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 土佐市役所や市民図書館が移転して複合文化施設ができる際に、新しい施設の名称募集があった。土佐市と言えば「大綱まつり」。頭をよぎったものの、応募することもせずにいたが、決定した名称は「つなーで」であった。5つの施設機能を集約し、土佐の「ミチ文化」を活かしたという。
 去年(2020年2月22日)オープンしたばかりの土佐市複合文化施設「つなーで」で、2月6日(土)~2月23日(火祝)の期間、「土佐市の遺跡展」〈高知県立埋蔵文化財センター 主催〉が開催された。個人的に一番注目していたのは、野田廃寺の古代瓦の展示であった。写真だけでなく実物を見るという経験はやはり大切である。ドイツのシュタイナー学校でビデオ等の授業より、実体験の授業を重視する考え方もよく分かる。

 実見したところ、野田廃寺の素弁八葉蓮華文軒丸瓦は春野町の大寺廃寺の瓦(高知市春野郷土資料館に「8世紀」と書かれ展示中)と同范ではないかもしれないが、同形式である。高知市秦泉寺廃寺の白鳳瓦とも同系列なのである。これらは7世紀とすべきであり、聖武天皇の詔との整合性が合わないからといって8世紀にずらし込むべきではない。展示では単に「古代」とだけ表記されていた。
 土佐市高岡町丙野田の野田廃寺跡付近(よどやドラッグ土佐高岡店周辺か)には寺院関連の地名は見られないという。早くに退転したと考えられている。そして不思議なことに旧土佐市役所跡の地名が明官寺である。いかにも官寺があったことを連想させる。そして春野の大寺廃寺と野田廃寺を結ぶ古代官道が存在したのではないかといったことが今後の研究課題である。
 土佐市の歴史は、西鴨地徳安地区で見つかった石器(尖頭器)により約1万2千年前の縄文時代草創期にまで遡ることが分かっている。これまで行われた発掘調査で、土佐市はもとより高知県の歴史においても重要な発見が数多くあり、今回の展示会では、こうした遺跡の調査から明らかになった土佐市の歴史が紹介された。

 「ワークショップー勾玉づくりー」の影響もあってか、人気投票では「勾玉、小玉」(上ノ村遺跡)が断トツ1位。2位は青磁碗(天神遺跡)で、軒丸瓦(野田廃寺跡)と銅矛(天崎遺跡)が同率3位といったところだろうか。それらの陰に隠れてしまったが、今回の「土佐市の遺跡展」で本来、最も注目すべきは木胎漆器(居徳遺跡群)である。現代の漆職人が遠く及ばない漆の技術を縄文人は持っていたという。その証拠となるのが木胎漆器であり、最も目立つ位置に展示されていたところにも、その価値が読み取れる。残念ながら、よく見たら複製品と書かれていた。実物でなかったので、人気投票も振るわなかったのかもしれない。

 古代史の解明は空想ではいけない。出土物との整合性があってこそ、信頼できる歴史像を描くことができる。多くのインスピレーションを与えてくれた今回の遺跡展でもあった。
 

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 謎解きでおなじみの松丸亮吾さんではないが、はじめにクイズを一問。家庭教師のトライといえばアルプスの少女ハイジだが、土佐国最古の廃寺トライアングルといえば何?

 答えは、①旧土佐郡の秦泉寺廃寺(高知市中秦泉寺)、②旧吾川郡の大寺廃寺(高知市春野町西分)、そして③旧高岡郡の野田廃寺(土佐市高岡丙野田)である。中でも最古とされるのは秦泉寺廃寺であり、「有稜線素弁八葉蓮華文軒丸瓦」をはじめとする出土物がそのことを裏付けている。
 秦泉寺廃寺の創建瓦の時期は、畿内の瓦の変化との時間差も考慮すれば飛鳥時代後半の七世紀後葉~末葉以降と考えられる。各次の調査で出土した軒平瓦の文様が重孤文のみとみられることと併せると、その時期を大きく下ることはないと思われる。そして大寺廃寺、野田廃寺の軒丸瓦は本類より後出するとみられることや平瓦においては秦泉寺廃寺、野田廃寺ともに凹面に模骨痕がみられるものが普遍的にあり、基本的に桶巻作りである可能性が高いことも、この年代観と齟齬はないといえる。(『遺跡が語る高知市の歩み 高知市史 考古編』高知市史編さん委員会考古部会、平成31年)
 「畿内の瓦の変化との時間差も考慮すれば」としていることから、一元史観の影響でやや遅めの年代比定となっている感がある。ONライン(700年)以前の創建ということは間違いなさそうであるから、多元史観の視点に立てば、実際はさらに七世紀前半にさかのぼる可能性さえ見えてくる。

