香川県観音寺市といえば琴弾八幡宮・境内社として高良神社があることを以前紹介した(“香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社”)。その時点では触れなかったが、四国遍路八十八箇所の第六十八番札所・琴弾山神恵院はかつて琴弾八幡宮の神宮寺として創建された。江戸時代以前の神仏習合の時代に刊行された『金比羅参詣名所図絵巻之三』(1847年)に描かれた琴弾宮の絵および説明を見ると、現在とは違った姿を知ることができる。 琴弾八幡宮 現在は参道の階段途中に、小さな境内社として祀られている高良神社(祭神:高良玉垂神)が、かつては山頂に大きく祀られていたことが分かる。いや、もしかしたら今の高良神社とは別なのかもしれない。山頂に現在祀られているのは住吉神社・若宮・武内神社(祭神:武内宿禰命)である。どうやら江戸時代まで高良社と呼ばれていたものが、明治以降に武内神社と名前を変えたことが推察される。 筑後の一宮・高良大社(福岡県久留米市)の両部鳥居から連想されるように、高良神社は神仏習合の色合いが強い。明治維新直後の神仏分離令に対して、神社側も極力仏教色を排することを余儀なくされた。社名変更もその一貫である。高知県土佐市の松尾八幡宮に境内社として武内神社(祭神:高良玉垂命)が鎮座しているが、同じような理由から本来は高良社であったかもしれない。 余談が長くなってしまったが、実は観音寺市にはもう一つの高良神社がある。『観音寺市誌 資料編』(観音寺市誌増補改訂版編集委員会、昭和六十年)によると、菅生神社の末社として原町野田の二社が次のように併記してある。
地図上では野田自治会場の隣に荒魂神社と地神宮の名前が書かれているだけ。現地でも高良神社かどうかは判断できなかった。おそらく三豊市山本町辻の菅生神社(“香川県の高良神社②――山本町辻の菅生神社・境内社”)の末社として高良神社が合祀されているということだろう。距離的には1キロメートル以内の場所である。 観音寺市には2基の古墳が知られている。一つは原町の青塚古墳で、帆立貝形の前方後円墳で、墳丘の長さは約43メートルで周濠をめぐらしている。もう一つは室本町(琴弾八幡宮の北)の丸山古墳で、径約35メートルの円墳である。前者は竪穴式石室、後者は横穴式石室を持ち、共に刳(く)り抜き式舟形石棺で、石材に阿蘇の凝灰岩を使用している。 この2基の古墳と2つの高良神社のロケーションとが見事に一致する。これまでは倭の五王時代に対応する5世紀頃の横穴式石室古墳の分布に注目してきたが、竪穴式石室古墳となるとさらに古くなる。しかも石材が阿蘇の凝灰岩ということであるから、その産地である熊本県宇土市辺りとの交流があったことは、まず間違いない。5世紀の段階で讃岐地方に九州王朝が進出していたことの根拠となるのではないだろうか。銅矛などの分布を見ても、それは弥生時代からの歴史の継続性があると見てとれる。 香川県にはまだ紹介できていない高良神社がいくつかあり、とりわけ県西部は高良神社の密集地帯であることがよく分かる。調べることはまだ多くあるが、高良神社の分布を追うことによって、九州王朝とのつながりが見えてくるようである。 PR |
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