昔、当たり前体操ではなく、アブラハム体操という踊りが流行った。「アブラハムには7人の子、一人はノッポであとはチビ。みんな仲良く暮らしてる。さあ踊りましょう。右手……」といった歌詞で、同時に複数の動作を累積していくような内容だったように覚えている。 アブラハム、イサク、ヤコブの3代はイスラエルの信仰の祖であり、ヤコブの子孫からイスラエルの12部族が増え広がっていった。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と神様が祝福されたことが実現されていったのである。ところが、その後のイスラエル民族の歴史は不信仰の歴史でもある。預言者を通じて真の神に立ち返るよう摂理される(内的刷新)が、それがなされなかった場合には外敵により国が滅ぶ(外的粛清)こともしばしばであった。その亡国の民(ディアスポラ)はどこへ行ったのか。 イスラエルの失われた10部族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)については、以前聞かされたことがあった。ダン族が韓国にやって来て檀君神話になったとか、ガド族が日本に来て帝(みかど)になったとか……。 学問的にはどうかと思っていたが、近年、このことに正面から取り組んだ研究がある。『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』(田中英道著、2019年)という本が出されていることを知り、実際に読んでみた。古墳の分布と出土埴輪についての考察といった物証を背景とした内容にはうなずける部分も多かった。 1956(昭和31)年、千葉県にある芝山古墳群から大陸系の出土品と共に、たくさんの埴輪が出土した。中でも有名なのは、顎髭を蓄えて帽子をかぶる一連の人物埴輪である。古代ユダヤ教徒の装いは、これらの埴輪に驚くほど似ているという。耳の前の髪を伸ばしてカールさせる「ペイオト」という独特の髪型、顎髭などである。 また、関東地方からは埴輪の琴や埴輪弾琴像も出土している。日本でも古墳時代にはすでに琴が楽器として使用されていたようだ。琴といえばイスラエルの王ダビデのことが思い出される。 「神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。」(サムエル記上16章23節) 古代ユダヤでも琴が演奏されていることが伺える。 ユダヤ民族が集団的に日本にやってきたのは、イスラエルがローマに滅ぼされた紀元後のことであろうか。田中英道氏は著書の中で「そうした人々の中に、ユダヤ人原始キリスト教徒のエルサレム教団がいて、大秦国(ローマ帝国)から来た秦氏と名乗ってい」たという。九州大学名誉教授・北村泰一氏も当時のシルクロードは緑豊かな、旅の素人でも移動しやすい環境だったと論じている(「タマラカン砂漠の幻の海――変わるシルクロード」)。 だとしても、極東と言われる日本に遠路はるばるやって来た、その動機はどこにあるのだろうか。『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』では太陽信仰と述べられていたが、それだけでは不十分だと感じた。ヨハネ黙示録7章2~8節に次のような記述がある。 キリストの再臨は日出ずる方、すなわち東方の国であるというのが聖書の結論である。さらにヨハネ黙示録14 章では、次のように預言されている。 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。 埼玉県行田市の稲荷山古墳からは、115の黄金文字の銘文が刻され、「辛亥年」(四七一年か)の干支を持つ鉄剣と、四絃の埴輪の琴が出土している。この鉄剣に「……今獲加多支(カタシロ)大王大王寺、在斯鬼宮時……」と刻まれた「大王」は、雄略天皇などではなく、栃木県下都賀郡藤岡町字磯城宮に所在する大前神社(延喜式以前の名称を磯城宮という)の地に君臨していたと考えられる(『関東に大王あり ー稲荷山鉄剣の密室ー』古田武彦、1979年)。 関東地方は前方後円墳の数においても、近畿地方よりはるかに多い。古墳時代における先進地において、ユダヤ人埴輪と埴輪弾琴像が多数出土している事実をどう考えるべきか。祖国を追われたイスラエル民族が東を目指し、たどり着いた地で新しい国家作りの一端を担っていたとしたら……。彼らは日の出る方角に何を見たのだろうか。 PR |
