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卑弥呼の墓、発見ーー今さら?
「卑弥呼の墓が発見されたようですよ」
   ネットでニュースが流れたようで、同僚から報告を聞いた。
   「何を今さら……」。卑弥呼の墓は既に分かっているーー多分、他に有力な証拠が出ない限り○玖岡○遺跡である。念のため確認してみたが、①前方後円墳 ②後円部の直径150m ③田川郡赤村ーーやはりガセネタか。
   卑弥呼の墓は①弥生墳丘墓 ②直径約30m ③博多湾岸~春日市近辺、というのが『魏志倭人伝』の正しい解釈と思われる。
   「やれやれ」と思いつつも、よく考えてみれば凄い発見には違いない。九州王朝説に刺さった3本の矢の1つが抜けようとしている。畿内に匹敵する巨大前方後円墳の存在は何を意味するのか?
『太宰府は日本の首都だった』の著者・ウッチャン先生こと内倉武久氏や「太宰府地名研究会」の古川清久氏なども、この古墳の存在は周知の上で発表のタイミングを図っていたようである。
   『発見された倭京ーー太宰府都城と官道』(古田史学の会、2018年3月25日)の出版と相まって、今また北部九州に注目が集まりそうだ。

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【2018/04/03 00:11 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
高地性集落は倭国大乱ではなく巨大津波が原因か?


  NHKのクローズアップ現代
「予測できなかった超巨大地震 苦悩する地震学者たち」(2012年1月19日放送)の中で、高知大学の地質学者・岡村眞教授が2011年4月に高知県土佐市蟹ヶ池で地質調査をしたことが紹介されていた。

   土佐おんちゃんの田舎暮らしによると、海から約400m入り込んだところにある蟹ヶ池の底に残された超巨大津波の堆積物は1707年宝永大地震の津波堆積物15cmも確認されたが、そのさらに下には約2000年前の50cmの堆積物があったという。
 50cmの厚さから推測するとマグニチュード9級で波高50m以上の津波だったと推測されている。

  この内容については数年前、科学雑誌『ニュートン』で見て、ずっと気にしていた。従来、弥生時代の高地性集落は『魏志倭人伝』の「倭国大乱」に対応して造られたとされてきた。その後の研究でいくつかの矛盾点も指摘されており、それを解決する1つが「高地性集落 巨大津波起源説」である。
  高知県では吾川郡いの町のバーガ森遺跡が高地性集落として知られている。
標高145m程度で、2000年前の炭化米、壺、甕(かめ)、石包丁、鏃(やじり)などなど一万点の遺物が出土したという。 



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【2018/03/19 10:53 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
韓国内陸行一月
 『魏志倭人伝』における行路記事は信用できないのか? 多くの学者たちが倭人伝には誤り多しとし、南を東に改訂し畿内説に結びつけたり、一月を一日の誤りとし九州説を主張したりしてきた。ポイントとなるのは次の箇所である。

 「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへるに、たちまち南したちまち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。(中略)南、邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。」

 確かに日本国内を一月も歩いたとしたらどこへ行くか分からない。しかし、部分里程を記した後、帯方郡より邪馬壹国への総里程を「水行二十日、陸行一月」として併記していることに気づけば従来の矛盾点が説明できる。
 では「陸行一月」とはどこのことか? 韓国内陸行である。これこそまさに古田武彦氏の慧眼と言わざるを得ない。「韓國をへるに、たちまち南したちまち東し」というのは、南に行ったり東に行ったりしてジグザグと韓国を通過するの意である。これに対して、韓国内にそのようなルートの街道はなく一月もかからないといった反論があった。この点に関して、私は数年前にある資料を目にして、古田氏に伝えねばと思いつつ今日に至り、ささやかながらここで紹介したいと思う。次の図を見て欲しい。

kankoku

 これは朝鮮戦争当時、北朝鮮軍の南進が始まって、ソウルから釜山(すなわち倭国の北岸狗邪韓國あたり)へ逃避を余儀なくされた人のたどった道のりである。キャプションを見ると1951年1月3日~27日とある。一か月弱であるが、総里程として考えれば、韓国内+倭国内合わせて陸行一月が俄然真実味を帯びてきた。
 かつては韓国の西岸・南岸を船で通ったとする説ばかりであったが、韓国ドラマ『海神(ヘシン)』を見ても、その航行がいかに困難を極めるかが分かる。上図は「たちまち南し、たちまち東し(乍南乍東)」というにぴったりではないだろうか。実際の行程については、韓国内において土地勘のある研究者の調査を待ちたい。

