女王国(邪馬壹国)の同盟国と考えられる「使訳通ずる所三十国」。そこから狗邪韓国以下9国を除いた21か国については、国名のみが『魏志倭人伝』に列挙されている。 「魏志倭人伝の21か国は高知県に存在したか」という問題で、第一に着目したのが稲作開始時期であった。前回論じたように、高知県は北部九州に次ぐ弥生時代の先進地であったことが分かった。 第二に注目したいのが、最近話題になっている弥生時代の硯(すずり)の存在である。北部九州での弥生硯の発見は相次いでいたが、2022年に高知県でも見つかっている(弥生時代の最先端超薄型硯(すずり)――ついに高知県でも発見)。 福岡県に始まり、山陰・近畿など全国的に弥生時代の硯が数多く見つかる中で、その大半は「砥石(といし)」を再鑑定して、実際は硯と判明したものだ。 高知県内でも2000~2008年に3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代に墨をすりつぶすために使った硯と推測されることが確認された。とりわけ注目されるのは四万十市の古津賀遺跡群における紀元前後の竪穴住居跡から出土した遺物4点。このうち厚さ3mmと極端に薄い1点は、弥生時代の石器工房・国際貿易港と考えられている御床松原遺跡(福岡県糸島市)の出土品と類似しているという。 年代としては建武中元二年(57年)に後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を賜った時代に近い。鑑定にあたった国学院大学の柳田康雄客員教授は「御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(北部九州と)あった」と話している。 一方、伏原遺跡(香美市)と祈年遺跡(南国市)の各1点は、3世紀後半の遺構から出土していたもの。こちらはそれこそ、『魏志倭人伝』に登場する邪馬壹国の女王・卑弥呼の時代に近い。 古田武彦氏によれば、卑弥呼は文書を以って魏の国と外交していたとする。すでに国内で文字を使用していたとしても不思議ではない。地域差はあるだろうが、邪馬壹国の領域と考えられる北部九州に弥生時代の硯が多数発見され、女王国と「使訳通ずる所三十国」に弥生硯の分布が広がるのは自然な流れであろう。 以上のような論点ーー稲作開始の時期と弥生時代の硯の存在ーーから、明言はできないまでも、弥生時代における北部九州との深いつながりを知ることができる。高知県に『魏志倭人伝』の21か国のうち、いずれかの国がが存在していたとしても不思議ではないのではなかろうか。 PR |
女王国(邪馬壹国)の同盟国と考えられる「使訳通ずる所三十国」。そこから狗邪韓国以下9国を除いた21か国については、国名のみが『魏志倭人伝』に列挙されている。そのいずれかの国が高知県に存在したであろうかという「魏志倭人伝の21か国は高知県に存在したか」という問題は、単に類似地名を探すという方法論では解決しない。似たような地名は全国にいくらでも存在するからだ。 そこで私が第一に着目したのが稲作開始時期である。これは古田武彦氏も注目した点であり、言い換えるならば弥生時代の先進地はどこかという視点である。北部九州が最も早いことはよく知られているところだ。
これは測定結果ですから当然ですが、「高知の田村と北九州は間があいていない」「それはなんでですか」と説明の方に聞いても「分かりません」。(『邪馬壹国の歴史学』「Ⅳ 倭人も太平洋を渡った」P.158)古田氏は「筑紫に次ぐのは、土佐」というデータ、そのグラフを見たとき、深い好奇心をおぼえざるをえなかったとも言及している。 田村遺跡は縄文時代から近世にかけての遺跡で、縄文時代後期では九州との関連が深い鐘崎式土器が多く出土している。弥生時代では本格的に稲作を始めた初期のムラの様子が明らかとなって、中期には西日本でも屈指の大集落となり、大きな影響力を持っていたとされる。 そしてさらに注目すべき点は、朝鮮半島の松菊里遺跡で発見された住居跡に類似する松菊里型竪穴住居跡が見つかっていることである。これをもって朝鮮半島と直接または間接的に交流があったとする研究者もいる。 『魏志倭人伝』に記録された弥生時代のことを論ずるには、少なくとも上記の内容は無視できないのではないかと考える。だからと言って、存在したという明確な根拠とするには慎重を要する。あくまでも、可能性の高さを論ずる参考資料にとどめてほしい。 |
「『魏志倭人伝』に記載されている21か国は、高知県にも存在したと思いますか?」
