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古田史学論集第二十七集「倭国から日本国へ」発刊
 古代に真実を求めてシリーズ『古田史学論集第二十七集「倭国から日本国へ」』(古田史学の会編、2024年4月15日)が発刊された。タイトルの通り、特集は「倭国から日本国へ」。中国史書と『日本書紀』『続日本紀』などとの齟齬や、九州年号、難波宮、飛鳥宮出土木簡、『記紀』の隼人などを手がかりに、古代史の画期である九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の真実に迫る諸論考を収録している。
 いわゆる「ONライン」にスポットを当てた特集内容というわけだ。日本列島の支配者(主権王朝)として、古田武彦氏は700年までを倭国(Old:九州王朝)、701年以降を日本国(New:大和朝廷)と見なし、その画期として「ONライン」の存在を提唱した。近畿天皇家一元史観に対する、斬新ながらも史料根拠に基づいた主張である。
 大宝律令および年号建元の701年をもって王朝交代と見ることは妥当であるが、政権が移行していくプロセスについてはまだ十分理解されていないところが多い。本書は、ON両者の勢力関係や従来から疑問とされてきた点などについて、深く研究し掘り下げられた論文の集大成となった。
 特に今回注目されているのは、谷本茂の「倭国から日本国への『国号変更』解説記事の再検討」とする論考で、新・旧『唐書』における倭と日本の併合関係の逆転をめぐって、漢文の読みを再検討し、新たな解釈を示した。個人的には服部静尚氏の「俾彌呼の鏡――北九州を中心に分布する『尚方作鏡』が下賜された」とする論考がちょっとすごいと考えている。根拠薄弱な「三角縁神獣鏡」説を打破し、明瞭な代案を示すものとなるかもしれない。今回の特集とは離れたテーマであるが、よく検証すべき問題である。
 以下に目次を引用しておく。表紙は淡泊に抑えた印象だが、掲載されている論文内容は濃いもになったと評価する。

<目次>
巻頭言 三十年の逡巡を超えて[古賀達也]
特集 倭国から日本国へ
 「王朝交代」と消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」[正木裕]
 王朝交代期の九州年号――「大化」「大長」の原型論[古賀達也]
 難波宮は天武時代「唐の都督薩夜麻」の宮だった[正木裕]
 飛鳥「京」と出土木簡の齟齬――戦後実証史学と九州王朝説[古賀達也]
 『続日本紀』に見える王朝交代の影[服部静尚]
 「不改常典」の真意をめぐって――王朝交代を指示する天智天皇の遺言だったか[茂山憲史]
 「王朝交代」と二人の女王――武則天と持統[正木裕]
 「王朝交代」と「隼人」――隼人は千年王朝の主だった[正木裕]
 倭国から日本国への「国号変更」解説記事の再検討――新・旧『唐書』における倭と日本の併合関係の逆転をめぐって[谷本茂]
 コラム 「百済人祢軍墓誌銘」に〝日本〟国号はなかった!
 
一般論文
 『隋書』の俀国と倭国は、別の存在なのか[野田利郎]
 『隋書』の「倭国」と「俀国」の正体[日野智貴]
 倭と俀の史料批判――『隋書』の倭國と俀國の区別と解釈をめぐって[谷本茂]
 多元的「天皇」号の成立――『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇[古賀達也]
 法隆寺薬師仏光背銘の史料批判――頼衍宏氏の純漢文説を承けて[日野智貴]
 伊吉連博徳書の捉え方について[満田正賢]
 『斉明紀』の「遣唐使」についてのいくつかの疑問について[阿部周一]
 俾彌呼の鏡――北九州を中心に分布する「尚方作鏡」が下賜された[服部静尚]
 
フォーラム
 海幸山幸説話――倭国にあった二つの王家[服部静尚]
 豊臣家の滅亡から九州王朝の滅亡を考える[岡下英男]
 
付録
 古田史学の会・会則
 古田史学の会・全国世話人名簿
 編集後記


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【2024/04/20 12:00 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
科野(長野)の鼠はいかならん――九州王朝の八面大王か、不寝見か
 清少納言の『枕草子』第二八〇段「雪のいと高う降りたるを」において、「香炉峰の雪」に関する有名なくだりがある。一条天皇の正室である中宮定子は才色兼備の人で、あるとき「香炉峰の雪いかならむ(どんなであろう)」と仰せになった。お仕えしていた清少納言は、女官に御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、定子はお笑いになった――という話だ。白楽天の「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き/香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」の詩句を知った上で、中宮様の謎かけに即興で応対した。今風に言えば、とっさの神対応に周囲は「いいね」の評価をしたという。
 清少納言は平安中期の女流作家で、この一件は10世紀末頃であるから、あまり参考にならないかもしれないが、当時の日本の知識層は当然ながら中国文学から学んでおり、その影響を受けていることが分かる。8世紀、『日本書紀』の編者についても似たようなことが言えるのではないだろうかというのが、今回のメインテーマである。
 始まりは9年前。『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を橘高修氏が『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表した。さらに論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」(『東京古田会ニュース』189号)においては、信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介した。

