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高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m

 12月14日の高知新聞に「南海道か 県内最大遺構」との見出しで、香南市野市町下井・高田遺跡で古代官道とみられる道路遺構の発見を報じた。気になった点は次の記述である。

 道路は、溝出土の土器などから8世紀に使用されたと推定。道幅10.35mは、律令国家が713年以前に使った「大尺」と呼ばれる長さの単位でちょうど30尺にあたる。

 ここで「大尺」と呼んでいるのは、1尺=約35cmのいわゆる高麗尺のことを指しているのだろうか? 「ちょうど30尺」としているというからには、1035÷30=34.5(cm)を1尺と見ていることになる。これは高麗尺の元になったとされる東後魏尺(1尺=34.5cm)に相当する。
 大和朝廷は唐の影響を強く受けて、唐の律令制度を取り入れていることから、それに先行する長さの体系が存在していたことは、九州王朝といった旧王朝の存在を示唆することにもなり、相当に食指が動くところである。
 しかし、学問を志す者は真理の前に謙虚でなければならない。『古田史学会報』140号に「高麗尺やめませんか」と題する八尾市の服部静尚氏の論考があるが、高麗尺に相当する物差しは見つかっていないという。法隆寺再建論争で有名になった仮説段階の物差しであって、その実在は専門家の間でも疑問視されている。新井宏氏の「日韓古代遺跡における高麗尺検出事例に対する批判的検討」などが参考になる。
 そもそも今回見つかった道幅は、小尺(1尺=29.6cmの唐尺あるいは天平尺)で35尺のほうがピッタリのような気がする。29.6×35=1036(cm)、すなわち10.36mになり、新聞発表の数値とも合っている。この阿波経由の古代官道は718年以降に大和朝廷主導で設置されたものとすれば、713年以前に使用されたという大尺を適用する必要はない。令の雑令に「高麗法を用いると地を度るに便なため」とある内容に引きずられ過ぎたのではないか。
 また、九州王朝においては魏との関係が深かったことから南朝系の尺度が使用されたと考えられ、1尺=24.3cmとする魏尺(正始弩尺)などが候補として検討されるところである。ここでも「ONライン(701年)」を前後する度量衡の変遷が研究課題となりそうだ。

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【2018/12/24 08:08 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か?
 待ちに待っていたニュースが飛び込んできた。高知県香南市野市町下井の高田遺跡の発掘調査で古代官道と見られる県内最大の道路遺構が発見されたのだ。「高知 NEWS WEB」では、次のように報道している。

古代の道路跡は「南海道」か

12月13日 17時09分
 香南市で行われていた遺跡の発掘調査で幅10メートルを超える古代の大きな道路の跡が確認されました。いまから1300年ほど前の奈良時代に、中央と地方を結んだ、「南海道」ではないかと見られています。
 道路跡が見つかったのは香南市野市町の高田遺跡です。高知県の埋蔵文化財センターが高速道路の工事に伴う今年度の発掘調査で確認し、13日に報道関係者に公開されました。
 見つかったのは、並行にまっすぐ伸びる2本の溝で、溝と溝との幅は10メートル長さは170メートルに及び、古代の大きな道路の跡とみられています。
 この近くでは、いまから1300年ほど前の、奈良時代の建物の跡なども見つかっていることから、この道路は、奈良時代に、中央集権国家を目指し朝廷が整備した、中央と地方を結ぶ幹線道路である「南海道」の可能性が高いということです。
 高知県内で、南海道とみられる道が見つかったのは初めてで、これまでに香川県の一部でのみ見つかっている南海道と比べても、かなり規模が大きいということです。
 調査にあたった県の埋蔵文化財センターの池澤俊幸さんは「中央にいち早く情報を伝達するのに馬が走れる大きな道路が必要だったと考えられる。本来、推定されている南海道のルートとは異なる場所での発見だが、道路の特徴などから、南海道の可能性は高い」と話していました。
 今回の遺跡調査の結果については、今月16日、一般向けの現地説明会が予定されています。

 まずお断わりしておくが、古代官道と見られる道路遺構の発見は県内で2例目である。ちょうど10年前の平成20年、南国市の士島田遺跡で幅6メートルの古代南海道の一部と見られる遺構が見つかっている。「本来、推定されている南海道のルート」とコメントされているのは、南国市比江の推定国府跡から東西に伸びるルート(条里余剰帯の存在などを根拠とする)のことであろうか。そこからはかなり南方を東西に走っていることになる。

 「遺構は偶然にも高知東部自動車道・南国安芸道路の建設予定地で見つかり、県立埋蔵文化財センターは『最短距離で人や物を運ぶ現代の高速道路と古代の官道のルートが一致する事例は全国にもあり、大変面白い』」とした報道もあるが、もし、このコースを全く想定していなかったとしたら研究不足かもしれない。一部の郷土史家の間では、この位置に古代官道が発見されて当然と見る者もいる。

