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もうすぐ『麒麟がくる』ーー1582年の本能寺の変
 日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変(1582年)を起こした明智光秀を通して描かれる戦国絵巻『麒麟がくる』が、いよいよ1月19日(日)に放送スタートとなる。仁のある政治をする為政者が現れると降り立つとされる聖なる獣・麒麟ーーそれがタイトルの元になっている。
 なぜ、明智光秀は謀反を起こしてまで、主君・織田信長を討とうとしたのか。背後の動機などをドラマでどのように描くか注目したいところだ。高校の日本史B教科書『詳説日本史改訂版』(山川出版社、2017年)には次のように書かれている。
 このようにして信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み、1582(天正10)年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀に背かれて敗死した(本能寺の変)。

 はっきりとした動機までは書かれていないものの、「独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み」と表現している。軍記物語などでは粗相をした光秀が信長に辱めを受け、その恨みを晴らすべく謀反を起こしたとする「怨恨(えんこん)説」が一般に出回っているストーリーである。ところが近年の研究では、どうも従来考えられていた通説とは違っていたことが明らかになってきている。
 1月1日(水)の正月番組BSプレミアムの「本能寺の変サミット2020」では、気鋭の研究者が一堂に会し、「本能寺の変」をめぐる歴史激論バトルを繰り広げた。【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人、【コメンテーター】細川護煕、【パネリスト】天野忠幸・石川美咲・稲葉継陽・柴裕之・高木叙子・福島克彦・藤田達生というメンバー。
 野望説、共謀説などが紹介される中で、最も注目されたのが「四国説」である。林原美術館(岡山市北区丸の内2−7−15)に所蔵されていた石谷家文書によって、新たな事実が分かってきている。詳しいところまでは言及されていなかったが、簡単に言うと、織田信長の四国攻めから長宗我部元親を守るためのやむを得ざる選択であったということだ。
 長宗我部元親夫人については斎藤内蔵助の妹ではなく、土岐石谷兵部大輔光政の娘であったことが、朝倉慶景氏によって昭和54年の段階で発表されている。明智光秀もやはり清和源氏土岐氏の流れを汲んでいる。「長宗我部元親夫人の出自について」(『シリーズ織豊大名の研究第一巻 長宗我部元親』平井上総編著、2014年)の中で朝倉氏は「元親は石谷氏を核として、斎藤氏・蜷川氏・明智氏らと固く結ばれて情報を得たり、行動を共にしているのである」と述べている。
 そのような最先端の研究の成果が、果たしてNHK大河ドラマ『麒麟がくる』にどこまで反映されているだろうか。楽しみである。


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【2020/01/12 08:13 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
『八幡荘伝承記』と『東日流外三郡誌』

  NHKのBSプレミアム「ダークサイドミステリー」(2019年6月13日放送分)で、和田家文書『東日流外三郡誌』が取り上げられた。予想はついていたが、初めから偽書と決めつけたスタンスであった。


 内田康夫による『十三の冥府』(2004年発表)では、『東日流外三郡誌』をモデルとした『都賀留三郡史』が登場している。大和朝廷とは別に荒覇吐(アラハバキ)王国が存在したとする『都賀留三郡史』をめぐって、八荒神社の宮司の周辺人物が次々と怪死する連続殺人事件で、『都賀留三郡史』を取材に訪れた浅見光彦が真相を解明するものである。このドラマもテレビで見たことがあるが、これはフィクションであるからいいとしよう。


 しかし「ダークサイドミステリー」では歴史学者をコメンテーターとして迎えながらも、『東日流外三郡誌』=偽書という結論ありきの番組編集であった。そこには2007年(平成19年)に『東日流外三郡誌』の「寛政原本」が発見されたことなど全く触れられていなかった。


 もちろん原本が発見されたからといって、書かれていることが全て真実だとは限らない。その内容が正しいかどうかは、また別に史料批判をすることによって、信頼性のあるなしを判断していかなければならない。

