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『詳説日本史』(山川出版社)から橘氏の基礎知識
 NHKの朝ドラ『まんぷく』もいよいよ佳境に入ってきた。チキンラーメンを開発した呉百福氏になぞらえた主人公・立花萬平さんが、かつて夫婦漫才を演じたシーンで「立ち話も何ですから……って、もう座っとるな」と言ったセリフ。実は俳優・長谷川博己さんのアドリブであったことが本人へのインタビューで判明した。
 さて、橘氏のルーツを探すと言っても、まずは基礎知識を押さえておこう。高校の日本史Bの教科書『詳説日本史 改定版』(山川出版社)の50ページから、橘諸兄(たちばなのもろえ)についての記載がある。

 不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣であった長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てることに成功した。しかし、737(天平九)年に流行した天然痘によって4兄弟はあいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。かわって皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任されて活躍した。
 ……(中略)……
 孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂が光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂を倒そうとするが、逆に滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)。

 710年以降の政権の中心は藤原不比等→長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄と移り変わる。橘諸兄は県犬養三千代と敏達天皇系皇親である美努王(みぬおう/みのおう)との間に生まれた。
 三千代は天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。また、藤原宮跡からは大宝元年の年記を持つ「道代」木簡と大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる「三千代」木簡が出土しており、橘姓への改姓と同時に名も道代から三千代に改名したと考えられている。
 橘氏の先祖をさかのぼると敏達天皇に繋がるというのは、簡単に言うと上記のような内容であった。


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【2019/02/20 23:57 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
土佐日記に見える「橘のすゑひら」
 そういえば紀貫之(868?~945年)の『土佐日記』の中に橘氏が登場する。橘のすゑひらという人物である。おそらくは土佐国の歴史に登場する最初の橘氏ではないだろうか。
 『新編土佐日記』(東原伸明、ローレン・ウォーラー編、平成25年)を読むと、藤原のときざねと橘のすゑひらについて「国府の役人か」と註が入っている。10世紀頃の土佐では藤原氏と橘氏が国府の有力なポストを占めていたと考えられる。
 はやく往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば船にのりなむとす。この折に、在る人々、折ふしにつけて、漢詩ども、ときに似つかはしきいふ。また、或人、西国なれど、甲斐歌などいふ。かくうたふに、「船屋形の塵もちり、空ゆく雲もたゞよひぬ。」とぞいふなる。今宵浦戸に泊る。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々追ひきたり。

(中略)
 九日のつとめて、大湊より奈半の泊を追はむとて、漕ぎ出でけり。これかれたがひに、国の境のうちはとて、見送りにくる人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさらなむ、御館より出で給びし日より、こゝかしこに追ひくる。この人々ぞこゝろざしある人なりける。この人々の深きこゝろざしは、この海にもおとらざるべし。これより今は漕ぎ離れてゆく。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひきける。かくて漕ぎゆくまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見えずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、甲斐なし。かゝれど、この歌をひとりごとにしてやみぬ。
  おもひやるこゝろはうみをわたれども
  ふみしなければしらずやあるらむ
(岩波文庫『土佐日記』鈴木知太郎校注より引用)


 さて、来たる2月17日(日)に「土佐国府 要人船出の地について ー紀貫之ー」と題する史談会講座がオーテピアで開かれる。紀貫之が船出した場所について、これまでの従来説を大きく塗り替える新説が、朝倉慶景氏(土佐史談会理事)によって発表される予定である。
 『土佐史談第269号』(土佐史談会、2018年11月)に掲載された「土佐国における国分尼寺 ー建立地の歴史地理学的考察ー」に引き続き、
『長宗我部地検帳』に基づく実証主義的な朝倉氏の論理展開に乞うご期待といったところか。

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【2019/01/06 01:00 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
朝ドラ『まんぷく』ーー立花塩業の立花萬平
 橘氏のルーツを探すシリーズのカテゴリー名を何にしようかと悩んだあげく「たちばなしも何ですから」と洒落っ気を込めてつけた。すると朝ドラ『まんぷく』で立花塩業の立花萬平さんが、社員を元気づけるための夫婦(めおと)漫才で、同じことをしゃべっていた。「立花塩業の社員の皆さん、立ち話しも何ですから……って、もう座っとんのかい」。