 春野町・大寺廃寺と土佐市・野田廃寺跡出土の軒丸瓦の文様は同型であり、秦泉寺廃寺に後続する同系瓦と見られている。一元史観の影響からか、創建年代を奈良時代と比定する向きもあるが、軒丸瓦の形式のみから判断すると、やはり七世紀の創建と推定できる。また「土佐国分寺や比江廃寺との関連を積極的に示す瓦は見当たらない」とされていることからも、長岡郡の国府跡付近(南国市)に建てられた土佐国分寺とは時代や背景を大きく分かつ。それらは当然ながら、聖武天皇の詔(741年)以前から存在し、いわゆる国分寺に先行する古代寺院であったことが分かる。
 これら3つの廃寺は通説では郡寺的な役割とされるが、そもそも土佐国はもとは4郡(安芸・土佐・吾川・幡多)しかなく、国府が置かれた長岡郡は後に分郡されたとの説もある。すなわち、元来(ONライン以前=九州王朝時代)は土佐国の中心は土佐郡だったのではないかとの見方もできる。
 野田廃寺も創建当時は吾川郡内であり、吾川郡から高岡郡が分郡されたのが9世紀であるから、同郡内に2つの古代寺院が存在したことになる。瓦の文様等に類似性が見られるのも当然かもしれない。
 大寺廃寺跡では発掘調査は行われていないが、『長宗我部地検帳』に「大寺寺中」とあることから、16世紀まではその存在が確認できる。一方、野田廃寺のほうは早くにその姿を消してしまったようで、所在地の「字白石」周辺には寺院跡らしき地名遺称が見当たらない。

 他方、秦泉寺廃寺については「秦泉寺」や「カネツキ堂」という地名遺称がその存在を現在に伝えている。それ以外にも県下には、比江廃寺やコゴロク廃寺といった古代寺院跡が確認されている。
 近年の研究によると、地方寺院は七世紀後半のいわゆる白鳳期に爆発的に増加する。『扶桑略記』には持統朝には545寺あったと記されており、全国のこの時期の寺院遺跡数はその数をはるかに上回っている。土佐国にもその1%程度の古代寺院がかつて存在しており、多元史観によってその役割や位置付けの解明が求められているのかもしれない。

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 5月3日は「ゴミの日」だとか。ところで、仏教が伝わった年を「ゴミ屋(538年)さんから仏教伝来」と日本史で習った。しかし、これには異説があって、552年とする説もあることを後で知った。これでは学生たちもどっちで覚えたらいいのか混乱してしまう。挙句の果てには「午後に(552年)、ご参拝(538年)」などと、苦し紛れの暗記法を編み出さざるを得ない。一体、どちらが正しいのだろうか。
 高校の教科書『詳説日本史』(山川出版社)P28には、「6世紀には百済から渡来した五経博士により儒教が伝えられたほか、医・易・暦などの学術も支配者層に受け入れられ、仏教も朝鮮半島から伝えられた」と書かれており、その解説として次のようなことも記述されている。
 日本にもたらされた仏教は、北伝仏教の系統に属するもので、西域・中国・朝鮮半島を経て公式に伝えられた。百済の聖明王(聖王、明王とも)が欽明天皇の時に仏像・経論などを伝えたとされるが、その年代については538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)とする説と552年(『日本書紀』)とする説があり、前者の説が有力である。ただ一部の渡来人のあいだでは、それ以前から信仰されていた可能性がある。
 『日本書紀』では欽明天皇十三年(552年)とし、通常ならば『日本書紀』の記述を絶対視しそうなところであるが、むしろ538年説が有力とされている。それは『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』などに欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとあることから、538年に当てたものだ。
 ところが、欽明天皇の治世は540~571年で、戊午の干支年が存在しない。そのため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(宣化天皇3年)が有力と考えたわけだ。だが、それ以前から仏教が信仰されている現実があることが知られており、明らかに矛盾を内包しながら、仏教伝来538年説が定説となっているのだ。専門家は逃げ道を用意しており、「一部の渡来人のあいだでは、それ以前から信仰されていた可能性がある」とし、538年は「仏教公伝」との表現を使用している。それ以前は私的な仏教受容にすぎないとしているわけだ。
 古代、三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれ各個に仏教が公伝された。高句麗へは372年。百済では、これより若干遅れて384年。残る新羅においてはさらに遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。日本への仏教伝来が6世紀というのは、隣国の情勢から考えると、あまりに遅すぎるのではないだろうか。
 干支は60年ごとに繰り返す。「戊午」が信頼できるとするなら、538年に限定する必要はない。可能性としては478年や418年の戊午年なども候補として、その整合性を検討するべきだろう。


