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もう1つの瓦の宮が祈年神社にあった
 これまでのブログの中で、岡豊別宮八幡宮の境内社として瓦ノ宮社があり岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した、物部川の西岸に川原神社があった(南国市の川原神社は高良神社だったのでは?ことを紹介した。丁度その中間地点、祈年神社(南国市東崎283)の境内にもう1つの「瓦の宮」があったことが判明した。
 『南国史談第13号』(南国史談会、平成4年)に掲載された「源希義」(山岡哲郎・吉本富雄)と題する論考の中に「瓦の宮」が紹介されている。源希義は源氏の義朝の五男で母は熱田の大宮司藤原季規の女、頼朝の同母弟である。永暦元年(1160)平氏のために捕縛され幼少(三歳位)の身を土佐に流され高知市介良の庄に配流されていた。
 希義は南国市の年越山で蓮池権頭家綱と平田太郎俊遠と血戦をまじえ奮戦したが衆寡敵せず愛馬を失い非業の死をとげる。希義の討死年齢は二十五才位と推定される。希義の死骸は南国市鳶ケ池中学校門の北方十五米位の流れに沿った樹林に放置されていたと云う。またこの樹林の中に瓦の宮と呼ばれる小さな祠があった。これは純朴な村民が希義の霊を慰めるために祀ったものとされ現在は昭和四十六年度鳶ケ池中学校移転改築工事の都合上、南国市東崎祈年神社の境内西北隅に移されている。
 瓦の宮の祠跡に「源希義討死伝承之地」と書かれた地上一・五米、巾十六糎、厚さ十二糎のコンクリートの白塗の柱が建っている。

▲瓦の宮(左)と佐婆為神社(右)

 さて、この瓦の宮は源希義の霊を慰めるために祀ったものとされているが、なぜ名前が「瓦の宮」なのだろうか。「希義はかねて香美郡夜須庄の荘官であった夜須行宗と平氏を討つ密約が出来ていた。亦、夜須庄は源氏にゆかりの石清水八幡宮の所領でもあった」という。

 石清水八幡宮の摂社に高良神社があることは、吉田兼好の『徒然草』にも書かれている。「ぐるりん関西」のホームページには次のように紹介されている。

 高良社(高良神社)は、京都府八幡市にある石清水八幡宮の摂社である。一の鳥居内頓宮の南西にあり、高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を祀っている。
 豊前国(現大分県)宇佐八幡宮から八幡大神を勧請した行教和尚(ぎようきょうわじょう)が、貞観2年(860年)に社殿を建立したと伝えられる。
 社名は、貞観3年(861年)の行教夢記に「川原神」と記され、「男山考古録」は古記に「瓦社」とも記し、また「カハラ神社」と称したとする。
 また放生会が行われた川のそばに座したので、「河原社」と称し、のち極楽寺・頓宮等が建てられて河原もなくなり、筑前国高良社(現福岡県久留米市)の神名と似ているので、同社をここに移したと考えられて、高良の字があてられたという。
 高良神社がかつては「瓦社」「川原社」などと呼ばれていたことが分かる。その名は放生会が行われた川のそばに座したことにも関連していたというのだ。
 実際に岡豊別宮八幡宮の境内社・瓦ノ宮社はもとは石清水川(現在の笠ノ川か?)と呼ばれた川のほとりにあり、放生会が行われていた記録がある。物部川西岸の川原神社や鳶ケ池中学校付近にあったという瓦の宮――鳶ケ池という池があったのだろうか――いずれも放生会には生きた魚を放つ川や池があることが必須条件である。かつて高良神社であったという仮説が成立する余地はありそうだ。
 そしてこれらの三社が国衙を中心として、東・西・南と三方にさほど遠くない距離にある。高良神社および放生会が国府と関係をもっていた可能性もある。それは土佐国府跡の内裏(通説では紀貫之が住んでいた場所)地名中に「コフラ」という塚があったとされることからも連想される。
 もともと筑後国一宮・高良大社はかつて倭の五王を祀る九州王朝の宗廟に位置付けられる神社ではなかったかという指摘がなされている。放生会については以前にも少し触れた。701年の政権交代によって権力を握るようになった近畿天皇家が、戊辰戦争ともいうべき隼人の反乱討伐(720年)以降、八幡宮が新たな宗廟としての地位を確立していく。宇佐神宮で行われた放生会には、滅ぼされた九州王朝に対する慰霊の意味がこめられているように感じられる。後に石清水八幡宮などでも放生会が恒例となっていき、謡曲『放生川』『弓八幡』では、あたかも高良の神が八幡神に仕える臣下のように描かれる。やがて高良の神は八幡神第一の伴神と解釈されるようになり、武神というイメージが定着していった。
 話を本筋に戻すが、源希義の霊を祀った神社の名がなぜ「瓦の宮」なのか。高知県の場合、江戸期であれば先祖を祀る社は若宮神社と相場が決まっている。時代は平安末期から鎌倉初期のことであるから、あまり参考になる事例は少ない。源希義を祀るために、新たに瓦の宮を作ったのだろうか。むしろ、既に存在していた瓦の宮に希義の霊を祀ったと考える方が自然なのではなかろうか。この時代(源平争乱期)には既に高良神が武神と考えられていたことから、源希義を祀ることは違和感なさそうである。
 2020年の初詣として足を運んだ南国市の祈年神社。祭神は「大年神」で、この地区の産土神である。長宗我部元親も毎年正月の元日に参拝し、その年の五穀豊穣を祈願した事が伝わっている。お年玉の語源はもともと「年神の魂」から来たものだというから、「高良神社の謎」を追い求めてきて、思わぬお年玉をもらったような気分になった。
 祈年神社の創建は、『続日本記』文武天皇慶雲三年(706)二月の記述「甲斐・信濃・越中・但島・土佐……の十九社に祈年の幣帛を行うことを決めた」を根拠に、706年鎮座とする。近くの祈念遺跡は「縄文時代から居住域となり、弥生時代の大規模集落や律令期前夜の古墳時代後期の集落、そして律令期に入ってからは道状遺構をはじめとする活発な土地活用がなされていた」(『祈年遺跡Ⅰ』(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター 2011.3)とあるように古代官道とされる遺構も見つかっており、時代的にも適合する。ちなみに、神社の中には「祈年神社」「諏方宮」「熊野神社」と書かれた扁額がかかっていた。