大学時代、学生新聞の編集をしていたK先輩は名文家であった。受験勉強のために新聞のコラムを読み、見返すことなく四百字詰め原稿用紙に要約する練習をしたと言っていた。その先輩は「世の中では『源氏物語』を日本を代表する古典文学のようにもてはやす風潮があるが、『平家物語』こそ、日本文学の最高傑作である」といった趣旨の話をしたことがあった。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。(『平家物語』第一巻「祇園精舎」より)仏教的無常観に貫かれ、栄華を極めた平家が最後には源氏の討伐軍により、屋島の戦い・壇ノ浦の戦いを経て滅亡していく運命を描いた『平家物語』。 古代九州王朝の終末もまさに同様であった。倭国民を徴兵し、朝鮮半島にまで覇権を伸ばそうとした九州王朝が、白村江の戦いで大打撃を受け、大和朝廷にとって代わられたことは「奢れる人も久からず」という歴史の趨勢なのかも知れない。 それはさておき、安徳天皇は壇ノ浦で二位の尼(平清盛の正妻・時子)に抱かれて、入水して果てたとされている。これに反して安徳天皇が生きていたとする伝承は数多くあるが、中でも宇佐神宮の宮司家・宇佐家の伝承に関しては興味を惹かれるものがあった。 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(宇佐公康著、昭和62年)によると、都落ちして大宰府にくだっていた安徳天皇が、源氏方に加担していた緒方惟栄の圧迫を受け宇佐神宮宮司・公通の館に逃げ込み、一時ここを皇居と定めた。この時に公通は、宇佐神宮にて斎戒沐浴・断食して七日七夜祈ったところ神託を得た。それは嫡男・公仲を安徳天皇の身代わりとして、天皇を守護し奉れというものだった。 こうして天皇は宇佐に残り、身代わりの公仲が安徳天皇として讃岐の屋島に移った。この後、平家は山陽道を制圧し勢いを盛り返したが、義経が下向して参戦した事により、たちまち劣勢になり壇ノ浦で滅びることになる。こうして宇佐公仲は、天皇の身代わりとして二位の尼と共に壇ノ浦で海の藻屑となった。替え玉作戦としては成功かもしれないが、8歳ほどの我が子を犠牲にした忠誠心はいかばかりであったろうか。 一方、安徳天皇は30年ほど遁世し、公通の先妻の子公房の庇護を受けていたが、やがて宮司職を譲られた。この後、宇佐神宮の宮司職は安徳天皇の子孫が勤めたという。宇佐公仲となった安徳は、宇佐家の系図上では公通の孫となっている。 似たような話が『旧約聖書』の中にもある。「歴代志下」22~23章に書かれた王アハジヤの子ヨアシと祭司エホヤダの子ゼカリヤの物語である。 アハジヤの母アタリヤは自ら王となり、王子をことごとく殺して、ユダ家の血筋を絶やそうと図った。しかし、生まれたばかりの幼児ヨアシだけは難を逃れ、神の宮に6年間かくまわれて育った。7年目に祭司エホヤダはクーデターを起こし、ヨアシに油を注いで王とした。 聖書には明確には書かれていないが、このとき万が一、失敗して王子が殺される可能性もあったので、祭司エホヤダはわが子ゼカリヤをヨアシの替え玉として擁立したという説がある。まさしく、宇佐宮司家のとった行動と同じであったというのだ。アメリカの作家マーク・トゥエィン(1835-1910年)の小説『王子と乞食』は、王子と乞食が互いに服を交換し入れ替わる物語であるが、『聖書』からヒントを得たとも言われている。 その後、ダビデ王の血統は祭司ゼカリヤの家系の中で守られ、イエスの時代に祭司長ザカリヤの家門へと連なっているという。この説には20年以上前に出合ったのだが、残念ながらその出典を示すことができない。先行研究があったことだけ明示しておく。 |