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 これまで通説とされてきた土器編年には、一元史観による判断が入り込んでいる場合がある。つまり畿内で始まった文化が地方に伝達して普及するまでに、都からの距離に応じて50年や100年流行が遅れる。それを考慮して編年をずらすのが妥当だと判断しているわけである。
 そんな事例が『高知県史 考古資料編』(高知県, 1973年)  所収の論考「土佐国分寺古瓦に就て」(田所眉東)の中に典型的に見られる。該当する箇所を引用してみる。
◎図版番号⑹⑺は瓦当同様、それは本紙六十二号の「土佐国府址」に出した。今若し之れが畿内地方にてあれば飛鳥時代のものと見られるが、流布の時間を考へると白鳳期とせなければならん。

◎図版番号⑴
此の瓦当は却々優れたもので、之が畿内地方にあれば白鳳期であるが、土佐丈けに奈良朝とするがよいか。
……
国府小学校所蔵蓮弁古瓦は畿内地方なれば飛鳥時代のものと見られるが、流布の時間を考へても白鳳時代のものとなる。
……
土佐両国分寺は堂塔配置は不明とせなければならんが、古瓦の文様よりせば四天王寺式位か少し値下げして薬師寺式位は見て差支えないかと思ふ。土佐国分寺皷瓦に白鳳期若しくば奈良前紀の瓦が現存する。何分土佐の仏教文化は頗る古い。之れは余りに穿鑿し過ぎるが、私の知れる範囲に於ては、伊予も阿波も朝鮮式の文様が奈良末期や平安初期に散見するに、土佐は平安中期に現出して居る。一期遅れた国分寺の衰頽も平安期に萌して居る故に、以前程に其の刺戟も僅少であるから、その結果と考へば茲に交通不便といふ其の影響を認められまいか。而して土佐の仏教文化考察する場合は、伊予小松の法安寺を等閑に附せられん。更に土佐の古代文化を石器時代=金石併用時代=古墳時代と仏教文化と見合せば特別の事情のなき限りは、郷土研究も地理的考察を第一条件に置かなければならんかと考へる。(土佐史談第六拾五号)

編者注
徳島県の学者田所眉東氏の土佐国分寺および尼寺説である。面白い立論をされているが、瓦の編年に問題がある。

 物証だけを見れば飛鳥時代とされるようなものが、流布の時間を考えて白鳳期と判断されている。同じ様式のものでも、地方であるから畿内より50年程度繰り下げて評価をしているわけである。九州に至っては100年のずれを当てはめる場合さえあるようだ。それがさも正当に見えて、実際は土器編年のずれによって、編年の空白が生じる事例も見られる。南九州の成川式土器などはその典型的な例で、編年の空白を埋めるために修正案が出されたりもしている。


 烏古瓦〔和名フルカワラ〕について、『本草紀聞』は次のように述べている。「筑前太宰府ノ都府楼ノ瓦古キ也。其レヲ後世地中ヨリ掘出スコトアリテ、硯ナトニスル也。至テ瓦堅ク瓦モ大也。日本ニテモ此太宰府ノ瓦第一ニ古シ。次に大和ノ奈良橘寺・元興寺ナトノ瓦、凡千有余年ニナルト云。其形布目、又ハ一々字アルモアリ」と。一番古いのは太宰府の瓦だと言っているのだ。これが先入観なしの率直な判断であろう。
 とりわけ700年以前においては、九州王朝が倭国の主権を握っていたとすれば、九州から近畿へという文化のベクトルを考えるのが自然であり、その時代に一元史観による近畿から九州へという逆のベクトルを当てはめようとすると相当のゆがみが生じてくるのは当然だ。
 高知県における空白の5世紀問題も実
は、"一元史観による地方の編年50年ずれ"が大きく影響しているのではないかと以前から考えている。



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 讃岐・伊予・阿波の三か所の国分尼寺は確定され、国や県の史跡となっているが、土佐国分尼寺は未だに確定されていない。最新の説も含めてその候補地を検討してみよう。これまで最も有力とされてきたのは比江廃寺であるが、他に野中廃寺、谷地山法華寺、そして新たな候補地として笠ノ川西村が比定地に挙げられている。

①比江廃寺説(南国市比江字土居屋敷)