 例えば、『東日流外三郡誌』で渡嶋(わたりしま)が北海道として描かれていることは六国史の影響を受けたもので、「渡嶋は北海道ではない」ということは『地名が解き明かす古代日本 錯覚された北海道・東北』(合田洋一著、2012年)で既に立証されている。その点は正史だからといって『日本書紀』などに全て正しい歴史が書かれているわけではないのと同様である。


 ところで、高知県には“土佐の『東日流外三郡誌』”とも言われる『八幡荘伝承記』なる古文書が存在したとされる。こちらは原本が見つかってないので、真偽のほどははっきりしない。その史料的性格について、『佐川史談 霧生関39号』(佐川史談会、平成15年)に掲載された「夜明けの群像 ―八幡荘伝承記の謎を探る―」と題する越知史談会・吉良武氏の論考を紹介してみたい。
 八幡荘伝承記を西森哲氏と共に世に出した明神健太郎さんの功績は大きい。それは闇の中にあった高吾北の中世に光をあて、高吾北開拓の歴史を明らかにしたからである。
 そのため土佐史談会から高い評価を得、高知新聞や土佐史談会で画期的な新資料として紹介された。土佐史談会は伝承記を手がかりに何度も南朝遺臣探究会を開き、幾多の遺跡を発見した。
 しかし一九七八年海南史学で下村效氏に「昭和十年代前半の偽作」と酷評された。その理由として中世に書かれたものであるというのに、「虫も殺さんという人であった。」「大変好い方であられた」などと口語文が随所に見られる。又「聖戦・皇軍戦没者」など近世の用語が沢山見られると、鋭くしかも綿密に指摘された。その指摘は合理的で納得できるものであった。
 伝承記は根拠のない偽作なのかどうか、伝承記の記述と高吾北の遺跡の照合によって検証してみたい。
 ……(中略)……
 南北朝の頃の資料は土佐にはほとんどないが、唯一佐伯文書がある。豊後国佐伯庄の地頭をしていた佐伯氏は土佐へやって来、津野氏につかえ海辺の庄の庄主となって、堅田経貞と名のった。南北朝の合戦では津野氏と共に北朝方につき、細川定禅の命に従って南朝方と戦った。
 その戦いで自分の軍功を書きしるし、主人に上申して後日の論功行賞の証拠にしたのが、堅田経貞の軍忠状である。この軍忠状は土佐における南北朝の合戦を正確に記録しているので、佐伯文書といい精度の高い第一級の根本資料とされている。
 その佐伯文書と伝承記の記述が符合する。例えば「大高坂落城の事」の一部分を対比してみよう。
 ……(中略)……
 伝承記は鯨坂八幡宮の僧が書いたものであり、佐伯文書は堅田経貞が書いたもので、著者も著述の目的も全くちがうから、表現の仕方には多少のちがいはあるのは当然で、内容は全く一致する。
 佐伯文書が第一級の歴史資料とすれば、伝承記の内容もきわめて精度の高い歴史資料といえよう。
 下村效氏の批判を合理的なものと認めつつも、「文徳院の五輪群」「沖の古城」などの史跡との整合性が見られることや『佐伯文書』との共通性などを根拠に、その史料的価値を高く評価している。

 結論として「伝承記の記述を手がかりに高吾北の遺跡を照合してみると、符合する部分が非常に多く、伝承記は高吾北の中世の姿を物語っているといえる。しかし口語文が随所に出てきたり、農民・皇軍・戦没者など中世に使われようはずのない単語が続出するなどは、あってはならないことである。……(中略)……こうした改竄された部分を含みながらも、伝承記は高吾北の中世を語る資料となり得ると思う。そのためには遺跡との照合を、更に深める必要があるだろう」としている。
 当ブログでも鯨坂八幡宮が安芸郡から勧請されたとする伝承記の信頼性を確認する記事「鯨坂八幡宮との関係ーー安芸郡の田野八幡宮」を書いたこともある。コピー機がなかった時代には古文書を手書きで書き写すしかないので、そこに写し手の判断が入り込めば後代の言葉が混ざることにもなる。史料としての価値は下がることになるが、書かれていることが全て嘘になるというものでもない。個々の史料批判を行った上で、どの部分が信頼できて、どの部分に誤りが多いのかなどを分析し判定していくべきだろう。



