを、図らずも裏付ける調査結果となった。

 このことは古くは宗像神社が土佐市戸波地区の宗教的中心地であったことを物語っている。おそらく、福岡県の宗像大社からの勧請であろう。また同地区家俊には熊本県天草郡大矢野(現上天草市)から移り住んだ矢野家の先祖・大矢野又十郎家俊の伝承もあり、九州と縁の深い地であったことが分かる。


拍手[1回]

【2019/02/08 11:14 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
安田亨のリスペクトする池見酉次郎先生

 東大受験では定番となっている『東大数学で1点でも多く取る方法 理系編』シリーズ。著者の安田亨氏がリスペクト(尊敬)する人物が本の裏表紙に紹介されている。


 座右の銘は「汝まず世界の必要とするものとなれ。さすれば、たとえ森の中に住むといえども汝の戸口に人々が集まるであろう(元は思想家Ralph Waldo Emersonの言葉。九州大学名誉教授・池見酉次郎先生が座右の銘としておられるのを本で見て)」

 おそらく『セルフコントロールの医学』(池見酉次郎著、1978年) 辺りの本を読んでのことではないかと推察する。私自身も池見酉次郎(いけみ ゆうじろう、1915ー1999年生とは縁があって、特に医学部を目指す生徒には紹介することもある。

 池見先生は日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者であった。医学部を志したきっかけは、自らの吃音の悩みがあったからとも聞く。そしてアメリカにも渡り、エマーソンの言葉の真意を直接質問したという。その答えは意外にも「良いネズミ捕りがあれば森の中でも買いに来る」といったニュアンスだったらしい。
 20年ほど前に、池見酉次郎先生の訃報を知り、先生とお話した内容が思い返された。1991年頃だったろうか。当時、池見先生から実存的転換について伺った。ドクターからなぜ哲学? と思われるかもしれないが、そこに心療内科(ホーリスティック医学)の真髄があると感じさせられた。
 末期ガンの患者で、まれにガンの退縮が起きることがあるという。そのような患者さんに話を聞くと、共通する体験があった。それまでは自分の力で生きてきたと思っていたが、死に直面した時に「大自然の中で、生かされて生きている自分であった」ことに気付かされたというのだ。ーーこれこそまさに実存的転換である。
 恥ずかしながら、当時は実存的転換の意味すらよく知らなかった。その後、ショーペンハウアーやキルケゴールなどの実存主義哲学へと目を開かされる契機にもなった。
 医学部志望の生徒が増える昨今。単なる合格請負人にはなりたくない。世の中から必要とされる人物を送り出していきたいものだ。さすれば地方大学といえども、汝の戸口に人々が集まるであろう。


拍手[1回]

【2019/02/06 05:06 】 | おもしろ授業 | 有り難いご意見(0)
筑紫神社は高知県にもあった②

 東津野村(現津野町)にあった筑紫神社。グーグルマップや住宅地図などでは見当たらない。最後の手段は『長宗我部地検帳』である。しかし、ここで一つ問題がある。
『東津野村史 上』(高知県高岡郡東津野村教育委員会、昭和39年)には「筑紫神社 高良神 北川村管の谷 寛文十年(一六七〇)筑紫大権現」とある。1670年が創建の年代であれば、検地が行なわれた時点(天正十六年、1588年)では存在していないことになる。もし再建等ならば同様のものがあった可能性はある。
 『長宗我部地検帳 高岡郡下の一』436ページに「コウラ 十代 下ヤシキ 古宮名 
宮内兵衛 同し(公領) 祖母ゐ」と出ている。「コウラ」というのがホノギ(小字)である。高知県下において、既に「コウラ」地名がいくつも見つかっており、その大半は地形由来とは思われず、神社由来地名と考えられる。だが、場所が「津野芳生野村」となっており、北川村ではなかった。

 一方、404ページ「津野北川村」には「カワラ」のホノギが出ている。『角川地名大辞典39高知県』(昭和61年)にも、東津野村北川に「川原毛」「河原」などが見える。高良神はかつて「カワラ神」とも呼ばれていたことから関連性があるかもしれないが、地形由来地名の可能性も高い。また行政区域も時代変遷があるので、資料がなければ正確なところまでは言及できそうにない。
 しかしながら、新たな「コウラ」地名の発見により、16世紀以前から高岡郡津野町に高良神が祀られていた形跡はつかめたと言えるだろう。高良神を祀る筑紫神社はその流れを汲む神社であったと推測される。


