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堤真一×アメリカ謎の古代遺跡~先住民3000年の記憶~
  『堤真一×アメリカ謎の古代遺跡~先住民3000年の記憶~』と題する番組が放映された。番組をチェックしていたわけではないが、縄文人とネイティブアメリカン(インディアン)との繋がりを考える上で、是非とも見ておきたい内容だった。
    まず、チャコキャニオン遺跡(850~1150年)のプエブロボニート(美しい家)。太陽の動きに合わせて造られた建造物。二階の窓から射し込む冬至の太陽の光が壁の角の部分にピッタリとそろうように出来ている。
    縄文時代の遺跡を見てもそうだが、三内丸山遺跡や大湯ストーンサークルなど、冬至の日没や日の出の方角を意識して造られている。アメリカの遺跡は比較的に新しいけれども、冬至を1年の基準とするところは縄文文化と通じるものがある。
    彼ら(プエブロ族)は電気や水道を使わず、民族の伝統を守り抜こうとしてきた。もしかすると日本から渡った縄文人の伝統が引き継がれていた可能性はないだろうか?

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【2018/05/31 08:05 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
中世幡多荘の研究ーー大利恵子さん
    ラジオから「南国市の大利さんが幡多荘の研究で平尾学術奨励賞を受賞」というニュースが聞こえてきた。ネットニュースで確認すると以下のような内容であった。

平尾学術奨励賞に高知県南国市の大利さん  中世幡多荘研究で新説
(2018.4.28
  高知県の歴史や民俗などに関する優れた研究をたたえる「平尾学術奨励賞」の第39回受賞者が、仏教大学研究員の大利(おおり)恵子さん(63)=高知県南国市緑ケ丘1丁目=に決まり、公益財団法人高知新聞厚生文化事業団(宮田速雄理事長)が27日発表した。大利さんは、中世の土佐西南部に存在した荘園「幡多荘」の実態について史料から再検証。荘園の範囲や一条家との関係について新説を提示した。

  どのような研究内容なのか、気になっていて調べてみると論文が閲覧できた。その一部を紹介したい。幡多地方を研究する上で参考になることも多そうだ。

九条家領土佐国「幡多郡」の伝領とその特質
大利恵子
はじめに
  九条家領土佐国「幡多郡」は、建長二年(一二五〇)、九条道家が家領を子女に分配した際に、四男実経に分与した四十一ヶ所の内の一所である。処分状に載る家領の中では唯一郡名で挙げられる所領であり、土佐国「幡多郡」という記載に続き本庄、大方庄、山田庄、以南村、加納久礼別符の五ヶ所の荘園名が記されている。
  幡多郡は国造時代の波多国で波多・畑とも書かれ、大化改新によって成立した土佐国に併合されて幡多郡になったと言われ、東西に長い土佐国の西南部約四分の一を占める平野の少ない広大な地域であって、土佐七郡の中では国府があった長岡郡から最も遠い。そのような地に九条家領が形成された要因は何であろうか。

(中略)
②その「幡多郡」については、支証となる文書の類が見い出せないにも拘わらず、九条家一門の間では鎌倉幕府からの支給地であると認識され続けてきた。幕府が一郡を支給するという形で考えられるのは郡地頭職であるが、一方で道家の惣処分状には五ヶ所の荘園名が追記されて幕府給恩の預所の存在が知らされ、この家領の性質が国衙領であるのか荘園であるのか客観的に理解し難い。また惣処分状で追記された五ヶ所の荘園は幡多郡を五分割する単位ではなく、そのうち一ヶ所は高岡郡にあったと考えられる。このことから家領「幡多郡」は幡多郡の郡域と同一ではなく、荘園とその他を含み、加えて高岡郡の一部をも抱え込んだ範囲であり、それは漠然とした、且つ多分に「観念的」な認識であった可能性が高い。

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【2018/05/30 23:31 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
新刊『葬られた驚愕の古代史』の中身は?
  古代史の世界で兄弟子と慕う合田洋一氏の5作目となる本が出版された。『葬られた驚愕の古代史』(合田洋一著、2018年5月28日発売 創風社出版)である。サブタイトルは「越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや」となっていることから、いよいよ「紫宸殿」問題に本格的に言及されているのだろう。このテーマは高知県の「内裏」問題とも関連性があるので見逃せない。
  目次は以下のようになっている。いずれも興味深い内容ばかりである。

第一編 伊予に在った古代王国「越智国」
第二編「日出ずる処の天子・多利思北孤」の伊予行幸
第三編 万葉集を彩る九州王朝の天子・中皇命とは
第四編 九州王朝の天子・斉明と熟田津
第五編 永納山古代山城築造の背景
第六編 九州王朝存在の証―「評」による証言
第七編 越智国に「紫宸殿」あり 九州王朝の幻の首都だった
第八編 天武天皇の謎―「万世一系」系図作成の真相
第九編「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立
追編「古代史の万華鏡」


  さて、合田洋一氏といえば、かつては「道後の敵」とまで呼ばれたことがあった。「道後温泉は日本最古の温泉ではない」「聖徳太子は来なかった」など、歯に衣着せぬ物言いで、地元の観光業界からは、大いに煙たがられたことであろう。しかし敢えて苦言を呈する動機は、「偽りの歴史を残しては、後世の笑い者となる。真実を明かさなくてはいけない」との一念であった。
  近年では「合田の言っていたことは正しかった」と地域の名士たちも認め出している。北海道出身の合田氏が古田武彦先生と出会って、還暦から始めた古代史研究が遂に実りを結ぼうとしている。まだまだ解明しなければならない課題は残されている。今後とも、古田史学を基軸とした合田洋一氏の歴史研究に期待したい。