古田史学論集 第二十三集が2020年3月30日に発売された。今回のタイトルは 『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独―消えた古代王朝―』である。『日本書紀』を読もうとすると頭が痛くなるという人もいるようだが、権力闘争の血なまぐさい歴史を綴っているため、読んでいて重たくなる感覚は分からないでもない。 学会では日本の正史として必ず引き合いに出される『日本書紀』であるが、あくまでも勝者である大和朝廷の正統性を主張するためのイデオロギーの書であるという史料的性格を無視して、そこに書かれていることが客観的事実であるかのごとく無批判に信じ込むことは学問的ではない。大和朝廷に先立つ日本列島の代表王朝の存在を前提とする古田武彦氏の多元史観に基づく史料批判により『古事記』『日本書紀』の中に失われた九州王朝(倭国)の痕跡を探り出し、真実の古代史像を明らかにすることが本書の目指すところである。 そのような視点なくして、記紀の字面だけ追っていても、背後の真実は見えてこない。そういった意味で、古田史学が登場するまでは『古事記』『日本書紀』を真に理解する者は存在しなかったと言っても過言ではなかろう。まさに1300年の孤独であった。 同じことは『聖書』についても言える。『聖書』を神からの啓示の書として神聖視するあまり、聖句の裏に隠された真実を理解する者はいなかった。例えば「マタイによる福音書」第11章11節に、イエスが次のように語られた内容がある。
とりわけ聖職者であればなおさら、バプテスマのヨハネを信仰的な人物と信じて止まないため、後半部分の「しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」の意味を理解できなかった。いわば『聖書』2000年の孤独である。クリスチャンたちの意に反して、バプテスマのヨハネが失敗したことをイエスは明言していたのである。 さて、『古代に真実を求めて』シリーズ、今回の内容を目次で紹介しておこう。先だってより言及している『日本書紀』α群・β群についての谷川清隆氏の論稿にも注目である。 目次巻頭言 『日本書紀』に息づく九州王朝[古賀達也] 特集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独――消えた古代王朝 『日本書紀』をわたしたちはどう読めばいいのか[茂山憲史] 『記・紀』の「天」地名[新保髙之] 「海幸・山幸神話」と「隼人」の反乱[正木裕] 神武東征譚に転用された天孫降臨神話[古賀達也] 神功皇后と俾弥呼ら四人の筑紫の女王たち[正木裕] 継体と「磐井の乱」の真実[正木裕] 聖徳太子は九州王朝に実在した――十七条憲法の分析より[服部静尚] 天文記事から見える倭の天群の人々・地群の人々――七世紀の二つの権力[谷川清隆] 「大化」「白雉」「朱鳥」を改元した王朝[古賀達也] 白村江を戦った倭人――『日本書紀』の天群・地群と新羅外交[谷川清隆] 『旧唐書』と『日本書紀』――封禅の儀に参列した「筑紫君薩野馬」[正木裕] 壬申の乱と倭京[服部静尚] コラム①『古事記』千三百年の孤独 コラム②『古事記』『日本書紀』の「倭国」と「日本国」 コラム③二つの漢風諡号「皇極」「斉明」 コラム④『日本書紀』は隠していない――近畿天皇家は九州にあった別の王朝の分家である 一般論文 なぜ蛇は神なのか? どうしてヤマタノオロチは切られるのか?[大原重雄] 伊都国の代々の王とは――「世有王」の新解釈[野田利郎] 対馬「天道法師」伝承の復元――改変型九州年号の史料批判[古賀達也] 『日本書紀』十二年後差と大化の改新[日野智貴] コラム⑤鬯(暢)草とは何か 付録 古田史学の会・会則 「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿 編集後記 |