 現地説明会の内容は聞いていないが、今回の発掘調査で整合性が見えてきた感もある。土佐国の南海道については、718(養老2)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国経由の野根山街道を経由するルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代(701年のONライン)によるものとする指摘もある。さらに796(延暦15)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に変更されている。
 今回発見された古代官道は718〜796年の間に使用された道路と考えられる。国府から南下し、士島田遺跡と廿枝を経てさらに南へ。香長中学校(道路遺構らしきものが見つかっている)あたりを通るように東へ向かい、そのまま高知龍馬空港の北側を通過し、物部川を渡って、今回見つかった高田遺跡の道路遺構にほぼ直線的に連結するようなルートである。
 今後の課題として、①さらに東の延長がどのように伸びているのか? また、②国府以西がどのコースを通っているかーー従来の想定位置、国分寺北側からほぼ真西(土佐北街道沿い)に逢坂峠方面ヘ伸びているのか? あるいは、今回発見された南方のルートを香長中学校あたりから、そのままほぼ真西に伸びているのか? 「古代南海道を探せ」と銘打って情報発信してきた古代南海道研究が新たなステージに入ったと言えるだろう。

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【2018/12/16 17:46 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
『古代の地方史2』に見る古代南海道
『古代の地方史2 山陰・山陽・南海編』(八木充編、昭和五十二年)頁一四二に以下のような土佐国に向かう古代官道の変遷が記されている。

 土佐国府(南国市比江)に達する公式ルートは、はじめ讃岐から伊予国府を経由した。おそらく周敷郡付近から南下して石鎚山脈を越え、仁淀川の支流を下るという、現在の国道一九四号線に近いルートをとり、仁淀川下流付近で東行し、土佐国府に至ったものであろう。しかし、このルートは、遠まわりの上に相当険難であったらしく、七一八年(養老二)五月、那珂川沿いにさかのぼり、四ッ足堂峠を経て物部川沿いに下る阿波国経由のルート(現在の土佐中街道)に切りかえられた(『続日本紀』)。しかし、このルールも、結局問題が多かったとみえて、七九六年(延暦一五)に至って、讃岐—伊予間の川之江市付近(旧宇摩郡)から南下し、水無峠を経て立川川沿いに下るように、再び切りかえられた。

 国道一九四号線といえば寒風山トンネルを抜けるルートで、現在は道も良くなっており、西条市に行くには最短コースかもしれない。近くの山中に「越裏門(えりもん)」という地名があり、まさに土佐国の裏門を象徴しているようでもある。
 また、四ッ足堂峠ルートを採用しているところを見ると初期の頃の説であり、西は中村経由、東は野根山ルートをとる近年の説(足利健亮説など)とでは、かなり異なっている。
 しかし、完全に結論が出たわけでもないので、従来説として尊重しておこう。官道でなかったとしても、古くから利用されていた道のようであり、直短距離をつないでいる利点は感じられる。

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【2018/09/18 11:10 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
地検帳中村郷の「大道」は古代官道か?
 地検帳中村郷「中村」(現在は四万十市)には「大道」に係わる記載が14筆ある。「大道」地名は古代官道との関連が指摘されることがあるが、『土佐の「小京都」中村ーーその歴史・町並み復元と史跡ーー』(西南四国歴史文化研究会中村支部、平成19年)によると、それらは大きくは4本の道を示しているという。足利健亮説では伊予経由の古代官道は中村を通っている。もしかしたら地検帳の「大道」のどれかが古代官道と重なっている可能性があるが、同時に官道以外の道にも「大道」というホノギが当てられていることにもなる。


 『長宗我部地検帳』に登場する「大道」というホノギ(小字のようなもの)を追っていけば、もしかしたら、古代官道が浮かび上がってくるのではないか? そんな淡い期待を抱いていたところ、すでに先人達によって検証された事例があった。春野町(現在は高知市に合併)については、『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)の中にホノギ「大道」をもとに大道の推定がなされている。図のように東西にほぼ一本の点の束になっているが、南北方向に枝分かれした道も見られる。朝倉慶景氏はこの春野町を通る南ルート(高知市からやや南下して春野町―土佐市―須崎市へとつながる海岸よりのコース)を古代官道と推定している。


 また、佐川町における「大道」に関するホノギを拾って中世における道路の推定復元図(『佐川町史 上巻』佐川町史編纂委員会、昭和57年)が作られているが、それを見ると一本ではなく複数の枝分かれした道路網である。木下良氏の著書に見られる古代南海道の図では、この佐川町を経る北ルート(JR土讃線が通っているコース)が採用されている。この二つのルートは二者択一的で、春野町と佐川町の両方を通っている可能性はかなり低いといえよう。とすれば、『長宗我部地検帳』に見えるホノギ「大道」は、仮に古代官道と重なっている部分があるとしても、全く関係のない道にも対応している地名だと結論づけられるのではないだろうか。


