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地名として残された最後の九州年号「大長」③
 今回は大長(おおちょう)ミカンの産地として知られる広島県呉市豊町大長ではなく、再び高知県須崎市の「大長岬(おながさき)」について。“地名として残された最後の九州年号「大長」①”を書いた当初は、これを年号由来地名(大正市場で有名な大正町など)とするのは無理筋と感じていた。ところがその後、九州王朝とつながるいくつかの根拠が見つかってきた。


▲野見湾の中央に突き出した大長岬

①コウラ地名

 大谷から、久通に通ずる坂道を法印坂とよぶ。絵のように美しい野見湾を眼下に見るこの坂の中腹に「法印さん」と呼ぶ石碑がある。昔からこの法印さんは平家の落人ではないかといわれている。法印さんが坂の麓に立っているところを船小浦(ふなこおら)というところから弓で射た。(『須崎市史』P1306より)

 現在も大谷小浦という地名が野見湾の奥にあり、河原川という川が流れている。単独なら地形由来であろうが、複数隣接することから、高良神社由来地名の可能性あり。大長岬とも近い。「小浦の聖さま」の昔話も伝わる。
▲野見湾の奥に大谷小浦、河原川の地名


②1300年前の伝承

 今から約1300年前に人魚を食べて、八百年も長生きた八百比久尼の話が伝えられている。内容の真実はともかく、ONライン(701年)前後の伝承が残る。最後の九州年号「大長」は704~712年の間、使用された。

③猫神社(須崎市多ノ郷乙)

 現在は猫を祀る隠れスポットとなっているが、最初から猫を祭神とするだろうか。本来は稚倭根子彦(ワカヤマトネコヒコ、開化天皇)あたりを祀っていたものかもしれない。

④鳴無神社の由緒

 旧記によれば、この大神此の地に鎮座したのは、今より一五五〇年余(西暦四六〇年)の昔、雄略天皇の四年十二月晦です。大神は天皇との間に諸事有って京の葛城山を出られ、船に乗って海に浮び浦ノ内南半島の太平洋岸にご上陸。海水煮き火食せられ、その立ち上る煙を見た里人が行って見ると、現人神であられたので、尊び敬って大神と御船(金剛丸)を担ぎ、山を越え玉島(現社殿地)に迎えた。そして宮殿を建て大神を奉安し、御船は社殿右脇の山に封じ、御船山として注連縄を張り、大切にしている。(パンフレットの御由緒より)


 鳴無神社(須崎市浦ノ内東分字鳴無3579)の祭神は一言主命(味耜高彦根神)とされているが、土佐神社の元宮とも考えられ、古くは「お船遊び」とも呼ばれていた志那禰(しなね)祭が毎年8月に行われている。『南路志』では祭神として「級長津彦命」「級長津姫命」を併記する。

 由緒には大和朝廷一元史観の影響が見られるが、ONライン以前の5世紀の事跡であれば九州王朝を中心に再解釈する必要がある。鳴無神社は浦ノ内湾側にあり、大神は太平洋側に接岸している。ただし、半島のすぐ南側は船を停泊できそうな港がない。少し西になるが、須崎湾か野見湾あたりが九州方面からの船の停泊港として適しているようだ。

 以上、①〜④の内容は野見湾に九州王朝の船団が来ていたことを示唆し、九州年号が地名として残された可能性も、まんざら否定できないと考えられる。須崎市の野見湾に突き出した「大長岬」は最後の九州年号「大長」を反映した地名なのだろうか。


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【2019/02/25 02:01 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
臼杵石仏に刻まれた「正和四年」は九州年号か?
 臼杵石仏に「九州年号」が刻まれていたという話題が浮上してきた。多元の会・角田彰男氏が発表した内容である。
 「正和四年卯月五日」とする年号で、通説(大和朝廷一元史観)では鎌倉時代の年号とされ、1315年に当たる。一方、大和朝廷に先行する倭国・九州王朝が使用していた九州年号にも「正和」が存在していた。
 大分県臼杵市の臼杵の石仏に「正和四年卯月五日」と年号が刻まれていたというのだが、もしこれが本当に九州年号の「正和」だとすれば、529年に相当し、6世紀には既に石仏が造られていたことになる。
 学問においては論証が重要であり、鎌倉時代の「正和」でなく、九州年号の「正和」であるとする根拠が示されなければならない。その点では古田史学の会代表・古賀達也氏も慎重な姿勢を保っているようだ。

