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荒倉神社秋季大祭2018

 11月11日(日)、荒倉神社(高知市春野町弘岡中1113)の秋季大祭が行なわれた。昨年から復活した浦安の舞も地元の小中学生によって舞われ、春野高校の生徒たちも獅子舞や神輿担ぎで参加した。ここの御神輿は八角形になっているのが特徴である。

 さて、この荒倉神社については過去に何度か取り上げた。「春野昔ばなし」に御神体は北向きという言い伝えがあって、御神体北向きは徳島県美馬郡轟の天都賀佐比古神社だけではないということをさも知ったかのように紹介したが、広谷喜十郎氏が荒倉神社の宮司さん(先代の吉良さんであろうか)に確認したところ「そんなことはない」と否定されたということが『土佐史の神々 第二集』(平成17年)に記されていた。
 私もお祭り終了後、質問してみた。御神体の扉は「開けるべからず」とされており、現在の新川宮司は直接は見ておられないようだったが、「外を向いているはずはなく、南向きであろう」とのことであった。この点については私の早とちりだったかもしれない。

 ところで、安芸郡の安田八幡宮などでも御神体が厨子に納められており、「古来より之を開かず」とされている。荒倉神社は約1300年前、安田八幡宮もそれに勝るとも劣らない歴史の古さがある。にもかかわらず「延喜式内社」には含まれていない。
 もしかしたら、九州王朝につながりを持つ秘密が隠されているのではないだろうか。九州年号「勝照二年(586年)」始鎮の小村神社もやはり式内社となっていない。荒倉神社の神紋には小村神社と同様「五七の桐」が使われている。

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【2018/11/11 16:37 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
語源不明な土佐神社の「志なね祭」
  高知の夏祭りを締めくくる一宮・土佐神社の志那祢(しなね)祭は、高知の神祭として歴史と伝統ある祭りとされている。その由来や語源について調べてみたいと思っていたが、材料不足のためまだ手つかずのまま。
 とりあえず身の周りの高知県民に「しなね様」について聞いてみたが、大半が「知らねー」との答え。高知の夏は「輪抜け様」に始まり、「よさこい祭り」で絶頂を迎え、「しなね様」で終るとも言われる。
 高知市の『志那袮祭』は土佐三大祭りの一つ(他は中土佐町の『久礼八幡宮秋季大祭』、仁淀川町の『秋葉祭り』)であるが、意外にも知らない人が多かった。ローカル色の強いお祭りだということか?
 今年(2018年)のスケジュールをパンフレットから紹介しておく。
8月24日(金)宵祭り
20:00  神事 宵宮(参列自由)
21:00  悠久の舞(巫女四人舞)
22:00 悠久の舞(巫女四人舞)
●夕刻より夜店が多数出店します。
8月25日(土)大祭・御神幸
10:00 神事 大祭(参列自由)
13:00  鼓笛隊マーチ(一宮幼稚園園児)
15:00 神事 神幸祭
16:00 神輿巡行
16:30 お旅所祭
17:30 還幸祭
●古式神事が雅楽の調べとともに行われます。
ぜひ、ご参列ください。※夜店はありません。
土佐神社(高知市一宮しなね2-16-1)
 土佐神社は、土佐の総鎮守で、460年の創建と伝えられている。本殿、幣殿及び拝殿は長宗我部元親、鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)の建立で、これらは国の重要文化財に指定されている。御祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、一言主神(ひとことぬしのかみ)。
 『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
志那祢の語源
 土佐神社の公式ページによると「旧暦七月三日の祭です。しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲(しいね)がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等があります」とのこと。
 「しな~」を「支那」との関連で説明しようとする説はあまり聞かない。本来「支那」には蔑称の意味はなかった。元々、中国固有の地名として存在するからである。「支那」を蔑称とするのは、戦争による憎み合いの副産物として生まれた負の感情によるものだろう。もしかしたら中国からの渡来系の神々が、かつては尊敬の念を持って「しな~」と呼ばれていたかも知れない。一考の余地はあるのではないか。
 24日は宵宮。参道にたくさんの屋台が出て、境内では神楽や太鼓等が奉納される。
 25日の午後3時から、御神幸(おなばれ)が行われる。この御神幸は日中にもかかわらず明かりをともした松明を持って行く。昔、浦の内(現須崎市)の鳴無(おとなし)神社への御神幸の帰りに風雨が強くなったため、磯伝いに帰っていると、途中、狼に襲われ、とっさに松明を振りかざし、狼を追い払った古事に基づくそうだ。
 現在では、浦の内の鳴無神社まで御神幸に行かず、江戸時代に五台山の北西の麓に土佐神社離宮(小一宮・こいっく)という御旅所が設けられ、船渡御しをするようになった。明治13年、現在の一本松にお旅所を建立して、徒歩で御神幸が行われるようになり、「船上がりの御祝儀」と呼ばれている。
 鳴無神社や土佐神社離宮までの御神幸は行われなくはなったが、土佐神社で志那祢祭が行われる8月24日、25日は両神社の志那祢祭の日でもある。特に、鳴無神社では25日の午後は浦の内に大漁旗をなびかせた船を浮かべて勇壮な御神幸(お船遊び)を行っている。

