『古田史学論集第12集 古代に真実を求めて』(古田史学の会編、2009年)に古田武彦氏の研究論文「生涯最後の実験」が掲載されている。その中に研究実験上の先例として、高知県の土佐清水での実験「報告書」(土佐清水市文化財調査報告書『足摺岬周辺の巨石遺構―唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書―』1995年、土佐清水市教育委員会発行)のことが、次のように要約されている。
この実験は足摺岬付近を『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定する古田説の妥当性を確認するような試みでもあった。調査されたのは、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心とする一帯で、「巨石遺構は縄文時代における『構築物』と見なさざるをえない」という見解を得ている。 余談になるが、平均重量2.5トンというピラミッドの石をどのように運んだかについて、近年、「最古のパピルス」の発見により新たな理解が深まり、クフ王のピラミッドの建設期間が26、27年程度であったという説が出された。唐人駄馬遺跡の巨石は一辺4~7m程度もあり、ピラミッドの石に比べて数十倍の重さになるものもある。 古田氏は「三列石」(鏡石)は太陽や月の光を反射して、危険な断崖の存在を知らせる縄文灯台としての役割を持つということを「研究上の仮説」としている。これは縄文人の大航海術を前提としたものであり、その役に立った可能性は否定できない。大分県姫島産の黒曜石が足摺岬付近に持ち込まれた際には、適当な目印になったであろう。しかし、より身近な視点に立てば、地元の縄文人が日々、海で漁をする場合に帰り道を示すランドマークとしての役目が大きかったのではないかと考える。 それよりも検討しなければならないことは、「この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している」という第三に述べられている報告だ。縄文―弥生の不連続問題である。『魏志倭人伝』は弥生時代の倭国の様子を記述した文献であるから、そこに登場する「侏儒国」も弥生時代の国と考えるべきだろう。ところが、二倍年暦で1年(現代の暦では半年)かかって「裸国・黒歯国」に行けるとの内容は、縄文灯台を起点とする航海の経験則に基づく足摺岬付近の縄文人によるものとの印象を受ける。 さて、先の研究実験は次のように実施され、その結果も報告された。
足摺岬付近の縄文人は弥生時代になってどこへ行ったのだろうか。弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。その一つが古津賀遺跡群(四万十市)である。ここは高知県最古(紀元約1世紀)の弥生時代の硯(すずり)が発見された場所だ。近くには古津賀古墳もある。近年の考古学的成果により、弥生時代における文字使用の可能性が議論されるようになってきた。高知県でも3つの遺跡から弥生時代の硯(方形板石硯)6点が発見されている。 ある面、『魏志倭人伝』における「侏儒国」や「裸国・黒歯国」についての表現は、単に伝聞に基づくものであれば、かなり疑わしいと思える内容である。しかし、文書として記述された報告が邪馬壹国に届けられていたとしたら、魏の使者が信じ、記録するに値するのではないか。卑弥呼が外交文書に文字を使用したのであれば、国内文書に文字使用があっても不思議ではない。 侏儒国はその中心を足摺岬付近から四万十川流域に移しながらも、縄文から弥生時代へと経験・知識・文化などを継承してきた国だったのではないだろうか。そうでなかったとすれば「裸国・黒歯国」についての記録が、中国の正史に記録されることはなかったかもしれない。 PR |
以前、"地震学者・都司嘉宣氏の「侏儒国=幡多国」説"を紹介したことがあった。高知県の西端に位置する幡多郡はかつて幡多国と呼ばれ、現在の幡多郡よりも広い範囲に及んでいたと考えられる。現在も幡多地方として、高知県の中でもやや異質な文化的特徴が見られる。 古田武彦氏の影響を受けた都司氏の「侏儒国=幡多国」説"については、ブログ「幡多と中村から」(http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-51.html)に書かれていた。その中に次のよう記述があった。