古賀達也の洛中洛外日記
第1822話 2019/01/12
臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)
 鶴峯戊申の『臼杵小鑑』の「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」との記事を信用するなら、次のような二つのケースを推論することができると考えました。
 (1).鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。
 (2).九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。
 (2).のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石像に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
 臼杵石仏に関する研究論文を全て精査したわけではありませんが、今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。やはり多元史観の視点による現地調査が必要と思われますし、6世紀の中国や朝鮮半島の石仏の様式研究も必要です。
 更に、6世紀の倭国において「卯月」という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に「うつき(卯月)」という言葉が見え、この例が国内史料では最も古いようですので、これを根拠に6世紀にも使用されていたとすることはできません。石仏の様式と「卯月」という表記例の調査も史料批判上不可欠なのです。
 以上のような考察の結果、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは困難と判断しました。


 たまたま読んでいた『邪馬台国は「朱の王国」だった』(蒲池明弘著、2018年)に臼杵石仏の由来にまつわる「真名野長者伝説」が取り上げられていた。ストーリー自体も面白いが、ポイントは娘の死を弔うために長者が岩崖に仏像を彫らせた。それが臼杵市の石仏群である。また、物語には欽明天皇の皇子ーー後の用明天皇が登場する。
 そうすると時代背景は6世紀頃となり、鶴峯戊申が九州年号の「正和」と判断したこともうなずける。さらに有力な根拠が示されることを期待する。
 「真名野長者伝説」の詳しい内容は、ホームページ「奥の奥豊後」でも閲覧が可能なので紹介しておく。


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【2019/01/21 17:16 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
『皆山集1』に4例目の九州年号か?
これまで『皆山集1』に九州年号(倭国年号)を3例見い出した。月山神社の「白鳳年間」菅原道真の刀剣「朱鳥二年八月北」小村神社の「勝照二年」である。それに加えて新たに4例目を発見した。

 「夜須村夜須川分ヲクタニ荒神小宮神社記云来歴不相知但大化二年御鎮座と申傳宝之曰昔ハ香我美長岡安喜郡惣鎮守ニテ……」(P120)
 香我美郡夜須村の荒神の鎮座が「大化二年」と伝えられているというのだ。大化の改新が645年(虫殺し)であるから、普通に考えると大化二年は646年になりそうである。しかし『日本書紀』の大化の改新(乙巳の変)の記述には、専門家からも疑問ありと指摘されている。事実そのままではなく、何がしかの書き変えがなされているというのだ。
 一方、九州年号の「大化」は695~703年の間使用されたことが分かってきた。そうすると夜須村の荒神の鎮座「大化二年」は696年なのだろうか。『日本書紀』の影響を受けていない本来的な伝承がそのまま伝えられていれば、そうかもしれない。茨城県の「大化五子年」篆刻土師器は7世紀末の九州年号との一致が見られる例である。
 いずれにせよ、延喜式内社でもない荒神社が大宝元年(701年、ONライン)以前の鎮座ということは、本当であれば驚くべきことである。しかも昔は香美郡・長岡郡・安芸郡3郡の惣鎮守だったというのだ。この件については更に詳しく調べる必要がありそうだ。


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【2018/10/14 20:16 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
『和州寺社記』の推古告貴三年、光充二年<丙寅>

 『近世寺社伝資料『和州寺社記』・『伽藍開基記』』(神戸説話研究会、二〇一七年)という本を図書館で見つけて、中を開いてみると、「中宮寺は推古告貴三年、聖徳太子の御母間人皇后の御願所にて、〜」(頁三四)とあり、『和州寺社記』からの引用が出ていた。
 また、橘寺の「推古光充二年<丙寅>皇居を以って寺とし給う」(頁七五)についてはホームページ「新・古代学の扉」に出ているものと同文のようだ。
 その他、「白鳳」「大化」なども出てきおり、九州年号が満載である。そもそも寺社の縁起等に九州年号がよく残されているため、僧侶の手による私年号との説もあるくらいだ。
 しかし、その分布が全国的であり、連続性を持っていることから見ても、私的な年号とは考えにくい。大和朝廷以前の倭国・九州王朝によるものと考えてこそ、整合性があると言えよう。
 また、同書464〜469ページに「一年少ない年数」に関する藤田琢司氏「『元亨釈書』について」の指摘を紹介している。いわゆる干支が通常より一年後のものになる問題に対する解決案である。
 高知県においても『皆山集 第一巻』(松野尾章行編)に天満宮の宝刀「御剣銘に朱鳥二年八月北」(三五六頁)があり、「北=子」の意味で使用されているとすれば、ここでも“干支ずれ”の問題が生じていることになる。もしかしたら藤田氏の論考が解決の糸口になるかもしれない。