拍手[1回]

【2019/02/02 14:07 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
淑人(よきひと)がいた「多良」はどこか?
 2018年11月11日「古田武彦記念古代史セミナー2018」で中村通敏氏から「郭務悰はどこにいたのか」との論考が発表された。その詳しい内容は「白村江の戦いのあとの唐軍の代表者郭務悰と壬申の乱について」とのタイトルでネット上で閲覧することができる。
 その論考の中で、唐の進駐軍の代表であった郭務悰が「多良」の地にいたとし、その場所を佐賀県藤津郡太良町に比定。その地理的条件を詳しく説明している。
 古田武彦氏は『日本書紀』に頻出する吉野を佐賀県の吉野と比定し、その延長上に「郭務悰の多良滞在説」を出されていたが、中村氏の論考によってさらに補強されることとなった。
 しかし、疑問がないわけではない。①佐賀県藤津郡太良町に7世紀にさかのぼる歴史があるか。②唐軍が駐屯できる基盤があるか。ーーなどの点である。②については中国系の渡来の伝承や物証などが残されているなら申し分ない。
 テーマとなっているのは『万葉集』第27番の天武天皇歌〔淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見〕に登場する「淑人(よきひと)」と「多良人」(一般的には「多」→「与」と原文改定されている)の解釈である。
 「よきひとのよし」と始まれば熊本県民であれば、まずは人吉が浮かぶのではないか? そして最後に「多良」と来れば多良木? 
 ホームページ「歴史とロマンの里 多良木町」には次のように説明してある。

 多良木町には1万年以上前の旧石器時代の遺物や縄文・弥生時代の遺物が出土しています。1100年前に編集された百科事典(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょう)には、球磨郡に六つの郷があり、このうちの東村郷・久米郷が多良木町内にあったとされています。

 人吉郷も球磨六郷の一つであるが、多良(木)という地名が当時から存在していたかは定かではない。ひろっぷさんのブログ『古代・中世・近世の繋がり先祖について』によると、熊本県南部の球磨地方は考古学的出土物が豊富で古い歴史を持つこと、呉とのつながりが深いことなどを伺い知ることができる。また、多良木町には王宮神社や池王神社といった由緒ある神社が鎮座する。
 もしかして「多良人」とは多良木町に祀られている高貴な人物を指しているのではないか? 古田説では佐賀県の太良町にいた郭務悰とする。太良町は合併前は多良町であり『和名類聚抄』にも「肥前国藤津郡託羅(たら)郷」と出ている。
 これに対し、ブログ『九州王朝「倭国」は、なぜ “根こそぎ・東遷” したか』のtohyanさんなど、多良人を唐から帰国した薩夜麻(さちやま)ではないかとする説も出されている。その薩夜麻の本拠地はどこだろうか。 
 球磨地方は薩摩とのつながりが深く、球磨の「磨」は本来「麻」から来ているという由来を知り、多良を球磨郡多良木町に比定することで薩夜麻の字義とも全てつながる……。しかし薩夜麻は筑紫の君であり、筑紫はあくまでも福岡県であって九州島との拡大解釈はできないとされている。
 そもそも『万葉集』第27番の歌には「天皇幸于吉野宮時製歌」との説明が付けられており、天武天皇と結びつけることは当然のようだが、要注意である。古田氏自身が『古代史の十字路 万葉批判』(2012年)の中で、「歌そのものが直接史料であり、第一史料である」とし、説明は後付けされたものがあることを警告している。
 まずは歌有りきなのである。第27番の歌に「芳野」が登場するので天武天皇と結び付けられた可能性がある。もしかしたら天武天皇や郭務悰とは全く無関係に詠まれた歌だったのではないか。その可能性も含めて、原文を尊重した多元的な解釈に立ち返ることが必要かもしれない。


拍手[1回]

【2019/01/25 11:59 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
| ホーム | 次ページ>>