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【2019/09/22 10:42 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
仁徳天皇陵と若宮神社
 かつては「仁徳天皇陵」、今では「大山古墳」または「大仙陵古墳」というように歴史の教科書表記が変化した。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されようとして、話題沸騰中の「百舌鳥・古市古墳群」の一つ、大阪府堺市にある国内最大の前方後円墳「大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)」のことである。
 なぜ「仁徳天皇陵」と呼ばなくなったのかというと、埋葬者が仁徳天皇でない可能性が高いためであろう。『日本書紀』などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことが分かってきたからである。

 ところで、若宮神社の祭神が一般的には仁徳天皇とされている。高知県の場合は羽根八幡宮(室戸市羽根町乙戎町1318)の摂社・若宮八幡宮や安田八幡宮(安芸郡安田町安田2170)の摂社・若宮神社などには仁徳天皇が祀られているが、大半は氏族の先祖神が祀られていたり、祭神がはっきりしないところも多い。どろんこ祭りで有名な若宮八幡宮(高知市長浜6600番地)にも仁徳天皇は祀られていない。

 最近、愛媛県側の社寺関係古文書に面白そうなものを発見をした。宇和島領となっているが、町村名から判断すると今でいう南宇和郡に相当する地域である。高知県幡多郡に隣接する地域で、平安初期は幡多郡五郷の中に「宇和郷」があったことから、もしかしたら古くは土佐国に含まれていた可能性もある。
 何が興味を惹かれたかというと、リストの中に若宮神社が多いことである。51社中17社、すなわち3分の1が若宮神社である。とりわけても海岸の集落である浦に集中しているようだ。この地域を取り仕切る神主が京都に上って、神祇官領外部(吉田家)のところまで、いわゆる「京官」を受けに行き、神道啓状として社職の許可を得たものであろう。
 愛媛県側にも仁徳天皇を祀らない若宮神社があるということは、一部聞いていた。このリストに祭神までは書かれていないので判断しかねるが、この密集度はただならぬものを感じる。
 大山古墳の問題に話を戻そう。被葬者仁徳天皇でないとしたら、誰が埋葬された古墳なのか? 古墳時代から近畿天皇家の政権が連綿と続いていたとするなら、その伝承が失われてしまうなど考えにくい。大和朝廷に先行する王権の存在も可能性として考えるべきかもしれない。
 また、本当の仁徳天皇陵はどこにあるのか。そもそも善政を行ったと伝えられる仁徳天皇とは何者で、どこを拠点として活動していたのかなど。大和朝廷一元史観では見えない部分を多元的な視点で見直そうとする動きが、天皇陵の名称問題からも感じられる。


六 愛媛県社寺関係古文書


宇和島領中神社員数当用授書(宝暦一〇・一七六〇)


 神社名   現住所


諏訪大明神 城辺町


三嶋大明神 城辺町


蔵王権現   城辺町


祇園神社   城辺町


八幡宮   平城村


山王権現   平城村


金比羅権現 緑村


弓削大明神 緑村


春日大明神 緑村


若宮神社   緑村


斉宮大明神 長月村


若宮神社   和口村


若宮神社   僧津村


黄番大明神 正木村


若宮神社   正木村


山王権現   広見村


若宮神社   板尾村


春日大明神 小山村


白山権現   脇本村


熊野権現   中之川村


天満天神   満倉村


大宮大明神 上大道村


若宮神社   長洲村


厳島大明神 摺木村(菊川)