 地域差はあるにしても他の市町村にも「大道」というホノギは広く見られ、「道」(多数)や「小道」(大道よりは少ない)も存在する。中には「タイトウシリ」(~シリは跡の意)、「コタイシキ道」など、古代官道を連想させるようなホノギも見受けられる。県全体をくまなく調べていけば何らかの傾向が見えてくるかもしれないが、一足飛びに古代官道までさかのぼるというわけにはいかないようである。

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【2018/09/15 00:42 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
東偏5度って?
 古代の条理制の南北線をどのように定めたのか。ある人から「東西線を先に決めたのだ」という話を聞いたことがあったが、春分・秋分の日の出や日の入りの方角という考えには納得できない思いがあった。なぜなら、縄文時代の建造物はむしろ冬至や夏至を意識した造りになっているものが多いからだ。
 「肥さんの夢ブログ」でも東偏5度問題がテーマとなっている。ちなみに古代土佐(高知県)の条理制は香長平野で東偏12度(N12°E)、鏡川下流域で西偏16度(N16°W)となっている。
 調べてみると、奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」に、古代の方位測定法について書かれていたので、以下に引用させていただく。

 平城京をはじめとする都城や寺院、道路など、古代の土木建造物には、真北や真東西に方位を合わせたものが少なくありません。工事にあたって測量がおこなわれたことは確実です。では、具体的には、どのような方法で方位を測ったのでしょうか。 
 いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。 
 次に思いつくのは、北極星を測ることでしょう。現在の北極星(ポラリス=こぐま座α星)は真北にかなり近い位置にありますので、これを利用するのが真北の測定法としてはもっとも簡便です。実際、古代にも北極星で真北を求めたと主張する人がいます。 
 ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、地球の自転軸は約25,800年の周期で動いており(歳差さいさ運動)、現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。それ以前は、紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が北極星の役割を果たしていました。しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。 
 ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。 
 ですから、方位の測定では、まず東西線を決め、そこから直角に振り出すことで南北線を定めたと考えられます。そのさいに、各辺の長さが3:4:5の直角三角形(勾股弦こうこげんの法として広く知られていました)を利用したことは確実です。7世紀の奈良盆地には、横大路よこおおじという東西道路と、上ツ道かみつみち・中ツ道なかつみち・下ツ道しもつみちという等間隔の南北道路が存在していました。最初に横大路が設定され、3本の南北道路はそれと直交するようにつくられたものと思われます。 
 平城京は、このうちの下ツ道を基準に設計されていますから、造営時にあらためて方位を測定したわけではありませんが、その精度は古代の測量技術がかなりの水準に達していたことを物語っています。 
(2013年6月のブログより)

 棒の影の長さが円の半径に等しくなる時刻が、午前と午後で一回ずつある。その方角は太陽が南中する真南の方角から対称なので、かなり正確に東西方向を決めることができそうである。その線に垂直な方向を南北線と決めるというわけだ。
 しかし、問題は敢えて真北より東へ5度(東偏5度)ずらした方角で建てられた建造物群が存在するということだ。果たして、どのような意図があったのだろうか? 県内の古代建造物についても検証してみたいところである。



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【2018/09/04 09:52 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
土佐国分寺の古瓦は13弁菊花紋

 久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、
単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているという。


筑後国分寺跡(久留米市)、堂ヶ平遺跡(広川町)、太宰府史跡(太宰府市)、鴻臚館跡(福岡市)、宝満山遺跡(太宰府市)、浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)、筑前国分寺跡(太宰府市)、菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)、豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)



 古賀達也氏が九州王朝の家紋ではないかと推定している十三弁の花紋が、土佐国分寺古瓦ノ図として『皆山集2』に掲載されている。やはり九州との深い関係があるかも知れない。また、布目瓦も出土していることから奈良時代のものと推定しているようだ。

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【2018/07/23 19:44 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
幡多の船所職
『黒潮のナゾを追う』(高知大学黒潮圏研究所、1991年)で山本大氏は次のように述べている。
 「鎌倉中期の文永十二年(1275)、幡多に船所職がおかれていたことが『金剛福寺文書』にみえるが、中村を中心とする幡多本郷には造船所があったようである。おそらく下田かその周辺であろう。
 古くから甲浦・浦戸・下田などは重要な港として栄えたが、中世においても要港であり、下田の造船はつづいていたようである。明国との貿易のため細川氏によって南海路が開けてからは特に重視された。」
 船所とは平安後期から鎌倉時代にかけての国衙在庁機構〈所(ところ)〉の一つとされ、文永十二年(1275)に慶心(金剛福寺の僧侶か)を幡多本郷の船所職(ふなどころしき)に任じているようだ。幡多地方が海上交通の要所であったことが伺える。

