『魏志倭人伝』には魏使が邪馬壹国に至るまでの距離・行程が、次のように記されている。
『魏志倭人伝』は確かに「南、邪馬壹国に至る」としており、原文は「邪馬台国」ではない。高校の歴史教科書にも倭人伝の引用があり、「壹(壱)は䑓(台)の誤りか」と注釈を入れている。 邪馬台国論争については大きく近畿説と九州説の2つがあり、高校の教科書では次のように説明されている。
問題は行程記事の最後の部分「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」の解釈にあった。「南は東の誤り」とし近畿に持っていこうとしたのが近畿説であり、「一月は一日の誤り」とし九州内にとどめようとしたのが九州説である。いずれにしても原文改定なしには、厳密には成立しない論理であった。 古田武彦氏は「こんなに簡単に、なんの論証もなしに、原文を書き改めていいものだろうか。わたしは素朴にそれを不審とした。この一点から、従来の『邪馬台国』への一切の疑いははじまったのである」と『「邪馬台国」はなかった』の冒頭で、自らの方法論を述べている。 一見、どう解釈しても矛盾が生じると思われたところをあくまでも原文を尊重した立場で読み解こうとした古田説に学問的良心を感じる。読解の教科書としたのは『三国志』全体の記述であった。同様の表記が他の部分ではどのような意味で使われているのかといった参考データを収集するのである。この方法論こそが古田史学の精髄と言ってもいいだろう。 そして、至った結論「部分里程の総和=全里程」という質量保存の法則にも似たルールが導かれたのであった。そこには「島めぐり」読法の発見や韓国内「陸行」といったアイデアなども見過ごせない。帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を全て足すと「水行十日陸行一月」、すなわち「一万二千余里」ぴったりとなった。初めて原文改定なしに『魏志倭人伝』を理性的に読み解くことに成功したのである。 PR |
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