 「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社の祭神、高良玉垂命の光が失われてしまって、今ではかろうじて「瓦の宮」として残されている。「高良神社の謎」を追い求める旅はまだまだ続く。「磨かぬ玉に光なし」である。


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【2020/01/03 21:59 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
愛媛県の高良神社⑥ーー伊佐爾波神社 境内末社

 松山市内には3つの高良神社がある。生石八幡神社(高岡町917)、高家八幡神社(北斎院町295)の境内社については、かつて「愛媛県の高良神社④⑤」で紹介した。そして今回は残る一社である伊佐爾波神社(桜谷町173)境内末社の高良玉垂社(祭神:武内宿禰)の登場である。と言っても、実は以前「高良神社にまつわる菊と蕨」というタイトルで少し触れてはいる。
 
 長野県の吉村八洲男氏の研究によると、筑後一宮・高良大社の御祭神「高良玉垂命」を祀る「高良社」が信州に濃密分布しており、蕨手文様も多く発見されている。そこに古代九州王朝(特に磐井の乱)と信濃国と繋がりを見出そうとしているようだ。詳しくは、ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に掲載された"「科野からの便り」(6)蕨手文様総括編"(2019/12/07)を参照してほしい。
 ただし、科野の「高良社」全ての祭神に「誉田別神」の影があり、九州とは異なるかーーとする吉村氏の分析についてはやや片手落ちと感じる。それは伊佐爾波神社を訪れたときにも明瞭になった。

▲回廊内の高良玉垂社と蕨手燈籠

 ここの高良神社は伊佐爾波神社の回廊内に鎮座しており、蕨手燈籠があるという情報をつかんでいたので、ぜひとも見ておきたいと願っていた。その内容について「松山市ホームページ」より抜粋しておこう。

「伊佐爾波神社、附 末社高良玉垂社本殿、末社常盤社新田霊社本殿、石燈籠、棟札」について

 ともに境内社で、廊下の左右に内に向かい合って建てられる。当社を造立した藩主松平定長や竹内宿祢ほかを祭る。建物は一間社流見世棚造り、桧皮葺。
 柱は土台の上に建ち、身舎が円柱で頭に粽(ちまき)を付け、向拝は方柱で、ともに出組斗きょうを置く。正面向拝の水引貫の上には板蟇股(いたかえるまた)が置かれる。木部の彩色は、前掲の社殿に準じる。
 石燈籠は、両末社の脇に建てられる。総高240cm余り、笠・火袋・中台・竿・基礎はいずれも四角形で、笠の四隅には蕨手を持ち、竿に「道後八幡宮神前・寛文七丁未年五月十五日」の刻銘がある。

 令和元年台風10号接近の前日の夕刻、隣接する道後温泉には目もくれず、裏の駐車場から伊佐爾波神社境内へとすべり込んだ。本来は正面から長い階段を登って参詣すべきところであるが、もう少し遅ければ門が閉まるところであった。

 カギをかけに来られた女性神職に質問すると「高良神社は八幡様とセットみたいなものですから……」といった話が聞けた。高良神社を調べ始めた時から感じていたこと(愛媛県の高良神社①参照)ではあったが、この認識は神職といえども、誰もが熟知しているわけではない。高良玉垂社を大切に祀っている伊佐爾波神社であればこその応対ではなかったか。残念ながら、いつ境内社として取り込まれたかまでは分からない様子だった。ということは、少なくとも明治期の神社整理等ではなく、もっと古い淵源を持つ可能性が高い。
 少しまとめてみよう。
①高良神社の多くは八幡宮の境内社として鎮座する。
②近年の神社整理によって合祀されたものは少ない。
③高良神は八幡第一の伴神と解釈されてきた。
④八幡宮の配神として応神天皇(誉田別神)とともに高良玉垂命が祀られている神社もある。

 これまでの調査から「高良神社の謎」が少しずつ解けてきそうである。高良神社は八幡宮勧請と同時、あるいはそれ以前から存在していた可能性がある。そして高良神社と八幡宮の地位の逆転が九州王朝から大和朝廷への政権交代と連動している……。まだ確証はないが、そのような仮説が浮上してきたのである。

        

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【2019/12/12 00:39 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
南国市の川原神社は高良神社だったのでは?
 父方の祖母は田尻姓で、学歴についてはよく知らないが、祖母を知る人は一様に「学のある人であった」と言っていた。筑後の一宮・高良大社の宮司家の一つが田尻家なのだと聞いたことがある。つながりがあるかどうかは定かではないが、私がこれほど「高良神社の謎」を追いかけるようになったのも、何かの縁かもしれない。さらに漢の高祖劉邦に連なるとする大蔵姓田尻氏正統系譜(肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜)の登場によって、ルーツ探しのほうも新たな展開を見せることになった。ただし、家系図は単独では史料的根拠にすることは難しいとされているので、その扱いは慎重を要する。
 さて、前回「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した」というタイトルで境内社の一つ「瓦ノ宮社」が高良神社であったことを報告した。その岡豊別宮八幡宮から東へ6kmほど行ったところ、物部川の西岸に川原神社(南国市福船字寺屋敷)が鎮座する。ずっと気になっていた神社である。一般的には川原近くにあるから川原神社とされてきたが、あまりにも安易すぎないだろうか? 

