筑後の一宮・高良大社については倭の五王との関係が指摘され、九州王朝の宗廟であったとも目されている。高良神社あるところに九州王朝の足跡ありと考えられることから、高良神社の謎を追いかけて香川県までやってきた。 「香川県の高良神社①~⑤」で県西部の三豊市周辺に高良神社が密集していることを紹介してきた。今回は三豊市にあるもう一つの重要な高良神社を紹介したい。 瀬戸内海に突き出した荘内半島の中ほどで最も低くなっている部分が「船越」という地名で、古代においては船が陸を越して半島の反対側へショートカットした場所とされる。「ふなこし」は全国的にも同様の地形に付けられた地名として数多く存在する。高知県須崎市浦ノ内にも横浪半島の付け根の細くなったところに「舟越」という地名がある。そこは鳴無神社の社伝に、大神が乗ってきた金剛丸をかついで越えた場所とされている。 さて、今春(平成31年3月)閉校となってしまった三豊市立大浜小学校の北、豊かな緑に囲まれた船越八幡神社(三豊市詫間町大浜1638)の境内に高良神社が鎮座している。祭神は武内宿禰命。他の境内社としては、金比羅神社、住吉神社、若宮神社、粟島神社など。木之花佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)をお祀りしている木村神社もあった。 旧荘内村と香田、家の浦を氏子とする船越八幡神社の祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后である。幣拝殿の奥に神橋と中門が建ち、塀に囲まれた中に本殿が建立されていた。蕨手燈籠も見られる。この蕨手については当初、高良神社と深い関係があるのではないかと推察したが、他でも見かけたことから、割とポピュラーなデザインのようでもある。 境内の絵馬堂には、幕末から昭和初期にかけて製作された歌仙絵や歴史絵、船絵馬、芝居絵などが奉納されており、これらは市指定有形民俗文化財に指定されている。 『西讃府誌』によると、神亀元年(724年)に「宇佐八幡宮が御船に乗ってこの地に着かせ給うた」とある。また、『西讃府誌』とは別に、こんな伝承もあるそうだ。
境内右側の玉垣内には亀の背に乗った浦島太郎像があり、少し離れた場所に浦島太郎の墓もあるという。この社の鎮座する荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、砂州の発達で陸地と連結した陸繋島となり現在のような半島となったものだそうだ。この辺りにも「浦島伝説」があるようだ。 北西2km程の紫雲出山(しうでやま)山頂(標高352メートル)にある紫雲出山遺跡は、三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。ここからは貝塚、円形竪穴住居址、高床倉庫、大型掘立柱建物の遺構などが検出されており、本遺跡が瀬戸内海の交通の監視を意図した可能性が高いとされている。 本遺跡出土の石器の量は、優に畿内の大遺跡のそれに匹敵するとも指摘されており、ここが瀬戸内海の要所であったことは間違いない。また半島の付け根の波打八幡神社からは銅矛が出土しており、九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏の東の端に当たり、銅鐸文化圏の国々と接する最前線であったとも考えられる。佐原真は出土した石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと考察している。 「香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社」の鎮座地も瀬戸内海を見渡せる場所であったが、紫雲出山からは晴れた日には対岸の岡山方面まで見ることができる。瀬戸内海の海上ネットワークの重要な拠点であったことは間違いないだろう。 700年代に入って宇佐八幡宮から勧請されたとされる八幡神社が四国地方のみならず、多く見られる。九州王朝の滅亡に伴って宗廟の座が高良大社から宇佐八幡宮に移ったとされる伝承があるが、その反映であろうか。高良神社の大半は八幡神社の境内社(脇宮)となっている。 とは言え、香川県では高良神社がよく残されていることが、調査を進めていくうちに分かってきた。神社探訪・狛犬見聞録さんが次のように語っている。 「香川県ではそれぞれの地域の産土神が、かなりの規模で維持管理されています。現代社会において、これほどの信仰心が維持されている地域は、少ないのではないでしょうか? 嬉しい限りです」 まるで、私が感じてきたことを代弁して下さっているようだった。同感である。 PR |
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