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土佐市の松尾八幡宮摂社・武内神社に高良玉垂命

 土佐市及び高岡郡は「高良神社の空白地帯」ということを以前にも書いた。のみならず、延喜式内社すら一社もないという、高知県内でも特異な地域である。

 土佐市高岡町乙に鎮座する松尾八幡宮は1100年以上の歴史を持ち、正八幡宮と呼ばれていた。境内社として高良神社がないかと見てきたが、あったのは武内(たけのうち)神社と竈(かまど)神社だった。高麗犬の裏に菊の紋と五七桐の紋が隠されていたので何かありそうだと気にはしていたが、最近明らかになったことを含めて報告しておこう。

 『高知県神社明細帳』を見ると、この境内社・武内神社の祭神が武内宿禰命ではなく、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)であったのである。やはり高良神社が武内神社に変わっていたのである。間違っても、武内宿禰命が高良玉垂命に置き換わったはずはない。高良玉垂命→武内宿禰命と変化することはあっても、その逆は聞いたことがない。

 「いや待たれよ。高良玉垂命=武内宿禰命なのではないか?」との反論もあるだろう。そもそも「高良玉垂命=武内宿禰命」説はどこから出てきたのだろうか。
 筑後国一宮・高良大社(福岡県久留米市御井町1)の祭神を「高良玉垂命」という。延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』に「筑後国三井郡高良玉垂命神社(名神大)あり」とあるが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』には登場しない。にもかかわらず、朝廷からは正一位を授かっている。
 高良玉垂命については武内宿禰説、藤大臣説、月神説、物部祖神説、中臣烏賊津臣説、芹田真誰説、新羅神説、綿津見神説、彦火々出見説、水沼祖神説、景行天皇説など実に多くの説がある。
 祭神の「高良玉垂命」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、全国の八幡宮・八幡神社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる。
 ここには謡曲「弓八幡(ゆみやわた)」で高良の神、「放生川(ほうじょうがわ)」で武内宿禰が登場することも「高良玉垂命=武内宿禰命」説を後押ししたのではないかと思われる節がある。この点については機会があれば、さらに掘り下げてみたい。
 高良の神を武内宿禰とする説が広まったのは、江戸期に久留米藩(有馬氏)が祭神を武内宿禰に特定したためといわれており、明治期までは武内宿禰説が主流であった。高良大社の奥宮が高良廟と称して武内宿禰の墓所とされ、また、筑前域の分霊社など、多くの高良社が武内宿禰を祭神としている。結局のところ、一元史観において最も落ち着きが良かったのが武内宿禰説だったのであろう。
 ところが、京都の石清水八幡宮では「上高良」「下高良」といい、「上高良」には武内宿禰を祀る武内社が本殿内に、「下高良(高良神社)」は男山の麓にあり高良玉垂命を祀る。石清水八幡宮の神職に聞いても高良玉垂命と武内宿禰命は別神との見解であった。


 話を高知県に戻そう。土佐市といえば亀泉酒造に代表されるように、お酒造りが有名である。松尾八幡宮と聞くと、酒の神様・松尾大社(京都市西京区嵐山宮町3)からの勧請かと連想したが、石清水八幡宮からの勧請であったことが案内板からも読み取れる。その境内社を表向きは武内神社とし、祭神を高良玉垂命として残したのにはどういう経緯があったのだろうか? 明治維新における名称変更等の紆余曲折があったことを感じさせられる。
 入口案内板の由緒等には、やや疑問が感じられるかもしれないが、そのまま引用しておく。

松尾八幡宮

祭 神:足中津彦尊・息長足姫尊・品陀和気尊
由緒等:当社は約一千百有余年の昔、人皇第五十一代平城天皇の第三皇子高岳親王が創建されたと伝えられている。高岳親王は幼くして皇太子に即位され、次の天皇が約束されていた尊貴の人であられた。しかし、大同年間、薬子の乱(810年)が起こり、親王は追われる身となった。やがて仏門に入り弘法大師空海に師事、諸国を行脚し、人心の救済と求道一筋の道を歩んだ。貞観三年(861年)三月南海道に向い海路をもって仁淀川の川口に至り更にさかのぼり、高岡の地に上陸の第一歩をしるしたという。(日本三代実録)
 清瀧寺に逗留修行すること暫し、感ずるところあり京都の産土神石清水八幡宮をこの八幡の聖地に勧請鎮斎したという。この社が松尾八幡宮である。社領八町八反を賜り古来高東近郷の総鎮守たり。随身池田琢雲をして初代神主にあたらしめたという。

 一方、親王はその後、畢生の悲願であった入唐わを果たし、当時、世界最大と言われた国際都市長安の都(現、中国北京市)に留学。更に学究の志は高く、仏果の成就を求め、遙かなる仏陀の母国、インドに向う。

 元慶五年(881年)在唐の留学僧の報告によれば、親王七十八歳の時、羅越国付近で薨去されたという。あぁ!! かかる壮挙は日本史上最初の人であったと伝えられている。



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【2019/01/11 21:18 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
筑紫神社は高知県にもあった
 ブログ「伊那の谷から古代が見える」で、長野県南部に筑紫神社を発見したとの記事があった。

