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 中世土佐の名族津野氏は、家譜によれば913年(延喜十三年)土佐に入国、津野荘を開拓したとするが、地元では元仁元年(1224年)入国説を採用しているようだ。家系図の代数から、10世紀までさかのぼるには無理があるとの考え方が強いためだろう。津野氏は本姓藤原氏、鎌倉期には在地領主として台頭、この荘名を姓としていたことが1333年(元弘3年)には確認できる(潮崎稜威主文書)。
 つまり、土佐津野氏の場合は本姓を藤原とし、地名の津野荘からとって姓(名字)を津野とした。このように武家の姓は中世の地名を由来とする場合が多い。このことは古代氏族のルーツを研究する際に、現在における姓の分布を根拠とすることの危うさを示している。現在使われている姓は中世以降を起源とするものが多く、本姓と名字が一致しているならともかく、そのようなケースは比較的少ないとされている。
 さて、土佐津野氏の場合、本姓は藤原と考えられている。ところがその家系の中で橘姓を名乗った人物がいる。津野豊前守正忠だ。彼は慶長五年(1600年)11月18日死去し、墓地は土佐市高岡の清滝寺(四国八十八箇所第35番札所)の近くにあり、清滝津野氏の始祖と言われ、さらに津野勝興の子息と伝えられている。

 『中世土佐国 土佐津野氏に関する論文集』(朝倉慶景著、令和2年)に、津野豊前守について、次のような研究が述べられている。
 彼は津野豊前守橘正忠を称し、「橘」は本姓となるが、これは源・平・藤・橘から選んだものと推察される。だが父は一条系母は長宗我部系の人。そのため藤か秦となろうが、それらを排除した形であり、また正忠の名前についても、この時期は父の一字である勝または興を用いるのが通常であった。それにも拘わらず正忠を称しているのは、二十八歳で死去した津野親忠への養子縁組が出来ていたとみるべきであろう。そのことは豊前守の名乗を、長宗我部氏が認めていたことからも言えよう。すなわち「守」は古くに一国の支配者を意味するため、この時期家系または技能集団の「長」がよく用いていた。従って津野親忠の後を受け継いだ人とみてよかろう。
 本来は藤原を本姓とするはずの津野氏が、なぜ橘を名乗ったのであろうか。もしかしたら、橘を本姓としていた可能性はないだろうか。津野吉郎氏の『清滝津野氏の由来』(昭和48年)によると、関ケ原の戦い(1600年)後、津野親忠が長宗我部盛親によって殺害されたため、本姓を秘め橘正忠と称したものと説明されている。
 同様のケースとして、源氏の流れを汲むとされる吉良氏が荒倉神社(高知市春野町)の棟札に、「源」でなく「大檀那平親貞」「平朝臣吉良千熊丸」などと「平」姓で記録されている。これらを単なる誤りとしてよいのか……。
 これだけでも興味深い研究対象であるが、古代氏族等について研究する場合、このような姓の変遷をたどり、本姓を正しく確認することが不可欠となってくるだろう。


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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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