1997年に書いた「神話理解の3段階」というタイトルの文章が出てきた。もう20年以上前の話である。「日本神話と聖書の秘密」シリーズを始めた手前、その原点に立ち返ろうと思って探したところ、ちゃんと残されていた。今読み返すと稚拙な文章だったと恥ずかしくも感じるが、当時の思いが蘇ってもくる。そのままの内容でお届けしよう。 神話理解の3段階“真実かウソか”ではなくどちらも段階的真理。 物事を正確に理解するためには、一つの方向から見ただけでは十分ではありません。少なくとも3段階の視点を経験することが、全体像を正しく把握することにつながります。神話の理解においても、この原則がよく当てはまります。歴史的にも次の3段階の認識の過程があったことを見ることができます。 ①絶対の段階 神話を神の啓示として、あるいは実際にあった出来事としてそのごとくに信じる段階。 ②相対化の段階 「神話は史実ではなく、後代の偽造、作り話である」と相対的にとらえる段階。 ③中和の段階 「神話は史実そのものではないが、全くのでたらめではなく、史実に基づく内容が投影されている」というように、より高次元的な理解がなされる段階。 子供の発育と同様に神話認識も発展する 人類の知性が、無知の状態から啓発されていくにつれて、神話に対するとらえ方も次第に発展していきます。それは子供の知的発育の過程にも似ています。子供は自らの主体性を持たないうちは、親の言うことをすべてそのごとくに信じます。学校でいろいろな知識を身につけるようになってくると、科学的説明のないもの、論理的でないものに対して反発を覚えるようになります。しかし、さらに大人になると、言葉の背後の動機を酌み取るようになってきて、一見論理的でない事柄にも、何かしら深い意味を見いだすようになってくるのです。 例えば、子供が成長すると、幼い頃に信じていたサンタクロースが実在しないことを知って失望してしまいます。しかし、サンタクロースが貧しい人々を助けた聖ニコラスという人に由来することを教えられれば、まったく無意味とは考えないでしょう。 これと同様に、人間の知性がいまだに開発されていない時代においては、神話が絶対的な支配力を持っていました。やがて理性を中心とする合理主義が台頭し、科学万能が叫ばれるようになると、神話というものは「人間が勝手に作ったもの」と解釈されるようになります。しかし、古代の遺跡が発掘され、文献や資料の検証が進んでくると「単なる作り話と言い難い内容がある」というように見直されてくるのです。 シュリーマンのトロヤ遺跡の発掘 ギリシャ神話の中心をなしている『イリアス』『オデュッセイア』というホメロスの古代叙事詩があります。古典時代(紀元前600~300年)のギリシャ人たちは、叙事詩の多くは自分たちの正真正銘の歴史であると見なしていました。けれども19世紀までは歴史家たちが証拠として確認できるようなものは何一つ見つかりませんでした。それゆえ、神話は基本的に伝説に過ぎないという結論に至るのです。 ところが、トロヤ遺跡の発掘がそれまでの定説を根底から覆したのです。“燃え上がるトロヤ城”の絵に心動かされたハインリッヒ・シュリーマンは、物語の舞台が実在すると信じ続け、ついに遺跡を掘り当ててしまったのです。その発見により、ギリシャ神話のトロヤ戦争が現実に起きた事件であったことが証明されたのです。 聖書の物語についても、歴史をたどれば、かなりとらえ方が変化してきました。 中世までは聖書は一字一句神の啓示として、そのごとくに信じられていました。しかし、聖書が研究の対象とされ始め、20世紀初頭に登場した「キリスト神話論」という説が、当時の西欧キリスト教世界に衝撃を与えました。「イエスは架空の人物、後から作りだしたもの」と断定したのです。しかし、その後の研究は、必ずしもこの結論を支持しませんでした。