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四国最大級の方墳ーー伏原大塚古墳
    2017年9月3日(日)、香美市土佐山田町にある伏原大塚古墳・鏡野学園前古墳・小倉山古墳の3つの古墳を見学。参加者36名は2グループに分かれ、互いに反対回りで埋蔵文化センターの職員の方の説明を受けながら歩いた。

    まずは伏原大塚古墳。出土した須恵器から築造時期は5世紀末~6世紀初頭に位置付けられている。一辺約40メートル、県下唯一で四国最大級の方墳である。県外から見学に来られる人が場所が分からず、説明するほうも困るという。それもそのはず、高さ4メートルもあった盛土は明治時代に全て除けられている。「はりまや橋」「唐人駄場の世界最大級のストーンサークル」と並ぶがっかり名所の一つと言えそうだ。



    次の鏡野学園前古墳は盗掘の跡であろうか、穴が開いていて中がのぞける。「光ファイバーで中を調査したらいいのでは?」という提案をしたが、何事も予算がなくては動かない。
 

    最後に「横穴式石室に入ってもらいたいたくて、小倉山古墳も選びました」とのこと。順番を待ち、ヘルメットをかぶって中へ。持参した懐中電灯が役に立った。入口は狭いが、石室内は意外と広く、立ったままでも大丈夫。参加者のほとんどが中に入っていた。ただし、夏場は蛇がいたりすることもあるので要注意とのこと。


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【2018/05/09 10:00 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
コロンブスの卵とアメリカ大陸発見
 ①「意欲に(1492年)満ちた大航海」――コロンブスのアメリカ大陸発見。
 ②「意欲は(1498年)高しガマの船」――バスコダ・ガマの新航路(アフリカの最南端喜望峰経由のインド航路)の発見。
 ③「行こう夫婦(1522年)で世界一周」――マゼランの世界一周。
 かつては、大航海時代の華やかな成果をこのように覚えたりしたものだ。しかし、今の教科書には「アメリカ大陸発見」という言葉は書かれていない。なぜか? 理由は簡単である。アメリカ大陸を最初に発見したのはコロンブスではないからだ。
 ギャヴィン・メンジーズ著『1421 中国が新大陸を発見した年』によると大航海時代以前のヨーロッパの古地図には、アメリカ大陸の一部としか思えない島々が描かれている。コロンブスもアメリカ大陸の地図を持って大西洋を横断したのだという。では、その地図はいつどこでつくられたものなのか? 明の時代、鄭和(ていわ)率いる大艦隊の7度にわたる航海の成果によるものだというのだ。
 また、さらにさかのぼる西暦1000年ごろ、ヴァイキング(ノルマン人航海者)のレイフ・エリクソンによってアメリカ大陸が発見されていたということも言われている。
 では、それ以前の人たちはアメリカ大陸を全く知らなかったのか? とんでもない。アメリカの先住民はモンゴロイド、すなわちアジア系である。当然、アジア側から移動していった民族がいるはずだ。
 前漢の武帝(前141~前87)のとき、漢の使者張鶱は西域におもむき、シルクロードを西行し、大月氏国の領域に至った。そして安息国(ペルシャ、現在のイラン)の長老から「西へ行くこと、百余日」で西の果ての「条支国」(ジブラルタル周辺か)に至り、さらにその西へ、海を行くこと「百余日」にしてはじめて「日の入る所に近し、と云う」の領域がある。そういったことが『漢書』に記載されている。コロンブスもまた百余日でアメリカ大陸に到達したことをふまえると、2000年前の漢の時代にはアメリカ大陸についての認識があったということではないか。
 私が小学生の頃、「コロンブスの卵」に関するマンガを読んだことがある。コロンブスをねたむ者たちは「大西洋をただ西へ行っただけではないか」と揶揄した。その人たちにコロンブスは「この卵を立てることができますか?」と課題を提起する。皆は一生懸命立てようとするが、底の丸い卵が立つわけがない。そこでコロンブスが「卵をこうすれば立つのだ!」と、底を少しつぶしながら卵を立てて見せた。「そんなことなら誰でもできるではないか」との反論に、「誰もができることでも、最初にやるのは難しいのだ」と決め台詞を残す。
 当時はかっこいいと思ったものだが、コロンブス自身が最初ではなかったとすれば「コロンブスの卵」もやや色あせるというもの。だが、世界史の教科書自体が新しい研究の成果を反映しながら、表現が変わっていく。ヨーロッパ中心主義の世界観から多元的歴史観に変わってきており、これこそが真に学問のあるべき姿である。
 一方、日本史のほうはどうか? 大和朝廷一元主義の立場に立つ従来の定説に縛られたまま、書き換えなければならないところがいつまでたっても変わらない。学問を志す者は真理の前に謙虚でなければならない。日本史の教科書を真実に即して書き換えること。やろうと思えば誰でもできることだが、最初にやるのは難しい。日本古代史における「コロンブスの卵」はいつ登場するのか?