(前略)
ますます興味が湧いて、また神社へ戻った。
参道で掃除をしていた別の人に御祭神を聞いてみた。
やはり解らないという。
『神主に聞いても解らないし、はっきり言わないのだよ』との事だった。
その帰りに図書館へ廻り、史料を探した。
解ったことは、
筑紫神社 下伊那郡 泰阜村 字宮ノ後 3199
祭神 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
 相殿 誉別尊(ほんだわけのみこと)(八幡さま)
由緒 不明

 実は高知県にも筑紫神社があって、以前チェックしたまま、それ以上の情報がつかめずにいた。『東津野村史 上』(高知県高岡郡東津野村教育委員会、昭和39年)に「筑紫神社 高良神 北川村管の谷 寛文十年(一六七〇)筑紫大権現」とある。長野県下伊那郡の筑紫神社と同系列の神社と思われる。不思議なことに、高知県と長野県には共通点が多く見つかっており、それらは九州とのつながりを示唆するかのようである
 現在、この神社がどうなっているのか。高岡郡津野町北川にある神社のリストに見当たらないので、保留にしたままであった。

 そもそも筑紫神社(ちくしじんじゃ)は、福岡県筑紫野市原田2550にある神社で、祭神は「筑紫の神」とされる。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。また天元2年(979年)の官符には住吉神社・香椎宮・竈門神社・筥崎宮とともに筑紫神社に大宮司職を置くという記載がある。
 祭神の「筑紫の神」についてはいくつかの説があるが、『筑後国風土記』の記述と関係がありそうだ。逸文に次のような内容がある。

 「筑後国風土記逸文」

 昔、この国境(筑前・筑後)に荒ぶる神がいて通行人の半分は生き半分は死んでいた。その数は極めて多かった。そこで「人の命尽くしの神」と言った。筑紫君、肥君らの占いによって、筑紫君等の先祖である甕依姫(みかよりひめ)を祭司としてまつらせたところ、これより以降は通行人に神の被害がなくなったという。これを以って「筑紫の神」と言う。

「昔 此堺上 有鹿猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神 干時 筑紫君肥君等占之 令筑紫君等之祖甕依姫 為祝祭之 自爾以降 行路之人 不被神害 是以曰筑紫神」

 半分は筑紫の地名説話とも受け取れる内容であるが、
ここに登場する甕依姫こそが邪馬壹国の女王・卑弥呼(ひみか)に比定される人物であることを古田武彦氏が『よみがえる卑弥呼』(1987年、駸々堂出版社)で指摘している。九州王朝と無関係ではなさそうだ。

 それにしても、大元の福岡県では「筑紫の神」が祀られているのに、長野県と高知県では「高良玉垂命」あるいは「高良神」とし、祭神が異なっているのはどうしたことだろうか。
 考えられるケースとしては長野県と高知県に筑紫神社が勧請された時点では祭神・高良玉垂命であったものが、後に福岡県では祭神が置き換わった可能性がある。文化のドーナツ化現象として周辺部に原初的な姿が残され、中心部では本来の姿が失われてしまった状態になっているわけである。とりわけ九州王朝の中心地であればなおさら、大和朝廷の主権下では、九州王朝に関係の深い祭神を祀ることが許されなかったとも考えられる。
 また、筑前地方では高良玉垂命が武内宿禰命に置き換わっていると思われる神社がある。なぜ筑前地方に高良神社が少ないのか? 筑紫神社研究というアプローチから新たな展開が見出されるかもしれない。

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【2019/01/01 20:31 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
香美郡に「コウラ」地名が存在していた

 香美郡香我美町の小字図に「コウラ」地名が見つかった。おそらく高良神社の宮床跡ではあるまいか。かつて太平洋岸の赤岡町でとれた塩を物部の奥地に運んだ「塩の道」はこの近くを通っていた。川の対岸に宗我神社があり、高知市鏡梅ノ木の「コウラ」が八坂神社の対岸であったことと類似する。またどちらも「かがみ」地名であることも何か意味があるのだろうか? 場所も特定できることから、貴重なデータである。また、すぐ側の「サバイ」も神社関連地名と見られるが、現在は民家や畑地となっている。また、ここの西方に兎田八幡宮(長さ23.4cm、幅4cmで根元刳込部と対面の関部にシカ、サギ、カエル、カマキリの4種7体が半肉彫りで描かれている弥生時代の絵画銅剣が伝来)、北方に「ミヤケ」という小字が存在することも注目である。
 上記以外に、宿毛市山奈町山田の「宮のコウラ」、高岡郡越知町横畠北(旧・片岡郷深瀬ノ村)の「コウラ」、吾川郡いの町枝川の「コウラ」などが存在することから、今回の発見で、もしかしたら土佐7郡全域にコウラ地名が存在する可能性が見えてきた。しかも交通の要所であったり、各地方の中心領域であったりするように思える。

 さらにデータを集め、場所を特定するなど、それぞれについて検証を深めていく必要がありそうだ。

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【2018/11/30 23:44 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
高知県東部 “高良神社の密集地帯” 安芸郡調査の総括