県外の研究者からそのように聞かれて、思いつくところ所見を述べたことがある。質問の背後には、おそらく高知県には一国も存在しなかっただろうとの意図があるように感じられた。その根拠として、古代土佐国においては、『日本書紀』等に記録されるような有力な人物が見当たらないというのだ。 だが、『魏志倭人伝』が記録したのは弥生時代のことである。弥生時代の高知県の状況を考察する前に、『魏志倭人伝』の記述を簡単に紹介しておこう。倭人伝には次の傍国記事がある。 女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。そこで、それらを列挙すると、斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる。 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。」 該当箇所はおおよそ上記の通りで、21か国が列挙されている。狗邪韓国以下9国と合わせて「使訳通ずる所三十国」が女王国(邪馬壹国)の同盟国と考えられている。そのいずれかの国が高知県に存在したであろうかという問題である。 岩波文庫の解説によると、参考として内藤湖南博士の比定を中心に述べており、「対蘇(土佐、また鳥栖・多布施・遂佐)」と紹介している。これは音が似ている地名に当てはめるという地名比定の方法論である。 もちろん、地名との類似があることは、全くないよりは良い。しかし、地名の当てはめを唯一の根拠とするなら、似たような地名は全国にいくらでもあり、この方法論を乱用したことが、邪馬台国論争が百花繚乱の混迷をもたらした原因でもあった。 倭人伝の21か国比定については、これまでほとんど考えてこなかった。国名以外に有力な手がかりがなく、具体的に決めることはできないというのが学問的な態度であろうと慎重に考えてきたからだ。けれども質問されたこともあり、高知県に21か国が存在したかどうかの可能性について、少し検討してみたい。 |
2021年6月21日、夏至の日である。夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せて二至二分という。春分・夏至・秋分・冬至――このうち人類が最も古くから意識していた日はいずれであろうか? 夏至の日はともすれば、父の日と同様、あまり気付かれないままに過ぎ去っていく。それに対して春分の日や秋分の日は国民の祝日であり、また彼岸の中日ということもあって、わりと馴染み深い。「昼と夜の長さが等しくなる日」「太陽が真東から昇り真西に沈む」といった定義は現代人には明確で分かりやすいと感じるかもしれないが、古代の人々にとってはどうだったのだろうか。 時計がなく方位磁針もない時代に、昼と夜の時間や真東・真西というものをどう認識するのだろうか。逆に太陽や星座の観測を通してそれらを知ろうとしたことが、古代の遺跡などを調べることによって推し量ることができる。 とりわけ三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)など縄文時代の遺跡の多くは冬至や夏至の日を意識して造られているように見える(“縄文人はカレンダーを持っていたか?”)。方位磁針があっても真東や真西は正確には見つけにくい。磁北そのものが真北とは一致していないからである。それに比べると、日の出や日の入りが最も南寄りになる冬至の日は長期間にわたって日々の観測を怠らなければ、わりと正確に割り出せることだろう。 それは夏至の日でも条件は同じと思われるかもしれない。日の出・日の入りが最も北寄りになる日を見つければよいわけである。しかし、6月は梅雨シーズンである。雨の日が多ければ日の出・日の入りの観測は難しくなる。よって夏至の日よりは雨が少ない12月の冬至の日のほうが観測にはより適していると言えるだろう。 『魏志倭人伝』に裴松之の注として「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす) とある。これが古代における「二倍年暦」を示唆する文献的な根拠として、古田史学では「短里説」と並ぶ一つの柱となっている。 さて、一年を2つに分ける際に、①春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ一年とした。②冬至から夏至、夏至から冬至をそれぞれ1年とした。ーー他にも可能性はあるだろうが、大きくはこの2説に分けられるのではなかろうか。どちらが実態に即しているだろうか。 ブログ<sanmaoの暦歴徒然草>では、次のように言及している。私も②なのではないかと考えてきたので、この意見には大いに同意するところがある。 ただ一つ、私見を述べれば「春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である」という見解には同意できません。「暦法」は長い間、太陽年(回帰年)を「冬至から次の冬至までの日数」としてきました。それは観測方法が簡単で間違い難いからです。冬至から夏至までを「春年」、夏至から冬至までを「秋年」とした、これが私の見解です。『魏略』の「春耕秋収」によって春・秋を出発点とする考えには同意できません(文献と天文学・暦部のどちらをとるかという観点から)。 三内丸山遺跡や大湯環状列石など、縄文時代の遺跡は冬至や夏至に合わせて造られた建造物が多い。その点から考察しても、二倍年暦では‘春一年’の始まりは冬至、‘秋一年’の始まりが夏至だったのではないか。そうだとすると「春分の日」は単に彼岸の中日となるだけでなく、冬至から夏至までの‘春一年’を真ん中で分ける日、まさに「春分の日」という言葉がピッタリとなる。 また、春分・秋分の日とお彼岸・お墓参りが関連付けられるのは、仏教伝来以降と考えられることから、それ以前、悠久なる縄文時代においては、やはり春分・秋分の日よりも冬至・夏至の日、とりわけ冬至の日が一年の変わり目として意識されていたのではなかろうか。西洋のクリスマスでさえ、元来は冬至の祭りに上書きされたものとの話もあるように、洋の東西を問わず、冬至の日が一年の変わり目となっていた可能性が高い。その対極にあって二倍年暦のもう一方の起点になっていたのが夏至の日だったと考えるが、いかがであろうか。 |