聖書が神話的要素を含むものの、イエスの実在性など、多くは事実に基づくことが証明されてきたのです。 日本神話についても、太平洋戦争を前後して、その地位が大きく変化しました。 戦前は軍国主義のイデオロギーを正当化するために神話が用いられました。『古事記』や『日本書紀』が絶対的なものとして、教育の中心となっていました。しかし、敗戦によって状況は一新します。「神話は作り話である」とする津田左右吉の学説が主流となったのです。この風潮は戦後長く支配的でしたが、遺跡の発掘や詳細な文献批判により、「古事記や日本書紀は荒唐無稽なものではない」と言われるようになってきています。 受け手のレベルで神話の意味は変わる このように見てくると、神話が真実か虚構かという論争が、もはや的外れであることが分かるでしょう。神話理解の3段階を通過して初めて、神話の本質が見えてくるのではないでしょうか。 神話とは「歴史であって歴史でなく、啓示であって啓示でない。それらが統合されたもの」とぐらいに考えてもらったらいいでしょう。現代人にはとかく、一つの言葉に一つだけの意味を持たせたがりますが、神話という言語は受け手のレベルに応じて、理解の仕方が変わってきます。その一つ一つを段階的な真理として認めつつ、さらに深い意味を求めていくことが重要なのではないでしょうか。 |
長野県諏訪市と伊那市との境に守屋山(もりやさん、標高1,651m)という山がある。この山と『旧約聖書』の創世記に登場するモリヤ山との関連については、日ユ同祖論として以前から指摘されている。 神は言われた「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(創世記22章2節) イスラエルの信仰の祖とされるアブラハムのイサク献祭である。一度目の献祭に失敗したアブラハムは自分の命よりも大切なひとり息子を捧げることを通して、その信仰を試されたのである。モリヤ山はそれほど高い山ではなかったが、3日を要したとあることからアブラハムが悩み抜いた末に、ついに神に従う決断をしたことが想像される。 み使いが言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。(創世記第22章12節) また、歴代志下にもモリアの山に神殿を建設する話が出てくる。 ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所である。(歴代志下第3章1節)いずれにしても、ユダヤ民族にとって信仰の対象となる聖なる山といった位置づけである。後に救い主イエス・キリストは「神のひとり子」「神殿」にも喩えられる。 一方、長野県の守屋山もまた、信仰の対象とされる山であった。かつては旧6月朔日に登山して、祠を拝した後に磐座を7回まわって諏訪上社へ参拝する「御七堂」という行事を行っていたという。イスラエルの民がエリコの町を7周回ると城壁が崩れ落ちたというエリコ城陥落の奇跡(ヨシュア記第6章)を連想させる。 諏訪上社の神長(かんのおさ)という筆頭職に就いた守矢氏は、家伝によると物部守屋とのつながりがあるとされているが、遠くイスラエルとの関係はあるのだろうか。 そこで、もう一つのカギとなるのが諏訪信仰の女神・多満留姫(たまるひめ)である。洩矢神の娘で、建御名方神の出速雄神に嫁いだとされる。たまーるか、旧約聖書にも「タマル」が出てくるちや。突然、土佐弁でごめんなさい。土佐弁の【たまるか】は驚いた時に使う言葉で「Oh,my God!」といったニュアンスだろうか。 旧約聖書にはタマルが2人登場する。登場箇所は創世記第38章およびサムエル記下第13章である。 ①「創世記」の登場人物。ヤコブの子ユダの息子の嫁タマル。 ②「サムエル記」の登場人物。ダビデの娘、アブサロムの同母妹タマル。 多満留姫と姫が付くのだから王族、すなわち②のダビデ王の娘のことだろうか。可能性は無きにしもあらずであるが、むしろ①のヤコブの子ユダの息子の嫁タマルのことなのではないかとの印象を受ける。