川原神社

 旧岩村郷福船村舟渡、戸板島村、京田村の一部、蔵福寺島村の産土神で、旧村社。祭礼時當家に決まった節数のおはけ竹を立てる。現在のおなばれは一の鳥居(御旅所)間を往復する。台輪鳥居、狛犬、手水石鉢、石燈籠、百度石、中世石仏、五輪塔残欠がある。北側の墓地内にも中世石造物が見られる。
 今年(令和元年度)の「川原神社秋祭り神事」のお知らせが拝殿に貼り出してあった。11月1日(金)午後1時30分~となっている。『南路志 第二巻』には香美郡の福田村(岩村郷)のところに「川原大明神 川原宮 本地決主菩薩 祭礼九月九日」と出ている。

 川原宮(かわらのみや)と言えば、斉明天皇の板蓋宮が火災に遭ったので一時的に遷居した宮が川原宮であった。翌年、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)を設けてそこに移っており、川原宮跡が川原寺になったとされる。
 これに対して、斉明天皇は大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の天子であり、伊予に行宮があったとするのが合田洋一氏の説である。詳しくは著書『葬られた驚愕の古代史 越智国に"九州王朝の首都"紫宸殿ありや』を参考にしてほしい。
 もとより、高知県の川原神社を斉明天皇に結びつけるつもりはない。県外にも川原神社という名の神社が複数存在しているようだが、かつて高良神社は「瓦ノ宮」「川原社」などと呼ばれていたことがあった。多くはその名残りであろうと推測する。
 田尻の祖母が時折言っていた。「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社(祭神:高良玉垂命)としての由緒が失われてしまった川原社は、土佐弁風に言えば「瓦にかあらん」(瓦と大差ない)ということになってしまったのではないだろうか。




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【2019/10/21 01:02 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した

 10月13日、高知県立歴史民俗資料館で土佐史談会理事の朝倉慶景氏による「本能寺の変と斎藤津戸右衛門の居所について」と題する講演会が開かれた。その内容についても紹介したいところだが、講演会後に向かったのは歴民館のある岡豊山とは県道を隔てた北側の岡豊別宮八幡宮(南国市岡豊町八幡)。以前に「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は存在するか?」というタイトルで記事を書いた。その時点では、『皆山集①』に登場する豊岡八幡宮について、高良神社を含む摂社十数社が記載されていることから「岡豊別宮八幡宮の境内社の1つが高良神社である可能性は高い」とした。

 前回は東側から車で登り、神社の裏側の広場についたが、今回は南側の一の鳥居から徒歩で正面突破を目指す。石段途中の恵比須神社や大山祇大神などを確認する目的もあった。参道の石段には実った栗の実が落ち、はじめはゆるやかだが次第に傾斜を増す。登りきったときには足もガクガク。息を切らしながら参拝を済まし、現地を実見する。
 本殿の西側には竹氏宮、岩清水宮など境内社7社が並べられている。本殿の北東に1社+3社の境内社。龍王宮、若宮社、瓦ノ宮社などが祀られている。この「瓦ノ宮社」こそが高良神社のことであった。

 『南路志 第八巻』所収、寛永十三年(1636年)八月十五日付けの「長岡郡別宮八幡宮之記」に、次のように記録されている。

○長岡郡別宮八幡宮之記

一御宝殿ハ三間四面 舞殿長床
一同東之方若宮有、五尺間ニ三間四面
一末社之事 戌亥之方ニ稲荷之社、其東ニ竹氏之社、其東鎮守、其東丑ノ方ニ松尾春堂二社ヲ一棟ニ立、寅ノ方ニ岩清水社、卯ノ方ニ龍王、其南桜田ノ社、辰巳ノ方ニ鐘楼堂有。南ノ坂本ニ鳥居、東ニ御幸門、関杖有。其東道ヨリ北ノ上ニ瓦ノ宮アリ。又東ノ川ノ渡上國分ノ分ニ神輿休社、大木ノ本有。
放生會御幸之事 右二所社ニテ、神輿ヲ舁居、神楽ヲ備也。
 この記録は江戸時代初期のことであるから、境内の配置などは現在とは大きく異なっている。火災を経験し、再建されているだろうから、境内社もまとめられて合社となったのだろう。かつては東側に御幸門があり、「其東道ヨリ北ノ上ニ瓦ノ宮アリ」とされ、その場所で放生会の神楽を舞ったと読み取れることから、「瓦ノ宮」が数ある境内社の中でも特別な位置づけにあると考えられる。
 そして『皆山集①』との比較により、この「瓦ノ宮」こそがイコール「高良神社」であることが判明する。かつて高良神社は「瓦ノ宮」あるいは「川原社」などと呼ばれていたことがあったのだ。1年半越しの宿題にやっと答えを出すことができた。岡豊別宮八幡宮の境内社として、間違いなく高良神社(瓦ノ宮社)が実在していたのである。
 そうなると、次に問題となるのは川原神社(南国市福船字寺屋敷)である。一般的には物部川の近く、川原に鎮座しているから川原神社と考えられていたが、それは神社の名称としてはあまりに安直すぎないだろうか。
 「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」
 高良玉垂命を祀る高良神社の輝きも忘れ去られて、瓦や川原の如くに扱われてしまっているとしたら……。本来の光を取り戻すことはできるのだろうか。



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【2019/10/14 14:04 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
香川県の高良神社⑥ーー船越八幡神社・境内社