蔵王権現   柏村


  外海分


蘇我大明神 深浦


白山権現   岩水浦


住吉大明神 岩水浦


白山権現   垣内浦


若宮神社   久良浦


若宮神社   越田浦


若宮神社   小浦


若宮神社   船越浦


若宮神社   久家浦


若宮神社   内海浦


恵美寿社   中海浦


若宮大明神 福浦


春日大明神 卯来島


山王権現   吉屋浦


八幡宮   久保浦


  内海之内


厳島大明神


天満天神   左右東風浦


池田権現   深泥浦


轟権現   成川浦


天満天神   冷崎浦


若宮神社   中浦


明神     柏崎浦


若宮神社   洲之川浦


若宮神社   平磐浦


若宮神社   家串浦


由良権現   魚上山浦



右五十一社の神主 岡原主水 藤原重良


社職永不可有相違者


神道啓状如件  宝暦戌子仲秋吉曜日


神祇官領外部朝臣(花押)


(宝暦戌子なし、何かの間違いか。三宅)


『愛媛県と近代国家の成立 附愛媛の社・寺・文献』(三宅千代二著、昭和53年)より


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【2019/05/24 09:27 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
春日なる三笠の山ーー『土佐日記』紀貫之の証言
 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に いでし月かも
       (『古今和歌集』巻九)
(意味)天の原をはるかに見渡したときに見える月、この月は私のふるさとの春日にある三笠の山の上に出る月と同じなんだよなぁ。 

(解説)作者の阿倍仲麻呂が、留学で渡った唐から日本に帰るときに詠んだ歌です。船の乗り場であちらの国の人が、仲麻呂の送別会をして別れを惜しんで、漢詩を作ったりしていました。それに飽き足らなかったのでしょうか、彼らは満月が出るまでそこに留まりました。月は海から出てきたのですが、この海を天の原とたとえ、上った月の情景を表現した歌です。
春日なる:春日にある。春日とは、今の奈良県奈良市
三笠の山:奈良市にある山

 古典の教科書などでは上記のような説明がなされており、学校で教えられたことだから正しいと思っている人がいかに多いことか。
 この有名な歌は紀貫之の書いた『土佐日記』にも引用されている。 少し長くなるが関連する部分を引用する。
二十日の夜の月出でにけり。
山の端もなくて、海の中よりぞ出で来る。
かうやうなるを見てや、昔、阿倍仲麻呂といひける人は、唐土にわたりて、帰り来ける時に、船に乗るべきところにて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩(からうた)作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月の出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。
これをみてぞ仲麻呂のぬし、「わが国に、かかる歌をなむ、神代より神もよん給(た)び、今は上、中、下の人も、かうやうに、別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむ」とて、よめりける歌、
「青海原(あをうなばら)ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」
とぞよめりける。
 『土佐日記』の紀貫之の証言をどのように受け止めるべきだろうか。唐から帰る時、船乗り場で、海から昇った月を見た仲麻呂は、「私の国では、このような歌を神代から神様もお詠みになり、今日では、上中下いずれの人でも、このように別れを惜しんだり、嬉しい時も、悲しいことがある時も詠むのです」と言って例の有名な歌を詠んだというのだ。
 作者は阿倍仲麻呂だと教えられてきたのに、実際は神代から詠み継がれてきた有名な歌を阿倍仲麻呂は唐で披露したに過ぎない……。素直に読むとそういうことになる。なぜ「天の原」でなく「青海原(あをうなばら)」となっているのかという疑問もあるかもしれないが、本歌は「天の原」という場所で詠まれたが、異なる場所で海から昇った月を詠んだので、場に則した形で詠み変えたものと考えられる。
 また、通説では「春日なる三笠の山」が奈良県にある山とされてきたが、奈良県の御蓋(みかさ)山は標高約283mと低すぎて、この歌にふさわしくないことは、当地でも早くから問題視されていた。これに対して福岡県の三笠山(宝満山、標高869m)であれば、近くに春日市もあり、壱岐の天の原遺跡辺りから月が昇る東方に見ることができて、地理的位置関係や自然地形上からも問題はない。
 延喜五年(九〇五)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』は、貫之による自筆原本が三本あったとされている。残念ながらいずれも現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。
 一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、一一五七年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、一一七七年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に(ヽ)」と書いた横に「ヲ(ヽ)」と新院御本による校合を付記している。また、教長本は「みかさの山を(ヽ)」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に(ヽ)」と記されている流布本(貞応二年、一二二三年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる。
 原型が「みかさの山を出でし月」であれば、周囲の山々より低い奈良県の御蓋山にはますます似つかわしくないことになる。「神代より」とあるのだから、舞台は天孫降臨の地“筑紫の日向(福岡県の日向峠)”を中心とする領域である。近年、福岡県や佐賀県から弥生時代の硯(すずり)が発見され、まさに神代より歌が詠まれてきたという話が真実味を帯びてきた。
 歴史教科書のみならず、「もう一つの古典教科書問題」を提起しなければならなくなったようだ。