おそらくは『土佐清水市史』(土佐清水市史編纂委員会編、1980年)に収録されている話であろう。「猩々(しょうじょう)」は侏儒(しゅじゅ)の音にも通じる。これだけだと荒唐無稽な話に聞こえるだろうが、江戸時代の地誌『沖島の記』(天保十四年頃〈1843〉)にも、沖の島の島人の習俗について似たような記述がある。
この著者は対岸の幡多地方小尽浦(こづくしうら)の庄屋浜田魚臣であるが、同じ幡多郡内にありながら、島人をまるで異人種であるかのように描写している。 背丈の記述はないが、「岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ」とあることから、小柄で、俊敏な様子が読みとれる。土佐清水市益野では猩々として伝承されたのだろう。 もちろん、江戸時代の記述をもって弥生時代を推測するには時間的隔たりがありすぎることは百も承知である。それでも遺伝的形質が引き継がれてきた可能性は皆無ではない。 合田洋一氏は「侏儒国ーーその痕跡を沖の島(宿毛)にみた」と題する論考で、現地調査した結果を次のように報告している。
島在住の人や島から転出している人、また先祖を含めて家族のことを証言してくれた年配の人の中には、身長が140~150センチメートル、あるいはそれ以下の極めて背丈が低い人が少なからずいましたし、「この島は身長が150センチ以下でも、恥ずかしくない土地柄です」との証言もありました。
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『さんSUN高知1月号』が唐人駄場遺跡(土佐清水市松尾977)を紹介しているのが目に入った。昔はほとんど見向きもされないような場所であったが、近年は観光案内のパンフレットなどにも掲載されるようになって、パワースポットとしても知られるようになってきた。 古田史学を知るものにとっては、ここに鏡岩という縄文灯台が存在し、『魏志倭人伝』に登場する侏儒国の領域に比定される場所だということで関心を持つ方もいらっしゃるだろう。古田武彦氏は1993年に土佐清水市の協力を得て、足摺岬周辺の巨石遺構について調査を行っている。その調査結果については、昭和薬科大学文化史研究室による『足摺岬周辺の巨石遺構――唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書』(土佐清水市教育委員会発行)としてまとめられている。 『さんSUN高知1月号』の表紙の紹介文は次のような内容であった。 足摺半島にある不思議な巨石群「唐人駄場」。この一帯は花崗岩からなり、6~7m級の石や、円形に連なったストーンサークルと思われる石の配列が見られ、まるでパワースポットです。この地から見上げる冬の星空はまた格別。近くには観光牧場やキャンプが楽しめる唐人駄場園地もあるので、神秘の謎を探りに行ってみませんか。 花崗岩の密度は約2.5g/㎤であるから、ピラミッドの石が約1㎥(一辺が1mの立方体)としても2.5トンの重さになる。これに対して唐人駄場の巨石は小さく見積もって一辺が4mの立方体、すなわち64㎥としても約160トン以上の重さがあることになる。 これが人工的に配置されたとすれば、どのようにして移動させたのか。イースター島のモアイにも匹敵するような作業になるだろう。「人長3、4尺」と記述された侏儒国の小人とは対照的な巨人のような人間(唐人)が持ち運んだとの想像が唐人駄場の地名由来になったとも言われている。 ところで、巨石遺構群からやや下った場所に、英国のストーンヘンジに勝るとも劣らない世界最大級のストーンサークルがあったと言うと、驚かれるだろうか。戦前は列石が残っていたが、戦後公園にするために中の石を取り除いたのだという。紹介文中の「キャンプが楽しめる唐人駄場園地」がかつてのストーンサークル跡である。はりまや橋と肩を並べる“がっかり名所”となってしまった。 また、この情報誌の表紙に北極星を中心とした北の星空を唐人駄場遺跡と共に撮影していることには、何か深い意味を感じる。 