 筑後の一宮・高良大社については倭の五王との関係が指摘され、九州王朝の宗廟であったとも目されている。高良神社あるところに九州王朝の足跡ありと考えられることから、高良神社の謎を追いかけて香川県までやってきた。
 「香川県の高良神社①~⑤」で県西部の三豊市周辺に高良神社が密集していることを紹介してきた。今回は三豊市にあるもう一つの重要な高良神社を紹介したい。

 瀬戸内海に突き出した荘内半島の中ほどで最も低くなっている部分が「船越」という地名で、古代においては船が陸を越して半島の反対側へショートカットした場所とされる。「ふなこし」は全国的にも同様の地形に付けられた地名として数多く存在する。高知県須崎市浦ノ内にも横浪半島の付け根の細くなったところに「舟越」という地名がある。そこは鳴無神社の社伝に、大神が乗ってきた金剛丸をかついで越えた場所とされている。


 さて、今春(平成31年3月)閉校となってしまった三豊市立大浜小学校の北、豊かな緑に囲まれた船越八幡神社(三豊市詫間町大浜1638)の境内に高良神社が鎮座している。祭神は武内宿禰命。他の境内社としては、金比羅神社、住吉神社、若宮神社、粟島神社など。木之花佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)をお祀りしている木村神社もあった。
 旧荘内村と香田、家の浦を氏子とする船越八幡神社の祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后である。幣拝殿の奥に神橋と中門が建ち、塀に囲まれた中に本殿が建立されていた。蕨手燈籠も見られる。この蕨手については当初、高良神社と深い関係があるのではないかと推察したが、他でも見かけたことから、割とポピュラーなデザインのようでもある。
 境内の絵馬堂には、幕末から昭和初期にかけて製作された歌仙絵や歴史絵、船絵馬、芝居絵などが奉納されており、これらは市指定有形民俗文化財に指定されている。
 『西讃府誌』によると、神亀元(724年)に「宇佐八幡宮が御船に乗ってこの地に着かせ給うた」とある。また、『西讃府誌』とは別に、こんな伝承もあるそうだ。
 昔、香田の人が山で仕事をしているとき、家の浦の祝戸というところでキラキラと光るものを見つけました。不思議に思って近づいてみると、それは「神様」でした。
 そこで、この「神様」をどこにお祀りしたらよいかと浦の人々に相談したところ、朝日のよく当るところがいいだろうということになり、西香田の南の高台で、後に「モトミヤ」と呼ばれるところ(今の詫間電波高専の正門の南)にお祀りすることになり、後に船越の地に移されることとなりました。

 境内右側の玉垣内には亀の背に乗った浦島太郎像があり、少し離れた場所に浦島太郎の墓もあるという。この社の鎮座する荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、砂州の発達で陸地と連結した陸繋島となり現在のような半島となったものだそうだ。この辺りにも「浦島伝説」があるようだ。 
 北西2km程の紫雲出山(しうでやま)山頂(標高352メートル)にある紫雲出山遺跡は、三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。ここからは貝塚、円形竪穴住居址、高床倉庫、大型掘立柱建物の遺構などが検出されており、本遺跡が瀬戸内海の交通の監視を意図した可能性が高いとされている。
 本遺跡出土の石器の量は、優に畿内の大遺跡のそれに匹敵するとも指摘されており、ここが瀬戸内海の要所であったことは間違いない。また半島の付け根の波打八幡神社からは銅矛が出土しており、九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏の東の端に当たり、銅鐸文化圏の国々と接する最前線であったとも考えられる。佐原真は出土した石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと考察している。
 「香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社」の鎮座地も瀬戸内海を見渡せる場所であったが、紫雲出山からは晴れた日には対岸の岡山方面まで見ることができる。瀬戸内海の海上ネットワークの重要な拠点であったことは間違いないだろう。
 700年代に入って宇佐八幡宮から勧請されたとされる八幡神社が四国地方のみならず、多く見られる。九州王朝の滅亡に伴って宗廟の座が高良大社から宇佐八幡宮に移ったとされる伝承があるが、その反映であろうか。高良神社の大半は八幡神社の境内社(脇宮)となっている。
 とは言え、香川県では高良神社がよく残されていることが、調査を進めていくうちに分かってきた。神社探訪・狛犬見聞録さんが次のように語っている。
 「香川県ではそれぞれの地域の産土神が、かなりの規模で維持管理されています。現代社会において、これほどの信仰心が維持されている地域は、少ないのではないでしょうか? 嬉しい限りです」
 まるで、私が感じてきたことを代弁して下さっているようだった。同感である。

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【2019/09/25 11:35 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
香川県の高良神社⑤ーー財田町財田上の鉾八幡宮・境内末社
 「咲いたコスモス、コスモス咲いた」
 sin(α+β)=sinα cosβ+cosα sinβ
 『ドラゴン桜』などにも紹介された三角関数の加法定理の覚え方である。「おもしろ授業」風に始めてしまったが、実はコスモスは財田(さいた)町の町の花なのだという。
 古くは「たからだ」と読んた例もあるようだが、現在の地名としては「さいた」と読む。簡単そうで県外の人には読みにくい地名である。

 香川県における高良神社の密集地帯として、前回までに財田川水系4つの高良神社について紹介した。次の表を参照してほしい。
<財田川水系に集中する高良神社>
 香川県の高良神社①――財田西の高良神社
 香川県の高良神社②――山本町辻の菅生神社・境内社
 香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社
 香川県の高良神社④ーー本山の高良神社