 『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見される。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事がある。
 『日本書紀』岩波版の注は、「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、……群鼠浮河向鄴」とあって、鄴への遷都の兆としている、と述べている。つまり、『日本書紀』の「鼠が移動する」記事は北史に倣った表現をしていると解説しているわけだが、これだけでは「鼠=九州王朝」とすることはできない。
 橘高氏は『日本書紀』中に表記された「鼠」記述については「九州王朝を揶揄した表現ではないか」とし、「鼠」とは「八面大王」のことか、とも指摘している。これに対し、吉村八洲男氏は一志茂樹博士の説を紹介しながら、「鼠」は「ネズミ(不寝見)」であるとし「寝ることなしに、煙火を監視した、軍事組織(システム)」の存在を想定した。いずれにしても新王朝が旧王朝を悪しざまに言うことは、歴史上繰り返されてきたことで、ある面そこに『日本書紀』編纂上のイデオロギーが表れているとも言える。
 ここでもう一度原点に立ち返ってみよう。『日本書紀』の編者が参考にしたのは、主に中国の文献であり、中国古典において「鼠」が何を象徴していたかを知ることができれば、その影響を受けたであろう『日本書紀』の「鼠」が指し示すものがより明確になるかもしれない。

 碩鼠(魏風)

 碩鼠碩鼠  碩鼠(せきそ) 碩鼠
 無食我黍  我が黍(きび)を食う無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫(つか)へしに
 莫我肯顧  我を肯(あ)へて顧(かえりみ)みる莫(な)し
 逝將去女  逝(ゆ)きて將(まさ)に女を去りて
 適彼樂土  彼(か)の楽土に適(ゆ)かん
 樂土樂土  楽土 楽土
 爰得我所  爰(ここ)に我が所を得ん

 碩鼠碩鼠  碩鼠 碩鼠
 無食我麥  我が麦を食ふ無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫へしに
 莫我肯德  我を肯へて德する莫し
 逝將去女  逝きて將に女を去りて
 適彼樂國  彼の楽国に適かん
 樂國樂國  楽国 楽国
 爰得我直  爰に我が直を得ん

 碩鼠碩鼠  碩鼠 碩鼠
 無食我苗  我が苗を食ふ無かれ
 三歳貫女  三歳 女(なんじ)に貫えしに
 莫我肯勞  我を肯へて労(ろう)する莫し
 逝將去女  逝きて將に女を去りて
 適彼樂郊  彼の楽郊に適かん
 樂郊樂郊  楽郊 楽郊
 誰之永號  誰か之(もつ)て永号(さけ)ばんや
 ここに引用した『詩経』「魏風」の碩鼠は”重税に苦しむ人民の詩”として有名だ。「碩鼠すなわち”大きなねずみ”は、為政者を表している」といった説明が後漢時代の学者・鄭玄によって出されている。ここで風刺されている「為政者」は、トップの権力者のことでもあり、その権力を支える支配機構を指すとも言える。大和朝廷以前(700年以前)に倭国を支配した九州王朝という旧権力の存在に対して、中国古典の表現に倣って「鼠」を当てたと解釈するのはどうであろうか。

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【2022/08/07 19:17 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
「土佐国もと四郡説」オワコンか――長岡評の若宮ノ東遺跡
 高知県立埋蔵文化財センタ-30周年を記念して、令和3年度の土佐史談会講座は「歴史考古学の発掘現場から」をテーマに毎月行われてきた。令和4年1月23日(日)は注目されていた一つ「若宮ノ東遺跡発掘調査成果(下)-長岡評から長岡郡へ-」と題して、久家隆芳氏による講座が持たれた。

