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少彦名は出雲に少な
 ブログ「日々のさまよい」さんが「なぜか出雲大社には、少彦名(スクナビコナ)を祀るお社がない」と指摘されている。氏の作成された以下のリストによると少彦名(スクナビコナ)を祀る神社は出雲国内で10社程度ということになる。

 これならむしろ高知県のほうが多いくらいである。現在、確認したところによると、氷室天神社や粟島神社(上の写真、須崎市浦ノ内灰方)など、県西部の幡多郡と高岡郡に23の少彦名命を祭神とする神社が存在する。この分布は40社ほどある白皇神社(祭神・大巳貴命)の広がりとほぼ一致している。
 
 この領域は中世の幡多庄、さかのぼると波多国造が治めた国に相当し、もしかしたら魏志倭人伝の侏儒国と関連する可能性がある。
 一寸法師のモデルともなった少彦名命は、倭人伝に「人身三・四尺」と記述された侏儒国の人びとを連想させる。『伊予国風土記』逸文にも温泉開設の説話が
大己貴命とともに描かれている。そして熊野の御崎より常世郷(とこよのくに)に帰って行った。南海道に縁の深い神様のようである。

▼出雲国内でスクナビコナを祀る神社一覧

(島根県神社庁/県内神社のご案内より構成。[ ]内は主祭神)

──────────────────────
出雲市(全157社)
・山辺神社[大国主命・天照大神・少彦名命・山辺赤人之]
・佐香神社[久斯神・大山昨命]※郷社/式内社/出雲国風土記所載

斐川町(全32社)

 なし

松江市(全165社)
・天神神社[少彦名命・大鷦鷯尊]
・阿羅波比神社[大己貴命・少彦名命・天照大御神・高御産巣]※県社/出雲国風土記所載

東出雲町(全10社)
・揖夜神社[伊弉冉命・大巳貴命・事代主命・少彦名命]※県社/式内社/出雲国風土記所載

安来市(全98社)
 なし

雲南市(全127社)
・多根神社[大己貴命・少彦名命]
・加多神社[少彦名命]※郷社(県社昇格許可)/式内社/出雲国風土記所載

奥出雲町(全34社)
・湯野神社[大己貴命・少彦名命・邇々藝命・事代主命]※出雲国風土記所載
・居去神社[大名持命・少彦名命]

飯南町(全13社)
 なし
──────────────────────

美保神社の境外末社に祭神が少彦名命の天神社。出雲国ではないが、東隣の伯耆国である鳥取県米子市に粟島神社がある。

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【2018/12/01 07:13 】 | 侏儒国の歴史 | 有り難いご意見(0)
線刻石(縄文のヴィーナス)のことは先刻承知
南米エクアドルのバルディビア遺跡から縄文土器のみならず、線刻石が出土しているとメガーズ・エバンス報告書は言う。縄文のヴィーナス(女神石)とも呼ばれる線刻石といえば、愛媛県の上黒岩遺跡が有名である。しかし時代が大きく異なっている。上黒岩遺跡は一万二千年前、バルディビア遺跡は五千五百〜三千五百年前である。
 縄文人が太平洋を渡ったといっても、さすがにこれを結び付けるのは我田引水というものだろう。古田武彦氏もこの問題点は先刻ご承知であった。高知県四万十市西土佐の大宮宮崎遺跡(四国で2例目の配石遺構を伴う祭祀遺跡)から時代の新しい線刻石(礫)が発見されていることを、『失われた日本』(1998年)の中で指摘している。こちらは縄文後期(四千〜三千年前ーー様式推定)のものとされ、これなら時代的な重なりがある。

 四万十市はかつての幡多郡であり、『魏志倭人伝』の侏儒国に比定される領域である。物証としてはまだ少ないかもしれないが、足摺岬付近から黒潮に乗って南米へ渡航したとする古田説を支持する根拠の1つと言えるだろう。
 実は先日、近くの道を通ったにもかかわらず、そんな重要な大宮宮崎遺跡の存在を知らずに素通りしてしまった。地元の人間でも知らないところにまで、古田氏の研究の手が及んでいたことに新ためて驚かされる。

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【2018/08/16 23:01 】 | 侏儒国の歴史 | 有り難いご意見(0)
幡多国は侏儒国であったか?
 侏儒国に関する『魏志倭人伝』の記述から見てみよう。

女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有り、皆、倭種。又、侏儒国有り、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有り、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。」
 女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその南にある。人の背丈は三、四尺で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その東南にある。船で一年行くと着く。

 『魏志倭人伝』の里単位が短里(1里=約76m)とされることから「海を渡ること千余里」は豊後水道を渡った愛媛県、その南は高知県西部に至る。現在は幡多郡、かつては波多(幡多)国と呼ばれていた。
 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇の御世に、天韓襲命(あめのからそのみこと)を神の教えにより波多国造に定められたとされる。
 波多国造は後の令制国の土佐国の西部、現在の幡多郡を支配したと考えられ、その中心地は、現在の四万十市中村説と、宿毛市平田の平田曽我山古墳のある平田古墳群の地とする説がある。
 幡多地方は縄文時代以来の遺跡が広く分布し、弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。『魏志倭人伝』に登場する侏儒国は、遺跡の分布から考察すると、四万十川の中下流域、すなわち中村辺りが中心であったと考えるべきであろうか。

 崇神天皇時代の国造設置記事を疑問視する者もいるが、天氏である天韓襲命の波多国造設置は九州王朝の勢力進出により、この地方がその影響下に置かれたことを示しているようだ。高知県で唯一の前方後円墳である曽我山古墳を波多国造と関連付ける説は十分うなずける。
 「国造本紀」に見える都佐国造は波多国造より後の設置(成務天皇の世)とされる。この西から東への順番は、大和朝廷一元史観では説明に苦しむ。やはり九州王朝の東進(倭の五王時代か)と考えたほうが理解しやすいのではないだろうか。

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【2018/08/08 00:28 】 | 侏儒国の歴史 | 有り難いご意見(0)
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