 足摺岬付近は縄文時代においては大分県姫島の黒曜石が入ってきており、中世においては補陀落渡海の出発地にもなっている。日本列島中でも黒潮がぶつかる地点で、海流を利用した航海の技術が蓄積されてきたと考えられる。
 この黒潮航海術は縄文時代以来のものかも知れない。というのも足摺岬には縄文灯台とも言われる鏡岩が存在する。そして魏志倭人伝の最後を飾る「裸国·黒歯国」への渡海、その起点となったのが「侏儒国」すなわち、高知県西部の幡多国であった。

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【2018/07/13 23:40 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
第八次調査の「内裏」地点
昭和55年の第八次調査。『土佐の歴史を掘るーー高知県における発掘調査の成果ーー』(宅間一之著、昭和60年)によると、「「ダイリ」地点は地形的にも微高地であり、国府域が見渡せる地理的条件をもち、その中央部には古くから「国司館址」と伝承されてきた場所もある。~(略)~
かつて「国司館址」一帯は小高い丘であったと言われており、おそらく後世において削平されたものと考えなければならない。」としている。
 『長宗我部地検帳』に記された「タイリ中ニツカアリ」である。「コフラ」という地名もあることから高良塚、すなわち古墳だった可能性が見える。

 『皆山集』に比江村出土古瓦小片の拓本が残されているが、「得重菊全紋瓦」とされていたのは、今で言う「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」のようである。また、もう一つは途中で絵が切れているものの「五七桐」の紋が見える。これは高良大社にも縁のある神紋であり、皇族や足利家の家紋にも用いられている。高知県では小村神社、荒倉神社、松尾神社などでも見かけたことがある。

 また「七世紀代の三基の長方形の竪穴住居址のうち二期は、北面の壁近くに、または壁に接して「カマド」を推定させたが、今回も同様「カマド」を推定させるものである。この段階での竪穴住居址内における「カマド」の存在は、南四国ではおそらく最古のものであろう。」といった生活の跡が伺える。

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【2018/07/12 23:10 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
縄文人は豊後水道を渡った
    愛媛県南予郡愛南町御荘平城(ひらじょう)に所在する平城貝塚(県指定史跡)は、明治24(1891)年に高知県の地域史研究者・寺石正路氏によって発見され、早くから知られた縄文時代後期(約3500年前)の貝塚である。その後、昭和初年にかけては愛媛県内の研究者や中央の考古学者が平城貝塚を訪れ、発掘を行っている。本格的な調査は、昭和29(1954)年以降、平成8(1996)年まで5回にわたり、行われた。
    この貝塚は、縄文時代後期の磨消(すりけし)縄文という手法で製作された平城式土器の標識遺跡として著名である。この土器は対岸の東九州の小池原(こいけばる)式土器と類似しており、豊後水道を介した人々の交流がうかがえる。また、貝製の笛や貝製の腕輪、獣骨で作られた漁具、当時の人々が食べた貝殻など、約3500年前の暮らしに密着したた資料が多い。


    一方、九州姫島産黒曜石の分布に注目すると、西四国から石鏃(200本以上)、石錐、尖頭状石器、スクレイパーなど多数出土している。木村剛朗氏は「九州姫島産黒曜石よりみたる西四国縄文期の交易圏(中)」(『土佐史談125号』昭和45年3月)の中で、縄文時代早期の押型文期~前期前葉を黒曜石交易の最盛期とし、次に中期、最後に後期と順位付けしている。そして晩期以降の遺跡、入田弥生遺跡をはじめ弥生期の遺跡からは黒曜石製石器、剥片は発見されておらず、黒曜石交易の終末を示すとしている。
    いずれにしても、縄文人は豊後水道を渡った。

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【2018/05/31 07:17 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
古代官道ができる前は水運がメインだった
  『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠とすれば、7世紀初頭には既に、古代官道の整備が始まっているようである 。当然ながらこの時代であれば九州王朝の京(山口県の豊浦宮か?)が基点となって官道が造られていったはずである。九州王朝が東日本経営に乗り出す第一歩として、副都としての前期難波宮の建設と交通網としての山陽道の整備であった。
  当然ながら、それ以前は海上交通がメインであった。関西方面へは瀬戸内海の船による移動となるが、船の寄港地となる古代の津がどこにあったか?  それを調べることで、九州王朝が進出していった足取りが掴めるかも知れない。
  古代において、天然の良港とされるのはラグーンや大河の河口である。実は高良神社の分布と古代の津がよく一致していることに、最近気づいた。

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【2018/05/27 11:58 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
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