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愛媛県の高良神社⑤ーー高家八幡神社 境内社
  松山市内には現在私が知るところでは、3つの高良神社がある。伊佐爾波神社(桜谷町173)、生石八幡神社(高岡町917)、そして高家八幡神社(北斎院町295)のいずれも境内社である。
  岩子山緑地の松山市考古館の南方に朝山高家八幡神社が鎮座している。地名の斎院は「さや」と読み、伝承によると、天暦元年(947年)に、山城国上賀茂神社の”斎院”(さいいん)に勤めていた”一色式部大輔氏勝”(いっしき  しきぶのたいふ  うじかつ)が、この地に”賀茂神社”と”八幡神社”を勧請(かんじょう=本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること)したことから”斎院”となったという。
  なお”斎院”(さいいん)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した”斎王”のことである。

  朝山高家八幡神社の祭神は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神となっている。三女神とは宗像三女神のことであろう。神武天皇の孫・健盤龍命(たけいわたつのみこと)を祀り、かつては阿蘇宮といい、大徳寺の南西(現津田中近く)にあったという。

  5つの境内社と1つ境外社あり。
素鵞神社(建速須佐之男命)
奈良原神社(保食神)
生目八幡神社
高津神社
高良神社
境外社:忽那社(通称:オヘイべエ様)

  鳥居は素鷲神社のもので、その左手にあるのが高良神社のようである。打ち付けられた板を見ると、高津神社の横に消えかかっているものの、確かに「高良神社」との字が読み取れる。

  高津神社・高良神社を祀るから「高家」かと思っていたら、久米山部高家(くべやまべのたかいえ)が現在の弁天山トンネルの東側入口付近に住み、この山林を高家山と言っていたことによるものらしい。
  かつては久米評と呼ばれた松山市一帯が、古来より栄えた三津港を拠点とし、九州王朝と深いつながりがあったことを偲ばせる。

  愛媛県神社庁がホームページで紹介している神社由緒を以下に引用する。

神社由緒
 神武天皇(在位紀元前660~紀元前585年)の第二皇子神八井耳尊の御子を健磐龍命と申し奉る。
 健磐龍命の後裔が伊予に来て、健磐龍命を祀り、阿蘇宮と称した。また、社記によれば、健磐龍命の第三男子の健岩古命が伊予の賊を征伐し、伊予に住み(岩古山)、久米部山部小楯の遠祖となるという。
 朱雀天皇(在位930~947年)の御宇、楠戸根千代は阿蘇宮を深く尊崇し、藤原純友の征伐を祈り、朝山宮と改称した。征伐後、社殿を改築し、神田を献じて凱旋の式を挙げた。天慶5年(942年)、宇和島五太夫越智通季は神田を献じ祭祀を厚くした。
 天暦元年(947年)、山城国の加茂の斎院に仕えた一色式部太輔氏勝は、当地に来て高家山(烏山)に八幡大神、加茂大神を勧請した。その後、地名の三院に斎院の文字を用いるようになった。
 正治2年(1200年)、高家山の八幡宮は火災焼失し、朝山宮に相殿となり、朝山高家八幡宮と称したが、いつしか高家八幡宮とのみ称えるようになった。
 康永元年(1342年)、河野新三郎が社殿を改築し、元禄6年(1693年)には藩主が修復した。その後、岡田長房等の改築が数度あった。

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【2018/06/05 08:18 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
愛媛県の高良神社④ーー生石八幡神社 境内社
  かつて伊予水軍の拠点として栄えた三津港から少し内陸の岡の上。115段もの石段を登り、生石(しょうせき)八幡神社(松山市高岡町917)に到着。海が見えるかと期待したが、樹木にさえぎられて見ることはできなかった。
 往古、神功皇后御駐蹕の遺跡の岡に鎮座し、伊佐爾波の岡の宮と称えたという。貞観元年(859年)奈良大安寺の行教和尚が八幡山に八幡宮を勧請し、岡の宮と合わせて生石八幡宮と称えた。

  境内には素鵞神社・石鎚神社・松尾神社・加茂神社・住吉神社・招魂社など、いくつもの境内社が建ち並ぶ。拝殿の左手に鎮座しているのが高良玉垂八幡神社である。各境内社ごとに由緒が記されていることは有難い。祭神は誉田別尊命(ほむだわけのみこと)と武内宿祢命(たけしうちのすくねのみこと)。以前は大字南吉田に鎮座、明治41年(1908年)12月16日に、合併許可によって境内末社となったことが分かる。

  ここでも明治39年に出された神社合祀令(神社整理)の影響が見られる。施行は県知事の裁量に任された部分もあったが、最も忠実に実行したのが、三重県・和歌山県・愛媛県であったという。この時、規模の小さな無各社などが、郷社といった地域の中心的な神社の境内社として合祀されるようになった。

  愛媛県で高良神社が境内社となったのがいつか?  これは課題としてきた問題であったが、少なくともここは明治時代末であることが分かった。なお、それ以前の姿がどのようなものであったかが次に調査すべきテーマとなる。

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【2018/06/03 18:10 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
愛媛県の高良神社③ーー玉生八幡大神社 摂社
  「松前町にも高良神社がありますよ」との情報を得て、橘洞門を越えて再び愛媛県へ。実は一度チェックしていたが、確証が持てずにいたので、四国の高良神社一覧表の正式なリストには入れていなかった。