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【2019/05/07 23:19 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
オーテピアの図書館に『古代に真実を求めて21集』
  開館に王手がかかっていたオーテピアがついに7月24日にオープンした。2階と3階が高知図書館。ゆったりとしたスペースに本が並ぶ。広すぎて本を探すのに苦労しそうだ。郷土史のコーナーも確認してきた。

 気になっていた『発見された倭京――太宰府都城と官道(古田史学論集第21集)』が『失われた倭国年号《大和朝廷以前》(古田史学論集第20集)』と並んで置かれていた。休館中の3月に発刊された本である。
 そして4階に土佐史談会の事務所、5階が高知みらい科学館である。プラネタリウムは完全予約制とのこと。学習ルームや休憩室も完備。高知の学術向上に寄与してくれることを願う。

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【2018/07/25 23:33 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
堤真一×アメリカ謎の古代遺跡~先住民3000年の記憶~
  『堤真一×アメリカ謎の古代遺跡~先住民3000年の記憶~』と題する番組が放映された。番組をチェックしていたわけではないが、縄文人とネイティブアメリカン(インディアン)との繋がりを考える上で、是非とも見ておきたい内容だった。
    まず、チャコキャニオン遺跡(850~1150年)のプエブロボニート(美しい家)。太陽の動きに合わせて造られた建造物。二階の窓から射し込む冬至の太陽の光が壁の角の部分にピッタリとそろうように出来ている。
    縄文時代の遺跡を見てもそうだが、三内丸山遺跡や大湯ストーンサークルなど、冬至の日没や日の出の方角を意識して造られている。アメリカの遺跡は比較的に新しいけれども、冬至を1年の基準とするところは縄文文化と通じるものがある。
    彼ら(プエブロ族)は電気や水道を使わず、民族の伝統を守り抜こうとしてきた。もしかすると日本から渡った縄文人の伝統が引き継がれていた可能性はないだろうか?

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【2018/05/31 08:05 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
中世幡多荘の研究ーー大利恵子さん
    ラジオから「南国市の大利さんが幡多荘の研究で平尾学術奨励賞を受賞」というニュースが聞こえてきた。ネットニュースで確認すると以下のような内容であった。

平尾学術奨励賞に高知県南国市の大利さん  中世幡多荘研究で新説
(2018.4.28
  高知県の歴史や民俗などに関する優れた研究をたたえる「平尾学術奨励賞」の第39回受賞者が、仏教大学研究員の大利(おおり)恵子さん(63)=高知県南国市緑ケ丘1丁目=に決まり、公益財団法人高知新聞厚生文化事業団(宮田速雄理事長)が27日発表した。大利さんは、中世の土佐西南部に存在した荘園「幡多荘」の実態について史料から再検証。荘園の範囲や一条家との関係について新説を提示した。

  どのような研究内容なのか、気になっていて調べてみると論文が閲覧できた。その一部を紹介したい。幡多地方を研究する上で参考になることも多そうだ。

九条家領土佐国「幡多郡」の伝領とその特質
大利恵子
はじめに
  九条家領土佐国「幡多郡」は、建長二年(一二五〇)、九条道家が家領を子女に分配した際に、四男実経に分与した四十一ヶ所の内の一所である。処分状に載る家領の中では唯一郡名で挙げられる所領であり、土佐国「幡多郡」という記載に続き本庄、大方庄、山田庄、以南村、加納久礼別符の五ヶ所の荘園名が記されている。
  幡多郡は国造時代の波多国で波多・畑とも書かれ、大化改新によって成立した土佐国に併合されて幡多郡になったと言われ、東西に長い土佐国の西南部約四分の一を占める平野の少ない広大な地域であって、土佐七郡の中では国府があった長岡郡から最も遠い。そのような地に九条家領が形成された要因は何であろうか。