 香川県三豊市財田町にはもう一つの高良神社がある。財田町財田上2336に鎮座する鉾八幡宮の境内末社である。鉾八幡宮のホームページより引用する。

鉾八幡宮

 奉祀(ほうし)祭神
 ☆大鞆別命(おおともわけのみこと)(応神天皇)
 ☆息長足媛命(ながたらしひめのみこと)(神功皇后)
 ☆玉依媛命(たまよりひめのみこと)(女性神)
 鎮  座 天正6年(1578)橘城主大平伊賀守国秀建立
 由  緒 財田三郷の御神体の鉾を祀る
 鉾の由来 古事記より「天の沼矛」の記・・・生成発展の根源
 神  宝 銅鉾:3剣、木造狛犬:1対(邪気除け・守護)
 社  殿 神明造り(銅板屋根)
 鳥  居 八幡鳥居
 例  祭 10月第一土、日曜
 境内末社 高良社 宝田宮社 稲荷社
 境 内 地  49,940㎡(15,040坪)
御鎮座の由緒
 財田三郷とよばれていた財田上、財田中、財田西にはそれぞれ御神体として鉾がお祀り(まつり)されていた。
 天正六年(1578)時の橘城主大平伊賀守国秀が、現在の七尾山に社殿を建立。財田郷鎮護の神として、この三郷の鉾を合わせ祀り、伊予国三島宮神主 宮崎大和守を祀官として迎え、以来財田郷総氏神として祭事を継承現在に至る。
鉾の由来
 鉾は矛・鋒・或いは穂木(ほこ)等の字で現されている。古くは武器であったものが、平安時代以降、皇宮祭儀の儀仗、或は神事芸能の(執)物として使われて来たものである。神代の昔、天神は伊邪那岐、伊邪那美の二神に「天の沼矛」を授けて国作りを命じられ、二神はその矛の先よりしたたり落ちる潮が凝り固まりて出来た島に降り立ち国生みがなされた(古事記)即ち、矛は生成発展の根源を成すものであり、神と人、人と人との仲をとり結ぶ絆として尊び、時として神の宿る御神体として祀り、或は神宝として神前に飾り「まつり」の御道具として用いられている。財田郷総氏神は郷土の安泰と生成発展の願いをこめて、鉾を御信宝として祀られている。
 財田三郷にはそれぞれ御神体として鉾が祀られていたというのだが、それらはどこにあったのだろうか。鉾八幡宮の鎮座は天正六年(1578年)であるが、境内末社である高良社(こうらしゃ、祭神:竹内宿禰)の鎮座は文亀2年(1502年)となっている。鉾八幡宮が鎮座する以前に高良社があったことになる。このような事例は他県にも見られ、高良神社の鎮座地に八幡宮が建てられた例がある。栃木県の友沼八幡宮(下都賀郡野木町友沼912)の由緒には、八幡宮の創建に先立って既に高良神社が鎮座していたことが書かれている。
 そうなると御神体の鉾も高良社に伝世されていたものではないかとの推定ができそうである。根拠はどこにあるのか。鉾はそれぞれ財田三郷とよばれていた財田上、財田中、財田西に祀られていたとされる。「香川県の高良神社①――財田西の高良神社」で、すでに言及しているように高良神社は財田西に一社存在する。ところが『西讃府誌』には「中之村」の記述中に「高良大明神 宮坂ニアリ」と出てくる。現在の財田中である。そして今回紹介した財田上……財田三郷の財田上・財田中・財田西の3つのピースが見事に合わさった。アニメ『ワンピース』も隠された歴史がストーリーの背景にあるようだが、今回の発見は「高良神社の謎」に迫る重要なカギを握っているといえよう。
 かつて九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏があった。銅鐸圏の国々を東鯷国や狗奴国に比定する説もあるが、いずれにしても香川県西部は銅剣・銅矛文化圏の東限にあたり、邪馬壹国連合の最前線に相当する地域であったと考えられる。観音寺市や三豊市周辺は古墳地帯になっていることからも、この一帯は瀬戸内海交通の重要拠点であったようだ。そのために財田川水系が水軍の拠点とされたのであろう。
 神社合祀令によるものか、明治42、43年に近隣の神社を多数合祀している。 合祀されたのは「大物主命 天智天皇 菅原道眞 奧津彦神 奧津姫神 火産靈神 大己貴神 阿須波大神 稻倉魂神 天御中主神 大山祇神 五十猛命 素盞嗚命 市杵嶋姫命 宇賀大神 久久能知神 豐受比賣神 水分神 少彦名神 」とそうそうたるもので、多く九州系の神々が含まれている。

 当然ながら、高良社については明治末の神社整理によるものではない。宝物庫の左、石積みの上に建てられた神明造りの高良社は格式高く、あたかも宝物を守っているかのようである。由緒でも「天正六年(1578)三村に鎮座していた神社を七尾山に社殿を建立し合祀した。御神体は鉾なので鉾八幡宮と称した。文亀三年(1503)以前の御神体の鉾、天正六年詫間村浪打八幡宮より治められた鉾二口は現在も宝物として保存している。旧社地はいずれも鉾の宮といい、今なおこの称がある」とされている。
 「鉾の宮」と呼ばれる旧社地がどこなのか、地元の人の教えを請いたいところである。高良神社の社領は淡路島では神代(くましろ)、徳島県の高良神社密集地帯では山城(やましろ)と呼ばれたのではないか。そして香川県最多の高良神社地帯における高良神社の社領「高良田」が訓読みされて「たから田」、さらに「財田」という二字の好字に置き換えられ「さいた」と音読みされた……。これは勝手な想像であるから軽く聞き流してほしいところだが、三豊地区にこれだけ高良神社が集中していることをことを考えると荒唐無稽ともいえないのではないか。
 香川県西部の高良神社はこれだけではない。まだ紹介できていないところがあるので、追って取り上げていきたい。


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【2019/08/19 11:38 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
香川県の高良神社④ーー本山の高良神社