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【2018/10/02 00:19 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
地名として残された最後の九州年号「大長」②
『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)は少し前に読んでみたが、「九州年号」についての情報はほとんどないに等しかった。ところが「古賀達也の洛中洛外日記 第1705話 2018/07/14」によると、同書末尾に付されている「日本の年号候補・未採用文字案」(古代から現代までの改元時に提案された未採用年号候補の一覧)の中に「大長」があり、1回だけ候補に挙がっているとのこと。そのような資料が付いていたことは覚えているが、十分に目を通してはいなかった。古賀達也氏によると「大長」は704~712年に使用された最後の九州年号であるという。
 実はこの年号が地名として残されたと思われる場所がある。大長(おおちょう)ミカンの産地として知られるようになった広島県呉市豊町大長である。現在は広島県となっているが、大崎下島もかつては伊予に属し大長(おおちよう)島と呼ばれた。島全体が急峻な山地であるが山頂まで段々畑として耕され,温暖少雨の典型的な瀬戸内式気候によって良質美味の大長ミカンを産する。南東部の御手洗(みたらい)港は帆船時代から内海航路の要所であった。

 ここ豊町大長にある宇津神社(うつじんじゃ)は江戸時代の埋め立て前まで、入江の奥に鎮座し、もとは当社の鳥居が海に面していたと考えられている。
 社伝によれば、初代神武天皇の東征の際に宇津大神、八十禍津日神の先導で、この地に留まったとされている。第7代孝霊天皇の第三子の彦狭島王が勅命を奉じ、伊予に下向した際に、都の鎮守と瀬戸内海の安寧祈願のために大長に奉祀したとされている。また奈良時代の宝亀4年(773年)には、神託により越智七島に大山積の御子など十六王子を分祠したと伝わる。
 越智七島は、中世には生奈島、岩城島、大三島、大下島、岡村島、御手洗島、豊島で構成され、伊予国一宮である大山祇神社の社領を形成していた。この歴史の古さと立地条件を考えると九州年号と無縁であるはずがない。
 1941年大長村の読み方が「おおちょうそん」から「だいちょうそん」に変更されるが、1947年には再び「おおちょうそん」に戻される。年号の読み方を検討する際にこの地名は参考にする必要があるだろう。
 さらに大崎下島の北には帝を連想させる三角(みかど)島があり、三角島にある「美加登神社」は、福岡県の宗像神社の祭神「宗像三女神」を安芸の厳島神社へ勧請(かんじょう)する際、仮宮として創建されたと言われている。
  厳島神社の創建は593年とあることから、三角島の美加登神社もその頃の創建ということになるだろう。美加登神社の裏手には6世紀のものと思われる古墳が2基見つかっており、九州とのつながりが伺える。
 以上のアイデアは古田史学派のU氏から「私も九州年号を見つけましたよ」と大長地名を教えてもらったことを基に、調べてまとめたことを報告しておきたい。

 

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【2018/07/20 23:44 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
地名として残された最後の九州年号「大長」①
 『黒潮のナゾを追う』(高知大学黒潮圏研究所、1991年)の中で岡村眞氏は次のように述べている。
 「須崎市野見湾の戸島北側に断層活動によるくい違いを見いだした。ただし、堆積速度から判断すると、断層が動いた時期は今から三、四千年前と見積もられ、伝えられる約千三百年前の白鳳地震とは関係がありそうにない。」(「島は本当に沈んだか」)
 現地の漁師さんに聞くと、野見湾には水深5メートル程度の台地状の地形があり、その縁から急に深くなっているという。断層による地形なのかも知れない。さらに海底に井戸があったとの証言もあり、石包丁などの弥生時代の遺物等の出土もあることから、弥生時代以降にも沈降があった可能性は十分考えられる。

 さて、この野見湾に伸びる岬の地名が大長岬という。古賀達也氏の説によると「大長(704〜712年)」は九州王朝最後の年号とされる。「大正町」のように年号が地名になることは現代でもよくあることだが、この大長岬も年号に由来するものだろうか?

