朝廷によって定められた正規の年号に対し、寺院や地方の権力者によって用いられた偽の年号のことを「私年号」と呼ぶ。私年号は中央の権威の弱体化した中世に多く出現したが、近世にも僅かに例が認められる。例えば「福徳」「弥勒」「命禄」など仏教や福徳を願ったものが多かった。 そしてその数少ない事例の一つが高知県にもあった。幕末に使用された私年号「天晴(てんせい)」である。『土佐史談』190号(土佐史談会、平成4年9月)に広谷喜十郎氏の「『天晴』私年号と幕末の世直し意識」と題する論考がある。私年号「天晴」が記録された石灯籠などの一覧が以下のように紹介されている。 (一)安芸郡安田町神峯山 神峰神社の石灯籠これらの記録から、天晴元年が慶応三年であることが判明する。「一夜空しき(1867年)江戸幕府」――大政奉還<慶応3年10月14日(1867年11月9日)>の年である。明治元年に改元されたのは、慶応四年9月8日のことであるから、一年以上さかのぼった前年5月から「天晴」という年号を使用していたことになる。坂本龍馬のみならず、土佐の民衆は日本の夜明けを予見し「慶応」年号をやめて、先取りして「天晴」の年号を勝手に使用していたようである。 慶応から明治に移る間に天晴という年号が使われていたことたは「田口家の神祭帳」「須江高野家文書」などにも記録があることから間違いなさそうである。高知市広報『あかるいまち』2008年9月号で、次のように紹介されている。
日本の元号は「一世一元の制度」が定まる明治以前は、天皇の即位や政情不安の際、人心機運の一新のため度々改元されてきた。天皇が定めた公的な年号に対し、地方で私的に使われた年号が「私年号」であるが、その性格として、①単発的に使用され連続性がない。②一地方あるいは特定集団内で用いられ汎用性がない。――などの点があげられる。 土佐の「天晴」年号の使用例は13以上あるとはいえ一時的なもので、「天政」「天成」「天星」など異なる漢字表記もあって統一性に欠ける。県外にも一部発見されているが、一地域性を脱することはできず、私年号といってよいだろう。 久保常晴著『日本私年号の研究』では「私年号」第一類として、「大化」以前の年号のなかった時代における「非公年号」を「古代年号」と呼んでいる。「令和」改元をきっかけとして年号に関する書籍が出版され、数多くの報道もなされた。ところが、「古代年号」に関してはアンタッチャブルとされているのか、誰も触れようとしないように見える。いわゆる「九州年号」と呼ばれる年号群である。
これら一連の年号群には連続性があり、広範囲に使用されているなど、「私年号」の性格を満たしていない。当然の帰結として、年号制定の主体として国家主権の存在を考えざるを得ない。そのような意味で「九州年号」の存在は、大和朝廷に先行する九州王朝の実在の根拠の一つとなっている。 PR |
ヒミコやヤマタイ国も九州政権ですよね
【2022/06/02 20:57】| | 匿名希望 #5610c01070 [ 編集 ]
Re:無題
>ヒミコやヤマタイ国も九州政権ですよね
そのように考えています。倭の五王や多利思北弧なども九州を拠点とした倭国の中心王朝であり、いわゆる九州年号制定の権力と連続性を持っていると考えてよいのではないでしょうか。 |
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