(中略)
②その「幡多郡」については、支証となる文書の類が見い出せないにも拘わらず、九条家一門の間では鎌倉幕府からの支給地であると認識され続けてきた。幕府が一郡を支給するという形で考えられるのは郡地頭職であるが、一方で道家の惣処分状には五ヶ所の荘園名が追記されて幕府給恩の預所の存在が知らされ、この家領の性質が国衙領であるのか荘園であるのか客観的に理解し難い。また惣処分状で追記された五ヶ所の荘園は幡多郡を五分割する単位ではなく、そのうち一ヶ所は高岡郡にあったと考えられる。このことから家領「幡多郡」は幡多郡の郡域と同一ではなく、荘園とその他を含み、加えて高岡郡の一部をも抱え込んだ範囲であり、それは漠然とした、且つ多分に「観念的」な認識であった可能性が高い。

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【2018/05/30 23:31 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
新刊『葬られた驚愕の古代史』の中身は?
  古代史の世界で兄弟子と慕う合田洋一氏の5作目となる本が出版された。『葬られた驚愕の古代史』(合田洋一著、2018年5月28日発売 創風社出版)である。サブタイトルは「越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや」となっていることから、いよいよ「紫宸殿」問題に本格的に言及されているのだろう。このテーマは高知県の「内裏」問題とも関連性があるので見逃せない。
  目次は以下のようになっている。いずれも興味深い内容ばかりである。

第一編 伊予に在った古代王国「越智国」
第二編「日出ずる処の天子・多利思北孤」の伊予行幸
第三編 万葉集を彩る九州王朝の天子・中皇命とは
第四編 九州王朝の天子・斉明と熟田津
第五編 永納山古代山城築造の背景
第六編 九州王朝存在の証―「評」による証言
第七編 越智国に「紫宸殿」あり 九州王朝の幻の首都だった
第八編 天武天皇の謎―「万世一系」系図作成の真相
第九編「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立
追編「古代史の万華鏡」


  さて、合田洋一氏といえば、かつては「道後の敵」とまで呼ばれたことがあった。「道後温泉は日本最古の温泉ではない」「聖徳太子は来なかった」など、歯に衣着せぬ物言いで、地元の観光業界からは、大いに煙たがられたことであろう。しかし敢えて苦言を呈する動機は、「偽りの歴史を残しては、後世の笑い者となる。真実を明かさなくてはいけない」との一念であった。
  近年では「合田の言っていたことは正しかった」と地域の名士たちも認め出している。北海道出身の合田氏が古田武彦先生と出会って、還暦から始めた古代史研究が遂に実りを結ぼうとしている。まだまだ解明しなければならない課題は残されている。今後とも、古田史学を基軸とした合田洋一氏の歴史研究に期待したい。


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【2018/05/29 22:23 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
四国最大級の方墳ーー伏原大塚古墳
2017年9月3日(日)、香美市土佐山田町にある伏原大塚古墳・鏡野学園前古墳・小倉山古墳の3つの古墳を見学。参加者36名は2グループに分かれ、互いに反対回りで埋蔵文化センターの職員の方の説明を受けながら歩いた。

    まずは伏原大塚古墳。出土した須恵器から築造時期は5世紀末~6世紀初頭に位置付けられている。一辺約40メートル、県下唯一で四国最大級の方墳である。県外から見学に来られる人が場所が分からず、説明するほうも困るという。それもそのはず、高さ4メートルもあった盛土は明治時代に全て除けられている。「はりまや橋」「唐人駄場の世界最大級のストーンサークル」と並ぶがっかり名所の一つと言えそうだ。



    次の鏡野学園前古墳は盗掘の跡であろうか、穴が開いていて中がのぞける。「光ファイバーで中を調査したらいいのでは?」という提案をしたが、何事も予算がなくては動かない。
 