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【2018/08/24 23:27 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
天都賀佐彦神社②ーー徳島県美馬市美馬町西荒川

 もう一つの天都賀佐彦(あまつかさひこ)神社が美馬市美馬町轟の天都賀佐比古神社より西方、同市美馬町西荒川の小高い岡の上にある。厳密に言うと「比古」と「彦」の漢字が違う。同一町内に同一の神社が存在することによる混乱を避ける配慮もあるのだろうか? 祭神も微妙に違っており、例祭も一日違い(1人の宮司さんが複数の神社を兼任しているためであろうか)になっている。

 集落の路地を入って行き、民家に紛れて見つけにくかったが、何とかたどり着いた。木の鳥居に木彫りの扁額。旧無格社であるから、このようなものかもしれないが、『美馬町史』(美馬町史編集委員会、1989年)によると、鎮座している場所が古墳群であったことが推測でき、廃瓦の出土もあって、轟の天都賀佐比古神社に勝るとも劣らない古い歴史を持っていることが伺える。
 境内には五角柱の石碑があり、五柱の神様の名が刻まれている。「天照皇大神・倉稲魂命・埴安姫命・少彦名命・大己貴命」――この後、徳島県の神社では、このややいびつな五角柱を何度も目にすることになる。

 主祭神は「級長戸辺(しなとべ)命」とされており、『古事記』『日本書紀』によって風の神とするのが一元史観の解釈である。土佐国一宮である土佐神社の夏祭り「しなね祭(しなね様)」の語源についても諸説ある。風の神・志那都比古に結び付ける説もあるが、全国的にも「しな〜」を冠する名前はいくつか見られる。多元史観による解釈の必要があるのではないだろうか。

 今回も『美馬町史』から関連するところをそのまま引用させていただく。
 
天都賀佐彦(天都賀佐比古)神社(旧無格社)
所在地 美馬町字西荒川四八番地ノ一
主祭神 級長戸辺命
例 祭 十月十九日
境内地 二四〇・七坪
主要建物 本殿・拝殿
氏 子 四五戸
〔沿 革〕
西荒川中央部、四方を人家に囲まれた中に在る。本神社については『阿波志』に「延喜式亦小祀と為す重清村荒川里に在り或は西岡宮と称す老樹叢生頗る閑寂たり祠畔小塚三あり又廃瓦あり古色鬱然往々地を穿て黒玉、塗金環、塗銀環及び銅器等を得、舊神戸あり天正中兵燹に罹る或は曰く其主級長戸辺命也と神代紀に言ふ伊弉諾尊曰く吾生む所の国唯朝霧ありて薫満つ哉、及ち吹き揆ひ気化する神號を級長戸辺命と曰ふ亦は級長津彦命と曰ふ是風神也」とあるが、この天都賀佐毘古神社については古来異見があるが、上述の如く『阿波志』はこれを本神社に比定している。そして郡里、轟の天都賀佐毘古神社についても、延喜式内社である可能性を一説として参考に挙げている。
字西荒川方面の住民を氏子としている。十月十九日の祭礼には、氏子は十月十五日の八幡祭りに続いて同社の祭礼をも行い、神恩感謝の一日を過ごしている。
戦前は神輿も部落をまわっていたが現在は出ていないようである。

