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佐賀県「與止姫伝説」の分析(古賀論文)
 安芸郡の「高良玉垂命=與止比賣」説を紹介した際に與止比賣は神功皇后の妹とされる人物に結び付けられていると指摘した。そもそも與止比賣(與止姫)とはどのような人物なのだろうか。諸説ある中で信頼性の高い論文を見つけることができた。『市民の古代 第11集』(市民の古代研究会編、1989年)に掲載された古賀達也氏(古田史学の会代表)の論考『よみがえる壹與ー佐賀県「與止姫伝説」の分析』である。詳細はホームページ「新・古代学の扉」からアクセスして、全文をご覧いただきたい。ここでは結論だけを紹介する。
(前略)
 その人物は『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記されている。現在も佐賀県では與止姫伝説として語り継がれ、肥前国一宮として有名な河上神社(與止日女神社)の祭神でもある。

(中略)

 『風土記』に現われた與止姫について考察を続けたが、まとめれば次のようになる。
1). 世田姫は與止姫、淀姫と同一人物であること。
2). 九州王朝始源の人物であること。
3). 甕依姫(卑弥呼)の説話と類似した現われ方をすること。
4). 海神を従えた人物であること。

(中略)
 『古事記』『日本書紀』にある「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によれば、これも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が強い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものが存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話である。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』が最も古いようであるが、他にも十四世紀の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも記されている。
 この説話で注目されるのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)の存在である(ただし、『水鏡』では香椎と河上となっている)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在とさえ言えるのである。この説話が指し示すことは次のような点である。まず、この説話は本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけたものと考えられる。更に論究するならば、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている可能性があろう。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名である。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである。とすれば、同様に、宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
 こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」から支持する説話であることが明らかとなったのである。また、この論証は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するのだが、こちらは今後の課題としておきたい。

(後略)

 以上のように、與止姫は邪馬壹国の女王・卑弥呼の宗女壹與である可能性が高いということが論じられている。
 あまり公にはしていないが、安芸郡ではこの與止姫を高良玉垂命として、八幡大神よりも格上の神として、古来より崇敬してきたということが分かってきた。その裏付けとして安芸郡には淀比売神を祭神とする川上神社(安田町小川字明神口)が存在しているのである。

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【2018/11/15 09:28 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
荒倉神社秋季大祭2018

 11月11日(日)、荒倉神社(高知市春野町弘岡中1113)の秋季大祭が行なわれた。昨年から復活した浦安の舞も地元の小中学生によって舞われ、春野高校の生徒たちも獅子舞や神輿担ぎで参加した。ここの御神輿は八角形になっているのが特徴である。

 さて、この荒倉神社については過去に何度か取り上げた。「春野昔ばなし」に御神体は北向きという言い伝えがあって、御神体北向きは徳島県美馬郡轟の天都賀佐比古神社だけではないということをさも知ったかのように紹介したが、広谷喜十郎氏が荒倉神社の宮司さん(先代の吉良さんであろうか)に確認したところ「そんなことはない」と否定されたということが『土佐史の神々 第二集』(平成17年)に記されていた。
 私もお祭り終了後、質問してみた。御神体の扉は「開けるべからず」とされており、現在の新川宮司は直接は見ておられないようだったが、「外を向いているはずはなく、南向きであろう」とのことであった。この点については私の早とちりだったかもしれない。

 ところで、安芸郡の安田八幡宮などでも御神体が厨子に納められており、「古来より之を開かず」とされている。荒倉神社は約1300年前、安田八幡宮もそれに勝るとも劣らない歴史の古さがある。にもかかわらず「延喜式内社」には含まれていない。
 もしかしたら、九州王朝につながりを持つ秘密が隠されているのではないだろうか。九州年号「勝照二年(586年)」始鎮の小村神社もやはり式内社となっていない。荒倉神社の神紋には小村神社と同様「五七の桐」が使われている。

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【2018/11/11 16:37 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
秦泉寺廃寺は九州王朝系の寺院か?

 高知市秦泉寺には古代寺院があったとされ、「古代の巨刹であった」と地元古老により永く伝えられてきた。昭和15年に重孤文軒丸瓦が発見されたことにより、物証も出て本格的な調査が始まった。高知市文化財調査報告書第5集『秦泉寺廃寺跡 ー第3次調査ー』(高知市教育委員会、1984年)には、昭和58年3月12日〜4月21日の間に行われた高知市中秦泉寺字鷹通54番における発掘調査の記録がある。古墳時代〜奈良・平安時代の遺物が出土しており、柵列遺構は磁北に対してやや西よりの方向で配列。
 出土した瓦は軒丸瓦(素弁蓮花文3・単弁蓮花文1・複弁蓮花文1)・軒平瓦(重孤文6)・丸瓦・平瓦・鬼瓦(破片で3片)など。

 素弁8葉蓮花文軒丸瓦の1つは、周縁が素文縁であり、花弁に稜を有する。肉付けのある花弁に稜線を有し、花弁端は丸味をおびて反転している。中房には、13個の蓮子をもち、中房径4.5cm・周縁での径15.7cmを測る。
 かつては浦戸湾が秦泉寺の南まで入り込んでいて中津という古代の港があり、愛宕山など後背地には、6世紀後半〜7世紀前半の古墳が十か所余り確認されている。
 『阿波国徴古雑抄』に収録されている、乾元二年(一三〇三年)の『那賀郡木頭村伊瀬権現夢想旧記』に「土州秦泉寺」と出てくる。これが「秦泉寺」という地名を最初に紹介した文献とされているが、明確に地名として表わされるのは、永禄年代(一五五八~六九年)の史料や、天正十六年(一五八八年)の『秦泉寺郷地検帳』などになる。土佐で古くから開けていた地域の1つであったことは間違いなさそうだ。

 結論として「本寺院の創建時期は、7世紀後半、白鳳時代におかれるものと考えられ、高知県最古の古代寺院の1つとして捉えることが可能だと思われる」と締めくくられている。最古の古代寺院の1つとしているのは、高知市春野町西分の大寺廃寺跡からも同笵と見られる軒丸瓦が出土しており、共に最古級と考えられるためである。
 ONライン(701年)以前の創建であることから、いずれも九州王朝系の寺院と考えてもいいのではないだろうか?