なぜなら、①のタマルは『新約聖書』のイエスの系図にも登場しているからだ。 マタイ福音書冒頭の系図には、4人の女性たちの名が記されている。タマルとラハブとルツとウリヤの妻である。『新約聖書』を読み始める人にとって最初の挫折ポイントがこの系図。アイドルに関心がない人に乃木坂46のメンバーの名前を延々と並べられても困るのと同じで、『旧約聖書』の知識がなければ、誰が誰だか分からないような人物名が延々と続く。しかも4人の女性たちは皆、スキャンダラスな女性ばかりである。 キリスト教会の説教では、罪悪の血統からでも神は無原罪のイエスを誕生せしめることができ、その救いは異邦人に対しても例外なくもたらされるーーそういったスタンスで語られる。本来ならば包み隠したくなるような部分をありのまま描くことで神の救いの恩賜の偉大さをことさらに強調した……。 本当にそうだろうか。『創世記』第38章からタマルについてまとめると次のような話になる。
確かにキリスト教的な倫理観からも、現代的な感覚からも、良妻とはかけ離れた罪深い女性のように見える。また、人をだましたり画策したりといったことは信仰とは対極的なものとされる。礼拝説教のたびに罪の女と言われ続けてきた聖書の女性たちは、霊界でどれほど肩身の狭い思いをしてきたことだろうか。 ユダヤの系図にタマルをはじめとする女性の名が残されているのは、やはりそれなりの功績を残したからではないのか。表面上は選民の血統をつなぐためのキーパーソンだったということもあろう。だが、それだけではなさそうだ。罪の血統から無原罪のイエス・キリストを誕生させるための血統転換の秘密がタマルの物語にあるというのだ。 タマルはシラといわば婚約状態の時に身ごもった。それはあたかも無原罪の宿りとされるマリヤがヨセフと婚約状態の時にイエスを身ごもったことと相通ずる。そこには失楽園におけるエバの失敗を元がえし、将来メシアが誕生するための胎中聖別をもたらした秘話が隠されていた。 |
『古事記』『日本書紀』に木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と石長比売(いわながひめ)の姉妹の話が出てくる。妹の木花之佐久夜毘売は美人で見染められ求婚されたが、姉の石長比売は醜く追い返される。天皇の寿命が短くなった原因譚ともされている。実質は二倍年暦から一倍年暦に暦が切り替わることによって、百歳を超えていた寿命が急に短くなったように見えたということだろうか。二倍年暦以前には二十四倍年暦のようなさらに異なる暦が用いられていた可能性がある。
それはさておき、聖書の中に似たような話がある。レアとラケルの姉妹の物語である。『旧約聖書』の「創世記」には多くの話が盛り込まれているが、その半ばあたりに書かれている。イサクとリベカの双子の弟ヤコブは兄エサウに与えられるはずの祝福を、母リベカの知略によって奪い取り、エサウの恨みを買って、伯父ラバンのもとへ逃れる。そこでヤコブはラバンの娘ラケルを好きになった。
日本神話「木花之佐久夜毘売と石長比売」と聖書の物語「レアとラケル」、とても似ていると思いませんか? 「何が」って、できの悪い娘を思う父親の心が、である。もちろん話の設定やストーリー展開など、差異も見られるが、よく似通っていると感じるのは私だけだろうか。 心理学者カール・ユングは、異文化間の神話に見られる類似性から、すべての人間は生まれながらの心理的な力を無意識に共有する(集合的無意識)と主張し、これを「元型」と名づけた。 身体的に劣等感を感じている姉といつも人々からチヤホヤされる可愛いらしい妹。そこには誰もが共通に陥りやすい葛藤を生じさせる状況であり、神話のストーリーとしてはうってつけだろう。 しかし、集合的無意識を持ち出さなくても、神話の時代から人々の東西交流が行われていたとしたら、神話の内容が相互に影響し合うことは有り得るだろう。ちなみに福岡県出身の木花(きばな)さんという人に会ったこともある。 私はかつて、「神話理解の三段階」という文章を書いたことがある。 ①神話をその如く信じる段階 ②神話は作り話であると否定する段階 ③神話には歴史的事実が反映されていると高次元的に解釈する段階 実際に『聖書』や『日本書紀』、ギリシャ神話などが、一度は「全くの創作にすぎない」と批判されながらも、歴史的事実を反映した内容を含んでいたことが明らかになってきている。そのような理解に立って神話研究を進めていくことで、新たな歴史的事実を解明するきっかけになることもあるのだ。 |