 塔の心礎だけしか残っていないが、白鳳時代(645~710年)の古瓦も出土する廃寺。出土の鐙瓦は、複弁蓮花文、単弁蓮花文の両種、宇瓦は、忍冬唐草文、重弧文などの文様がある。その他鬼瓦、鴟尾の断片も発見されており、伽藍配置は法隆寺式と考えられ、古瓦の散布状況から廻廊はなかったと推測されている。 塔の心礎の穴の直径81センチ。「柱の直径を四十倍すると塔の高さが出る」という考古学の定説に従うと、32.4メートルほどの五重の塔であったと推定される。
 塔以外の建造物の礎石は、藩政期に国分川の改修に用いられ残っていない。国分寺ができる以前の白鳳時代の寺院であるが、『長宗我部検地帳』に記載のある「アマシヵウチ」という小字名が寺域内にあることから、国分尼寺として代用された可能性があるという。


②野中廃寺説(南国市野中字仁尾603)

 『南路志第二巻』に「篠原村 鐘楼堂跡 坂折前田中 寺號不知。此所より古瓦出る、礎石も有る也。龍按ニ、此所国分尼寺の跡成へし」(P326)とある。また、P345では国分尼寺について、次のように考察している。
國分尼寺〔古跡未知 續日本紀曰、天平十一年己卯、天皇ノ后光明皇后、六十余州ニ國分尼寺建立。〕
龍按に、當郡篠原村〔坂折山前〕里人鐘楼堂といふ跡有、大成礎石残れり。寺号不知、唯鐘楼堂の跡也と云傳。此大成礎石を、文化四年土人砕きて皆田地に開きし也。此所より古瓦出る。予も拾いて藏めたり。其形國分寺并比江村より出る瓦と同し。按ニ、此鐘楼堂跡ハ古ヘの國分尼寺成へし。幽考に、高岡郡谷地山法華寺を宛て國分尼寺とする説、恐ハ不足。如何となれハ、其国府に建る故俗國府寺とも唱ふ、諸國も又同し。此國ハ長岡郡其國府也。篠原村ハ國分寺より南纔に一里を隔て、供に府たるへし。又淵岳志に云、國分村のホノキに今鐘楼堂・本堂なと云所あり、國分尼寺ならんや矣。此の説も又不審し。今篠原村を指スハ、田字を鐘楼堂と云、又古瓦を出〔国分寺よりも古瓦出る〕、郡も長岡なれハ國分尼寺の跡とすへきか、尚可考。
 野中廃寺跡は国府から南方に伸びる古代官道の東側に位置し、国分尼寺比定地として有力であったが、平安時代以降の寺院跡とされ、説としてはやや廃れている。

③谷地山法華寺説(土佐市谷地)

 谷秦山の門人である安養寺禾麿は『土佐幽考』で、土佐の国分尼寺に現土佐市谷地にあった千手院法華寺を当てている。聖武天皇の詔(741年)で、僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」といい、奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺としたことからの推測だろう。説としては面白いが、禾麿自身も言っているように、国分寺との距離が余りにもありすぎるし、また寺院そのものが山岳仏教系のものである。そういう点で、土佐国分尼寺に比定するには難点がある。現在残っている仁王門の金剛力士は、県の文化財に指定されている。

④笠ノ川西村説(南国市岡豊町笠ノ川)

 『土佐史談269号』(土佐史談会、2018年11月)で「土佐国における国分尼寺ー建立地の歴史地理学的考察ー」と題する論考が朝倉慶景氏によって発表された。土佐国分尼寺比定地の最新説である。
 他県における国分尼寺の立地条件を検討した結果、共通して山際で川に囲まれたような場所であり、国府域から適当な距離の範囲であることが類推される。高知県でこの条件に合致する可能性の高い場所を探ったところ、土佐国分寺よりも西方の南国市岡豊町笠ノ川西村に辿りついた。地名遺称として「尼寺村」→「西村」との関連も見られる。
 高知新聞の楠瀬記者からも指摘があったように、筑後国分尼寺跡も僧寺跡の北約200mの西村地区に推定されており、「西」は「尼寺」の転訛ともいわれる。今後、国分尼寺比定地から古瓦が出土するかどうかが注目点となる。

 以上、土佐国分尼寺について4つの説を紹介した。ところで、741年に出された聖武天皇のいわゆる「国分寺建立の詔」には「国分寺」という言葉が1回も出てこない。それは詔が出された時点において、既に国府寺のような先行する寺院が多く存在したためではないかと考えられる。大半はそのような古代寺院が国分寺や国分尼寺に転用された可能性も見過ごせない。土佐における国分尼寺研究もそういった視点を持って、再度考察していく必要があるかもしれない。
 

