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水が逆流するから逆(さかさ)川?
『熊野御幸記』に「下山の後、サカサマ王子に参る。水逆に流る。仍ってこの名ありと云々」とある。和歌山県有田郡湯浅町吉川字岩谷の逆川(さかさがわ)王子神社についての記述であるが、近くを流れる川が海のある西に向かって流れず、東に流れていることからこの名で呼ばれるという。現在の地名・吉川は、この「逆」の字を忌んで付けられたという。
 熊本県天草郡苓北町に「坂瀬川(さかせがわ)」という地名がある。その中心部を流れる松原川が逆流していることから坂瀬川と付けられたと語り聞かされてきたが、語源的にはもう一つの説明もできる。「枷(かせ)」が船を繋ぎ止めるものとして、船を繋留(けいりゅう)する川には「かせ川」「かさ川」等の地名が付けられることが多い。
 高知県南国市岡豊町「笠ノ川」、佐賀県の「嘉瀬川」など、「かさ」「かせ」を含む川地名は全国的に多く見られる。ぜひ船との関連で見てほしい。苓北町「坂瀬川」は島原・天草一揆における「天草四郎乗船ノ地」の碑も建てられている。

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【2018/07/22 14:44 】 | 地名研究会 | 有り難いご意見(0)
地名として残された最後の九州年号「大長」②
『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)は少し前に読んでみたが、「九州年号」についての情報はほとんどないに等しかった。ところが「古賀達也の洛中洛外日記 第1705話 2018/07/14」によると、同書末尾に付されている「日本の年号候補・未採用文字案」(古代から現代までの改元時に提案された未採用年号候補の一覧)の中に「大長」があり、1回だけ候補に挙がっているとのこと。そのような資料が付いていたことは覚えているが、十分に目を通してはいなかった。古賀達也氏によると「大長」は704~712年に使用された最後の九州年号であるという。
 実はこの年号が地名として残されたと思われる場所がある。大長(おおちょう)ミカンの産地として知られるようになった広島県呉市豊町大長である。現在は広島県となっているが、大崎下島もかつては伊予に属し大長(おおちよう)島と呼ばれた。島全体が急峻な山地であるが山頂まで段々畑として耕され,温暖少雨の典型的な瀬戸内式気候によって良質美味の大長ミカンを産する。南東部の御手洗(みたらい)港は帆船時代から内海航路の要所であった。

 ここ豊町大長にある宇津神社(うつじんじゃ)は江戸時代の埋め立て前まで、入江の奥に鎮座し、もとは当社の鳥居が海に面していたと考えられている。
 社伝によれば、初代神武天皇の東征の際に宇津大神、八十禍津日神の先導で、この地に留まったとされている。第7代孝霊天皇の第三子の彦狭島王が勅命を奉じ、伊予に下向した際に、都の鎮守と瀬戸内海の安寧祈願のために大長に奉祀したとされている。また奈良時代の宝亀4年(773年)には、神託により越智七島に大山積の御子など十六王子を分祠したと伝わる。
 越智七島は、中世には生奈島、岩城島、大三島、大下島、岡村島、御手洗島、豊島で構成され、伊予国一宮である大山祇神社の社領を形成していた。この歴史の古さと立地条件を考えると九州年号と無縁であるはずがない。
 1941年大長村の読み方が「おおちょうそん」から「だいちょうそん」に変更されるが、1947年には再び「おおちょうそん」に戻される。年号の読み方を検討する際にこの地名は参考にする必要があるだろう。
 さらに大崎下島の北には帝を連想させる三角(みかど)島があり、三角島にある「美加登神社」は、福岡県の宗像神社の祭神「宗像三女神」を安芸の厳島神社へ勧請(かんじょう)する際、仮宮として創建されたと言われている。
  厳島神社の創建は593年とあることから、三角島の美加登神社もその頃の創建ということになるだろう。美加登神社の裏手には6世紀のものと思われる古墳が2基見つかっており、九州とのつながりが伺える。
 以上のアイデアは古田史学派のU氏から「私も九州年号を見つけましたよ」と大長地名を教えてもらったことを基に、調べてまとめたことを報告しておきたい。

 