 立花萬平(長谷川博己)のモデルとなったのは日清食品の呉百福という台湾出身の実業家である。台湾では「百」は縁起のいい名前なので、台湾人には百(モモ)さんや桃さんがたくさんいると聞いた。よって、チキンラーメンの開発者は、残念ながら橘氏とは直接は関係がなかったようである。


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【2018/12/28 10:07 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
棟札に残された地頭橘系安芸氏

 安芸郡には、蘇我氏流ともいう有力国人安芸氏が起こり、畑山・中川・黒岩・奈比賀・有沢・並川の諸氏を分出する。 その他、惟宗氏流の野根氏・室津氏・別府氏・安田氏、明神氏、大野家氏、安岡氏、一円氏、北川氏、有井氏、岩崎氏、和食氏、千頭氏がある。
 戦国期の橘系安芸氏については「大檀那地頭橘鍋若丸」「大檀那橘元親」など、いくつかの棟札が知られていることは、“橘系安芸氏と蘇我氏との関係”のところで書いた。『安芸市の史跡と文化財』(安芸市教育委員会、昭和55年)にも一族と思われる名前が数名登場する。

 安芸八幡宮(祭神:胎中天皇)に関して「戦国時代安芸の領主、橘元泰が大檀那となって本堂を寄進したことが記録にみえる。(1533ー天文二)橘元泰は安芸城最後の主安芸国虎の父である」と紹介されている。
 また、畑山字和田にある水口神社(祭神:敏達天皇と蘇我赤兄・蘇我乙麿)について、「橘元綱という大檀那が社殿を造営している(1553年ー天文二一)がこれも安芸氏であろう」としている。橘氏は敏達天皇を遠祖としていることからも、このつながりは頷ける。
 さらに室町時代以前の創建とされる奈比賀天満宮(祭神:菅原道真)の社堂の寄進が「土佐国編年記事略から拾ってみても、地頭橘鍋若丸(1482ー文明二四)、名本物部正重(1508ー永正五)、橘元泰(1535ー天文四)、橘元盛(1556ー弘治二)などの名が見える。橘元盛、元泰は安芸の領主である」と橘氏の名が複数見られる。高知県東部では天満宮の存在は珍しく、橘氏と九州との関係も見えてきそうだ。


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【2018/12/04 07:10 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
橘系安芸氏と蘇我氏との関係

 福岡県で橘氏の末裔とされる宮原氏と出会って、1年近く。やっと橘氏のルーツ探しに足を踏み入れることになった。『土佐史談231号』(土佐史談会、2006年3月)に朝倉慶景氏の「橘系安芸氏と安芸地域について」と題する論考が掲載されている。
 まず吉田萬作氏の「橘姓は本家のみに称せられ、分家である畑山氏(後に安芸姓に改む)系統は蘇我姓が継承され、かつ本家橘姓呼称は国虎自刃と共に消滅する訳である」との先行研究を紹介しながら、豊富な史料を精査した上でのいつもながら鋭い分析を加えている。

 地頭橘系安芸氏については「室町幕府は安芸地域を支配するため、地頭に橘系安芸氏を任命したと考えられる」とし、南北朝統一後の永享十(1438)年と推定される八月二十二日付け文書では、細川京兆家(管領家)が佐川四郎左衛門尉を討伐するため、土佐国人に対し出陣命令を出した。その中に「安芸備後守」と出ているのが地頭橘系安芸氏の初見史料であるとしている。
 また、戦国期の橘系安芸氏については、いくつかの棟札が知られている。「大檀那地頭橘鍋若丸」「大檀那橘元親」など、棟札では俗称安芸氏は用いないで本姓橘を使用している。地頭の橘系安芸氏は元親・元泰・国虎と継がれ、彼を以って国人橘系安芸氏は滅亡した。

 結論として「地頭で橘姓を名乗る安芸氏は暦応三(1340)年ではまだ安芸荘に居住していなかったと考えられる。つまり橘系安芸氏は蘇我系の家筋とは異なるのである」とした。すなわち古代安芸地域の郡司の流れを汲む蘇我系の家筋と戦国期栄えた橘系安芸氏の両家筋は異なるーー通説を正す明快な指摘が出されている。



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【2018/11/24 16:49 】 | たちばなしも何ですから | 有り難いご意見(0)
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