  玉生八幡大神社(伊予郡松前町西古泉536)は歴史のある神社のようである。10年前と少し変わったところがいくつかあるようだ。まず、掲示板の案内文が活字化されている。「神社探訪・狛犬見聞録」さんが平成20年に訪問された時の写真によると案内文が手書きのようである。
  また、目的の境内社が当時は高良社・猿田彦ノ宮となっていたが、今回実際に行ってみると、やや変化が見られた。祭神として武内宿禰命と猿田彦命となっているではないか……。一瞬ヒヤリとしたが、笹の葉で隠れそうになっているものの、左手に摂社・高良玉垂社との石碑が立っていた。高良神社と言ってよいだろう。やはり、実地を踏んで自分の目で見ることが大切である。


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【2018/06/03 15:29 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
瓦権現→川原社→高良神社? 高良玉垂命と神功皇后との結婚

 奈良県櫟本町瓦釜にある高良神社が、秋祭りで「まぐわい神事」を行っていることを最近知った。高良神社の男神が、八幡神社の女神のもとへ、出会い(結婚?)に行くというものである。
 一元史観のお膝元であるから面向きは武内宿祢に比定されたりもされるが、そのまま受け取ると、高良玉垂命と神功皇后の結婚ということになるのではないか?  高知県四万十市の不破八幡宮で行われている結婚神事と通じるものを感じる。ホームページで紹介して下さったことに感謝したい。
 また、地名の瓦釜。高知県でもかつては高良神社を瓦権現と表記しているものもあり、地域によっては川原社と呼ばれたこともあるようだ。高良神社の遠源をたどると瓦との関わりがあるのかも知れない。
 そもそも百済から瓦博士まで呼んで寺院建造が盛んになった時代、瓦というものは最先端技術であり、貴重視されたであろう。「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」とは祖母から伝え聞いたことわざである。

  以下、天理市立櫟本小学校のホームページより引用した。

秋祭り「こうら神社」男神と「八幡神社」女神の逢瀬


 10月15日 高良神社の秋祭り

 午後1時 祭りの開始。この祭りはとてもかわっていて、高良神社の男神が、八幡神社の女神のもとへ、出会い(まぐわい)に行かれるというものだす。


 おもしろそうですね。


 櫟本町の六惣である瓦釜(かわらがま)、高品(たかしな)、四之坪(しのつぼ)、市場(いちば)、南小路(みなみしょうじ)、膳史(かし)の各大字の宮総代の方達が奉仕されています。


高良神社    


 櫟本町瓦釜(かわらがま)地区に鎮座(ちんざ)する「高良神社は古い歴史のある神社です。


 ご祭神(さいじん)は、高良玉垂神(こうらたまたれのかみ)で、この神さまは、古事記・日本書紀にみえる「武内宿禰(たけのうちのすくね)」(伝説では360歳という長寿をほこる怪物的な存在) のことだそうです。蘇我氏の祖先ともされています。


 武内宿禰は、延命長寿の神さまとして、また不思議な霊能力を発揮する武運長久(ぶうんちょうきゅう)、厄除けの神さまともされています。戦争中は戦勝祈願の神様として、現在では、試験の合格祈願などと、信仰を集めています。戦前には、一円札の肖像にもなっていて、庶民に身近な存在だったようです。(現在の聖徳太子のような存在でしょうか。)


 ここは、奈良時代前期に建立された「長寺」の跡で、付近からは古瓦片が発見されていて、「瓦釜」の地名はここからついたようです。


 (コウラ神社は、土着の、カワラ社が変化してコウラ社となったという説があります。)


 


 また「長寺跡」からは、建物の遺構や弥生時 代の遺物も出土していることから、このあたりは古代より集落がひらけ、古代豪族、和爾(ワニ)氏とのかかわりなど考えると、興味のつきない神社です。


 今は彼岸花(ひがんばな)が見ごろ。


 古代へタイムスリップさせてくれる高良神社です。  


                      (「あいたいがっこう14号」より)

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【2018/06/01 00:19 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
朝日輝き、夕日さす……
  『南路志』の高岡郡四万川村に朝日権現(タケウチ)、夕日権現(コウヤ)が並んで登場する。埋蔵金伝説を連想される方も多いだろう。
  『古瓦』(住田正一・内藤政恒著、昭和43年)によると「『朝日輝き夕日さす』という思想は、残された伝説の分布から考えてみると、奈良朝以前、建国の当初から、日本全国に行われていたものではなかろうか」という。多元史観の目で見れば、九州王朝・倭の五王時代にさかのぼれるのではないか。
  一説には倭の五王と関係があるとされる高良玉垂宮。神の系譜と縁起を書いた『高良玉垂宮神秘書』 という本の中に、高良大菩薩(高良玉垂命)には合わせて九人の御子がいて、九躰の皇子と言う、と出ている。久留米市の高良大社の右手にある摂社に、その名前が記されている。

1 斯礼賀志命(しれかし)
2 朝日豊盛命(あさひとよもり)
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひ)

御祭神 高良玉垂命の御子神九柱(九躰王子)
由緒 阿志岐(山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治六年に勧請) 

  なんと「朝日(あさひ)豊盛命」「暮日(ゆうひ)豊盛命」のペアが登場するではないか。高知県といえば坂本龍馬が有名だが、もともと坂本姓は多く、坂本地名、そして坂本神社もある。「坂本(さかもと)命 」まで入れると3点セットが揃うことになる。何か九躰王子との繋がりがあるのだろうか?
  参拝者の中には、御神徳として「無敵の勝利」と書かれているところに、ご利益を感じた人もおられた。

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【2018/05/29 10:40 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
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