 香川県最大の高良神社といえば、やはり四国八十八ヶ所70番札所本山寺(三豊市豊中町本山甲1445)に隣接する高良神社であろう。ここもまた財田川流域の要衝の地である。四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4か所だけという五重塔が目印。大同2年(807年)平城天皇の勅願により、弘法大師が70番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残る。天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れたといわれる。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれている。その後、「本山寺」と名を改めた。

 近隣の神社などについては案内板に描かれているが、隣接する高良神社については何も見あたらない。本山寺境内はお参りや五重の塔を撮影したりする参詣客でにぎわっていたが、塀を1枚隔てた高良神社を訪れる者は誰もいなかった。もともと寺家村の氏神とされているわけだから、よそ者が来ることを歓迎していないようでもある。

 しかし古い史料では高良神社が大きく描かれていた時期もあり、長福寺(本山寺)は高良神社の神宮寺という位置づけだったのかもしれない。秋の大祭では盛大に神輿が出るということを近所の人からも聞いた。

 静謐(せいひつ)な境内には「高良神社のクスノキ」と呼ばれる香川県の保存木も存在する。勧請元である久留米の高良大社にもクスノキ(県指定天然記念物)があり、高良大社縁起書『高良記』によれば、「クスの木は神木として、御社殿等の用材としても一切使用しないという秘伝がある」と述べられている。

 拝殿の中には武内宿禰と見られる人物を中心に5枚の絵が飾られていた。『西讃府誌』では「高良大明神 祭神武内大臣 祭禮八月十七日」としているが、『豊中町誌』(豊中町誌編纂委員会、昭和54年)を見ると、少し違う解釈もあるようだ。

高良神社(旧村社)

豊中町大字本山甲一四四八番地一
玉垂命(一説に猿田彦命)
 「社伝」によると、貞観十四年(八七二)、当村田井式部が筑後国一ノ宮高良山から勧請して当地の岡本村(寺家・岡本・本大村)の氏神として奉斉したと伝えられている。その後衰頽していたが、宝暦十二年(一七六三)、 本大、岡本、本ノ大村の三か村の人々によって再興され、八幡宮とともに総氏神として祭祀した。明治五年神社社格改訂の折、寺家村の氏神として祭祀を行うことになった。『西讃府誌』に「祭神武内大臣…社地四段四畝、神田六石六斗」と記されている。

 さて、社伝によると872年、当村田井式部が筑後国一ノ宮高良山(高良大社)から勧請したとされている。
 田井式部についてはっきりしたことは分からないが、田井姓については『
日本姓氏語源辞典』によると「①香川県高松市上田井町・下田井町発祥。平安時代に『田中』と呼称した地名。同地に分布あり」と書かれている。小豆島にも田井地名があり、徳島県海部郡美波町田井や高知県にも土佐郡土佐町田井という地名が存在している。また、武内宿禰の後裔とされる玉井姓や田口姓とも一字を共有していることが気になるところだ。
 田井式部と聞いてすぐに思い出したのは、大学時代に読んで感動した『対馬物語 日韓善隣外交に尽力した雨森芳洲』(田井友季子著、1991年)の著者であったが、歴史学者の
御主人は東京出身のようである。
 ちなみに高知県には土佐雨森氏(武家)の後孫となる雨森姓がいる。ルーツをたどると藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。この雨森良高はもと三左衛門良治といったが、父高良より自分の子の証明として与えられた薬籠(名香三種)に橘の紋が付せられていた。これを雨森氏の紋としたとの伝承がある。藤原北家の流れでありながら橘紋というのも不思議だが、あたかも「高良」の名を継承するかのように見えるのは偶然であろうか。

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【2019/08/14 06:49 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社

 香川県の財田川水系に高良神社が密集しているのはなぜか? 財田川河口が古代における天然の河口津として、九州王朝の船団が寄港する拠点となったからであろう。財田川河口に発展した観音寺市には観光の名所・銭型砂絵がある。そこの地名がなんと有明浜。九州王朝の心臓部に広がる有明海を連想する。銭型砂絵を見下ろす山の上には琴弾八幡宮(観音寺市八幡町1丁目1-1)が鎮座する。祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命。その境内社として、参道の途中左手に高良神社が存在しているのだ。近くには興昌寺山第1号古墳もあって、これらの地理的条件は九州王朝とのつながりが深いことを示唆するものではないだろうか。

 7月13・14日は観音寺市の夏祭りで賑わっており、琴弾八幡宮の境内が夏祭りのための駐車場として利用されていた。祭りには目もくれず、一目散に参道の階段を上っていく。大鳥居から381段の階段を上がると本殿がある。
 琴弾八幡宮は大宝3年(703年)3月、琴弾山で日証上人が修行していると彼方の空が鳴動し、琴を弾く翁を乗せた船が漂着。その翁は「宇佐より至る八幡菩薩なり、この風光去りがたし」と告げ消えた。上人は、このお告げを感得し、里人と共に、その船を神舟とし琴と共に、山頂に運び祀ったのに始まるとされ、社名の「琴弾」はそれに由来する。
 ただし、ONライン(九州王朝と大和朝廷の画期701年)直後の大宝年間勧請という由緒を持つ神社が全国的にも多いのは、大和朝廷による神社再編のような政策が反映されている可能性も考えられる。

 西方には愛媛・九州方面へ瀬戸内海が広がり、本殿からの眺めは雄大で、確かに風光明媚と言えよう。さらに琴の演奏の音楽がながれ、訪れる人の心を癒してくれる。また、滝沢馬琴の『椿説弓張月』の舞台にもなっている。