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 多元的「国分寺」研究サークルや方位の考古学などで知られる「肥さんの夢ブログ」で、高知県の秦泉寺廃寺と大寺廃寺の素弁蓮華文軒丸瓦が紹介された。ついに四国に研究の手が伸びてきたというところだろうか。

 大寺廃寺跡の軒丸瓦については現在、高知市春野郷土資料館に展示されていて、年代は「8世紀」と紹介されている。同資料館のホームページには次のように説明されている。
軒丸瓦

軒丸瓦(のきまるがわら)

古代寺院跡である大寺廃寺跡〔おおでらはいじあと〕より採集されたもので、有稜線素弁八葉蓮華文〔ゆうりょうせんそべんはちようれんげもん〕がほどこされています。こうした瓦の出土事例は、高知県でも数少ないものです。
<高知県立歴史民俗資料館所蔵> 
 本来なら素弁蓮華文軒丸瓦は単弁や複弁よりも古く、7世紀とするのが通例である。それをあえて8世紀とした根拠はどこにあるのだろうか。おそらく『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)P61の記述によるものと推察する。
岡本健児氏は、仲村郷の西分付近を郡衙所在地と考えられているようである。同氏著『高知県史考古編』には、西分の大寺廃寺すなわち『長宗我部地検帳』時代なお存在した左の、
 大寺寺中
      同村 大寺寺中
 一所参代 下薬師堂床三間四面ヤシキニ取 喜津賀分
を取りあげ、この大寺が「和名抄」の中村郷を伝える地域にあるうえ、さらに発見された古瓦には、単弁蓮華文の鐙瓦があり、また平瓦には凸面に縄目文、凹面に布目を付けたものがある。丸瓦は有段式の玉縁式であるが、これら「その発見された古瓦類から、その年代をだいたい奈良時代、それも国分寺ができて以降と考えたい」とされる。なお右の大寺廃寺を安芸郡奈半利町コゴロク廃寺、高知市秦泉寺廃寺とともに「郡衙関係の寺院と考えてよいのではないだろうか」と推定され、国分寺と国衙関係同様に、「郡衙と密接な関係を持つ寺院であろう」と結ばれる。
 しかし、『春野町史』の記述は単弁蓮華文の鐙瓦や布目瓦などについての考察であり、昭和50年代という段階ではまだ研究も進んでおらず、国分寺建立以前とする判断はできなかったのだろう。ところが、『ものがたり考古学―土佐国辺路五十年―』(岡本健児著、1994年)の説明には、その後の研究の成果が反映されているように見える。

秦泉寺廃寺と大寺廃寺

 両方の軒丸瓦の蓮華文様には、花びらの中に線が入っています。そして子葉が描かれていません。このタイプの蓮華文様の入った軒丸瓦を、考古学の専門用語で「有稜線素弁八葉蓮華文軒丸瓦」といいます。
 こうした瓦の文様は百済(四世紀前半から663年の朝鮮古代の国)から日本に入ってきたものです。ところが、飛鳥寺とか四天王寺、焼失した法隆寺にみられる典型的な百済様式とは文様が少し違っています。百済様式のものには花びらに線が入ってないのです。
 「有稜線…」は六六三年に朝鮮半島で百済が滅び、高句麗の時代に一般化します。高知の秦泉寺廃寺と大寺廃寺の瓦の文様は百済の時代の終わりごろに、高句麗の影響を受けて作られたものだと思われるのです。作ったのは百済が滅んで国を追われた朝鮮の人たちだったのでしょう。瓦の分析により、この二寺院はいまのところ、高知県下では最も古い寺ではなかったかと推測できます。
 近年、地方寺院研究が大きく進展してきた。地方寺院の成立は、七世紀後半のいわゆる白鳳期に爆発的に増加する。『扶桑略記』には持統朝には545寺あったと記されており、全国のこの時期の寺院遺跡数はその数をはるかに上回っている。秦泉寺廃寺と大寺廃寺はその中に含まれる、いわゆる国分寺に先行する古代寺院であったことが分かる。それらは当然ながら、聖武天皇の詔(741年)以前から存在していたことになる。
 多元史観に立ったときに、これほどの多くの古代寺院群がどのような目的で建てられたのか。果たして九州王朝と何らかの関係があったのか。大和朝廷一元史観に縛られない今後の研究の進展が期待されるところである。


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 「ココログ」(@niftyのブログサービス)と言えば、私が推しているブログに次の3つがある。