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【2011/11/24 14:50 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
俾弥呼(ひみか)発見!
待ち望んでいた『俾弥呼』(古田武彦著、ミネルヴァ書房)を手にした。県立図書館に置いてあるとはありがたい。司書の方々の中に良識的な人がいらっしゃるようである。
 さて、社会のテストで邪馬台国(魏志倭人伝の原文は邪馬壹国)の女王の名前を書けといった問題は日常茶飯事。「卑弥呼(ひみこ)」と答えさせる意図であるが、解答例の中に「ひめこ」も可とされているものもある。ではもし、「ひみか」と答えたらどうなるのか。まず間違いなく不正解にされるだろう。
 「呼」の文字が「こ」ではなく「か」と読むことについては古田氏の論証を参照して頂きたいが、甕棺(みかかん)の地にあって「ひみか」と読むことはさもありなんといったところだ。現代人にとっては巫女や○○子という女性の名前がひみこという読みをしっくり感じさせていたかもしれないが、古代にあってはむしろ違和感さえある。小野妹子が女でなく男であったことを知った生徒たちの驚きはいかばかりか。また、皇子(みこ)とくればむしろ男性の名前を連想させる。
 名前は時代とともに流行りすたりがある。最近は女の子で○○子という名前をほとんど見なくなった。男女どちらともとれるような名前や何と読むか分からないものも増えた。そのうちまた、男の子で○○子という名前が出てこないとも限らない。
 果たして、歴史の教科書に卑弥呼の読みがひみかと掲載されるのはいつのことだろうか。その時には彼女の真実の姿を詳述してほしい。神功皇后やアマテラスといった誤った比定ではなく、甕依姫(みかよりひめ)という本名とともに。

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【2011/11/18 22:29 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
侏儒国の縄文灯台
 10月25日付高知新聞で土佐清水市の唐人石のことが紹介されていた。4~7m級の巨石がいくつも積み上げられた唐人駄場の巨石遺跡群である。数年前、私が初めて訪れたときはほとんど人も来ないような場所であった。それが最近、高知県の観光案内にも紹介されたりしており、急に訪ねる人が増えたように感じる。観光客に聞くと美輪さんがテレビで紹介していたという。

遺跡案内

 もともと足摺岬といえばジョン万次郎の銅像があり、四国最南端ということで観光スポットになっているところであるが、そこに行く途中の山腹にひっそりとたたずむ遺跡のことはあまり知られていなかった。高知県人に聞いても知らない人がほとんど。「高知県には世界最大級のストーンサークルがある」と言うと「えっ、どこに?」と驚かれる。戦前は列石が残っていたが、戦後公園にするために中の石を取り除いたのだという。行ってみたらキャンプ場になっていた。はりまや橋に勝るとも劣らない、がっかり名所となってしまった。

唐人駄馬

 今でこそ高知県は高知市一極集中になっているが、縄文時代はむしろ西部の中村(現四万十市)や足摺岬周辺が中心地であった。大分県の姫島が黒曜石の産地であり、船での行き来を考えれば地理的条件が整っている。縄文人の生活にとって海洋交通は欠かせないもの。食生活を考えても、山での狩猟より海産物の採集のほうが安定した基盤となる。一説には貝塚は食品工場のあとだったとも言われている。
 さて、船で遠出するときに重要なのが目印である。縄文時代には灯台があったのだろうか? 足摺岬にはなんと縄文時代の灯台が残されているという。先に紹介した巨石遺跡群の中に鏡石と呼ばれる表面を平らに磨いたような巨石がそびえ立っている。その場所から海が見渡せるし、海の方からも台地の上にその石が確認できる。その調査については、昭和薬科大学文化史研究室による『足摺岬周辺の巨石遺構―‐唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書』(土佐清水市教育委員会発行)としてまとめられている。

鏡石

 まさにこの一帯が魏志倭人伝に登場する侏儒国であり、黒潮に乗って裸国(チリ北部)・黒歯国(エクアドル)に向かう出発点だったのではなかろうか?


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【2011/10/26 08:42 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
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