 麓から琴弾山頂まで数多くの境内社があり、一覧は次の通り。
 境内社:庚申神社、山之神神社、琴弾戎、忠魂社、鹿島神社、船霊神社、須賀神社、稲荷神社、宮阪天神、高良神社、松童神社、風之神社、五所神社、蔵谷神社、青丹神社、住吉神社、若宮、武内神社
 山頂に武内宿禰命を祭神とする武内神社がありながら、『香川県神社誌』で高良神社の祭神を同じく武内宿禰命としているのはいかがなものだろうか。本来は高良玉垂命とすべきところを後世の解釈によって武内宿禰命としたために、このような矛盾が生じてしまったのだろう。現地の看板には「高良玉垂(かはらたまたれ)神」と書かれていた。

 “土佐市戸波の宮原村”で紹介した宗像神社の近くにも琴弾八幡宮(土佐市太郎丸82)がある。高知県の琴弾八幡宮は、香川県観音寺市の琴弾八幡宮から分霊を勧請している。

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【2019/07/20 11:34 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
香川県の高良神社②――山本町辻の菅生神社・境内社

 香川県三豊市を中心とする財田川水系は高良神社の密集地帯である。財田西の高良神社の確認を済ませて、次に向かったのは三豊市山本町辻1433の菅生神社であり、境内社として高良神社があるという情報をつかんでいた。7月14日は折しも、「夏越しの祓」を行っており、近所からも茅の輪をくぐってお祓いを受けに来られる参詣客が見られた。高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りで6月30日に行われるところが多いが、ここでは時期を少し遅らせているようだ。「水神様が7月15日に来訪される」という信仰によるものであろうか。
 面積約3ヘクタールの「菅生神社社叢」は、香川県下ではここにだけしか成育していないカンザブロウノキがあり、国の天然記念物に指定されている。神職の話によると「普段はとても静かな神社」とのことだが、10月の例祭では太鼓台が神社に集結し、「神相撲」「夜神楽」などが行われる。「秋祭りは辻から」の伝統を引き継ぎ、江戸時代の大名行列に由来する「奴行列」が登場。獅子や太鼓台などとともに、子供らが参道を練り歩き、時代絵巻を演出する。また3月には戦国時代の名残を残す古式ゆかしい「百々手祭り」が行われる。
 境内社に、神武天皇神社・帯神社・高良神社・荒魂神社・塞之神社・若宮神社・荒魂神社・靇神社・五音殿神社・地神宮・山本宮などがある。神職に話を聞こうとしたが、火災により史料が残っておらず、詳しいことは分からないと言う。この火災については天正年間との記録もあり、長宗我部元親の侵攻によるものだとすると、少なからず責任を感じずにはいられない。
 さて、境内社・高良神社の位置はというと、長い参道を歩いて右手一番最初に見つかった。三社がまとめられ、左から順に帯神社・神武天皇神社・高良神社とある。帯神社というのは息長帯比売命すなわち神功皇后を祀っているのだろう。反対側の向かいにも三社がまとめられた境内社があり、左から若宮神社・靇神社・荒魂神社・五音殿神社と並ぶ。表に表記されているだけでなく、実質は明治42年、大正5年、昭和4年と三期にわたって10社程度が合祭されている。これらは明治39年の神社合祀令によるものだろうが、高良神社を含む数社はそれ以前から境内社として存在していたようで、その歴史的な淵源が気になるところだ。祭神は武内宿禰命とされているようだが、旧鎮座地などについての史料は見当たらない。
 菅生神社については、鎌倉時代の嘉禄2年(1226年)2月15日、菅生大神を鎮斎し、天福元年(1233年)8月13日、宇佐八幡大神を鎮祭して福生神社と称した。一説には天福元年3月15日、古川村鎮座の八幡宮を奉斎して福生神社と称したとも。菅生大神は、瓊々杵尊・天種子命・天押雲命の3柱の総称。福生神は、品陀和気命・息長帯媛命・玉依比女命の3柱とされる。また、石清水八幡宮との関係を示す史料もあるようだ。
 さらに境内に山辺古墳という市史跡があった。元は山本町辻1896にあり、圃場整備で発見され、現在は菅生神社境内に移築されているのだという。発見時、すでにほとんど破壊されていて、玄室の床の部分だけが残っていた。現状で長さ3m、幅1mほどで、奥壁には板石を鏡石に据えている。須恵器と銀環が出土した。
 高良神社の分布と横穴式石室古墳の分布に相関関係があることが以前から指摘されている。愛媛県でもその傾向は顕著である。九州では横穴式石室の出現が4世紀後葉、古墳時代中期の初めである。近畿における横穴式石室の出現は九州よりも遅れ、近畿の中央部で古墳時代中期末、5世紀の第四半期くらいに出現したと言われている。
 5世紀は讃・珍・済・興・武という倭の五王が活躍した時代であり、主に南朝の宋(420~479年)に朝貢している。『宋書』の蛮夷伝にある武の 478年遣使の際の上表文に、「東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ」とあるが、九州王朝を基点とし、東征による九州王朝の勢力圏拡大とともに横穴式石室が普及していったとしたら……。
 一元史観によって説明できなかった九州から近畿への文化移動のベクトルをうまく説明することができる。そしてもう一つの着眼点は九州王朝の船団が寄港する河口津の存在である。次は、財田川河口へと目を向けなくてはならなくなった。

