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 橘氏のルーツを探し求めるときに欠かせない視点がある。植物としての「タチバナ」の分布である。タチバナの生息せぬ場所に橘姓の生ずることは考えにくい。
 タチバナは別名「ニッポンタチバナ」「ヤマトタチバナ」というように、実は日本固有の柑橘である。
伊豆半島を東限とし、和歌山・三重・山口など、太平洋岸の暖地に今でもごくわずか自生しており絶滅危惧種に指定されている。
 もちろん、県犬養三千代がその功績を称えられて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となったことはよく知られているところである。その起源譚にしてもまた、植物のタチバナが関係していることは無視できない。
橘は 実さへ 花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉の樹
 この歌は天平八年(736年)十一月に葛城王(かづらぎのおほきみ)や佐為王(さゐのおほきみ)らが橘(たちばな)の姓を賜って皇族から臣下に下ったときに賜られた御製歌とされている。
 『万葉集』では66首もの歌がタチバナを詠んでおり、花は文化勲章のモチーフとしても知られている。タチバナは古くから日本人に親しまれてきた植物なのだ。
 では、日本に古くから自生してきた唯一の柑橘類とされるタチバナが最も多く群生している場所はどこにあるのだろうか。それが実は、高知県土佐市甲原の松尾山(標高271m)なのだという。東面の尾根上に樹齢300年超の古木を含む約200本が自生し、2008年には国の天然記念物に指定されている。
 今なお、これほどのタチバナの群落が残っているのは大変貴重なもので、学術的にも価値が高いと評価されており、地元住民組織の「タチバナを守る会」等により保護活動が展開されている。なぜ、このような形で残ったかというと、石灰岩が露出した急傾斜の岩角地であるため人工的な栽培活動にも利用されず、また、他の植物の進入も少なかったことからタチバナが生き残ることができたと考えられている。
 土佐市甲原松尾山の日本最大規模のタチバナ群落と橘氏のルーツには何か関係が有るのか、無いのか。違った角度からアプローチしてみるのも面白いかもしれない。
 
 

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 「長岡郡大豊町に斉明6年棟札があった①」で紹介した長岡郡大豊町は高知県北部の山間地帯にある。隣接する本山町、土佐町、大川村の4町村を合わせて「嶺北」とも呼ばれ、標高200〜1800mの典型的な山村地域だ。約90%を森林が占め、まさに高知の中の高地といったところだろうか。
 大豊町桃原(ももはら)には「高羅大夫社」が鎮座しているというので、その神社が高良神社と同様の社であるのか確認したいと思って訪ねたのがきっかけだったが、行ってびっくり。桃原地区のほとんどが「上村」姓だったのである。高知県では「植」の字を使う「植村」姓が主流で、「上村」は珍しい。
 北側には四国山地の峰々が連なり、急な斜面に人家が建ち並ぶ。舗装された道路はあるが、山頂に近づくと、車では引き返すのも大変な道になってくる。吉野川を見下ろす景色は素晴らしいけれども、よくこんな不便そうな場所に住んでいるものだと関心する。まさに桃源郷を連想させる隠れ里のような桃原地区であった。
 ホームページ『名字由来net』<https://myoji-yurai.net/sp/>によると、「上村」姓のルーツには次の三つの流れがあるようだ。
①現熊本県である肥後国球磨郡が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家。
②ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
③古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏楠木氏流。
など様々な流派がある。
 大豊町は大杉と豊永の名前を合わせたものであり、桃原はかつての豊永郷に含まれる。さらに豊永という名前は、小笠原備中守豊永の末裔で、豊永の姓は肥前松浦郡豊永庄に由来していると記録にある。現在も熊本県玉名郡に豊永という地域があり、球磨郡にもかつては豊永郷があったという。どういうわけか急に九州とのつながりが見えてきた。
 ONライン(701年)以前の創建を伝える参大妙見社の棟札(斉明六年棟札)の存在。天御中主尊を祭神とする妙見社は明治になって星神社に名称変更になっているが、高知県下約60社中の13社が大豊町に集中している。熊本県の八代神社(妙見宮)をはじめとする九州方面からの妙見信仰が高知県内で最初に根付いたところが大豊町(旧豊永郷)ではなかったか。
 さらに、大宝二年棟札(熊野十二所神社所蔵)に上村姓が見えることから、この上村一族が大豊町桃原の地で、古くから妙見社および熊野十二所神社、さらには高良神社(高羅大夫社)を祀ってきたのではないかと推測できる。
 中世より豊永郷を治めていた小笠原氏、豊永氏が、江戸時代の土佐藩政時代にも、この地をそのままを治めることとなった。中世以前の文化が多く残る貴重な地域となったゆえんである。土佐山内家宝物資料館に保存されている『御侍中先祖書系図牒』には、太平、怒田、九次の三ケ村を領地とするとある。「九次」という場所が不明とされているが、神事と関係する地名のようにも感じられる。
 ますますこの地域とこの地に入植して住みいついた一族に目が離せなくなってきたようだ。