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【2018/05/29 22:23 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
四国最大級の方墳ーー伏原大塚古墳
    2017年9月3日(日)、香美市土佐山田町にある伏原大塚古墳・鏡野学園前古墳・小倉山古墳の3つの古墳を見学。参加者36名は2グループに分かれ、互いに反対回りで埋蔵文化センターの職員の方の説明を受けながら歩いた。

    まずは伏原大塚古墳。出土した須恵器から築造時期は5世紀末~6世紀初頭に位置付けられている。一辺約40メートル、県下唯一で四国最大級の方墳である。県外から見学に来られる人が場所が分からず、説明するほうも困るという。それもそのはず、高さ4メートルもあった盛土は明治時代に全て除けられている。「はりまや橋」「唐人駄場の世界最大級のストーンサークル」と並ぶがっかり名所の一つと言えそうだ。



    次の鏡野学園前古墳は盗掘の跡であろうか、穴が開いていて中がのぞける。「光ファイバーで中を調査したらいいのでは?」という提案をしたが、何事も予算がなくては動かない。
 

    最後に「横穴式石室に入ってもらいたいたくて、小倉山古墳も選びました」とのこと。順番を待ち、ヘルメットをかぶって中へ。持参した懐中電灯が役に立った。入口は狭いが、石室内は意外と広く、立ったままでも大丈夫。参加者のほとんどが中に入っていた。ただし、夏場は蛇がいたりすることもあるので要注意とのこと。


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【2018/05/09 10:00 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
コロンブスの卵とアメリカ大陸発見
 ①「意欲に(1492年)満ちた大航海」――コロンブスのアメリカ大陸発見。
 ②「意欲は(1498年)高しガマの船」――バスコダ・ガマの新航路(アフリカの最南端喜望峰経由のインド航路)の発見。
 ③「行こう夫婦(1522年)で世界一周」――マゼランの世界一周。
 かつては、大航海時代の華やかな成果をこのように覚えたりしたものだ。しかし、今の教科書には「アメリカ大陸発見」という言葉は書かれていない。なぜか? 理由は簡単である。アメリカ大陸を最初に発見したのはコロンブスではないからだ。
 ギャヴィン・メンジーズ著『1421 中国が新大陸を発見した年』によると大航海時代以前のヨーロッパの古地図には、アメリカ大陸の一部としか思えない島々が描かれている。コロンブスもアメリカ大陸の地図を持って大西洋を横断したのだという。では、その地図はいつどこでつくられたものなのか? 明の時代、鄭和(ていわ)率いる大艦隊の7度にわたる航海の成果によるものだというのだ。
 また、さらにさかのぼる西暦1000年ごろ、ヴァイキング(ノルマン人航海者)のレイフ・エリクソンによってアメリカ大陸が発見されていたということも言われている。
 では、それ以前の人たちはアメリカ大陸を全く知らなかったのか? とんでもない。アメリカの先住民はモンゴロイド、すなわちアジア系である。当然、アジア側から移動していった民族がいるはずだ。
 前漢の武帝(前141~前87)のとき、漢の使者張鶱は西域におもむき、シルクロードを西行し、大月氏国の領域に至った。そして安息国(ペルシャ、現在のイラン)の長老から「西へ行くこと、百余日」で西の果ての「条支国」(ジブラルタル周辺か)に至り、さらにその西へ、海を行くこと「百余日」にしてはじめて「日の入る所に近し、と云う」の領域がある。そういったことが『漢書』に記載されている。コロンブスもまた百余日でアメリカ大陸に到達したことをふまえると、2000年前の漢の時代にはアメリカ大陸についての認識があったということではないか。
 私が小学生の頃、「コロンブスの卵」に関するマンガを読んだことがある。コロンブスをねたむ者たちは「大西洋をただ西へ行っただけではないか」と揶揄した。その人たちにコロンブスは「この卵を立てることができますか?」と課題を提起する。皆は一生懸命立てようとするが、底の丸い卵が立つわけがない。そこでコロンブスが「卵をこうすれば立つのだ!」と、底を少しつぶしながら卵を立てて見せた。「そんなことなら誰でもできるではないか」との反論に、「誰もができることでも、最初にやるのは難しいのだ」と決め台詞を残す。
 当時はかっこいいと思ったものだが、コロンブス自身が最初ではなかったとすれば「コロンブスの卵」もやや色あせるというもの。だが、世界史の教科書自体が新しい研究の成果を反映しながら、表現が変わっていく。ヨーロッパ中心主義の世界観から多元的歴史観に変わってきており、これこそが真に学問のあるべき姿である。
 一方、日本史のほうはどうか? 大和朝廷一元主義の立場に立つ従来の定説に縛られたまま、書き換えなければならないところがいつまでたっても変わらない。学問を志す者は真理の前に謙虚でなければならない。日本史の教科書を真実に即して書き換えること。やろうと思えば誰でもできることだが、最初にやるのは難しい。日本古代史における「コロンブスの卵」はいつ登場するのか?

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【2011/12/01 15:23 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
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