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徳島県の高良神社⑥ーー美馬市脇町の脇人神社境内社
 徳島県神社庁のホームページに掲載されているリストによると、徳島県の高良神社は徳島市に二社、三好市山城町に二社が確認できる。8月の調査で新たに山城町の二社が加わり少なくとも六社存在することが分かった。
 東の端(徳島市)と西の端(山城町)、この分布はややいびつだなと感じていたところ、空白地帯であった徳島県中央部にも高良神社が存在していたことに気づいた。かつて香川県立図書館でメモしてきたリストの中に「美馬郡脇町 高良大明神 神主 上野村 二宮出羽守」(阿波国神社御改帳)とある。

 先日、天都賀佐彦神社の調査でお世話になった美馬市ではないか。現在、脇人神社(祭神:脇人大名神、美馬市脇町大字脇町)の左境内に鎮座する高良神社がおそらく当該社であろう。徳島地方裁判所の西500m程の辺り、脇町の住宅街に鎮座する脇人神社は「脇人はん」とも呼ばれ、『阿波志』によると稲田植元(たねもと)が脇城丸の内に武田信頼・信定父子を祀るため、慶長年間に開いた神社である。
 境内由緒書きによると、「明治8年(1875)カドノハラから高良神社が合祀し、社殿西に小社として祭られている」とのこと。
 大河ドラマ『西郷どん』で注目される明治維新は、イギリスの名誉革命(1688年)にも並び評価される。その一方で、神仏分離や神社名変更、一元的な祭神の統一など、行き過ぎた改革もあった。その明治維新の際に神社整理された一つが美馬市の高良神社であった。かつての鎮座地や由緒など、情報が残されていれば、調べてみたいところである。

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【2018/09/20 07:32 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
『古代の地方史2』に見る古代南海道
『古代の地方史2 山陰・山陽・南海編』(八木充編、昭和五十二年)頁一四二に以下のような土佐国に向かう古代官道の変遷が記されている。

 土佐国府(南国市比江)に達する公式ルートは、はじめ讃岐から伊予国府を経由した。おそらく周敷郡付近から南下して石鎚山脈を越え、仁淀川の支流を下るという、現在の国道一九四号線に近いルートをとり、仁淀川下流付近で東行し、土佐国府に至ったものであろう。しかし、このルートは、遠まわりの上に相当険難であったらしく、七一八年(養老二)五月、那珂川沿いにさかのぼり、四ッ足堂峠を経て物部川沿いに下る阿波国経由のルート(現在の土佐中街道)に切りかえられた(『続日本紀』)。しかし、このルールも、結局問題が多かったとみえて、七九六年(延暦一五)に至って、讃岐—伊予間の川之江市付近(旧宇摩郡)から南下し、水無峠を経て立川川沿いに下るように、再び切りかえられた。

 国道一九四号線といえば寒風山トンネルを抜けるルートで、現在は道も良くなっており、西条市に行くには最短コースかもしれない。近くの山中に「越裏門(えりもん)」という地名があり、まさに土佐国の裏門を象徴しているようでもある。
 また、四ッ足堂峠ルートを採用しているところを見ると初期の頃の説であり、西は中村経由、東は野根山ルートをとる近年の説(足利健亮説など)とでは、かなり異なっている。
 しかし、完全に結論が出たわけでもないので、従来説として尊重しておこう。官道でなかったとしても、古くから利用されていた道のようであり、直短距離をつないでいる利点は感じられる。

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【2018/09/18 11:10 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
地検帳中村郷の「大道」は古代官道か?
 地検帳中村郷「中村」(現在は四万十市)には「大道」に係わる記載が14筆ある。「大道」地名は古代官道との関連が指摘されることがあるが、『土佐の「小京都」中村ーーその歴史・町並み復元と史跡ーー』(西南四国歴史文化研究会中村支部、平成19年)によると、それらは大きくは4本の道を示しているという。足利健亮説では伊予経由の古代官道は中村を通っている。もしかしたら地検帳の「大道」のどれかが古代官道と重なっている可能性があるが、同時に官道以外の道にも「大道」というホノギが当てられていることにもなる。


 『長宗我部地検帳』に登場する「大道」というホノギ(小字のようなもの)を追っていけば、もしかしたら、古代官道が浮かび上がってくるのではないか? そんな淡い期待を抱いていたところ、すでに先人達によって検証された事例があった。春野町(現在は高知市に合併)については、『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)の中にホノギ「大道」をもとに大道の推定がなされている。図のように東西にほぼ一本の点の束になっているが、南北方向に枝分かれした道も見られる。朝倉慶景氏はこの春野町を通る南ルート(高知市からやや南下して春野町―土佐市―須崎市へとつながる海岸よりのコース)を古代官道と推定している。


 また、佐川町における「大道」に関するホノギを拾って中世における道路の推定復元図(『佐川町史 上巻』佐川町史編纂委員会、昭和57年)が作られているが、それを見ると一本ではなく複数の枝分かれした道路網である。木下良氏の著書に見られる古代南海道の図では、この佐川町を経る北ルート(JR土讃線が通っているコース)が採用されている。この二つのルートは二者択一的で、春野町と佐川町の両方を通っている可能性はかなり低いといえよう。とすれば、『長宗我部地検帳』に見えるホノギ「大道」は、仮に古代官道と重なっている部分があるとしても、全く関係のない道にも対応している地名だと結論づけられるのではないだろうか。


