古代における最大の事件といえば、やはり「大化の改新」(645年)であろうか。小・中学生でもだいたい覚えている重要事項の一つである。覚え方はいろいろあるが、次のようなものはいかがだろうか。4項目を一文に盛り込んでみた。
大化の改新は虫殺しで なかなか いそがしい 645年 中大兄皇子 中臣鎌足 蘇我氏 大化の改新についての理解は以前とは随分変わってきている。現在の高校の歴史教科書『詳説 日本史』には、次のように記されている。
問題は「改新の詔」其の二に登場する「郡」制度が7世紀末でもまだなく、「評」だったことが木簡で明らかになったことだ。坂本太郎と井上光貞との間で行われた、いわゆる「郡評論争」である。それゆえ「大化の改新」、特に「改新の詔」は虚構という説が一時期有力となっていた。 教科書でも「『日本書紀』が伝える詔の文章にはのちの大宝令などによる潤色が多くみられ、この段階で具体的にどのような改革がめざされたかについては慎重な検討が求められる」としながらも、「藤原宮木簡などの7世紀代の木簡や金石文に各地の「評」の記載がみられる。また、地方豪族たちの申請により「評」(郡)を設けた経緯が、『常陸国風土記』などに記されている」との注記をしている。 『日本書紀』に従えば「改新の詔」は646年(大化二年)とされるが、九州王朝説の立場から藤原宮で696年(九州年号の大化二年)に出されたとする説もある。「大化の改新」の成立時点について、古田武彦氏は701年(大宝元年)としている。これは「郡制」への移行についてみた場合の視点なのだろう。 21世紀になると、改新の詔を批判的に捉えながらも、7世紀半ば(大化・白雉期)の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。これは難波宮における「天下立評」という評制開始などの画期を認める立場である。事実として、7世紀後半には評が存在していた。それなのに『日本書紀』の編者はなぜ、「評」を「郡」と書き換えたのだろうか。おそらく「評制」を施行したのが大和朝廷でなかったためだろう。いつ、誰が「評制」を施行したか、多元的視点も交えて考える必要がありそうだ。 PR |
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