韓国ドラマ『冬のソナタ』ではヨン様演じるチュンサンが、「山道で迷った時にはポラリスを探すといい」と語る。「星って時間が経つと動くじゃない?」とヒロインのユジンが疑問を投げかけると、チュンサンは「ポラリスだけは北の空にあって動かないんだ」と名ゼリフを伝える。 お分かりかもしれないが、ポラリスとは北極星の事である。この冬ソナ効果でポラリスペンダントが飛ぶように売れたという。 高知県には古代において天之御中主、北極星を祭神とする妙見信仰が根付いていた形跡があり、現在は星神社と名称変更して約61社が存在する。 極めつけは、四万十市初崎の一宮神社に国内では珍しい北斗七星の象眼が埋め込まれた七星剣という太刀があることだ。橿原考古学研究所の調査では「古墳時代後期から飛鳥、奈良時代」の太刀と発表されている。 『三国志』の「赤壁の戦い」で、諸葛亮孔明が「手前が東南の風を吹かせてみましょう」と周瑜に申し出る。南屏山に七星壇という祭壇を築いて剣舞をひたすら舞い、儀式を捧げて火計を成功に導く下りは有名である。北極星と北斗七星は古来より、航海する者にとっても欠かすことのできない知識であった。 四万十市から足摺岬一帯が『魏志倭人伝』の侏儒国であり、黒潮に乗って裸国(チリ北部)・黒歯国(エクアドル)に向かう基点だったとすれば……。『さんSUN高知』の編集者がそこまで意識して表紙を作成したなら、七星剣だけにかなりの切れ者とお見それする。 |
『魏志倭人伝』に記述されている侏儒国について、いつの間にか「侏儒国=種子島」説が主流となりつつある現状を知った。「石田泉城 古代日記 コダイアリー」における論証と低身長の人骨が出土した広田遺跡の存在が、この説を後押ししているであろうことは理解できてきた。ついに“朱儒国民”は種子島へ引っ越ししなければならなくなったか……。けれども、荷物をまとめる前に解決しなければならない疑問がいくつかある。それからでも遅くないであろう。 石田泉城氏とは「古田史学の会・東海」でお会いしたこともあり、『魏志倭人伝』の深い理解と古田史学の方法論による新たな論証の数々。大変参考になり、勉強させて頂いている。「侏儒国=種子島」説の論証についても分かりやすく、素人目にも納得しやすい印象を受けた。石田説を尊重しつつも、いくつかの疑問を投げかけてみたい。 まずは侏儒(朱儒)国に関する『魏志倭人伝』と『後漢書』の記述を併記しておく。 「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種。又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里」(『魏志倭人伝』) 疑問①:「其南」の「其(その)」は女王國を指すのか? 石田氏は「其」の使われ方について、「直前の国の人のことを指さず、主題となっている国」を指していることを『後漢書』から例示し、「其南」はすなわち「女王国の南」と解釈している。しかし、『魏志倭人伝』の行程記事中には「至對海國 其大官日卑狗」のように、「其」が直前の国を指している例も見られる。直前の「復有國 皆倭種」を指していると解釈するのは自然なのではないか。ただし、『後漢書』の范曄(はんよう)は「女王国」と解釈し、自分の文章を再構成している。 疑問②:『後漢書』の「四千余里」は短里表記なのか?『魏志倭人伝』の里単位は1里=約76mとする「短里」が使用されていたことが各方面からの論証によって明らかとなっている。しかし、范曄はそれを知らずに『魏志倭人伝』を基本資料としながら『後漢書』を書いた可能性がある。「会稽東治(ち)」→「会稽東冶(や)」の書き換えなど、誤読による范曄の錯覚があったことは、『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦氏も指摘している。『後漢書』が書かれた5世紀にはすでに短里は使用されていない。范曄が侏儒(朱儒)国についての正確な情報を持っていたなら、長里で表記したであろう。そうでないとしたら、『魏志倭人伝』の焼き直しの文章であり、尊重すべきは『魏志倭人伝』の本来の記述のほうである。