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邪馬壹国の女王・卑弥呼は佾(いち)か?

 『「邪馬台国」はなかった』(昭和46年)が出版される時、著者・古田武彦氏も悩んだという。『三国志』全体の中に「壹(いち)」は86個、「臺(だい)」は56個あった。誤謬率の統計的調査を行なったのである。その結果、「臺→壹」の形の誤記は生じていないことが確認されたのだ。すなわち『三国志』の原本には「邪馬壹国」と書かれていて、3世紀の段階では“邪馬台国はなかった”のである。
 商業主義に立つ出版社はインパクトのあるタイトルとして「邪馬台国はなかった」を提示した。しかし、後の時代には天子の居所を意味する至高文字「臺」のインフレーション現象が起きる。『後漢書』における「邪馬台国」の表記がそれである。
 タイトルの「邪馬台国」にカギ括弧が付いたいきさつは、そのような内容だったと聞いている。つまり卑弥呼の時代、3世紀段階では邪馬台国はなかったという限定的な表現を込めたのだ。ではなぜ「壹」という字を国名としたのだろうか。古田氏は「二心(ふたごころ)無き忠誠心」を表す漢字として「壹」を使用したと考えた。

 この考えには反対ではないが、「壹」にはもう一つの意味があるのではないかと最近、考えるようになった。高知県では神に仕える巫女のことを、かつては「佾(いち)」と呼んでいた。『長宗我部地検帳』をはじめ、古い文献には時折り登場する。『魏志倭人伝』に「名を卑弥呼と曰い、鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わす」と描かれた邪馬壹国の女王・卑弥呼(ひみか)はまさにこの「佾(いち)」に相当する女性である。邪馬(やま)国の「いち」が治めた国なので邪馬壹国(やまいちこく)と呼んだのではないか。より実態に即した命名のように思われる。

 卑弥呼ならびに壹與の時代はまさに「邪馬壹国」だったのであろう。その後、再び男王の時代に戻ったと考えられるが、そうなると既に「いち」の国ではなくなったことから、邪馬壹国という国名は使われなくなったとするのが理にかなっているように思われる。

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【2018/12/13 08:11 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
吉野ケ里環壕は水路であった

 古田史学の会・関西例会で「弥生環濠集落を防御面で見ることの疑問点」というテーマで、
大原重雄氏から、吉野ヶ里遺跡の環濠集落は「環濠」や「土塁・柵」が考古学者の誤った解釈により誤「復元」されたものであり、土塁や柵の存在は確認されておらず、防衛のために集落を囲んだとされた「環濠」は川から集落へ生活用水を取り込むための流路(人工河)、あるいは洪水に備えた治水設備とする見解が紹介された。
 ホームページ「吉野ケ里歴史公園」によると次のように紹介されている。

 発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mです。
 堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため、壕の外に土塁が存在したものと考えられます。
 環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭、南内郭に比べて規模が大きく、深く中世の城郭に見る「空堀」のような状態であり、防御的性格の強い施設と想定し、土塁上に柵列を設けました。

 「防御的性格の強い施設と想定し」とあるように、復元された「土塁」やその上の「柵」が実際は出土していなかったというのだ。吉野ヶ里は弥生時代の遺跡であり、『魏志倭人伝』の「倭国大乱」と結び付けられ、防御施設と空想されたものではないだろうか。

 一方、多元史観に立ち、吉野ヶ里を邪馬壹国の水軍の拠点の1つと見なした場合はどうだろうか。弥生時代の舟が行き来する水路として十分な幅と深さがあるように思われる。ただし、水を蓄えない空堀であったとの主張もあるので、妄想に走り過ぎないようにしたい。
 吉野ヶ里遺跡は弥生時代の終わりと共に終焉を迎える。船の巨大化に伴って水軍の拠点が嘉瀬川流域へと移行していったのかもしれない。倭国の中枢と考えられる筑後から、古代官道が吉野ケ里を経て佐嘉郡国府方面へと伸びている。