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 高知県土佐市に家俊という小集落がある。初めて聞いた時から地名というより人名のような印象を受けていたことは、まんざら筋違いでもなかったようだ。「家俊之村」は中世織豊期にみえる村名で、天正17年(1589年)の戸波地検帳に戸波郷の小村として記され、かつて家俊名があった。土佐市役所は高岡町にあるが、家俊は西部地域(戸波)の中心をなしている。この家俊に天草のジャコメ大矢野又十郎家俊が定住し開発したというキリシタン伝承がある。
 天正年間、天草から土佐に移住したキリシタン大矢野又十郎家俊のことは、高岡郡須崎町(現須崎市)矢野家文書の中に見えるという。

矢野家文書

大矢野民部大夫種保氏ニ三男子有リ
第一男子大矢野内蔵之丞種基ト称ス
第二男子大矢野喜十郎種存ト称ス
第三男子大矢野又十郎種家ト称ス
右三兄弟ハ蒙古大軍三拾余万人ヲ海底ニ落シ軍船数千ヲ打チ破レ武勇ノ軍行ニ因リ鎌倉殿下北条氏ヨリ御誉ニ預カリ領地沢山ニ益ス事有リ
右三男又十郎種家ヨリ数代ノ後チニ又十郎家俊成ル者深ク耶蘇衆信シ邪法(マホウ)諸人ニ行フト有リテ天正年間天草島立チ退ヲ命セラル附言ス又十郎家俊領地天草島ヲ立チ退キノ場合耶蘇衆秘伝を森惣意軒ニ伝授致シ候由後徳川家光公ノ時代二天草島一駅(揆)起リ天下ヲ駕シタル老将ハ此ノ森惣意軒ノ耶蘇衆ノ邪法ノ軍略也以下略ス
右大矢野又十郎家俊ハ四国地ヘ渡リ土佐国高岡郡戸波村ニ居住シ大ノ一字ヲ取リ除ケ矢野ヲノ二字ヲ頭名字ト直ス此レ即チ矢野氏ノ名初元也因テ高岡郡南部ノ矢野家ハ大矢野ノ血別レナリ
 すなわち、先祖は蒙古襲来(1274年文永の役、1281年弘安の役)のとき、肥後の菊池武房や竹崎季長らと出陣した大矢野種保・種村兄弟につながるという。兄弟の活躍は『蒙古襲来絵詞』にも描かれており、種保・種村兄弟は種能の子孫とみられる。また、絵詞には種保・種村兄弟らが桐の紋を打った旗を掲げて異国の敵に打ちかかっている様子が描かれている。
「五七の桐」の画像検索結果
▲大矢野氏の紋 「丸に五七の桐」

 この矢野家文書に書かれている事はどこまで信頼できるのだろうか。熊本県の大矢野島にはキリシタンに関する報告はたくさん残っているが、天正年間にキリシタンが土佐国に追放されたといった事例は見当たらないようだ。