 地名辞典によると「大長崎(おおながさき)」との読みが出ているが、現地の人は「大長岬(おながさき)」と呼んでいた。これはすぐ近くの「小長岬」と対となる地名のようである。
 白鳳地震(684年)によって野見湾及び大長岬ができて、ニ十数年後の復興の時期である大長年間に地名がつけられたとすると……。
 一方、大長みかんで有名な広島県呉市豊町大長(おおちょう)は王朝を連想させる読み方である。はたして、年号の「大長」は何と読むのか?

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【2018/07/18 13:20 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
小村神社の始鎮は「勝照二年」その4

  『土佐国蠧簡集木屑』(柳瀬貞重編纂、一七九四年完成)で「勝照二年」の横に(宝カ)と添え書した記述および「勝寶」が見られる。この時点で「勝照」→「勝宝」の書き換えが起きており、一元史観の立場から天平宝字以前で字形の似ている年号に当てはめようとした写し手の判断が見て取れる。

  さて、「勝照」は敏達天皇および用明天皇の治世にまたがって使用された年号である。鶴峯戊申(一七八八~一八五九)著『襲国偽僭考』に登場する、いわゆる「九州年号」の一つである。『越智町史』の編者は大化以前の公称年号(一世一元制のことか?)と認識しており、敏達天皇二年(五七三年)と解釈した。一方、谷重遠は「民間の雑書(俗説を記した書)に継体天皇以下年号が見られるが誰が作ったか知らない。今昔の帝号に相当するとして用明二年(五八七年)とした」と考察し、後世に判断を委ねている。谷秦山の時代にはまだ『襲国偽僭考』は出ていなかったが、鶴峯が参照した資料等については知られていたのであろう。
 
  近年、全国的に九州年号が見つかっており、「勝照」についても山口県・長崎県・滋賀県等に見られる。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、二〇一七年)に紹介されている『二中歴』『海東諸国紀』等の研究など、現代の知見によると、「勝照」は五八五~五八八年の四年間使用されている。したがって、勝照二年は五八六年すなわち用明元年に相当する。
  江戸時代の漢学者・森本甎里(1743~1833)も貝原益軒の偽年号を参照し、同様の指摘をしている。
 「森本甎里曰考貝原損軒之偽年号考以敏達天皇十四年乙巳為勝照元年然則勝照二年當用明天皇元年丙午乎谷秦山所書勧縁疏曰用明天皇二年始鎮座當国云未知孰是」(『日高村史料(一)』三四頁)
  しかしながら、限られた資料を元に、谷秦山が「用明二年」としたことも当時の状況からすれば納得できる。谷秦山の宿題を1つ解決したと言ったら言い過ぎだろうか。
  結論として、土佐国(高知県)にも九州年号は実在した。小村神社の鎮座は「勝照二年」(五八六年)である。可能であれば、貞和三年の棟札についての科学的調査(X線解析等)により、あらためて文字の判読がなされることを希望する。
(終わり)




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【2018/06/13 11:07 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
小村神社の始鎮は「勝照二年」その3

  2017年末、県立図書館がリニューアル移転のため、半年間休館となる最後の日であった。しばらく見られなくなる『高知県神社明細帳』を閲覧させてもらうことにした。すると、小村神社の頁に、次のように記されている。
  「重遠按貞和棟札以為当社始鎮勝照二年、勝照之号不見史伝但民間雑書継体天皇以下有冗俗記号不知其誰作今姑以相当帝号易之為用明二年観者審之」

