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『八幡荘伝承記』と『東日流外三郡誌』

  NHKのBSプレミアム「ダークサイドミステリー」(2019年6月13日放送分)で、和田家文書『東日流外三郡誌』が取り上げられた。予想はついていたが、初めから偽書と決めつけたスタンスであった。


 内田康夫による『十三の冥府』(2004年発表)では、『東日流外三郡誌』をモデルとした『都賀留三郡史』が登場している。大和朝廷とは別に荒覇吐(アラハバキ)王国が存在したとする『都賀留三郡史』をめぐって、八荒神社の宮司の周辺人物が次々と怪死する連続殺人事件で、『都賀留三郡史』を取材に訪れた浅見光彦が真相を解明するものである。このドラマもテレビで見たことがあるが、これはフィクションであるからいいとしよう。


 しかし「ダークサイドミステリー」では歴史学者をコメンテーターとして迎えながらも、『東日流外三郡誌』=偽書という結論ありきの番組編集であった。そこには2007年(平成19年)に『東日流外三郡誌』の「寛政原本」が発見されたことなど全く触れられていなかった。


 もちろん原本が発見されたからといって、書かれていることが全て真実だとは限らない。その内容が正しいかどうかは、また別に史料批判をすることによって、信頼性のあるなしを判断していかなければならない。

 例えば、『東日流外三郡誌』で渡嶋(わたりしま)が北海道として描かれていることは六国史の影響を受けたもので、「渡嶋は北海道ではない」ということは『地名が解き明かす古代日本 錯覚された北海道・東北』(合田洋一著、2012年)で既に立証されている。その点は正史だからといって『日本書紀』などに全て正しい歴史が書かれているわけではないのと同様である。


 ところで、高知県には“土佐の『東日流外三郡誌』”とも言われる『八幡荘伝承記』なる古文書が存在したとされる。こちらは原本が見つかってないので、真偽のほどははっきりしない。その史料的性格について、『佐川史談 霧生関39号』(佐川史談会、平成15年)に掲載された「夜明けの群像 ―八幡荘伝承記の謎を探る―」と題する越知史談会・吉良武氏の論考を紹介してみたい。
 八幡荘伝承記を西森哲氏と共に世に出した明神健太郎さんの功績は大きい。それは闇の中にあった高吾北の中世に光をあて、高吾北開拓の歴史を明らかにしたからである。
 そのため土佐史談会から高い評価を得、高知新聞や土佐史談会で画期的な新資料として紹介された。土佐史談会は伝承記を手がかりに何度も南朝遺臣探究会を開き、幾多の遺跡を発見した。
 しかし一九七八年海南史学で下村效氏に「昭和十年代前半の偽作」と酷評された。その理由として中世に書かれたものであるというのに、「虫も殺さんという人であった。」「大変好い方であられた」などと口語文が随所に見られる。又「聖戦・皇軍戦没者」など近世の用語が沢山見られると、鋭くしかも綿密に指摘された。その指摘は合理的で納得できるものであった。
 伝承記は根拠のない偽作なのかどうか、伝承記の記述と高吾北の遺跡の照合によって検証してみたい。
 ……(中略)……
 南北朝の頃の資料は土佐にはほとんどないが、唯一佐伯文書がある。豊後国佐伯庄の地頭をしていた佐伯氏は土佐へやって来、津野氏につかえ海辺の庄の庄主となって、堅田経貞と名のった。南北朝の合戦では津野氏と共に北朝方につき、細川定禅の命に従って南朝方と戦った。
 その戦いで自分の軍功を書きしるし、主人に上申して後日の論功行賞の証拠にしたのが、堅田経貞の軍忠状である。この軍忠状は土佐における南北朝の合戦を正確に記録しているので、佐伯文書といい精度の高い第一級の根本資料とされている。
 その佐伯文書と伝承記の記述が符合する。例えば「大高坂落城の事」の一部分を対比してみよう。
 ……(中略)……
 伝承記は鯨坂八幡宮の僧が書いたものであり、佐伯文書は堅田経貞が書いたもので、著者も著述の目的も全くちがうから、表現の仕方には多少のちがいはあるのは当然で、内容は全く一致する。
 佐伯文書が第一級の歴史資料とすれば、伝承記の内容もきわめて精度の高い歴史資料といえよう。
 下村效氏の批判を合理的なものと認めつつも、「文徳院の五輪群」「沖の古城」などの史跡との整合性が見られることや『佐伯文書』との共通性などを根拠に、その史料的価値を高く評価している。

 結論として「伝承記の記述を手がかりに高吾北の遺跡を照合してみると、符合する部分が非常に多く、伝承記は高吾北の中世の姿を物語っているといえる。しかし口語文が随所に出てきたり、農民・皇軍・戦没者など中世に使われようはずのない単語が続出するなどは、あってはならないことである。……(中略)……こうした改竄された部分を含みながらも、伝承記は高吾北の中世を語る資料となり得ると思う。そのためには遺跡との照合を、更に深める必要があるだろう」としている。
 当ブログでも鯨坂八幡宮が安芸郡から勧請されたとする伝承記の信頼性を確認する記事「鯨坂八幡宮との関係ーー安芸郡の田野八幡宮」を書いたこともある。コピー機がなかった時代には古文書を手書きで書き写すしかないので、そこに写し手の判断が入り込めば後代の言葉が混ざることにもなる。史料としての価値は下がることになるが、書かれていることが全て嘘になるというものでもない。個々の史料批判を行った上で、どの部分が信頼できて、どの部分に誤りが多いのかなどを分析し判定していくべきだろう。



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【2019/09/22 10:42 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
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