 文書によると、島原・天草一揆の指導者であった森惣(宗)意軒は又十郎家俊からキリスト教の秘伝を伝授されたとある。小西行長にも仕え、大坂の陣では真田信繁の軍について戦うが落城し、肥後国天草島へ落ちのび、天草四郎の右腕となった人物だ。熊本県上天草市大矢野町中柳地区には森宗意軒神社もあり、「五三桐紋」が掲げられている。
 ルイス・フロイスの『日本年報』のオオヤノドノ(殿)ジャコメの欄には、天草領主ドン・ジョアン天草種元の甥であると報ぜられている。この人物が土佐へやって来たのだろうか。

 又十郎家俊は「キリスト教に深く帰依し邪法(マホウ)を諸人に行う」というのが彼の天草立ち退きを命ぜられた理由である。天正15年秀吉の宣教師追放令が発布され、天草の会堂が破壊されても天草はかえってキリシタンの盛時を迎え、キリシタン人口は3万人にも達した。キリシタン大名小西行長の支配となったこともあり、キリスト教の取締りは不徹底に終わった。

 一方、土佐ではキリシタンとなった幡多郡の一条氏は長宗我部氏に滅ぼされ、江戸時代になって山内家の治めるところとなったが、とりわけ島原・天草一揆以降はキリシタンに対する取り締まりはさらに厳しくなった。
 そのような中にあって一揆の首謀者との関係を示すような文書が矢野家に存在しているということは非常に危険なことである。ずっと後代ならばまだしも、迫害の厳しい時代にそのような文書を偽作するとは到底考え難い。
 問題は別にある。大矢野又十郎家俊が土佐に移り住んだのが天正15年(1587年)以降だとすれば、検地の時点と近すぎるのである。『長宗我部地検帳』には「家俊之村」とあるが、他国から来て1、2年程度ですぐに地名に反映し、「因テ戸波村ニハ家俊ト称ス小部落有リ」としているのはこじつけのように思える。
 『探訪』創刊号(仁淀川歴史会、平成26年)掲載の"「土佐市家俊」の村"と題する論考の最後に、尾崎糺氏は「戸波の小字『家俊』の地名の由来は『家俊大良衛門』という姓によったもので『ジャコメ大矢野又十郎家俊』の名前に由来するのではないと考える」と付け加えておられる。移動の時期が間違っていなければ、もっともな推論である。地検帳に複数見られる矢野氏の大元の先祖とはなり得ず、一家系の先祖にすぎないことになるだろう。家俊小学校の卒業生名簿を見ても、約5分の1程度が矢野姓である。
 しかし、「土佐の豪族片岡氏のルーツは平氏か源氏か?」で言及したように、伝承より事実はもっと古かったということもあり得る。公の歴史に現れない家伝が、有名な表の歴史によって付け足され、補強されることがあるからである。もしかしたら、キリシタン云々を抜きにして、さらに古い時代に土佐へ入国した矢野氏の祖となる大矢野氏がいたのではないだろうか。「戸波の家俊は、キリシタン伝承の話題となっているが、宗教的な遺跡はまだ発見されていない」と『増補版・土佐とキリシタン』(石川潤郎著、2002年)は述べている。

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 高知市の西、土佐市家俊に有限会社天草工業という建設会社があるのを見かけて驚いたことがある。なぜかというと、私の兄弟は熊本県の天草工業高校を卒業しているからだ。きっとここの社長さんも天草出身で、天草工業高校の卒業生なのではないかと想像が膨らんだ。
 その確認は出来ていないが、『探訪』創刊号(仁淀川歴史会、平成26年)掲載の"「土佐市家俊」の村"と題する尾崎糺氏の論考が気になった。次のような内容が紹介されている。

