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秦泉寺廃寺は九州王朝系の寺院か?

 高知市秦泉寺には古代寺院があったとされ、「古代の巨刹であった」と地元古老により永く伝えられてきた。昭和15年に重孤文軒丸瓦が発見されたことにより、物証も出て本格的な調査が始まった。高知市文化財調査報告書第5集『秦泉寺廃寺跡 ー第3次調査ー』(高知市教育委員会、1984年)には、昭和58年3月12日〜4月21日の間に行われた高知市中秦泉寺字鷹通54番における発掘調査の記録がある。古墳時代〜奈良・平安時代の遺物が出土しており、柵列遺構は磁北に対してやや西よりの方向で配列。
 出土した瓦は軒丸瓦(素弁蓮花文3・単弁蓮花文1・複弁蓮花文1)・軒平瓦(重孤文6)・丸瓦・平瓦・鬼瓦(破片で3片)など。

 素弁8葉蓮花文軒丸瓦の1つは、周縁が素文縁であり、花弁に稜を有する。肉付けのある花弁に稜線を有し、花弁端は丸味をおびて反転している。中房には、13個の蓮子をもち、中房径4.5cm・周縁での径15.7cmを測る。
 かつては浦戸湾が秦泉寺の南まで入り込んでいて中津という古代の港があり、愛宕山など後背地には、6世紀後半〜7世紀前半の古墳が十か所余り確認されている。
 『阿波国徴古雑抄』に収録されている、乾元二年(一三〇三年)の『那賀郡木頭村伊瀬権現夢想旧記』に「土州秦泉寺」と出てくる。これが「秦泉寺」という地名を最初に紹介した文献とされているが、明確に地名として表わされるのは、永禄年代(一五五八~六九年)の史料や、天正十六年(一五八八年)の『秦泉寺郷地検帳』などになる。土佐で古くから開けていた地域の1つであったことは間違いなさそうだ。

 結論として「本寺院の創建時期は、7世紀後半、白鳳時代におかれるものと考えられ、高知県最古の古代寺院の1つとして捉えることが可能だと思われる」と締めくくられている。最古の古代寺院の1つとしているのは、高知市春野町西分の大寺廃寺跡からも同笵と見られる軒丸瓦が出土しており、共に最古級と考えられるためである。
 ONライン(701年)以前の創建であることから、いずれも九州王朝系の寺院と考えてもいいのではないだろうか?

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【2018/11/01 07:45 】 | ゴミ屋さんから仏教伝来 | 有り難いご意見(0)
『北鑑』による日蓮「龍ノ口の法難」の真相
 龍口刑場跡に建立された龍口寺神奈川県藤沢市片瀬−13−37)のホームページによると、次のように説明されており、これが日蓮上人の「龍ノ口の法難」に関する一般的な伝承とされる。

 鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、様々な脅威に包まれていました。それらを憂えた日蓮聖人(1222~1282)は、『立正安国論』を著し、幕府に奏上しました。
 しかし、幕府はこれを政策への中傷であると受け止め、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人を捕らえ、斬首するために、刑場であったこの地、龍ノ口へ連行したのです。
 翌13日子丑の刻(午前2時前後)、土牢から引き出された日蓮聖人は、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らされ、評定の使者も待たず、あわや斬首になるときでした。
 「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)、斬首の刑は中止となりました。
 龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人をおいておらず、爾来、この出来事を「龍ノ口法難」と呼び習わしています。 

          <http://ryukoji.jp/>

『うちのお寺は日蓮宗』(藤井正雄監修、1997年)

 一方、『北鑑』第46巻によると、

 それより地頭東條景信に請はれ、鎌倉に庵居し、日夜、法華經を誦し、辻に説法して巡り、文應元年、立正安国論を北條時賴に請上して忿怒を招き、伊豆伊東に流罪されしも、同三年、赦され鎌倉に歸りて諸宗の否を罵りて、土牢に幽せられ、文永八年、龍ノ口にて斬首の刑に蒙らんとせるも、陸奥の安東船なる龍飛十郎兼季の船出に不吉とて願ひあり、斬首を免じ、佐渡に配流さる。

 徳のある僧を斬首すれば、船出にあたって不吉であると思い、船乗り達が刑の免除を願い出たというのだ。この話は古田武彦氏が講演中で語られており、東京古田会の副会長に確認したもので、その出典が上記の内容と思われる。
 どちらの話がより原初的であるかは、一概には判断しかねる。普通に考えると『北鑑』の記述が事実に近く、後に奇跡譚として語り伝えられるようになったのではないかと思われる。
 もちろん、そうであったとしても、決して日蓮の偉大さが損なわれるものではない。いずれにしても、この奇跡が日蓮自身の手紙に書かれているからには、何がしかの事実を反映したものということを否定し難いのではないか。
 『北鑑』第39巻には、同じ事件が次のように記されている。2つの伝承があり、先入観をもって安易に判断せず、両方を書き残し後世に判断を委ねたと見るべきであろうか?


 文永八年、龍ノ口に断罪となり斬首されんとするに、天日にわかに曇り、稲妻雷音は天の怒るが如く天切りて、刑執行の武士の振りあげたる太刀に落雷して三段に折られたり。

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【2018/10/07 20:10 】 | ゴミ屋さんから仏教伝来 | 有り難いご意見(0)
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