 地域差はあるにしても他の市町村にも「大道」というホノギは広く見られ、「道」(多数)や「小道」(大道よりは少ない)も存在する。中には「タイトウシリ」(~シリは跡の意)、「コタイシキ道」など、古代官道を連想させるようなホノギも見受けられる。県全体をくまなく調べていけば何らかの傾向が見えてくるかもしれないが、一足飛びに古代官道までさかのぼるというわけにはいかないようである。

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【2018/09/15 00:42 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
学問は実証より論証を重んじる
「学問は実証より論証を重んじる」との話は授業でも紹介したことがあったが、説明しながらしっくり来ない部分もあった。通常は机上の空論よりは実証のほうが重みがあるのではないかと考える。「論より証拠」ということわざがあるくらいだ。
 ところが最近、この言葉の真意が明らかになってきた。「『日本書紀』に書いてあるから史実である」といった誤った実証主義に対するアンチテーゼだったのである。

 「教科書に書いてあるから正しい」という理屈はセンター試験の正誤問題をはじめ、多くのテストにおいて基準になる。教育の現場において教科書を尊重する姿勢は大切である。その一方で、例えば「対頂角は等しい」という命題は教科書に書いてあるから正しいのではなく、証明によって示すことができるから正しいというのが本質であり、学問的である。もちろん、毎回証明していては煩雑であり、学問の発展にもブレーキとなる。多くの専門家が監修し、長年蓄積してきた叡智の結実として信頼性の高い教科書だからこそ、そこに書いてあることは正しいと言うことは差し支えないのである。厳密に言うと、それぞれの学年、教育段階に合わせた方便が用いられていることはやむを得ないことであろう。
 一方、『古事記』や『日本書紀』は教科書たり得るだろうか? 資料批判することによって書かれた背景や思想性、信頼度などを十分に検証する必要がある。それらを抜きにして「そこに書かれているから正しい」といった態度は真の実証主義とは言い難い。誰もが納得し得る根拠を示す必要があるのだ。やはり「学問は実証より論証を重んじる」のである。

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【2018/09/06 23:56 】 | おもしろ授業 | 有り難いご意見(0)
東偏5度って?
 古代の条理制の南北線をどのように定めたのか。ある人から「東西線を先に決めたのだ」という話を聞いたことがあったが、春分・秋分の日の出や日の入りの方角という考えには納得できない思いがあった。なぜなら、縄文時代の建造物はむしろ冬至や夏至を意識した造りになっているものが多いからだ。
 「肥さんの夢ブログ」でも東偏5度問題がテーマとなっている。ちなみに古代土佐(高知県)の条理制は香長平野で東偏12度(N12°E)、鏡川下流域で西偏16度(N16°W)となっている。
 調べてみると、奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」に、古代の方位測定法について書かれていたので、以下に引用させていただく。

 平城京をはじめとする都城や寺院、道路など、古代の土木建造物には、真北や真東西に方位を合わせたものが少なくありません。工事にあたって測量がおこなわれたことは確実です。では、具体的には、どのような方法で方位を測ったのでしょうか。 
 いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。 
 次に思いつくのは、北極星を測ることでしょう。現在の北極星(ポラリス=こぐま座α星)は真北にかなり近い位置にありますので、これを利用するのが真北の測定法としてはもっとも簡便です。実際、古代にも北極星で真北を求めたと主張する人がいます。 
 ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、地球の自転軸は約25,800年の周期で動いており(歳差さいさ運動)、現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。それ以前は、紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が北極星の役割を果たしていました。しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。 
 ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。 
 ですから、方位の測定では、まず東西線を決め、そこから直角に振り出すことで南北線を定めたと考えられます。そのさいに、各辺の長さが3:4:5の直角三角形(勾股弦こうこげんの法として広く知られていました)を利用したことは確実です。7世紀の奈良盆地には、横大路よこおおじという東西道路と、上ツ道かみつみち・中ツ道なかつみち・下ツ道しもつみちという等間隔の南北道路が存在していました。最初に横大路が設定され、3本の南北道路はそれと直交するようにつくられたものと思われます。 
 平城京は、このうちの下ツ道を基準に設計されていますから、造営時にあらためて方位を測定したわけではありませんが、その精度は古代の測量技術がかなりの水準に達していたことを物語っています。 
(2013年6月のブログより)

 棒の影の長さが円の半径に等しくなる時刻が、午前と午後で一回ずつある。その方角は太陽が南中する真南の方角から対称なので、かなり正確に東西方向を決めることができそうである。その線に垂直な方向を南北線と決めるというわけだ。
 しかし、問題は敢えて真北より東へ5度(東偏5度)ずらした方角で建てられた建造物群が存在するということだ。果たして、どのような意図があったのだろうか? 県内の古代建造物についても検証してみたいところである。



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【2018/09/04 09:52 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
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