大矢野又十郎家俊

 肥後国(熊本県)天草に石高四万余を領する大矢野城主大矢野民部大夫種保が居り三人の男子が居た、この兄弟は蒙古襲来のとき大手柄を挙げ、鎌倉の北条氏により領地の加増を受ける。
 この大矢野又十郎家俊なる者は耶蘇教を信仰し、諸人に広めた。此の事により、天正年間(一五七三~一五九一)豊臣秀吉により天草島立ち退きを命じられ四国へ渡り土佐国高岡郡戸波村に居住して、大の一字を取り除いて「矢野」の二字を名字とした。高岡郡南部の矢野氏は大矢野の一族である。
 戸波から南へトンネルを抜けて海岸に至る山の中腹に「大矢野」と呼ばれる矢野氏が今も存在する。又、蓮池村茶円にもその一族があり長宗我部地検帳に給地の表示が残っているのでその一部を書き出して見る。
 ……(中略)……

おわりに

 戸波の小字「家俊」の地名の由来は「家俊大良衛門」という姓によったもので「ジャコメ大矢野又十郎家俊」の名前に由来するのではないと考える。

 豊臣秀吉は、初めキリスト教の布教を認めていたが、1587(天正15)年、九州平定におもむき、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付していることを知って、まず大名らのキリスト教入信を許可制にし、その直後バテレン(宣教師)追放令を出して宣教師の国外追放を命じた。

 秀吉がキリスト教に対して強硬な態度を取るようになったいきさつについては、土佐国も無関係ではない。
 1596(慶長元)年、土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の乗組員が、スペインが領土拡張に宣教師を利用していると証言したことから(サン=フェリペ号事件)、秀吉は宣教師・信者26名を捕えて長崎で処刑した(26聖人殉教)。その背景には、日本への布教のため進出したスペイン系のフランシスコ会とイエズス会との対立もあったとされる。

 大矢野島は現在上天草市となっているが、江戸時代初期に島原・天草一揆(1637年)の火種となったところである。バテレン追放令後も大矢野一族は信仰を守り続け、大矢野島は天草におけるキリスト教信仰の中心地として栄えた。この大矢野氏の庇護があってこそ、天草(益田)四郎時貞が神の使者として出現し、宣教師が残した預言の成就を人々に印象付けることとなった。

 その大矢野一族の一人である大矢野又十郎家俊なる人物が、
豊臣秀吉により天草島立ち退きを命じられ、四国へ渡り、土佐国高岡郡戸波村にやってきたというのだ。
 尾崎糺氏も「遠い肥後の天草より戸波村家俊に流れてきたキリシタン、『ジャコメ大矢野又十郎家俊』が長宗我部軍団の一員となりカタバミの旗の下で戦国の世を生き抜く姿はロマン漂う」と述べているように、これが歴史的事実であるとは一見信じがたい。
 はたして熊本と高知との歴史的なつながりはありやなしや? 大矢野又十郎家俊が肥後から土佐へやって来たとする根拠はどこにあるのか。それを事実と肯定するに足る整合性は存在するのか。「論理の赴くところへ行こうではないか。たとえそれがどこであろうとも」――後編ではそれらについて、深く掘り下げて考えてみたい。(後編に続く)


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 歴史の研究においては、自然科学のように明快な解答が出ることは少ない。土佐国高岡・吾川両郡の北部地方に中世、勢力を伸ばした豪族片岡氏の出自と土佐入国の時期については大きく2説に分かれる。

平氏説(八幡荘伝承記・片岡物語等)

 桓武天皇の三代目高望(八八九年)平氏を賜り、その十一代目の経繁は上野国(群馬県)中野荘片岡城主で、坂東太郎と名乗り平清盛の家人であった。

源氏説(高吾地方の片岡氏家系図等)

 桓武天皇より百余年後、宇多天皇の二代目雅信(九二〇年)源氏姓を賜るものと、醍醐天皇の子高明(九二〇年)第一源氏姓を賜るものとあり、この両者を始祖として数代続いた後、忠綱より以後は同一となり上野国片岡郡に食すとある。