 ①多元的「国分寺」研究サークル
 ②sanmaoの暦歴徒然草
 ③肥さんの夢ブログ

 いずれも古田史学派のブログで、よく参考にしたり、勉強させてもらっている。「ゴミ屋さんから仏教伝来」のカテゴリーに踏み込んだのも、“多元的「国分寺」研究サークル”の活動に刺激を受けたこともあって、何か情報提供できればと始めたものである。今回は高知県東部の安芸郡奈半利町にある「コゴロク廃寺跡」に関する内容を紹介する。
 まず、安芸郡といえば“高良神社の密集地帯”であることを以前報告したことがあるが、安芸郡の中でも奈半利町は高良神社の空白地帯となっている。その一方で延喜式内社「多気神社」「坂本神社」が鎮座(現在は「多気坂本神社」)し、さらに「コゴロク寺」が存在していたとされる。

 承平5(935)年12月、任を解かれた紀貫之が京への帰途「奈半の泊まり」に立ち寄ったことが『土佐日記』の中に記載されている。また奈半利川流域は承平年間に著された源順の『和名類聚抄』に安芸郡八郷(里)の一つ、奈半(那波)郷として記され、現在の田野町・北川村も含まれており、古代における奈半利は安芸郡の中心地であったと考えられる。
 奈半利町埋蔵文化財発掘調査報告書第1集『コゴロク遺跡群』(奈半利町教育委員会、2003年)に、平成10年度出土遺物実測図および写真が掲載されている。その中に単弁と複弁蓮華文の軒丸瓦が見られ、単弁蓮華文(8葉)、単弁蓮華文(18葉)、複弁蓮華文(16葉)などが発見されている。「古代では、奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して建立され、平安時代前期以降に火災で伽藍の大半が焼失したとされるコゴロク廃寺跡を始め、遺跡周辺でコゴロク廃寺の瓦を焼いたとされる奈半利窯などが現在確認されている」と報告書にも書かれているが、建立年代は本当に奈良時代(8世紀)でいいのだろうか。「奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して」とされているが、聖武天皇の国分寺建立の詔(741年)に結びつける一元史観の影響を受けた判断が見て取れる。
 奈良時代はじめ土佐国は幡多・吾川・土佐・安芸の4郡あり、各郡にそれぞれ寺院があったようである。大寺廃寺(吾川)・秦泉廃寺(土佐)などは素弁蓮華文軒丸瓦が出土し、土佐国分寺の創建より古いと考えられる。聖武天皇以前に既に「一郡一寺」の体制が出来ていた可能性すら見えてくる。そこに“多元的「国分寺」研究サークル”の研究活動の意味があると言えよう。
 中世になるといくつかの古文書が現存し、安芸郡の多くは金剛頂寺の寺領とされているが、奈半利に関しては『岩清水八幡宮記録』によれば「奈半荘」と記され、11世紀半ばには既に荘園化していたことが知られる。通常は石清水八幡宮の荘園に勧請された八幡宮摂社として高良神社が存在する事例が見られるが、どうやら安芸郡では逆転現象が起きている。金剛頂寺の寺領のほうに高良玉垂命が祀られているようなのだ。
 「あなたの笑い声は よく聞けば波の音でした」(コブクロ『ここにしか咲かない花』より)
 コゴロク廃寺が語りかけてくる声に、よく耳を傾ければ、何か真実が聞こえてくるかもしれない。出土遺物「軒丸瓦」に関する部分を引用し、紹介しておく。

出土遺物 瓦

 16~20は軒丸瓦で、単弁と複弁蓮華文がみられる。16は単弁蓮華文で、約1/3が残存し、TR-50の第Ⅳ層から出土する。弁区は中房より盛り上がり、蓮華文3葉、中房には蓮子3顆が残り、元は8葉で、1+8顆の蓮子であったものとみられる。弁は丸く、間弁が弁を囲んでいない。外区は不明である。復元径は、直径が約20.5㎝、外区が16.6㎝、中房が約5.4㎝とみられる。焼成はやや不良で、色調は灰白色を呈する。17も単弁蓮華文で、約1/4が残存し、16と同じTR-50の第Ⅳ層から出土する。直径14.0㎝、外区径12.4㎝、中房径4.8㎝を測る。弁区には間弁が囲む12葉の蓮弁が残り、元は18葉であったと復元できる。中房は弁区より突出し、蓮子は1+6+11顆と二重に配置される。外縁は素文縁となる。焼成はやや不良で、色調は灰白色を呈する。18は複弁蓮華文で、TR-39のSD0001から出土する。直径18.0㎝、外区径11.7㎝、中房径5.0㎝を測る。弁区には2葉1単位の複弁が3単位残り、元は8単位16葉とみられ、中房は弁区から突出し、蓮子は1+6+12顆と二重に配置される。外縁は素文縁となる。焼成は良く、色調は灰白色を呈する。19は複弁蓮華文で、TR-44のSD0002から出土する。中房と弁区の一部が残存し、蓮子は1+6+12顆と二重に配置される。大きさや形態は17と酷似する。焼成は良好で、色調は灰色ないし灰黒色を呈する。20は外縁の一部が残存し、直径15.4㎝を計り、TR-50の第Ⅳ層から出土する。外縁は平行線文と鋸歯文を組み合わせたものである。焼成は良く、色調は白色を呈する。
(『コゴロク遺跡群』P10~11より)