  重遠按ずるに貞和の棟札を以って当社の始鎮を勝照二年と為す。勝照之号史伝に見えず。但し民間の雑書に継体天皇以下冗俗紀号有るも、其の誰が作れるかを知らず。今姑の帝号に相当するを以って之を易(か)えるに用明二年と為す。観る者之を審(つまびらか)にせよ。(筆者、書き下し)
  同じ文章は『皆山集 第1巻』にも登場する。また、『土佐遺語』(谷秦山、一七〇八年頃成立)にも「勝照二年」の形で書かれていた。
  「小村神社棟札二枚其一曰仁治元年庚子地頭以馬允藤原忠政其一曰貞和三年丁亥地頭藤原国藤記曰當天神勝照二年影向天平寶字三年被行御舩遊重遠謂勝照之號雑書或有之未知本據又按三代実録貞観十二年三月五日丁巳授土佐国従五位下小村神従五位上」

  おそらく、これが原文通りであろうという結論に達した。九州年号「勝照二年」はやはり存在していたのである。
(続く)


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【2018/06/12 01:49 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
小村神社の始鎮は「勝照二年」その2

  江戸時代の儒者・谷重遠(号は秦山、一六六三~一七一八)の「小村社造替勧縁疏」によれば「按古来所傳、小村大天神者、用明天皇二年始鎮坐當國。孝謙天皇天平宝字三年、被行御船遊。清和天皇貞観十二年三月五日丁巳、勅授位階」(『南路志 第三巻』122頁)とある。小村神社には仁治元(一二四〇)年と貞和三(一三四七)年の棟札2枚が伝えられており、谷重遠の「小村社造替勧縁疏」は貞和三年の棟札を元に書かれたとされている。

  おそらく貞和三年の棟札に「勝照二年」と書かれていたに違いない。そう推察して、『高岡郡日高村資料調査報告書』を見て大変がっかりした。「当天神宮者去勝宝二年当国御影向之後天平宝字三年被始行御船遊」(『高岡郡日高村資料調査報告書』47頁)と活字化された文章が掲載されているが、「勝宝二年」となっている。勝宝は天平勝宝の省略で七四九年から七五七年までの年号であり、勝宝二年は七五〇年に相当する。しかし、初出で省略するのも変であるし、神社縁起などには一切引用されている形跡がない。当初は棟札の記載そのものと思っていたが、「現物は既に磨滅著しく満足に読むことはできない」と同報告書に但し書きしてあった。

  活字化されたものは「勝宝」あるいは「勝寶」(『土佐国群書類従 巻一』47頁)とするか、社記のように該当年号部分が省略された形になっている。また、『土佐幽考』(安養寺禾麿、一七三四年成立)の小村神の頁でも「用明天皇二年鎮座」と記されている。
  実在すると思われた九州年号「勝照二年」は幻だったのだろうか?
(続く)


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【2018/06/11 01:27 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
小村神社の始鎮は「勝照二年」その1

 2018年2月7日のことだった。市民図書館で史料を確認中に天啓があった。「やはりこれで間違いない」ーー土佐の九州年号(倭国すなわち九州王朝が使用していた年号)実在の論証が見えた瞬間であった。
  『越知町史』(越知町史編纂委員会、昭和五十九年)に「日下小村天神の社伝記には、敏達天皇の勝照二年(西暦五七三、大化以前の公称年号)に始まり、天平宝字三年(七五九)吾川郡神ノ谷杉ノ端より移るとの記録もある」とある。高知県高岡郡日高村にある小村(おむら)神社の鎮座が「勝照二年」であると社伝記に記録されているというのだ。

 社記には確かに「正一位二宮小村大天神者、天平宝字三年、吾河郡神谷杉ノ端より高岡郡日下村ニ御鎮座也」(『南路志 第三巻』123頁)とあるが、「勝照二年」という年号は見えない。

  小村神社の祭神は国常立尊であり、看板やパンフレットには用明天皇二年(五八七年)鎮座の国史現在社と紹介されている。国史現在社というのは、延喜式内社ではないが、『日本三代実録』貞観十二年(八七〇年)三月五日条の授位記事に「小村神従五位上」と見えることによる。小村神社には御神体として七世紀前半のものとされる国宝・金銅荘環頭大刀が伝世されており、周辺には古代~近世の掘建柱様式の建物跡(千本杉遺跡、宮の内遺跡等)が検出され、平成7年に境内から銅鉾が出土するなど、その歴史の古さを物語っている。
 ところで、用明天皇二年始鎮の根拠はどこにあるのだろうか。『越知町史』との齟齬(そご)をどう解釈すればいいのだろうか?
(続く)




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【2018/06/10 01:26 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
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