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【2018/08/10 22:33 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
天都賀佐比古神社①ーー徳島県美馬市美馬町轟
 「徳島県美馬市にある天都賀佐比古(あまつかさひこ)神社を調査してほしい」との依頼が以前あったものの、徳島県に行く機会もなく日が過ぎていた。やっとお盆休み(というよりよさこい祭り休み)に入って、岡山県に行く用事ができた。ついでにといっても、かなり寄り道になるが、頼まれていたことを優先しようと坂出から高速を降り、讃岐山脈を越えることにした。

 徳島県美馬市に入って天都賀佐比古神社を検索すると、意外にも2か所ヒットして少し戸惑った。美馬町轟にあるほうが、鳥居・社殿等が立派で、立地も開けた中心部に近いところにあり、見つけるのが容易であった。こちらが本命であろうか。境内に入って右手、神社由来記の石碑にも「6世紀以前の創建と思われる」とし、かつての鎮座地に近い郡里(こうざと)には白鳳時代の廃寺跡(法起寺式、12弁蓮華文軒丸瓦が出土)もあって、大和朝廷以前の歴史を持つ可能性が見える。
 今回はあまり主観を交えず、客観的なリポートにしたいので、『美馬町史』(美馬町史編集委員会、1989年)からそのまま引用しておく。

天都賀佐比古神社(旧村社)
所在地 美馬町字轟三二番地
主祭神 級長津彦命・級長津姫命
例 祭 十月二十日
境内地 五九八坪
主要建物 本殿・弊殿・拝殿・神庫
氏 子 八一戸
宗教法人設立 昭和二十八年四月十五日
〔沿 革〕
川原部落の西端、轟谷の東側に位置し、阿讃の山々を背景に、郡里ジマの沖積地が眼前に開ける景勝の地に建っている。この社はもと現在地の約二〇〇㍍西、字高畠にあり、創立年代は明らかではないが、延喜式内社としての天都賀佐比古神社に比定されており、既に平安初期から尊信を集めていたようである。
境内中央北寄りに本殿・弊殿・拝殿が南面して建てられ、正面入口には大鳥居、その北側に狛犬、灯籠等が両側に並び立っている。
古くから「轟さん」と呼ばれて、旧郡里里分の総氏神として崇敬され、風の神として知られる。『阿波志』には「天都賀佐毘古祠 郡里村宗重名に在り、或いは轟宮と称す。天正年中(一五七三~九一)兵燹に罹り、いまだ旧制に復せずと雖も結構頗る大、連松繁苑或は曰く延喜式所載是也と…(後略)」とある。
十月二十日の秋祭りには、喜来、中山路、宗重、川原町の各氏子から、屋台、勇台を繰り出し神輿渡御の行列に加わり、数十に及ぶ練り物で行列は一大豪華を極めていた。しかし大正年間よりしだいに祭りも簡素となり、現在は川原町部落八一戸の氏神として祭礼が行われるのみとなっている。
なお、昔からの言い伝えとして、この神前を乗馬で横切ったり、頬かむりで通ると、勢いよく投げ出され、また前の吉野川を西上する舟が帆をかけたまま通ると転覆するといわれた。それでこのような災難を避けるため、御神体を北向きに鎮座してあるといわれ、古いお守札には「日本一社北向鎮座」と記されている。
なおこの社の神職として記録に残る古いものでは、寛永十八年二宮権頭が奉仕しており、それより代々二宮氏が神職として仕え、二宮正芳に至っていたが、昭和五十六年以降は加藤熊男が奉仕している。(以上、引用終り)