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【2018/11/01 07:45 】 | ゴミ屋さんから仏教伝来 | 有り難いご意見(0)
「高良玉垂命=與止比賣」説を発見

 高知県の東の果て、甲浦八幡宮境外摂社・高良神社の近くで高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)は八幡大神の叔母であり、より格上の神様であるとの話を聞いた。その人物とは、與止比賣(よどひめ)のことではないだろうかと推定していたところ、その根拠となる文献をついに発見した。
 明治政府により編纂された官撰百科事典『古事類苑(こじるいえん)』である。1896年(明治29年)〜1914年(大正3年)に刊行された。古代から1867年(慶応3年)までの様々な文献から引用した例証を分野別に編纂しており、その「神祇部」の項に『諸国神名帳 筑後国』からの引用として記載されている。

 「或説云、玉垂命者、豊比賣之別號也、其豊比賣者、神功皇后之女弟、八幡大神之伯母也、亦名曰與止比賣、或號豊玉姫、或稱玉垂命、神功皇后征新羅之時、副女弟豊比賣於安曇磯良神、而遣海宮以刈潮満珠、潮涸珠于海神命、乃以其兩顆珠、而命豊比賣謀敵軍、果新羅之軍衆、悉没于海底而死焉、蓋是兩顆玉之徳、而豊比賣之功也、故稱之號豊玉姫、又號玉垂命」

 「玉垂命は豊比賣の別号なり。その豊比賣は神功皇后の妹、八幡大神の伯母なり。またの名を與止比賣と曰う、あるいは豊玉姫と号す。あるいは玉垂命と称す」との内容が書かれている。その後の記述に、新羅との戦において潮の満ち引きを操る玉を用い、戦局を有利に導いた功労者だという内容が読み取れる。
 ところで、『日本書紀』では卑弥呼の業績をあたかも神功皇后の業績であるかのように取り込もうとしていることが知られている。さらに與止比賣(よどひめ)も九州王朝(倭国)内で活躍した女性とされ、その功績ある人物を妹とすることによって神功皇后の権威をより高め、正統性を確立していったことが推測される。
 この與止比賣、呼び名はいくつかあるようだが、九州島内で輝かしい業績を持つ人物とは何者なのだろうか? このことに関しては既に先行研究があるようなので、次回にでも紹介したい。

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【2018/10/29 23:55 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
宮ノ原(みやのはら)は九州では「みやのはる」

 ここ最近、「宮ノ原」地名に注目が集まっている。ブログ「宮原誠一の神社見聞牒」“宮原(みやのはる)から見える宮野 ”「ひろっぷ」“旧宮原村古地図と岡原村の神社様”などで紹介されており、九州では「みやのはる」と読み、「〜原」を「〜ばる」と読むことが多い。
 今回は高知県高岡郡佐川町にある「宮ノ原(みやのはら)」にスポットを当ててみたい。やはり由緒ある土地柄のようなので、九州の宮ノ原との比較対照する上で参考になれば幸いである。
 『佐川町史 下巻』(佐川町史編纂委員会、昭和56年)に次のように記されている。

 佐川町黒岩地区の庄田、宮ノ原集落は中世から明治維新まで、邑主深尾氏の城下町佐川に次ぐ、深尾領内唯一の文教の地として栄えた。~(中略)~また宮ノ原には元黒岩領主片岡氏が創建したという宮ノ原八幡宮とその別当寺宮ノ原寺があり、「やはた」と並ぶ繁栄の地であった。この宮ノ原寺は藩政時代には代官役所も兼ね、また近郷の子弟を集めた「宮ノ原塾」ともなっていた。

 今となってはかつての繁栄は面影もなく、のどかで自然豊かな山野が広がっている。宮ノ原寺や八幡宮には多くの古文書類が保存されていたが、明治初年廃屋となる。その中に散佚(さんいつ)を免れ、秘蔵されてきた『八幡荘伝承記』『片岡物語』などの伝承的物語文書があったとされる。

 『八幡荘伝承記』は文明のころ(1470~1490年)、庄田代官橘照助(たちばなのてるすけ)が鯨坂八幡宮の別当寺八幡寺の住僧律仙、勢国らに命じて「時代年歴の書き写し」なるものを作らせたものだと言われる。その写本は後の戦国時代の初めごろまで書き継がれており、元宮ノ原寺の住僧亀鳳法印による一部分の写本、及び原書を保存したという結城有氏の写本が残されている。
 土佐の中世史を埋める貴重な史料を有しているものの、偽書説も発表され、いわゆる「土佐の『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』」といった存在である。ちなみに『東日流外三郡誌』は寛政写本の発見により、偽書説が覆(くつがえ)り、史料としての価値が見直されている。
 いずれにしても、内陸部の片田舎とも思えるような高岡郡佐川町の「宮ノ原」が、なぜ古くからこのように文教の地として栄えてきたのか。その重要性に新ためて気付かされることとなった。

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【2018/10/24 08:25 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
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