ちなみに、『後漢書』の「自女王國東渡海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」も『魏志倭人伝』の文をベースとしながらも内容を変えている部分である。古田氏は電話のやりとりで、合田洋一氏から「『後漢書』の千餘里は長里でなければなりませんよ」との指摘により、拘奴(狗奴)國を畿内の銅鐸圏の国に比定する説を打ち出している。 疑問③:身長140~150cmを「人長三四尺」は誇張ではないか? 広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地である。昭和32年から34年にかけて遺跡の調査が行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から158体の人骨が出土した。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることが分かったという。 この考古学的な成果は重視するべきであるが、身長140~150cmを「人長三四尺」と表記するのは、かなりの誇張があるのではないだろうか? 一尺=約25cmとしても75~100cm程度である。『魏志倭人伝』はかなり正確で信頼性の高い記述がなされていたことが古田氏の史料批判によって論証されている。身長140~150cmなら本来は「人長五六尺」とすべきではないか。 以上のように「侏儒国=種子島」説はまだ確定したわけではない。『後漢書』の記述に対する史料批判をしっかりと行いつつ、上記の疑問などについても十分に検討する必要があるのではないだろうか。広田遺跡の存在によって「侏儒国=種子島」説があたかも実証されたと思わせる雰囲気になりつつあるが、「学問は実証より論証を重んじる」のであれば、疑問①~③などの問題点を矛盾なく解決することが望まれる。 |
「侏儒国」に関する本がないかと図書館で検索したら『「古代四国王朝(シュジュコク)の謎」殺人事件』(吉岡道夫著、1994年)という書き下ろし長編推理小説がヒットした。学術的な本ではないが、どのような説を背景として描いているかという興味もあったので、とりあえず読んでみることにした。 表紙の扉に次のような「著者のことば」が書かれている。 千数百年の昔、四国に繁栄をきわめた古代王朝があったことは、中国の史書にも片鱗が記されています。この国の民は黒潮に乗って中国大陸はもとより、遠く中南米にまで航路をのばしていたようです。羅針盤もなしに大海を渡る古代人にとって、足摺岬はまたとないランドマークだったのではないでしょうか。 あらすじは本の裏表紙に出ている。以下のような内容だ。 確かに推理小説ではあるが、ストーリーの背景には学術的根拠も読み取れる。作品中に次のような話が出ている。 『なかでも私は魏志倭人傳のなかに記されている[侏儒國]という小国に強い興味をそそられました。なぜならこの侏儒国は、私見によるとわが郷土、高知のほかにはないと考えたからであります……』 そこで嘉吉はその推論を一年がかりで論文にまとめあげて、著名な歴史学者である大学教授に送り、礼を尽くして披見を仰いだのである。 ……(中略)…… ここで肝腎なのは[魏志倭人傳]では女王『卑彌呼』が統治していた国は[邪馬壹国(やまいちこく)]と記されていることだ。 これを『ヤマタイコク』とはどうしても読めない。『ヤマイチコク』としか読みようがない。 ……(中略)…… ――女王國の東、海を渡る千餘里、復(ま)た國有り、皆倭種なり。又侏儒国有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去る四千餘里。 ……(中略)……たしかに[魏志倭人傳]の旅程をたどれば『侏儒國』は現在の高知県だと考えるのは、あたらずといえども遠からずだということになる。 なぜなら[魏志倭人傳]の『侏儒國』の記述の後に、 ――又裸國・黒齒國有り。復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し。 とあるからだ。 ……(中略)……それらの国は中南米の諸国、または南米のエクアドル、ペルー、チリあたりではなかろうか……。 そうなると、日本からの船出の基地は、南九州の突端、薩摩半島か大隅半島。もしくは南四国の足摺岬か、室戸岬ということになってくる。 