先日4月30日が図書館記念日だったということには気付かずに、オーテピア高知図書館に足を運んでいた。
|
「古代に真実を求めて」シリーズの古田史学論集第二十四集が今春、ついに明石書店から出版された。タイトルは『俾弥呼と邪馬壹国―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年』(古田史学の会 編、2021/03/30)である。
題名にはルビを振ってあり、『俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)』と素人でも分かるようにしてくれている。それでも、身近な大学生に見せたところ、しっかり「ひみことやまたいこく」と読んでいた。義務教育で使用される歴史教科書の影響は絶大である。 邪馬台国論争における古田武彦説を知らない一般人がこの本のタイトルを見たら、まず「漢字を間違えているのではないか」「読み方が異なっている」などの第一印象を受けることだろう。学校で習った教科書には「卑弥呼(ひみこ)」「邪馬台国(やまたいこく)」と書かれていたはずである。 それでもあえてこのようなタイトルにしているのは、そこに古田史学の研究の成果・蓄積があるからである。『俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)』という題名にこそ古田説の本質が集約されている。ここでは詳細には踏み込まないので、古田武彦氏の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)などをはじめとする著作やホームページ『新・古代学の扉』などで勉強してほしい。当ブログでも古田説のポイントをいろいろな形で紹介してきたつもりである。 また今回発刊された古田史学論集第二十四集が古田説を世に知らしめるツールとなればと願うものである。その内容を紹介する上で、本の内容説明および目次を以下に引用しておく。 <内容説明> 古代史界に衝撃を与えた古田武彦『「邪馬台国」はなかった』の刊行から50年。その歴史観、学問方法論を受け継ぐ執筆陣による「邪馬壹国説」「短里説」「博多湾岸説」「二倍年暦説」「倭人が太平洋を渡った説」などの諸仮説をめぐる最新の研究成果を集める。 <目次> 巻頭言 読者の運命が変わる瞬間[古賀達也] 『「邪馬台国」はなかった』のすすめ[古賀達也] 特集俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく)―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年― 【総括】 魏志倭人伝の画期的解読の衝撃とその余波―『「邪馬台国」はなかった』に対する五十年間の応答をめぐって―[谷本茂] 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」[正木裕] コラム① 古田武彦氏『海賦』読解の衝撃 コラム② 日本の歴史の怖い話 【各論】 周王朝から邪馬壹国そして現代へ[正木裕] 女王国論[野田利郎] 東鯷人・投馬国・狗奴国の位置の再検討[谷本茂] 「女王国より以北」の論理[野田利郎] コラム③ 長沙走馬楼呉簡の研究―「都市」は官職名― コラム④ 不彌国の所在地を考察する―弥生の硯出土の論理性― メガーズ説と縄文土器―海を渡る人類[大原重雄] コラム⑤ バルディビア土器はどこから伝播したか―ベティー・J・メガーズ博士の想い出― 裸国・黒歯国の伝承は失われたのか?―侏儒国と少彦名と補陀落渡海―[別役政光] 二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学―周代の百歳と漢代の五十歳―[古賀達也] 箸墓古墳の本当の姿について[大原重雄] コラム⑥ 箸墓古墳出土物の炭素14測定値の恣意的解釈 コラム⑦ 曹操墓と日田市から出土した金銀象嵌鏡 特別寄稿 『日本書紀』推古・舒明紀の遣隋使・遣唐使―天群と地群―[谷川清隆] 一般論文 「防」無き所に「防人」無し―「防人」は「さきもり(辺境防備の兵)」にあらず―[山田春廣] 太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する[服部静尚] 古代の疫病と倭国(九州王朝)の対外戦争―天然痘は多利思北孤の全国統治をもたらした―[正木裕] 九州王朝官道の終着点―山道と海道の論理―[古賀達也] 『書紀』中国人述作説を検証する―雄略紀および孝徳紀の倭習―[服部静尚] コラム⑧ 関東の木花開耶姫(このはなさくやひめ) 付録古田史学の会・会則 古田史学の会・全国世話人名簿 編集後記 |