 さて、御神体が北向きというのは確かに珍しいが、高知県にも似たような話がある。高知市春野郷土資料館のHPに掲載されている荒倉神社の昔話である。県外のことを知って、県内のこともよく理解できるというもの。井の中の蛙になってはいけない。

はるの昔ばなし「ご神体は北向き」


(前略)……
 二代目藩主山内忠義公は狩が好きで、たびたび各地の狩猟場へ出掛けました。ある年、側臣や勢子を多数連れてこの荒倉山に来ました。この日は獲物がたくさんあり、忠義公はたいそうごきげんでありました。さっそくこの神社の馬場先で獲物を料理しました。ところがその肉はなんぼ煮ても軟かくなりません。煮ても煮ても煮えないというわけです。
 家来たちは「これは神前をけがしたからではないか。」と話し合っていました。忠義公はこれを聞いて「領内のことはすべて藩主の意のままになるものだ。気に食わねばご神体を北向けにしておけ。」と言われました。
 このことがあってから、荒倉神社では、社殿は南向きでもご神体は北向きにしてお祀りするようになったといわれています。
 土佐には大小五千近い神社があり、その大方は南向きで、東向き或は西向きのものも少しありますが、荒倉神社のように社殿に対してご神体が反対向きというのは例がないようです。

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【2018/08/09 21:25 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
6月30日は輪抜け様
「輪抜け様 友の耳には イヤリング」

 かつて横浜中学校の生徒が詠んた俳句にとても感銘を受けた。毎年、6月30日には高知県下の主だった神社で輪抜け様というお祭りが行なわれる。境内に備えられた大きな茅(ちがや)の輪を左回り、右回り、左回り(女性は逆回り)とくぐり抜けて、半年間の穢れを祓いのけてもらうそうだ。
 これは古事記の上巻の天の御柱めぐりの段でイザナギの命は左より、イザナミの命は右から廻ったとの故事にならったとのこと。ただし、高知市内は男女とも左→右→左で統一しているようだ。

 輪抜け様の巨大な茅の輪と友の耳にぶら下がる小さな金属のイヤリングーーこのコントラストが絶妙だと思いませんか?
 さて、輪抜け様というのは高知県だけのことかと思っていたら「茅の輪神事」という名で自らの罪穢れと社会の罪穢れを祓い去る大祓として、6月30日(夏越の大祓)と12月31日(年越の大祓)に全国の神社で斎行される行事で、歴史は古く、大宝元年(701)に撰修された大宝律令には正式な宮中の年中行事として定められている。
 現在でも宮中では、大祓の儀に先立ち、天皇御自ら「節折(よおり)の儀」により御身を清められるという。この儀式は、背丈をはじめ御身五か所の長さを測った9本の竹の節を折る、天皇ご自身のお祓いである。

高知市内の輪抜け様実施神社一覧

潮江天満宮  高知市天神町19-20

若宮八幡宮  高知市長浜6600
小津神社  高知市幸町9-1
薫的神社  高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社  高知市大津乙3199
高知大神宮  高知市帯屋町2丁目7−2
土佐神社  高知市一宮しなね2丁目16−1
出雲大社土佐分祠  高知市升形5-29
石立八幡宮  高知市石立町54
清川神社  高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮  高知市福井町917
本宮神社  高知市本宮町94
多賀神社  高知市宝永町8−36
仁井田神社  高知市仁井田3514
朝倉神社  高知市朝倉丙2100−イ
郡頭神社  高知市鴨部上町5−8

 土佐市在住の人に聞くと、土佐市では輪抜け様はやっていないとのこと。高知市以外では以下の神社などで行なわれる。今年はあいにくの雨。

椙本神社 吾川郡いの町大国町
八王子宮 香美市土佐山田町北本町2
新宮神社 南国市十市新宮山



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【2018/06/30 08:45 】 | キリスト者の神社参拝 | 有り難いご意見(0)
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