 源氏説では応永十八年(一四一一年)十二月、片岡左衛門大夫直綱のとき土佐の新居浜(現土佐市)に上陸し、仁淀川を遡上し、徳光村(現越知町片岡)に落ち着く。また別家の系図には、足利義政に仕え、応仁の乱の忠勤により地頭職として文明年間の初め(一四七〇年頃)土佐に入国し、吾川郡小川郷徳光村に住むというものもある。
 平氏説、源氏説ともに直綱以後は同一であり、それから七代続き、光政が九州大分の戸次川の戦で戦死したため豪族としては絶えた。

 問題はこの応永十八年(一四一一年)土佐入国説なのだが、『佐川史談 霧生関38号』(佐川史談会、平成14年)に「豪族片岡氏の土佐入国の考察」という中山半氏の論考がある。
 片岡氏によって創建されたとされる天忠寺に関して、中山氏は明徳四年(一三九三年)土佐国吾川郡波川(現いの町)に生まれた僧・義天玄詔との関わりに注目した。天忠寺の創建年月について「義天の記録から推測して南北朝時代末期、少なくとも応永年間以前であることは否定できない」とし、「源氏説の直綱の土佐入国以前に天忠寺があり、それに肩入れした豪族片岡氏が存在したことは明らかである。従って源氏説にいう片岡直綱が初めて土佐に入国したということはあり得なかった」と中山氏は結論づけている。

 調べてみると、伝承よりも事実はより古かったということは他でも聞いたことがある。「応永十八年直綱の土佐入国説」も何らかの事実を反映した内容があるかもしれないが、土佐の片岡氏の歴史はもっと古くから連綿と引き継がれていたと考えるべきだろうか。
 最後に『越知町史』(越知町史編纂委員会、昭和59年)の見解として「片岡氏の系譜について」(P296)と題する内容を引用しておく。

片岡氏の系譜について

 片岡氏に関しての史料は歴史学的に確認されるものは何もない。ただ「八幡荘伝承記」、「片岡物語」と「片岡盛衰記」、各地の片岡家に所蔵する「系図」くらいのものである。
 八幡荘伝承記や片岡物語はその原書の実態の明分しない「幻の文書」とされてその真価が問われず文字通り伝承の域を出ない。片岡盛衰記も部分的なもので、いつ、誰の筆になったものかも分からない。各地に散在する系図にいたっては、各種、各様で、一定せず、何れとも判断はできない。
 もっとも大きな疑問とするところは、すでに記したように、前期片岡(直綱以前)と後期片岡(直綱以後)の関連の有無だが、前期片岡に関するものとしては、「伝承記」、「物語」のほかには一枚の文書も、棟札の一つもない。河間光綱はじめ、斗賀野・佐河・越智・三宮・近藤・麻生など高北各氏の登場する佐伯文書の中にも片岡の名は出てこない。だがこのことをもって前期片岡の存在を否定することはできない。片岡氏にかぎらず、そのころ(応永以前)の棟札をのこしている社寺はこの地方にはほとんど無く、また佐伯文書の時代にしても、片岡氏には他族ほどの南北攻防に積極性はなかったかも知れない。要するに伝承記や片岡物語が語る河間対片岡の執拗な争剋が虚構とは考えられない。
 また、系譜としては、谷秦山の著「土佐遺語」や奥宮正明の「土佐国蠧簡集」などにある片岡系譜が史料として引用されているが、これらにしても編者が、片岡家の系図を史料としただろうが、それぞれ相違している。後年では寺石正路の「土佐名家系譜」、高木孫四郎の「片岡城」などがあるけれどもこれらも前者と同じくまちまちである。
 伝承記や片岡物語では平家の出自となっているが、各地にある片岡系譜は源氏の出自とし、なお宇多源氏、醍醐源氏などの異説となっている。
 