菅生神社由緒

 中古火災のため鎮齋の本縁を知り難きも、古来菅生八幡宮福生八幡宮と並称されて今に山本の両社八幡宮とも云う。明治十二年以来菅生神社と申す。社伝に依るに、嘉禄二年二月十五日菅生大神を鎮齋し、天福元年八月十三日宇佐八幡大神を鎮齋して福生神社と申し奉ると。又一説に、天福元年三月十五日古川村鎮座の八幡宮を奉齋して福生神社と申し奉るなりとも云う。
 祠官は山本郷の社家として真野氏世々奉祀し、神巫は古川村高橋氏相承せり。仰々当社社史に多大の関係ありと思わるゝは、山城国八幡鎮座石清水八幡宮なり。同宮は貞観元年宇佐八幡神を鎮齋して、品陀和気尊、息長帯姫命、比賣神を祭神として神威崇く、其の神領は保元以後全国に及び讃岐国にても庄園其の他に密接の関係ありて、保元三年四月公験譲状、仁安三年四月官宣旨、元久三年十二月、嘉禎三年五月の両処分状等に山本荘の名見ゆ。
 和名抄には、刈田郡山本郷池之尻、原、古川、辻、新田、中田井、河内の緒村有りて、菅生福生両者八幡宮を以て総鎮守として今日に及ぶ。同抄に阿野郡九郷在りて山本郷は後西庄となる。すなわち西庄、池尻、福江、坂出、御供所の五村なるも石清水文書に云う山本荘の果たして何地なりしやは尚後考を要すべきも、其の本宗の神祇を庄園に奉齋して鎮守神とし、本末の関係を益々深からしめんとするは自然の理なれば当官も亦其の由縁に依るものならんかとも云う。
 封建時代に入るや、高井氏代々敬事して其の後裔今に例大祭には奉幣奉供し、殿舎改築等には一族を挙げて報賽の至誠を至すこと昔時に変らない。

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【2019/07/18 08:58 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
香川県の高良神社①――財田西の高良神社
 これまでに徳島県の高良神社の密集地帯、高知県の高良神社の密集地帯を紹介した。西日本豪雨被害の傷跡が残る三好市山城町での昨年(2018年)夏の調査、および台風通過による被害もあった高知県安芸地方での昨年秋の調査の成果をまとめたものが以下の2つの表である。
<高知県の高良神社の密集地帯>
高良神社の密集地帯へーー安芸郡の田野八幡宮(前編)
鯨坂八幡宮との関係ーー安芸郡の田野八幡宮(後編)
室戸市の羽根八幡宮境内社ーー高良玉垂神社
台風一過ーー野根八幡宮境内社の高良玉垂神社は?
甲浦八幡宮境外摂社ーー高良神社(前編)
甲浦八幡宮境外摂社ーー高良神社(後編)
安田八幡宮摂社・若宮神社にも高良玉垂命が……
高良神社余話②ーーどう読む? 「こうら」 or 「たから」
「高良玉垂命=與止比賣」説を発見
佐賀県「與止姫伝説」の分析(古賀論文)
安芸郡の「高良玉垂命=與止比賣」説
芸西村和食の宇佐八幡宮にも高良神社があった
高知県東部 “高良神社の密集地帯” 安芸郡調査の総括
 実は香川県にも高良神社の密集地帯がある。三豊市を中心とする財田川水系である。香川県の高良神社調査で大変お世話になっている「伝える会」さんのホームページによると、財田川水系に4社あるという。
 まず最初に、三豊市山本町財田西の高良神社から紹介したい。この神社は、菅生神社(三豊市山本町辻1433)より歩いて十数分程のところにあるが、周りには特に目印もなく、小高い木に囲まれ、ナビがなければ見つけるのが難しい。『香川県神社誌』には菅生神社境外末社として、次のように書かれている。
高良神社 辻村字東側
祭神 武内宿禰命 天照皇大神
由緒 辻村郷社菅生神社境外末社
祭日 十月十二日  主なる建造物 本殿 拝殿
境内坪数 九十九坪  崇敬者人員 約六十人
 ところが、一つ問題点がある。住所が辻村字東側となっているにもかかわらず、現住所は財田西なのである。隣接する地域であり、山本町に統合されてはいるが、元々は辻村と財田西村(西野村)とは隣村であり行政区分が異なる。
 私が現地を訪れたところ「西之村高良神社」との石碑を見つけることによって、かろうじて、その存在を確認することができた。しかし木立ちに阻まれて、直接見ることができない。坂道を登ったすぐ上の辺りであろうと予測できたが、何しろ道が夏草に覆われてしまっており、先程からの雨で濡れている。一歩踏み入れ、草むらの深さに、一瞬ひるんでしまった。7月中旬、蛇が出てもおかしくない季節である。引き返そうかとも思ったが、せっかく来たのに見ずに帰るのも無念である。勇気を振り絞って、草むらをかき分け突き進んだ。

 そう広くはない社地だったが、確かに拝殿と本殿があり、高良神社であることを確認できた。かなり風化した五輪の塔のような石積みもいくつかあり、似たような石積みが菅生神社の裏手にもあるという。菅生神社境外末社とされるには、それなりのつながりがあるのかもしれない。
 一方『西讃府志』を見ると「三野郡高野郷」のページに、「西之村」は次のように書かれているが、高良神社についての記述はない。
昔シ財田ノ一村ナリシヲ、上中西ト三村ニ分レシヨリ、此名アリ、東西十六町三十間、南北十四町二十間、丸亀ヲ去ルコト六里、東神田、南中之村河内ノ二村、西辻村、北大野等ノ諸村ニ隣レリ、村高四百三十八石七斗二升五勺、
 どういうわけか、次の「中之村」についての記述中に「高良大明神 宮坂ニアリ」と出てくる。中之村は西之村の南側に隣接する村である。一つの高良神社の鎮座地について、こうも記述が異なるのはどうしたことだろうか。もしかしたら、かつては村ごとに高良神社があって、複数の鎮座地が混同された可能性すら見えてくる。というのも、菅生神社の境内社として高良神社が存在しており、ある段階で神社整理されたとしたら、近くに旧鎮座地があるはずなのだ。とりあえず、菅生神社についても調査する必要がありそうだ。

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【2019/07/16 11:10 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
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