原文尊重の「邪馬壹国」および「侏儒国を足摺岬付近に比定」する考えなど、明らかに古田武彦説に影響を受けたと思われる内容である。巻末の参考文献と著者のコメントを読んで、その印象が間違いなかったことが確かめられた。 『参考文献』 [足摺岬に古代大文明圏]古田武彦著 THIS IS 読売・一九九三年七月号掲載 尚、この作品を書くにあたり古田武彦氏の論文を参考にさせて頂いたことに謝意を述べさせていただきます。 著者 古田武彦氏は1993年に土佐清水市の協力を得て、足摺岬周辺の巨大遺構ーー唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする調査を行っている。その時の実験によって、鏡岩と呼ばれる巨石が縄文時代の灯台としての役割を果たし得ていたであろうことが確認された。 唐人駄場遺跡は四国南西部において縄文時代の石鏃出土が最多であることを地元の考古学者・木村剛男氏も言及しておられた。また、現在はキャンプ場となっている遺跡南方の公園は、かつては世界最大級のストーンサークルであったことが分かっている。 さらに幡多地方には高知県で唯一の前方後円墳とされる平田曽我山古墳(宿毛市平田町戸内)が存在する。後の歴史でも太平洋航海の拠点であったことは、補陀落渡海の出発地となり、鎌倉時代に船所職(ふなどころしき)が置かれたことなどからも推測できる。 推理小説『「古代四国王朝の謎」殺人事件』のラストは侏儒国王の墳墓にたどり着くことになるのだが、現実にはどこに侏儒国を見出すことができるだろうか? |
ブログ「日々のさまよい」さんが「なぜか出雲大社には、少彦名(スクナビコナ)を祀るお社がない」と指摘されている。氏の作成された以下のリストによると少彦名(スクナビコナ)を祀る神社は出雲国内で10社程度ということになる。 これならむしろ高知県のほうが多いくらいである。現在、確認したところによると、氷室天神社や粟島神社(上の写真、須崎市浦ノ内灰方)など、県西部の幡多郡と高岡郡に23の少彦名命を祭神とする神社が存在する。この分布は40社ほどある白皇神社(祭神・大巳貴命)の広がりとほぼ一致している。 この領域は中世の幡多庄、さかのぼると波多国造が治めた国に相当し、もしかしたら魏志倭人伝の侏儒国と関連する可能性がある。 一寸法師のモデルともなった少彦名命は、倭人伝に「人身三・四尺」と記述された侏儒国の人びとを連想させる。『伊予国風土記』逸文にも温泉開設の説話が大己貴命とともに描かれている。そして熊野の御崎より常世郷(とこよのくに)に帰って行った。南海道に縁の深い神様のようである。 ▼出雲国内でスクナビコナを祀る神社一覧 (島根県神社庁/県内神社のご案内より構成。[ ]内は主祭神) ────────────────────── 出雲市(全157社) ・山辺神社[大国主命・天照大神・少彦名命・山辺赤人之] ・佐香神社[久斯神・大山昨命]※郷社/式内社/出雲国風土記所載 斐川町(全32社) なし 松江市(全165社) ・天神神社[少彦名命・大鷦鷯尊] ・阿羅波比神社[大己貴命・少彦名命・天照大御神・高御産巣]※県社/出雲国風土記所載 東出雲町(全10社) ・揖夜神社[伊弉冉命・大巳貴命・事代主命・少彦名命]※県社/式内社/出雲国風土記所載 安来市(全98社) なし 雲南市(全127社) ・多根神社[大己貴命・少彦名命] ・加多神社[少彦名命]※郷社(県社昇格許可)/式内社/出雲国風土記所載 奥出雲町(全34社) ・湯野神社[大己貴命・少彦名命・邇々藝命・事代主命]※出雲国風土記所載 ・居去神社[大名持命・少彦名命] 飯南町(全13社) なし ────────────────────── 美保神社の境外末社に祭神が少彦名命の天神社。出雲国ではないが、東隣の伯耆国である鳥取県米子市に粟島神社がある。 |
