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愛宕神社の境内社・天熊社は横穴式石室古墳か?

 高知市愛宕山121に鎮座する愛宕神社(祭神:伊邪那美大神と火産霊神)は道路脇の鳥居から200段以上の石段を登る。その本殿の左手裏側、北100m程の所に「天熊社」(祭神:天熊大人)と扁額がかかっている祠がある。屋根覆いがかけられているが、巨石で造られた古墳の玄室が露出しているようだ。これは横穴式石室ではないか? 県内の古墳をいくつか見てきた経験からも、よく似ていると感じた。古墳の周りや愛宕神社参道の脇にも巨石が見られる。

 初詣の参拝客のお世話をされていた方に、その疑問をぶつけてみた。すると「ここら辺りは愛宕山古墳と言われていますが、専門家の話では山頂には古墳は造らないそうです」とのこと。確かに山の裾野を利用して古墳が造られることはあっても、山頂の古墳はあまり聞かない。
 もともとこの山は、昔は津ノ崎山と呼ばれていて、6世紀後半から7世紀前半頃、この辺りまで浦戸湾が入り込んでおり、中津という港があったという。愛宕山の北側には県内で最古の一つと言われている白鳳時代(645~710年)の秦泉寺廃寺跡が発掘調査で確認されている。また天智天皇のミササギ伝承地も存在する。

 愛宕山は標高が約40m以上あって、高知城とほぼ同じ高さであり、艮(うしとら)鬼門に当たる。この要衝の地に寛永六巳年(1624)、山城国(京都の北部)より勧請。二代藩主山内忠義公尊崇篤く、藩政期を通じて愛宕神社は隆盛を極めた。さらに境内には杉尾神社(祭神:大物主神)、愛宕水神社(祭神:水速能女神・御井神・忍雲根神)も祀られている。
 ブログ「南国土佐へ来てみいや」のオンチャンさんが、愛宕山全体が前方後円墳ではないかとの大胆な仮説を出されている。その根拠として、他にも山上に前方後円墳が実在する例として、愛媛県西予市の笠置古墳を示している。3世紀半から4世紀前半頃に築造された西南四国最古の前方後円墳とされ、自然の地形を利用した原初的タイプの古墳であるとしたら……。昨年、卑弥呼の墓かと騒がれた福岡県田川郡赤村の前方後円墳らしきものーー専門家は自然の地形にすぎないと否定的だが、既成概念に囚われず、可能性をしっかり検証してみてもよいのではないだろうか。
   いずれにしても愛宕山を含むこの一帯は古墳地帯であり、古代において秦泉寺地区は土佐国土佐郡の中心地であったことは間違いない。単なる初詣のつもりが、新年早々2019年の研究課題を提起させられた一時であった。


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【2019/01/04 17:23 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
『芸西村史』に見る坂本神社の式内社論争

 土佐国(高知県)に21社ある延喜式内社のうちの一つ、坂本神社については『芸西村史』(芸西村史編纂委員会編、昭和55年)によくまとめられている。坂本神社といっても南国市の坂本龍馬を祀る神社とは違うので、お間違えないように。

 安政二年の丙辰の年和食村金岡上にある神社の再建の際、社殿の横梁の所に「奉造立坂本権現慶長十三年孟夏吉日大工小助」と誌されてあったので神主松本越前正純明がこれを見て大いに驚いたというのである。早速、彼は延喜式に見られる坂本神社がこれだとして藩当局に届けた所、藩庁もまたここに坂本神社を造営することを許可してくれた。このことにより、和食の金岡にある宇佐八幡宮の境内に、坂本神社が再建されたのである。この坂本神社にしても近世初頭に「坂本権現」として明記されたものが唯一の手がかりであり、これだけで古代の式内社がここに鎮座していたというのはどうであろうか。ただ、最初から多気神社と坂本神社とは併座していなかったことは、延喜式の「神名帳」をひもとくと別々に記載されていることでもわかる。それに、併座されていれば「何々神社二座」、「三座」などというように記載されているからである。「式内社」を考える場合には、その神社を祭っている有力豪族を併せて考える必要があると思う。そうなると、安芸郡東部に室津神社、中部に多気神社、それに西部に坂本神社があったと推測することの方が自然なのではなかろうか。


 現在、坂本神社の祭神葛城襲津彦命は和食の東の小丘にある宇佐八幡宮内の西端に小さな祠に祭られている。「神社明細帳」に「往昔和食村住筒井氏者同村字権現谷ト云所ヨリ爰ニ奉移ト云々」といわれているように、もと和食内に権現谷という所にこの神社があったが、筒井氏が後に和食の金岡山に移したというのである。続けて「天正十七年己丑三月三十日和食郷本村地検帳ニ権現領凡壱町四拾代五歩余御直分ト有之」とも記されている。


