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『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念エッセイ③
 『魏志倭人伝』には魏使が邪馬壹国に至るまでの距離・行程が、次のように記されている。
 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。始度一海千余里、至対海國。……又南渡一海千余里。……至一大国。……又渡一海千余里、至末盧国。……東南陸行五百里、到伊都国。……東南至奴国百里、……東行至不弥国百里。……南至投馬国、水行二十日。……南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月。……自郡至女王国万二千余里。
 『魏志倭人伝』は確かに「南、邪馬壹国に至る」としており、原文は「邪馬台国」ではない。高校の歴史教科書にも倭人伝の引用があり、「壹(壱)は䑓(台)の誤りか」と注釈を入れている。
 邪馬台国論争については大きく近畿説と九州説の2つがあり、高校の教科書では次のように説明されている。
 この邪馬台国の所在については、これを近畿地方の大和に求める説と九州北部に求める説とがある。近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。(『詳説 日本史』山川出版社、2017年)
 問題は行程記事の最後の部分「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」の解釈にあった。「南は東の誤り」とし近畿に持っていこうとしたのが近畿説であり、「一月は一日の誤り」とし九州内にとどめようとしたのが九州説である。いずれにしても原文改定なしには、厳密には成立しない論理であった。

 古田武彦氏は「こんなに簡単に、なんの論証もなしに、原文を書き改めていいものだろうか。わたしは素朴にそれを不審とした。この一点から、従来の『邪馬台国』への一切の疑いははじまったのである」と『「邪馬台国」はなかった』の冒頭で、自らの方法論を述べている。
 一見、どう解釈しても矛盾が生じると思われたところをあくまでも原文を尊重した立場で読み解こうとした古田説に学問的良心を感じる。読解の教科書としたのは『三国志』全体の記述であった。同様の表記が他の部分ではどのような意味で使われているのかといった参考データを収集するのである。この方法論こそが古田史学の精髄と言ってもいいだろう。
 そして、至った結論「部分里程の総和=全里程」という質量保存の法則にも似たルールが導かれたのであった。そこには「島めぐり」読法の発見や韓国内「陸行」といったアイデアなども見過ごせない。帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を全て足すと「水行十日陸行一月」、すなわち「一万二千余里」ぴったりとなった。初めて原文改定なしに『魏志倭人伝』を理性的に読み解くことに成功したのである。


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【2020/08/06 22:17 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
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