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【2018/07/20 23:44 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
地名として残された最後の九州年号「大長」①
『黒潮のナゾを追う』(高知大学黒潮圏研究所、1991年)の中で岡村眞氏は次のように述べている。
 「須崎市野見湾の戸島北側に断層活動によるくい違いを見いだした。ただし、堆積速度から判断すると、断層が動いた時期は今から三、四千年前と見積もられ、伝えられる約千三百年前の白鳳地震とは関係がありそうにない。」(「島は本当に沈んだか」)
 現地の漁師さんに聞くと、野見湾には水深5メートル程度の台地状の地形があり、その縁から急に深くなっているという。断層による地形なのかも知れない。さらに海底に井戸があったとの証言もあり、石包丁などの弥生時代の遺物等の出土もあることから、弥生時代以降にも沈降があった可能性は十分考えられる。

 さて、この野見湾に伸びる岬の地名が大長岬という。古賀達也氏の説によると「大長(704〜712年)」は九州王朝最後の年号とされる。「大正町」のように年号が地名になることは現代でもよくあることだが、この大長岬も年号に由来するものだろうか?

 地名辞典によると「大長崎(おおながさき)」との読みが出ているが、現地の人は「大長岬(おながさき)」と呼んでいた。これはすぐ近くの「小長岬」と対となる地名のようである。
 白鳳地震(684年)によって野見湾及び大長岬ができて、ニ十数年後の復興の時期である大長年間に地名がつけられたとすると……。
 一方、大長みかんで有名な広島県呉市豊町大長(おおちょう)は王朝を連想させる読み方である。はたして、年号の「大長」は何と読むのか?

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【2018/07/18 13:20 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
幡多の船所職
『黒潮のナゾを追う』(高知大学黒潮圏研究所、1991年)で山本大氏は次のように述べている。
 「鎌倉中期の文永十二年(1275)、幡多に船所職がおかれていたことが『金剛福寺文書』にみえるが、中村を中心とする幡多本郷には造船所があったようである。おそらく下田かその周辺であろう。
 古くから甲浦·浦戸·下田などは重要な港として栄えたが、中世においても要港であり、下田の造船はつづいていたようである。明国との貿易のため細川氏によって南海路が開けてからは特に重視された。」
 船所とは平安後期から鎌倉時代にかけての国衙在庁機構〈所(ところ)〉の一つとされ、幡多地方が海上交通の要所であったことが伺える。

 足摺岬付近は縄文時代においては大分県姫島の黒曜石が入ってきており、中世においては補陀落渡海の出発地にもなっている。日本列島中でも黒潮がぶつかる地点で、海流を利用した航海の技術が蓄積されてきたと考えられる。
 この黒潮航海術は縄文時代以来のものかも知れない。というのも足摺岬には縄文灯台とも言われる鏡岩が存在する。そして魏志倭人伝の最後を飾る「裸国·黒歯国」への渡海、その起点となったのが「侏儒国」すなわち、高知県西部の幡多国であった。

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【2018/07/13 23:40 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
第八次調査の「内裏」地点
昭和55年の第八次調査。『土佐の歴史を掘るーー高知県における発掘調査の成果ーー』(宅間一之著、昭和60年)によると、「「ダイリ」地点は地形的にも微高地であり、国府域が見渡せる地理的条件をもち、その中央部には古くから「国司館址」と伝承されてきた場所もある。~(略)~
かつて「国司館址」一帯は小高い丘であったと言われており、おそらく後世において削平されたものと考えなければならない。」としている。
 『長宗我部地検帳』に記された「タイリ中ニツカアリ」である。「コフラ」という地名もあることから高良塚、すなわち古墳だった可能性が見える。

 『皆山集』に比江村出土古瓦小片の拓本が残されているが、「得重菊全紋瓦」とされていたのは、今で言う「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」のようである。また、もう一つは途中で絵が切れているものの「五七桐」の紋が見える。これは高良大社にも縁のある神紋であり、皇族や足利家の家紋にも用いられている。高知県では小村神社、荒倉神社、松尾神社などでも見かけたことがある。

 また「七世紀代の三基の長方形の竪穴住居址のうち二期は、北面の壁近くに、または壁に接して「カマド」を推定させたが、今回も同様「カマド」を推定させるものである。この段階での竪穴住居址内における「カマド」の存在は、南四国ではおそらく最古のものであろう。」といった生活の跡が伺える。

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【2018/07/12 23:10 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
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