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 四国別格二十霊場第五番札所、四国三十三観音霊場第十四番札所で、「二つ石大師」や「ぼけ封じ観音」として信仰されている大善寺(高知県須崎市西町1丁目2−1)は、高野山真言宗の寺院。平安時代前期の弘仁6年(815年)、空海(弘法大師)による開基と伝承されている。須崎市街地の南西端にある丘陵に位置する。丘陵の下の街中の道路脇に大師堂、階段を登った丘陵上に鐘楼、本堂がある。納経所は大師堂から東に回り込んだ本坊の中にある。毎年8月のお大師様の夏祭りには竜踊りが行われている。

 この寺院の名は、土佐藩の豪商・美濃屋の武藤致和が江戸時代後期の文化12年(1815年)に編纂した『南路志』に記録されている。元々、寺院の名称は八幡山明星院大善寺と言い、大和国(現在の奈良県)長谷寺の僧坊・小池坊の末寺であったと伝えられている。当時の本尊は阿弥陀如来で、元来は現在地より東寄りの古市町にあった。しかし、宝永4年(1707年)の宝永地震による津波で流され、城山の麓に移ったとされている。地震以前は末寺17ヶ寺を従える大寺であったと伝えられている。
 城山の一角、森の上には金刀比羅宮が、西の麓にはひっそりと隠れたように白王神社が鎮座する。

大善寺略縁起

 南路志によれば、大善寺は八幡山明星院大善寺といい、和州長谷寺小池坊の末寺で弘法大師が開いたという。
 本尊は阿弥陀如来(現在不明)で、恵信作、宝永4年(1707年)の大変までは須崎市古市町にあり、八幡神社の別当寺として寺運を続けていたが、津波に流されたため、古城山のふもとに移ったものらしい。
 後に明治の廃仏毀釈により廃寺(明治27年)となり、明治29年(1896年)大師の霊跡を惜しむ里人の手で再興され現在地に移転し再建を計って今日に至っている。
 昔は末寺もたくさんあったようで寺地境内に六反十二畝三歩寺は三間に二十四間だったという記録がある。
 天保年間、同寺の庭に、臥龍の梅という梅の名木があり町内の俳人たちはこれに翁塚という芭蕉の句碑を立てていたが、廃寺の時円龍寺の庭に移したとされている。
 明治35年近郷の仏教信徒が相談して、四国八十八ヶ所の遙拝碑を建立し、石碑に順番と本尊仏のお姿を刻みこんである。巡拝は、大善寺に始まり長竹の元亨院、大間の観音寺、野見の江雲寺を経て鍛冶町の発生寺で終っている。

二ツ石大師略縁起

 昔、須崎の入海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬となっていた。ここにあった「波の二ツ石」と呼ばれた二つの大きな波石は現在は土の中にうまって見えなくなっている。当時山越しに行くのを常としたが、干潮のときはこの二ツ石岬の端を廻って行くことができた。ところが、同地は波浪いつも岩をかみ「土佐の親しらず」といわれ波にさらわれて海の藻屑となるもの多く、そのうえ同地点は伊予石鎚山の末端に当るので身に不浄ある者は時々怪異に出会うといって恐れられた。平安時代の初期(千百年以上の昔)弘法大師は、四国八十八ヶ所開創の霊場開創の砌りここを通りかかり、そのことをきいて、海岸に立つ二つの岩の上で海難横死者の菩提のため、海上安全の為に発願されたのが、今の大師堂開基の基源である。その後、「二つ石のお大師さん」と誰れ言うとなくいわれ、今日に至っている。

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 高知市秦泉寺には古代寺院があったとされ、「古代の巨刹であった」と地元古老により永く伝えられてきた。昭和15年に重孤文軒丸瓦が発見されたことにより、物証も出て本格的な調査が始まった。高知市文化財調査報告書第5集『秦泉寺廃寺跡 ー第3次調査ー』(高知市教育委員会、1984年)には、昭和58年3月12日〜4月21日の間に行われた高知市中秦泉寺字鷹通54番における発掘調査の記録がある。古墳時代〜奈良・平安時代の遺物が出土しており、柵列遺構は磁北に対してやや西よりの方向で配列。