「もっと早く古田説に出逢えていたら……」 古田史学に感動した人から聞いた素直な感想である。50年前に古田武彦氏は邪馬台国論争に明確な解答を示した。そこから日本の古代史は真実の歴史に急速に近づいていくかに思われた。 ところが、現実はどうか。未だに邪馬台国論争は百家騒乱の状態が続き、専門家は正しい古代史像を示せずにいる。それどころか、学問的にも矛盾点を多く内包する邪馬台国近畿説などを主張してはばからない。 『歴史研究685号』(2020年10月号)に、京都産業大学名誉教授・所功氏の「『ヤマト』という地名の発生と所在」と題する巻頭言が掲載されていた。その一部を引用する。 ……誰しも思い付くのは『魏志』東夷伝・倭人条の記す「邪馬臺国」であろう。 この「邪馬臺」は三世紀当時でも「やまと」と訓める(橋本増吉氏の上代国語音韻表によれば、䑓はトの乙類)。それが北九州圏にあったか奈良近辺なのかは、今なお論争が続いている。ただ、私は田中卓博氏の説が最も納得しうるので、筑後川下流の旧山門郡あたりが有力と考えている。 田中説の特徴は、弥生中期から北九州(原ヤマト)にいた勢力が南九州へ移り、およそ一世紀初めころ今の宮崎から奈良まで「東征」して「磐余」(桜井・橿原)あたりに拠点を築かれたのが神武天皇であろう。それから十代目の崇神天皇が、三世紀半ころ「磯城の瑞籬宮」(纏向の宮殿)から四道各地の統合を進められたとみられる。…… 諸説あるだろうが、一元史観を代表するような説である。そもそも『魏志』東夷伝・倭人条(魏志倭人伝)の原文には「邪馬壹国」と書かれており、「邪馬臺国」でないことは古田武彦氏が指摘した通りである。三世紀当時でも「やまと」と訓めると主張するには、古田説に対する反証が必要となってくるはずだ。それも無しに、各自が銘々好き勝手なことを論じている。これが学問と言えるだろうか? アマチュアの歴史愛好家たちは興味を持って古代史の本を渉猟してきたことだろうが、読めば読むほど、核心から遠ざかるばかり。歳を重ねてから古田説に出逢った人は、なぜもっと早くに知ることができなかったのかと、無駄な時間を過ごしてきたことを残念がる。 確かに、理系の学界においても新説がすぐに受け入れられないことは、ままある。私が習った大学のT・T先生もイギリスの気象学界で積乱雲の構造についての新説を発表した時に、猛烈な反対を受けたという。当時の常識や通説とは違っていたからである。受け入れられるまでに10年かかったと述懐しておられた。 たとえ時間がかかったとしても、検証を重ね、整合性が認められれば、新たな通説となっていくのが学問の世界である。それに比して、日本の古代史学界はどうなっているのか。『「邪馬台国」はなかった』が世に出てから50年が経とうとしている。半世紀もの闇黒時代が続いたなどと、後世の歴史家たちが評価することのないよう願いたい。 |
2008年10月19日、古田武彦氏は愛知教育大学で「日本思想史学批判 ―『万世一系』論と現代メディア―」と題する講演を行なっている。その中で、日本を代表するT大、K大、Q大の学生新聞がこぞって古田説を取り上げていることを語っている。3大学のうちでも、とりわけ「Q大が一番早かったかな」とも。 「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである」(マタイによる福音書5章15節)とあるが如く、一度灯された真理の光を覆いかくすことはできないという意味で語られたものと受け止める。 学生新聞というメディアを通して学生及び大学関係者に古田説を広めることに貢献した一人が、“『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念エッセイ①”で紹介したM氏であろう。古田史学に傾倒する歴女のQ大生から『「邪馬台国」はなかった』の存在を教えられたM氏は、初期3部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)をはじめ、手に入る古田武彦氏の著書を買い集めた。 やがてM氏の「東アジア共同体の胎動 ー歴史的土台を探るー」という連載記事がいくつかの大学の学生新聞に掲載されるようになる。氏はICSAという団体で日本と韓国の学生交流に携わった経験から、両国間の歴史認識の違いを肌で感じていたようである。記事中における古代史の部分に関しては、大幅に古田説を取り入れた内容になっており、古田史学の影響を受けたことが読み取れる。 手元にある1997年1月の『T大新報』(月3回発行)に、第30回目の連載記事があることから、T大学では1996年頃から連載が始まったと推察する。正確な資料はないが、母校のK大学や古田史学と出合ったQ大学では、さらに早い段階から学生新聞上での執筆活動をしていたようである。古田説を支持するQ大名誉教授と古田武彦氏の対談が実現するよりも少し前の頃ではなかっただろうか。 大学は真理探究の府であり、学生新聞は大学界のオピニオンリーダーを自負していた当時である。古代史学会で古田説がいくら無視されたとしても、真理を求める者たちの目を覆うことは出来なかった。このようにして、真理を愛する人々の中に古田史学の種が蒔かれていったのである。 |