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 NHKの朝ドラ『まんぷく』もいよいよ佳境に入ってきた。チキンラーメンを開発した呉百福氏になぞらえた主人公・立花萬平さんが、かつて夫婦漫才を演じたシーンで「立ち話も何ですから……って、もう座っとるな」と言ったセリフ。実は俳優・長谷川博己さんのアドリブであったことが本人へのインタビューで判明した。
 さて、橘氏のルーツを探すと言っても、まずは基礎知識を押さえておこう。高校の日本史Bの教科書『詳説日本史 改定版』(山川出版社)の50ページから、橘諸兄(たちばなのもろえ)についての記載がある。

 不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣であった長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てることに成功した。しかし、737(天平九)年に流行した天然痘によって4兄弟はあいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。かわって皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任されて活躍した。
 ……(中略)……
 孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂が光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂を倒そうとするが、逆に滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)。

 710年以降の政権の中心は藤原不比等→長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄と移り変わる。橘諸兄は県犬養三千代と敏達天皇系皇親である美努王(みぬおう/みのおう)との間に生まれた。
 三千代は天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。また、藤原宮跡からは大宝元年の年記を持つ「道代」木簡と大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる「三千代」木簡が出土しており、橘姓への改姓と同時に名も道代から三千代に改名したと考えられている。
 橘氏の先祖をさかのぼると敏達天皇に繋がるというのは、簡単に言うと上記のような内容であった。


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 そういえば紀貫之(868?~945年)の『土佐日記』の中に橘氏が登場する。橘のすゑひらという人物である。おそらくは土佐国の歴史に登場する最初の橘氏ではないだろうか。
 『新編土佐日記』(東原伸明、ローレン・ウォーラー編、平成25年)を読むと、藤原のときざねと橘のすゑひらについて「国府の役人か」と註が入っている。10世紀頃の土佐では藤原氏と橘氏が国府の有力なポストを占めていたと考えられる。
 はやく往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば船にのりなむとす。この折に、在る人々、折ふしにつけて、漢詩ども、ときに似つかはしきいふ。また、或人、西国なれど、甲斐歌などいふ。かくうたふに、「船屋形の塵もちり、空ゆく雲もたゞよひぬ。」とぞいふなる。今宵浦戸に泊る。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々追ひきたり。

(中略)
 九日のつとめて、大湊より奈半の泊を追はむとて、漕ぎ出でけり。これかれたがひに、国の境のうちはとて、見送りにくる人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさらなむ、御館より出で給びし日より、こゝかしこに追ひくる。この人々ぞこゝろざしある人なりける。この人々の深きこゝろざしは、この海にもおとらざるべし。これより今は漕ぎ離れてゆく。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひきける。かくて漕ぎゆくまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見えずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、甲斐なし。かゝれど、この歌をひとりごとにしてやみぬ。
  おもひやるこゝろはうみをわたれども
  ふみしなければしらずやあるらむ
(岩波文庫『土佐日記』鈴木知太郎校注より引用)


 さて、来たる2月17日(日)に「土佐国府 要人船出の地について ー紀貫之ー」と題する史談会講座がオーテピアで開かれる。紀貫之が船出した場所について、これまでの従来説を大きく塗り替える新説が、朝倉慶景氏(土佐史談会理事)によって発表される予定である。
 『土佐史談第269号』(土佐史談会、2018年11月)に掲載された「土佐国における国分尼寺 ー建立地の歴史地理学的考察ー」に引き続き、
『長宗我部地検帳』に基づく実証主義的な朝倉氏の論理展開に乞うご期待といったところか。

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 橘氏のルーツを探すシリーズのカテゴリー名を何にしようかと悩んだあげく「たちばなしも何ですから」と洒落っ気を込めてつけた。すると朝ドラ『まんぷく』で立花塩業の立花萬平さんが、社員を元気づけるための夫婦(めおと)漫才で、同じことをしゃべっていた。「立花塩業の社員の皆さん、立ち話しも何ですから……って、もう座っとんのかい」。