 出土した瓦は軒丸瓦(素弁蓮花文3・単弁蓮花文1・複弁蓮花文1)・軒平瓦(重孤文6)・丸瓦・平瓦・鬼瓦(破片で3片)など。

 素弁8葉蓮花文軒丸瓦の1つは、周縁が素文縁であり、花弁に稜を有する。肉付けのある花弁に稜線を有し、花弁端は丸味をおびて反転している。中房には、13個の蓮子をもち、中房径4.5cm・周縁での径15.7cmを測る。
 かつては浦戸湾が秦泉寺の南まで入り込んでいて中津という古代の港があり、愛宕山など後背地には、6世紀後半〜7世紀前半の古墳が十か所余り確認されている。
 『阿波国徴古雑抄』に収録されている、乾元二年(一三〇三年)の『那賀郡木頭村伊瀬権現夢想旧記』に「土州秦泉寺」と出てくる。これが「秦泉寺」という地名を最初に紹介した文献とされているが、明確に地名として表わされるのは、永禄年代(一五五八~六九年)の史料や、天正十六年(一五八八年)の『秦泉寺郷地検帳』などになる。土佐で古くから開けていた地域の1つであったことは間違いなさそうだ。

 結論として「本寺院の創建時期は、7世紀後半、白鳳時代におかれるものと考えられ、高知県最古の古代寺院の1つとして捉えることが可能だと思われる」と締めくくられている。最古の古代寺院の1つとしているのは、高知市春野町西分の大寺廃寺跡からも同形式と見られる軒丸瓦が出土しており、共に最古級と考えられるためである。
 ONライン(701年)以前の創建であることから、いずれも九州王朝系の寺院と考えてもいいのではないだろうか?


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 龍口刑場跡に建立された龍口寺神奈川県藤沢市片瀬−13−37)のホームページによると、次のように説明されており、これが日蓮上人の「龍ノ口の法難」に関する一般的な伝承とされる。

 鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、様々な脅威に包まれていました。それらを憂えた日蓮聖人(1222~1282)は、『立正安国論』を著し、幕府に奏上しました。
 しかし、幕府はこれを政策への中傷であると受け止め、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人を捕らえ、斬首するために、刑場であったこの地、龍ノ口へ連行したのです。
 翌13日子丑の刻(午前2時前後)、土牢から引き出された日蓮聖人は、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らされ、評定の使者も待たず、あわや斬首になるときでした。
 「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)、斬首の刑は中止となりました。
 龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人をおいておらず、爾来、この出来事を「龍ノ口法難」と呼び習わしています。 

          <http://ryukoji.jp/>

『うちのお寺は日蓮宗』(藤井正雄監修、1997年)

 一方、『北鑑』第46巻によると、

 それより地頭東條景信に請はれ、鎌倉に庵居し、日夜、法華經を誦し、辻に説法して巡り、文應元年、立正安国論を北條時賴に請上して忿怒を招き、伊豆伊東に流罪されしも、同三年、赦され鎌倉に歸りて諸宗の否を罵りて、土牢に幽せられ、文永八年、龍ノ口にて斬首の刑に蒙らんとせるも、陸奥の安東船なる龍飛十郎兼季の船出に不吉とて願ひあり、斬首を免じ、佐渡に配流さる。

 徳のある僧を斬首すれば、船出にあたって不吉であると思い、船乗り達が刑の免除を願い出たというのだ。この話は古田武彦氏が講演中で語られており、東京古田会の副会長に確認したもので、その出典が上記の内容と思われる。
 どちらの話がより原初的であるかは、一概には判断しかねる。普通に考えると『北鑑』の記述が事実に近く、後に奇跡譚として語り伝えられるようになったのではないかと思われる。
 もちろん、そうであったとしても、決して日蓮の偉大さが損なわれるものではない。いずれにしても、この奇跡が日蓮自身の手紙に書かれているからには、何がしかの事実を反映したものということを否定し難いのではないか。
 『北鑑』第39巻には、同じ事件が次のように記されている。2つの伝承があり、先入観をもって安易に判断せず、両方を書き残し後世に判断を委ねたと見るべきであろうか?


 文永八年、龍ノ口に断罪となり斬首されんとするに、天日にわかに曇り、稲妻雷音は天の怒るが如く天切りて、刑執行の武士の振りあげたる太刀に落雷して三段に折られたり。

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『探訪―土左の歴史』第19号 (仁淀川歴史会、2023年6月)
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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塾講師
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将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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