南米エクアドルのバルディビア遺跡から縄文土器のみならず、線刻石が出土しているとメガーズ・エバンス報告書は言う。縄文のヴィーナス(女神石)とも呼ばれる線刻石といえば、愛媛県の上黒岩遺跡が有名である。しかし時代が大きく異なっている。上黒岩遺跡は一万二千年前、バルディビア遺跡は五千五百〜三千五百年前である。 縄文人が太平洋を渡ったといっても、さすがにこれを結び付けるのは我田引水というものだろう。古田武彦氏もこの問題点は先刻ご承知であった。高知県四万十市西土佐の大宮宮崎遺跡(四国で2例目の配石遺構を伴う祭祀遺跡)から時代の新しい線刻石(礫)が発見されていることを、『失われた日本』(1998年)の中で指摘している。こちらは縄文後期(四千〜三千年前ーー様式推定)のものとされ、これなら時代的な重なりがある。 四万十市はかつての幡多郡であり、『魏志倭人伝』の侏儒国に比定される領域である。物証としてはまだ少ないかもしれないが、足摺岬付近から黒潮に乗って南米へ渡航したとする古田説を支持する根拠の1つと言えるだろう。 実は先日、近くの道を通ったにもかかわらず、そんな重要な大宮宮崎遺跡の存在を知らずに素通りしてしまった。地元の人間でも知らないところにまで、古田氏の研究の手が及んでいたことに新ためて驚かされる。 |
侏儒国に関する『魏志倭人伝』の記述から見てみよう。 女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至 「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有り、皆、倭種。又、侏儒国有り、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有り、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。」 女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその南にある。人の背丈は三、四尺で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その東南にある。船で一年行くと着く。 『魏志倭人伝』の里単位が短里(1里=約76m)とされることから「海を渡ること千余里」は豊後水道を渡った愛媛県、その南は高知県西部に至る。現在は幡多郡、かつては波多(幡多)国と呼ばれていた。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇の御世に、天韓襲命(あめのからそのみこと)を神の教えにより波多国造に定められたとされる。 波多国造は後の令制国の土佐国の西部、現在の幡多郡を支配したと考えられ、その中心地は、現在の四万十市中村説と、宿毛市平田の平田曽我山古墳のある平田古墳群の地とする説がある。 幡多地方は縄文時代以来の遺跡が広く分布し、弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。『魏志倭人伝』に登場する侏儒国は、遺跡の分布から考察すると、四万十川の中下流域、すなわち中村辺りが中心であったと考えるべきであろうか。 崇神天皇時代の国造設置記事を疑問視する者もいるが、天氏である天韓襲命の波多国造設置は九州王朝の勢力進出により、この地方がその影響下に置かれたことを示しているようだ。高知県で唯一の前方後円墳である曽我山古墳を波多国造と関連付ける説は十分うなずける。 「国造本紀」に見える都佐国造は波多国造より後の設置(成務天皇の世)とされる。この西から東への順番は、大和朝廷一元史観では説明に苦しむ。やはり九州王朝の東進(倭の五王時代か)と考えたほうが理解しやすいのではないだろうか。 |
『幡多のあけぼの 考古学よもやま話』(木村剛朗著、平成3年)は高知県の縄文時代を知る上で欠かすことができない一冊だ。その中で「石鏃が最も多く出土する遺跡は、足摺半島の先端部近くにある唐人駄場遺跡と、中村市蕨岡の奈路駄場遺跡である。この遺跡で採集された石鏃は数百点にものぼる」としている。 唐人駄場遺跡と言えば、かつて古田武彦氏が縄文時代の灯台とされる鏡岩の調査に来られた場所である。巨石群が天然のものか人為的に配置されたものかは議論があるところだが、縄文時代における一大中心地であったということは専門家も認めるところである。 一方の奈路駄場遺跡は現在は四万十市蕨岡の高良神社が鎮座する川の対岸にある。縄文〜弥生時代の遺跡で、栗の実型の首飾りが出土している。幡多国の中心部が四万十川流域に移行してきたのだろうか? |