 ダラダラと安芸郡のことばかり書いて、飽き飽きされているかもしれない。この辺りで「2018年秋の安芸郡調査」の総括をしておきたい。
 高知県東部の安芸地方で、高良神社及び高良玉垂命に関連している神社は、現在確認しているところ次の7社。
①芸西町和食の宇佐八幡宮境内社・高良神社
②安田町安田の安田八幡宮境内摂社・若宮神社
③安田町東島の城八幡宮
④田野町淌涛の田野八幡宮
⑤室戸市羽根町の羽根八幡宮境内社・高良玉垂神社
⑥東洋町野根の野根八幡宮境内社・高良玉垂神社
⑦東洋町河内の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社

 まず、これだけの数と密集度は高良神社分布図を大きく塗り替えることになるだろう。⑤以外は安芸郡であるが、室戸市も旧安芸郡として含めることにした。しかし、旧安芸郡の中心部とも言うべき安芸市内には、未だ高良神社は見つかっていない。また、安芸平野に延喜式内社が存在しないことも謎だと広谷喜十郎氏が指摘している。
 個々に見ていくと、境内社としては①⑤⑥で、いずれも参拝者側から見て本殿の左手脇宮のような位置付けである。そのうち⑤⑥は右手脇宮として若宮神社がある。③④は八幡宮の祭神「応神天皇・神功皇后・高良玉垂命」の三柱として祀られている。大分県の宇佐神宮における比売大神が高良玉垂命に置き替わった形態である。福岡県で見られる「応神天皇・神功皇后・武内宿祢命」の祭神形態は「高良玉垂命→武内宿祢命」の置き替えとも考えられ、高知県安芸郡には置き替え前の原初的形態が残されている可能性がある。
 ②は祭神が「仁徳天皇・気長帯姫命(神功皇后)・高良玉垂命」となっている点が注目される。特に高知県では仁徳天皇を祀る若宮神社が少ない中で、高良玉垂命を共に祀る形態は、若宮神社としては珍しく貴重な例かもしれない。
 ⑦については境外摂社であるが、八幡宮のお祭りとは別に、高良神社としてのお祭りも行われており、高良玉垂命を応神天皇の叔母に当たる人物(與止比売のことか)に比定し、八幡神より格上の神様と位置付けている。この與止比売については邪馬壹国の女王・卑弥呼の宗女「壹與」とする説が有力であり、倭国・九州王朝との関係性が見い出された「2018年秋の安芸郡調査」であった。


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【2018/11/27 22:59 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
芸西村和食の宇佐八幡宮にも高良神社があった

 安芸郡芸西村の和食宇佐八幡宮に高良神社が境内社として存在しているらしいという情報を以前から目にはしていた。9月の安芸郡調査の際にも寄りたいと思いつつも気付かずに通り過ぎてしまっていた。国道55号線から北に入った金岡山という大ざっぱなロケーションは把握していたので、今回は何とか神社の裏手にたどり着くことができ、やっと現地確認することができた。
 まずは沢山の境内社に驚かされた。高知県の神社には案内板のないところが多く、現地調査だけでは分からないことだらけ。かろうじて池に浮かぶ(この日は水が涸れて空堀のようになっていた)厳島神社だけは分かった。

 そして、一番西の端が延喜式内社論争にもなった坂本神社であろう。写真で見た覚えがある。ホームページ「高知県の観光」によると、摂社が15社ある中で主なものは5社として紹介されている。

 境內には攝社が十五あるがその中にて主なるものは五社で本社の左脇は帶媛神社と云ひ祭神は氣比大神帶媛大神のニ坐にて万治三子年九月八日の勸請である、神社の右脇は高良神社にて祭神高良玉垂命で由緒は方治三年子九月八日勸請になつて居る、高良神社の西側は嚴島神社で須勢現毘賣命を祭り萬治三年九月八日の勸請である、その西側は九頭神社で祭神は砥鹿串神にて承應ニ年本村住人野老山惣左箱門と云ふもの同村字九頭神と云ふ處を開墾中神像を掘り得て祭祀し初めしによる、九頭神社の西側は坂本神社にてこれは由緖舊く慶長十三歲猛夏吉日大工小助と記載せる棟札出でたことがある。

 高良神社は本殿の右脇、参拝者から見るとすぐ左手側になる。羽根八幡宮や野根八幡宮と同じ脇宮タイプとして鎮座している。文献と照らし合わせないと何も分からず、徒労に終わるところだった。
 東から順に①帯媛神社 ②高良神社 ③厳島神社 ④九頭神社 ⑤坂本神社 と境内社が並ぶこの配置は……。もしや『皆山集1』のあの図ではあるまいか。ずっと気になっていた図だったので、ふと思い出して確認したところ、ピッタリ一致する。間違いなさそうである。

 「安芸郡奈半利村坂本神社」と書かれているが、ここ芸西村和食の宇佐八幡宮境内の図であったのだ。「謎は解けたよ、ワトソン君」と言いたい気分である。この坂本神社については、さらに掘り下げていく必要がありそうなので、改めて論じることにしたい。

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【2018/11/23 17:15 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
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