『魏志倭人伝』には魏使が邪馬壹国に至るまでの距離・行程が、次のように記されている。
『魏志倭人伝』は確かに「南、邪馬壹国に至る」としており、原文は「邪馬台国」ではない。高校の歴史教科書にも倭人伝の引用があり、「壹(壱)は䑓(台)の誤りか」と注釈を入れている。 邪馬台国論争については大きく近畿説と九州説の2つがあり、高校の教科書では次のように説明されている。
問題は行程記事の最後の部分「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」の解釈にあった。「南は東の誤り」とし近畿に持っていこうとしたのが近畿説であり、「一月は一日の誤り」とし九州内にとどめようとしたのが九州説である。いずれにしても原文改定なしには、厳密には成立しない論理であった。 古田武彦氏は「こんなに簡単に、なんの論証もなしに、原文を書き改めていいものだろうか。わたしは素朴にそれを不審とした。この一点から、従来の『邪馬台国』への一切の疑いははじまったのである」と『「邪馬台国」はなかった』の冒頭で、自らの方法論を述べている。 一見、どう解釈しても矛盾が生じると思われたところをあくまでも原文を尊重した立場で読み解こうとした古田説に学問的良心を感じる。読解の教科書としたのは『三国志』全体の記述であった。同様の表記が他の部分ではどのような意味で使われているのかといった参考データを収集するのである。この方法論こそが古田史学の精髄と言ってもいいだろう。 そして、至った結論「部分里程の総和=全里程」という質量保存の法則にも似たルールが導かれたのであった。そこには「島めぐり」読法の発見や韓国内「陸行」といったアイデアなども見過ごせない。帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を全て足すと「水行十日陸行一月」、すなわち「一万二千余里」ぴったりとなった。初めて原文改定なしに『魏志倭人伝』を理性的に読み解くことに成功したのである。 |
国立Q大の女子学生はなぜ「邪馬台国はなかったんだよ」と言ったのだろうか。これこそまさに『「邪馬台国」はなかった』(1971年)で古田武彦氏が主張した第一のポイントであった。 そもそも『魏志倭人伝』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた。これまでの学者たちは皆、九州説・畿内説にかかわらず「壹(一)は臺(台)の誤りなり」とし、それを前提にして「邪馬台国」がどこにあったかを議論し合ってきた。だが、この「壹は臺の誤り」とする共同改定は正しいのだろうか。従来の邪馬台国論争で、ほとんど疑問を持たれなかったこの国名問題にまず切り込んだのが古田氏であった。 古田氏は『三国志』全体から「壹」と「臺」を全てピックアップして完全調査を行った。『三国志』中には86の「壹」と58の「臺」が存在していた。これを拾い上げるだけでも大変な作業であるが、全数調査を行って、特定の文字がどのように使用されているかの傾向性をつかむということは統計的手法としては基本である。この方法論がその後の古田史学の方法論の基軸となっていった。また同時代の「壹」と「臺」の筆跡の比較検討をした。その結果として「壹」と「臺」の書き間違いの可能性はほぼゼロという結論に達した。本来の国名は「邪馬壹国」だったのである。 また「臺」は「天子の宮殿及び天子直属の中央官庁」という特殊な意味を持つことを古田氏は『「邪馬台国」はなかった』で指摘している。「臺」を天子のシンボルとして尊崇した三世紀の、魏志中の表記としては、臣下の国名に「邪馬臺(台)国」と至高文字を使用することはありえないのだ。 古田史学に共感を示す支持者に理系の人々が多いのは、この科学的手法によって導かれる合理的な結論にあると言えるかもしれない。現にQ大で開催された、とある理系の学会の席で、海外の研究者に対して古田説に触れたQ大教授がいたと聞く。 『魏志倭人伝』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた――この結論だけでも古代史学会を覆す偉大な発見であった。本来ならば歴史の教科書も原文を尊重して「邪馬壹国」と書くべきところである。その上でなぜ「邪馬台国」と呼ばれるようになったかを説明しなければならない。それが学問的態度であろう。ところが現在もなお、小・中・高校の歴史教科書には「邪馬台国」と記述され続けている。半世紀前に出版された『「邪馬台国」はなかった』は古代史学会において“なかった”ことにされたのであった。 |