 安芸郡奈半利町乙中里に多気坂本神社(だけさかもとじんじゃ)があり、境内には多気神社と坂本神社の二社相殿の社殿がある。もともと別の神社で、いずれも延喜式内社に比定されているが、いつ合併されたのかは不詳。慶長9年(1604年)4月の棟札に「嶽大明神坂本大明神」とあることから、遅くとも江戸時代初期には今の状態だったという。
 もともと近くにあったとする奈半利説では、六丁(約600m)ほど南から坂本社が移つたとする伝承があるが、式内社が二社近接して存在していたとするのは疑問との指摘もある。


 和食村(現・芸西村)での「坂本権現」の墨書銘発見により、藩庁はこの権現社を式内社「坂本神社」と認定した。現在は芸西村和食の金岡山の宇佐八幡宮内の西端の小さな祠に祭られている。
 『奈半利村史考』(安岡大六著、1953年)によると、「坂本神社は和食村鎮座となった」との藩庁の認定に伴つて御神体も奈半利村から和食村へ移され、憤慨した奈半利村の若者たちが取り返しに行く話まで出ている。明治四年(一八七一年)のことである。それから事の次第を詳細に届出て、先方より異議申立がなかったため、明治五年十一月七日、坂本神社は奈半利村へ取りきめになったと通知があった。だが、調査のため御神体を県庁へ差出し、後にかえってきたのは元と異なっていたと伝えられる。

 式内社の坂本神社がどこに鎮座していたかは重要な問題であるが、坂本神社の祭神が、一元史観によって推定されている葛城襲津彦命で本当に良いのか? これがもう一つの坂本神社問題である。この件については、機会を改めて考察してみたい。

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【2019/01/03 11:10 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
吾川郡いの町の八代八幡宮と奉納歌舞伎


ダイドードリンコスペシャル


「いなきさんのスピリット
 〜八代青年奉納歌舞伎〜」


12/2(日)14:30~15:24


 KUTVテレビ高知で放送されていた番組をチラッと見て、「もしや、いの町枝川の八代八幡宮では?」と思ったら、その通りであった。「コウラ」地名を探し回っている時に立ち寄った神社である。気になっていたが、まさかテレビで紹介されるとは……。
 まずはホームページ「ダイドー祭りドットコム2018」の案内文を見てみよう。


 高知市との境に位置する吾川郡いの町の八代地区。わずか100世帯が暮らすこの小さな集落で、約300年にわたって継承されている「八代青年奉納歌舞伎」。八幡宮には、国指定の重要有形民俗文化財に指定されている回り舞台があり、毎年11月5日に、芝居好きの氏神様のために歌舞伎が奉納されています。役者を務めているのが20代〜30代で構成される地域の青年団。彼らには、かつて土佐地芝居で女形として舞台に上がっていた「いなきさん」の教え・心得が、今も脈々と受け継がれています。数少ない農村歌舞伎を今に残す若者たちの奮闘ぶり、さらには祭りを継承する難しさ、楽しさとは? そして「いなきさん」が後世に残した“大切な何か”を描きます。

 「いなきさん」というから、てっきり「稲置」を連想したが、歌舞伎の大先輩である水田稲吉さんのことだった。また、八代(やしろ)地区というと、熊本県の八代(やつしろ)市や歌手の八代亜紀を思い出す。
 そもそも八代は神社の社(やしろ)が語源であるとも言われている。八代市妙見町にある八代神社(祭神:天之御中主神、國常立尊)は、妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さんとも呼ばれ、福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つとされる。また、八代妙見祭は八代地方において最大の祭礼行事で、もっとも古い祭礼の記録は相良氏が支配していた時代の記録である『八代日記』の1515年(永正12年)に記述がある。
 高知県において天之御中主を祀る妙見は、明治初年の神仏分離令及び名称変更の達しにより星神社に改称された。『鎮守の森は今』(竹内壮市著、2009年)によると、高知県内の星神社は54社を数える。

 閑話休題、吾川郡いの町枝川になぜ八代地区があり、八代八幡宮が存在するのだろうか。なぜ数百年以上も奉納歌舞伎が継承されてきたのか。演目の中では「大黒踊り」がより古くからあるものと伝えられ、『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)「寺子屋」の段も演じられる。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描くストーリーである。
 ここにも何か九州とのつながりを感じさせる伝統が息づいているように感じられた。

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【2018/12/11 01:27 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
荒倉神社秋季大祭2018

 11月11日(日)、荒倉神社(高知市春野町弘岡中1113)の秋季大祭が行なわれた。昨年から復活した浦安の舞も地元の小中学生によって舞われ、春野高校の生徒たちも獅子舞や神輿担ぎで参加した。ここの御神輿は八角形になっているのが特徴である。