    最後に「横穴式石室に入ってもらいたいたくて、小倉山古墳も選びました」とのこと。順番を待ち、ヘルメットをかぶって中へ。持参した懐中電灯が役に立った。入口は狭いが、石室内は意外と広く、立ったままでも大丈夫。参加者のほとんどが中に入っていた。ただし、夏場は蛇がいたりすることもあるので要注意とのこと。


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【2018/05/09 10:00 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
コロンブスの卵とアメリカ大陸発見
 ①「意欲に(1492年)満ちた大航海」――コロンブスのアメリカ大陸発見。
 ②「意欲は(1498年)高しガマの船」――バスコダ・ガマの新航路(アフリカの最南端喜望峰経由のインド航路)の発見。
 ③「行こう夫婦(1522年)で世界一周」――マゼランの世界一周。

 かつては、大航海時代の華やかな成果をこのように覚えたりしたものだ。しかし、今の教科書には「アメリカ大陸発見」という言葉は書かれていない。なぜか? 理由は簡単である。アメリカ大陸を最初に発見したのはコロンブスではないからだ。

1421―中国が新大陸を発見した年
 ギャヴィン・メンジーズ著『1421 中国が新大陸を発見した年』によると大航海時代以前のヨーロッパの古地図には、アメリカ大陸の一部としか思えない島々が描かれている。コロンブスもアメリカ大陸の地図を持って大西洋を横断したのだという。では、その地図はいつどこでつくられたものなのか? 明の時代、鄭和(ていわ)率いる大艦隊の7度にわたる航海の成果によるものだというのだ。

 また、さらにさかのぼる西暦1000年ごろ、ヴァイキング(ノルマン人航海者)のレイフ・エリクソンによってアメリカ大陸が発見されていたということも言われている。
 では、それ以前の人たちはアメリカ大陸を全く知らなかったのか? とんでもない。アメリカの先住民はモンゴロイド、すなわちアジア系である。当然、アジア側から移動していった民族がいるはずだ。
 前漢の武帝(前141~前87)のとき、漢の使者張鶱は西域におもむき、シルクロードを西行し、大月氏国の領域に至った。そして安息国(ペルシャ、現在のイラン)の長老から「西へ行くこと、百余日」で西の果ての「条支国」(ジブラルタル周辺か)に至り、さらにその西へ、海を行くこと「百余日」にしてはじめて「日の入る所に近し、と云う」の領域がある。そういったことが『漢書』に記載されている。コロンブスもまた百余日でアメリカ大陸に到達したことをふまえると、2000年前の漢の時代にはアメリカ大陸についての認識があったということではないか。
 私が小学生の頃、「コロンブスの卵」に関するマンガを読んだことがある。コロンブスをねたむ者たちは「大西洋をただ西へ行っただけではないか」と揶揄した。その人たちにコロンブスは「この卵を立てることができますか?」と課題を提起する。皆は一生懸命立てようとするが、底の丸い卵が立つわけがない。そこでコロンブスが「卵をこうすれば立つのだ!」と、底を少しつぶしながら卵を立てて見せた。「そんなことなら誰でもできるではないか」との反論に、「誰もができることでも、最初にやるのは難しいのだ」と決め台詞を残す。
 当時はかっこいいと思ったものだが、コロンブス自身が最初ではなかったとすれば「コロンブスの卵」もやや色あせるというもの。だが、世界史の教科書自体が新しい研究の成果を反映しながら、表現が変わっていく。ヨーロッパ中心主義の世界観から多元的歴史観に変わってきており、これこそが真に学問のあるべき姿である。
 一方、日本史のほうはどうか? 大和朝廷一元主義の立場に立つ従来の定説に縛られたまま、書き換えなければならないところがいつまでたっても変わらない。学問を志す者は真理の前に謙虚でなければならない。日本史の教科書を真実に即して書き換えること。やろうと思えば誰でもできることだが、最初にやるのは難しい。日本古代史における「コロンブスの卵」はいつ登場するのか?

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【2011/12/01 15:23 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
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