 立花萬平(長谷川博己)のモデルとなったのは日清食品の呉百福という台湾出身の実業家である。台湾では「百」は縁起のいい名前なので、台湾人には百(モモ)さんや桃さんがたくさんいると聞いた。よって、チキンラーメンの開発者は、残念ながら橘氏とは直接は関係がなかったようである。


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 安芸郡には、蘇我氏流ともいう有力国人安芸氏が起こり、畑山・中川・黒岩・奈比賀・有沢・並川の諸氏を分出する。 その他、惟宗氏流の野根氏・室津氏・別府氏・安田氏、明神氏、大野家氏、安岡氏、一円氏、北川氏、有井氏、岩崎氏、和食氏、千頭氏がある。
 戦国期の橘系安芸氏については「大檀那地頭橘鍋若丸」「大檀那橘元親」など、いくつかの棟札が知られていることは、“橘系安芸氏と蘇我氏との関係”のところで書いた。『安芸市の史跡と文化財』(安芸市教育委員会、昭和55年)にも一族と思われる名前が数名登場する。

 安芸八幡宮(祭神:胎中天皇)に関して「戦国時代安芸の領主、橘元泰が大檀那となって本堂を寄進したことが記録にみえる。(1533ー天文二)橘元泰は安芸城最後の主安芸国虎の父である」と紹介されている。
 また、畑山字和田にある水口神社(祭神:敏達天皇と蘇我赤兄・蘇我乙麿)について、「橘元綱という大檀那が社殿を造営している(1553年ー天文二一)がこれも安芸氏であろう」としている。橘氏は敏達天皇を遠祖としていることからも、このつながりは頷ける。
 さらに室町時代以前の創建とされる奈比賀天満宮(祭神:菅原道真)の社堂の寄進が「土佐国編年記事略から拾ってみても、地頭橘鍋若丸(1482ー文明二四)、名本物部正重(1508ー永正五)、橘元泰(1535ー天文四)、橘元盛(1556ー弘治二)などの名が見える。橘元盛、元泰は安芸の領主である」と橘氏の名が複数見られる。高知県東部では天満宮の存在は珍しく、橘氏と九州との関係も見えてきそうだ。


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 福岡県で橘氏の末裔とされる宮原氏と出会って、1年近く。やっと橘氏のルーツ探しに足を踏み入れることになった。『土佐史談231号』(土佐史談会、2006年3月)に朝倉慶景氏の「橘系安芸氏と安芸地域について」と題する論考が掲載されている。
 まず吉田萬作氏の「橘姓は本家のみに称せられ、分家である畑山氏(後に安芸姓に改む)系統は蘇我姓が継承され、かつ本家橘姓呼称は国虎自刃と共に消滅する訳である」との先行研究を紹介しながら、豊富な史料を精査した上でのいつもながら鋭い分析を加えている。

 地頭橘系安芸氏については「室町幕府は安芸地域を支配するため、地頭に橘系安芸氏を任命したと考えられる」とし、南北朝統一後の永享十(1438)年と推定される八月二十二日付け文書では、細川京兆家(管領家)が佐川四郎左衛門尉を討伐するため、土佐国人に対し出陣命令を出した。その中に「安芸備後守」と出ているのが地頭橘系安芸氏の初見史料であるとしている。
 また、戦国期の橘系安芸氏については、いくつかの棟札が知られている。「大檀那地頭橘鍋若丸」「大檀那橘元親」など、棟札では俗称安芸氏は用いないで本姓橘を使用している。地頭の橘系安芸氏は元親・元泰・国虎と継がれ、彼を以って国人橘系安芸氏は滅亡した。

 結論として「地頭で橘姓を名乗る安芸氏は暦応三(1340)年ではまだ安芸荘に居住していなかったと考えられる。つまり橘系安芸氏は蘇我系の家筋とは異なるのである」とした。すなわち古代安芸地域の郡司の流れを汲む蘇我系の家筋と戦国期栄えた橘系安芸氏の両家筋は異なるーー通説を正す明快な指摘が出されている。



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自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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