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【2018/11/21 14:33 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
卑弥呼の墓、発見ーー今さら?
 「卑弥呼の墓が発見されたようですよ」
   ネットでニュースが流れたようで、同僚から報告を聞いた。
   「何を今さら……」。卑弥呼の墓は既に分かっているーー多分、他に有力な証拠が出ない限り○玖岡○遺跡である。念のため確認してみたが、①前方後円墳 ②後円部の直径150m ③田川郡赤村ーーやはりガセネタか。
   卑弥呼の墓は①弥生墳丘墓 ②直径約30m ③博多湾岸~春日市近辺、というのが『魏志倭人伝』の正しい解釈と思われる。
   「やれやれ」と思いつつも、よく考えてみれば凄い発見には違いない。九州王朝説に刺さった3本の矢の1つが抜けようとしている。畿内に匹敵する巨大前方後円墳の存在は何を意味するのか?
『太宰府は日本の首都だった』の著者・ウッチャン先生こと内倉武久氏や「太宰府地名研究会」の古川清久氏なども、この古墳の存在は周知の上で発表のタイミングを図っていたようである。
   『発見された倭京ーー太宰府都城と官道』(古田史学の会、2018年3月25日)の出版と相まって、今また北部九州に注目が集まりそうだ。

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【2018/04/03 00:11 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
高地性集落は倭国大乱ではなく巨大津波が原因か?


  NHKのクローズアップ現代
「予測できなかった超巨大地震 苦悩する地震学者たち」(2012年1月19日放送)の中で、高知大学の地質学者・岡村眞教授が2011年4月に高知県土佐市蟹ヶ池で地質調査をしたことが紹介されていた。

   土佐おんちゃんの田舎暮らしによると、海から約400m入り込んだところにある蟹ヶ池の底に残された超巨大津波の堆積物は1707年宝永大地震の津波堆積物15cmも確認されたが、そのさらに下には約2000年前の50cmの堆積物があったという。
 50cmの厚さから推測するとマグニチュード9級で波高50m以上の津波だったと推測されている。

  この内容については数年前、科学雑誌『ニュートン』で見て、ずっと気にしていた。従来、弥生時代の高地性集落は『魏志倭人伝』の「倭国大乱」に対応して造られたとされてきた。その後の研究でいくつかの矛盾点も指摘されており、それを解決する1つが「高地性集落 巨大津波起源説」である。
  高知県では吾川郡いの町のバーガ森遺跡が高地性集落として知られている。
標高145m程度で、2000年前の炭化米、壺、甕(かめ)、石包丁、鏃(やじり)などなど一万点の遺物が出土したという。 



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【2018/03/19 10:53 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
韓国内陸行一月
 『魏志倭人伝』における行路記事は信用できないのか? 多くの学者たちが倭人伝には誤り多しとし、南を東に改訂し畿内説に結びつけたり、一月を一日の誤りとし九州説を主張したりしてきた。ポイントとなるのは次の箇所である。

 「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへるに、たちまち南したちまち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。(中略)南、邪馬壹國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。」

 確かに日本国内を一月も歩いたとしたらどこへ行くか分からない。しかし、部分里程を記した後、帯方郡より邪馬壹国への総里程を「水行二十日、陸行一月」として併記していることに気づけば従来の矛盾点が説明できる。
 では「陸行一月」とはどこのことか? 韓国内陸行である。これこそまさに古田武彦氏の慧眼と言わざるを得ない。「韓國をへるに、たちまち南したちまち東し」というのは、南に行ったり東に行ったりしてジグザグと韓国を通過するの意である。これに対して、韓国内にそのようなルートの街道はなく一月もかからないといった反論があった。この点に関して、私は数年前にある資料を目にして、古田氏に伝えねばと思いつつ今日に至り、ささやかながらここで紹介したいと思う。次の図を見て欲しい。

kankoku

 これは朝鮮戦争当時、北朝鮮軍の南進が始まって、ソウルから釜山(すなわち倭国の北岸狗邪韓國あたり)へ逃避を余儀なくされた人のたどった道のりである。キャプションを見ると1951年1月3日~27日とある。一か月弱であるが、総里程として考えれば、韓国内+倭国内合わせて陸行一月が俄然真実味を帯びてきた。
 かつては韓国の西岸・南岸を船で通ったとする説ばかりであったが、韓国ドラマ『海神(ヘシン)』を見ても、その航行がいかに困難を極めるかが分かる。上図は「たちまち南し、たちまち東し(乍南乍東)」というにぴったりではないだろうか。実際の行程については、韓国内において土地勘のある研究者の調査を待ちたい。

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【2011/11/24 14:50 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0) | トラックバック(0)
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