 さて、この荒倉神社については過去に何度か取り上げた。「春野昔ばなし」に御神体は北向きという言い伝えがあって、御神体北向きは徳島県美馬郡轟の天都賀佐比古神社だけではないということをさも知ったかのように紹介したが、広谷喜十郎氏が荒倉神社の宮司さん(先代の吉良さんであろうか)に確認したところ「そんなことはない」と否定されたということが『土佐史の神々 第二集』(平成17年)に記されていた。
 私もお祭り終了後、質問してみた。御神体の扉は「開けるべからず」とされており、現在の新川宮司は直接は見ておられないようだったが、「外を向いているはずはなく、南向きであろう」とのことであった。この点については私の早とちりだったかもしれない。

 ところで、安芸郡の安田八幡宮などでも御神体が厨子に納められており、「古来より之を開かず」とされている。荒倉神社は約1300年前、安田八幡宮もそれに勝るとも劣らない歴史の古さがある。にもかかわらず「延喜式内社」には含まれていない。
 もしかしたら、九州王朝につながりを持つ秘密が隠されているのではないだろうか。九州年号「勝照二年(586年)」始鎮の小村神社もやはり式内社となっていない。荒倉神社の神紋には小村神社と同様「五七の桐」が使われている。

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【2018/11/11 16:37 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
語源不明な土佐神社の「志なね祭」
  高知の夏祭りを締めくくる一宮・土佐神社の志那祢(しなね)祭は、高知の神祭として歴史と伝統ある祭りとされている。その由来や語源について調べてみたいと思っていたが、材料不足のためまだ手つかずのまま。
 とりあえず身の周りの高知県民に「しなね様」について聞いてみたが、大半が「知らねー」との答え。高知の夏は「輪抜け様」に始まり、「よさこい祭り」で絶頂を迎え、「しなね様」で終るとも言われる。
 高知市の『志那袮祭』は土佐三大祭りの一つ(他は中土佐町の『久礼八幡宮秋季大祭』、仁淀川町の『秋葉祭り』)であるが、意外にも知らない人が多かった。ローカル色の強いお祭りだということか?
 今年(2018年)のスケジュールをパンフレットから紹介しておく。
8月24日(金)宵祭り
20:00  神事 宵宮(参列自由)
21:00  悠久の舞(巫女四人舞)
22:00 悠久の舞(巫女四人舞)
●夕刻より夜店が多数出店します。
8月25日(土)大祭・御神幸
10:00 神事 大祭(参列自由)
13:00  鼓笛隊マーチ(一宮幼稚園園児)
15:00 神事 神幸祭
16:00 神輿巡行
16:30 お旅所祭
17:30 還幸祭
●古式神事が雅楽の調べとともに行われます。
ぜひ、ご参列ください。※夜店はありません。
土佐神社(高知市一宮しなね2-16-1)
 土佐神社は、土佐の総鎮守で、460年の創建と伝えられている。本殿、幣殿及び拝殿は長宗我部元親、鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)の建立で、これらは国の重要文化財に指定されている。御祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、一言主神(ひとことぬしのかみ)。
 『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
志那祢の語源
 土佐神社の公式ページによると「旧暦七月三日の祭です。しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲(しいね)がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等があります」とのこと。
 「しな~」を「支那」との関連で説明しようとする説はあまり聞かない。本来「支那」には蔑称の意味はなかった。元々、中国固有の地名として存在するからである。「支那」を蔑称とするのは、戦争による憎み合いの副産物として生まれた負の感情によるものだろう。もしかしたら中国からの渡来系の神々が、かつては尊敬の念を持って「しな~」と呼ばれていたかも知れない。一考の余地はあるのではないか。
 24日は宵宮。参道にたくさんの屋台が出て、境内では神楽や太鼓等が奉納される。
 25日の午後3時から、御神幸(おなばれ)が行われる。この御神幸は日中にもかかわらず明かりをともした松明を持って行く。昔、浦の内(現須崎市)の鳴無(おとなし)神社への御神幸の帰りに風雨が強くなったため、磯伝いに帰っていると、途中、狼に襲われ、とっさに松明を振りかざし、狼を追い払った古事に基づくそうだ。
 現在では、浦の内の鳴無神社まで御神幸に行かず、江戸時代に五台山の北西の麓に土佐神社離宮(小一宮・こいっく)という御旅所が設けられ、船渡御しをするようになった。明治13年、現在の一本松にお旅所を建立して、徒歩で御神幸が行われるようになり、「船上がりの御祝儀」と呼ばれている。
 鳴無神社や土佐神社離宮までの御神幸は行われなくはなったが、土佐神社で志那祢祭が行われる8月24日、25日は両神社の志那祢祭の日でもある。特に、鳴無神社では25日の午後は浦の内に大漁旗をなびかせた船を浮かべて勇壮な御神幸(お船遊び)を行っている。

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【2018/08/24 23:27 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
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