無教会主義の流れを汲む原始福音「キリストの幕屋」グループの人たちが「ウケヒ」という言葉を使っていたのを聞き、てっきり「受け火」の意味だと思い込んでいた。『旧約聖書』の「列王紀上」で預言者エリヤがバアルの預言者たちとカルメル山で対決するシーンをイメージしたからだった。 次のような話である。
『旧約聖書』は1300ページ以上もある。長くて読むのが大変だが、真ん中よりちょっと前あたりに「列王紀上」という書がある。その第18章からの引用である。 エジプトの地で奴隷となっていたイスラエル民族はモーセに導かれて出エジプトを果たし、約束の地カナンへ入って定着した。しかし、在地の風習に染まり本来の信仰が揺らぎつつあった時に、預言者エリヤが現れ、イスラエルの民に対して、主なる神に立ち返るよう呼びかけた。その際に持ちかけた提案がこうであった。「火をもって答える神を神としましょう」。エリヤが主の前に祈ったときに、主の火が下って、献げられたものをすべて焼きつくした。民は見て、「主こそ、神である」と告白した。 後から知ったのだが、「ウケヒ」とは日本神話にも登場し、『日本書紀』などにもいくつかの記述がある。ウケヒとは日本古代の卜占の一種なのである。『日本古典文学大系 日本書紀』(岩波書店)の頭注では次のように説明されている。 ウケヒとは、あらかじめ甲乙二つの事態を予想し、甲という事態が起れば、神意はAにあり、乙という事態が起れば、神意はBにありと決めておき、甲が起るか乙が起るかを見て、神意の所在がAにあるかBにあるかを判断すること。(下巻三九四頁、頭注九)預言者エリヤが行なったことはまさにウケヒそのものである。互いに祭壇を築き、「火をもって答える神を神としましょう」と神意がどちらにあるかを尋ねたのだ。 『上代散文 その表現の試み』(中川ゆかり著、2009年)によると、日本書紀の「ウケヒ」はそれが行われる際の状況や心理の違いによって、「誓」「呪」「祈」と書き分けられているという。三種の用法は次のとおり。 ①「誓」は、自らの潔白を誓うという情況でのウケヒ ②「呪」は、AかBかいずれか知りたいというウケヒ ③「祈」は、Aであることを願うという情況のウケヒ このウケヒを表す3種の漢語のうち、「祈」だけは漢籍や漢訳仏典に例が見出せないという。「祈」が登場するのは巻三・六・九・二八で、日本書紀区分論のβ群、すなわち日本人が書いたとされる巻々である。 エリヤが行なったウケヒは一見②「呪」のようでもあるが、③「祈」に最も近い。「主こそ、神である」ことを明らかにしたいと乞い願う情況だからである。間違ってもバアルの預言者に神意が下るなど、毛頭考えていなかったであろう。 このように見てくると、ユダヤ・キリスト教の伝統にある「祈り」こそ、『日本書紀』に「祈(ウケヒ)」として取り入れられた概念ではないだろうか。その証拠にウケヒを表す3種の漢語のうち、「祈」だけは漢籍や漢訳仏典に例がない。中国・インドの文化圏の枠を超えているのだ。 バアルの預言者たちの祭壇とエリヤが築いた祭壇とどちらが火を受けるか、その神意を問う。その行為こそが「受け火(ウケヒ)」であると思い込んだのは素人の直感であったが、『聖書』と『日本書紀』には少なからず接点があるようだ。また折りを見て紹介していきたい。 |
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