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【2011/12/01 15:23 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
聖徳太子が行なったこと
 第2回統一模試社会の問題で「聖徳太子が行なったこととして正しくないものを一つ選べ」という出題があった。選択肢は次の4つ。
ア 冠位十二階を定め、家柄ではなく個人の才能や手柄で役人を採用した。
イ 役人の心得として、十七条の憲法を定めた。
ウ 小野妹子を遣隋使として中国に送った。
エ 中国にならい、大宝律令というわが国初の法律を定めた。
 さて、あなたならどれを選択するだろうか? 多少でも日本史を勉強した人ならすぐにエが正解だと分かるはずだ。しかし、さらに深く歴史を研究した人なら、ウも相当怪しいと考えるのではないか。隋書俀国伝に記されている「日出ずる処の天子」とは「多利思北孤」のことであって、聖徳太子のことではない。「阿蘇山あり」とあることから九州王朝の王であるとするのが客観的な見方であろう。
 一方、日本書紀には「大唐に送る」とはあっても隋という国名は出てこない。この点については、西高の日本史の先生も疑問を発しておられたようだ。
 だからといってテストの出題に問題ありと言いたい訳ではない。現行の教科書には聖徳太子の業績として書かれていることであり、私自らも生徒たちには「聖徳太子のやったことは3つ覚えるように。①冠位十二階、②十七条の憲法、③遣隋使」と不本意ながらも教えている。
 もう一つの歴史教科書問題(従来の歴史教科書問題とはいわゆる自虐史観か愛国史観かといった議論)として私が提起したいのはこの点である。すなわち大和朝廷一元主義史観か多元主義史観かの議論である。未来の歴史教科書がより真実の日本古代史を反映していることを願いながら、今日はここで筆を置きたい。

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【2011/11/24 15:23 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
大和朝廷の関東支配
 大和朝廷が関東まで勢力を伸ばしたのは何世紀のことか? 小学校あるいは中学校の社会で、時々出題される問題だ。個別指導をしている時、よく質問される内容であり、どう答えるべきか最も迷う問題でもある。
 教科書には「5世紀になると、大和朝廷の支配はさらに広がり、九州から関東までの豪族を従えるようになりました」とある。その根拠となるのは、江田船山古墳(熊本県)から出土した鉄刀と稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣。写真入りでいずれもワカタケル大王の文字が刻まれているという。資料を掲載したことは評価に値するが、本当にそう読んでいいのか疑問である。
 一方、中学校の教科書には「5世紀に入ると、大和朝廷の大王は、中国に何度もつかいを送り、中国の皇帝の権威を借りて、朝鮮北部の高句麗に対抗し、朝鮮との関係を保とうとしました」とある。いわゆる倭の五王の外交政策のことだ。中国史書に名前を残す、讃・珍・済・興・武の5人の倭王たちが、誰に相当するのかは様々に議論されてはきたが、歴代天皇の中に結びつける説は全て矛盾だらけ。そろそろ大和朝廷一元主義から脱却して新しい視点で考えてみてもいいのではないか。
 大和王権に先行する九州王朝や出雲王朝、さらには関東に大王ありと。それが今後歴史教科書を書きかえていく基本的なコンセプトとなる多元史観の考え方である。ちなみに大和朝廷が日本の中心王朝となるのは701年の大宝律令を前後する頃ではないかと考えている。

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【2011/11/16 09:20 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
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