 タイトルからも読み取れるように、南国市篠原の若宮ノ東遺跡から7世紀の大型掘立柱建物跡が発見されたことにより、久家氏は長岡評の存在を想定しておられるようだ。かつて郡評論争の決着によって、「郡」表記が使用されるのは701年の大宝律令以降であり、700年以前は「評」と表記されていたことが明らかとなった。この画期こそ、古田武彦氏が指摘していた九州王朝から近畿天皇家への政権交代を示す「ONライン」である。
 実は今回の話題は、高知県の古代史の定説を揺るがす重大な意味を持っている。というのも「土佐国もと四郡説」というのがあって、当初は安芸・土佐・吾川・幡多の4郡しかなく、後に長岡・香美・高岡の3郡が新たに設置され7郡となったとの考え方である。『続日本紀』に「光仁天皇宝亀九年三月己酉土佐国司言さく、去年七月風雨大切四郡百姓産業損傷す」とある。すなわち、少なくとも宝亀9年(778年)までは土佐を四郡とするのが通説であり、『日本後記』延暦二十四年(805年)における香美郡の初見までの期間に、長岡郡と香美郡が分郡されたと考えられていた。これに対して、前田和男氏は「『四郡の百姓』は土佐全土――全郡の百姓とも、土佐の国内の郡のうち四郡の百姓とも、解することができよう」とし、後に仁明天皇承和八年(841年)分置の高岡郡は別にして、土佐国に6郡が当初置かれていた可能性に言及している。
 演題にも含まれる「長岡評」についてであるが、奈良県石神遺跡から出た木簡に、「▢岡評」(▢は不明な字)と記されたものがあり、可能性としては陸奥国長岡評か土佐国長岡評の二拓なのだという。さらに「~俵」との記述があって米俵を指すとすれば、南国の稲作地帯であり、香長条里が広がる土佐国長岡評の可能性が濃厚になってきている。さらに近年、正倉とみられる遺構が発見されたとあればなおさらである。
 また、西大寺旧境内で発掘された宝亀二年(771年)以前の木簡に、長岡という郡の名が見えるので、7世紀の長岡評から8世紀の長岡郡へと連続して存在していたと考えるのが自然である。これが事実であれば「土佐国もと四郡説」が終焉することになる。流行語では「オワコン(終わったコンテンツ)」、囲碁の梶原武雄(1923ー2009年)先生風なら「オワ(既に終わっているの意)」ということになるだろうか。
 ここで遺跡の概要について触れておこう。若宮ノ東遺跡は南国市篠原に所在する遺跡で、弥生時代の竪穴建物群をはじめとする集落跡や古代の掘立柱建物などの遺構・遺物が数多く確認され、弥生時代から中近世までの複合遺跡である。なかでも平成30年度の調査で発見された大型掘立柱建物跡は県内最大級の規模を誇り、官衙関連施設ではないかと注目されている。また、この建物跡の西約60mの地点では梁間(はりま)3間、桁行(けたゆき)4間の大型総柱建物跡(正倉跡か)も確認されている。

【大型掘立柱建物跡の発見】
 掘立柱建物跡〈ほったてばしらたてものあと〉とは掘った穴(柱穴〈ちゅうけつ〉)に柱を立て埋め戻して柱を固定し、屋根をかける建物です。今回見つかった柱穴は一辺約1.2mの隅丸方形〈すみまるほうけい〉を呈し、深いものでは1.6mもありました。柱の直径をはるかに超える大きな柱穴です。柱穴は南北に3基ずつ、東西に8基ずつが整然と並んで見つかりました。正確な測量が行なわれていたことが窺〈うかが〉われます。
 建物の平面規模は柱と柱の間の数であらわすことができ、今回の建物は2間〈けん〉×7間となります。柱自体は抜き取られていましたが、柱の痕跡(柱痕跡〈はしらこんせき〉)から直径は約30㎝の柱が立てられていたと推測されます。柱痕跡と柱痕跡の距離(柱間寸法〈ちゅうかんすんぽう〉)は約3m(10尺)ありましたので、床面積は南北約6m、東西約21mの約126㎡となります。高知県の古代のものでは最大規模のものです。(廂〈ひさし〉まで含めると8世紀後半の下ノ坪遺跡(香南市)で見つかっている建物跡が最大のものです。)また、柱間寸法が約3mもあるものは県内では他に例がありません。
 7世紀第3四半期~第4四半期に廃絶され、建て替えはされていない。主軸方向は東偏13度で香長条里の方位と一致している。国府域から南方へ延びる古代官道との先後関係を確認したところ、やはり建物よりも先に「道ありき」なのだそうで、“野中廃寺発掘調査の副産物ーー幅6mの官道も7世紀”で言及したことに間違いなさそうだ。
 柱間寸法が約3mで10尺との話だったので、1尺を何センチで想定しているかを質問したところ、全てに整合性のある尺は出ていないとしながらも、1尺=29.6センチの可能性はあるとのこと。天平尺が使われたのだろうか。
 愛媛県には評制を示す史料が多いのに対して、高知県においては今のところ唯一の評制の痕跡である「長岡評」のことが徐々に明らかになりつつある。今後の発掘調査及び出土物等の整理・解釈に期待が寄せられるところだ。
 次回の土佐史談会講座は2月17日(木)。今、最もホットな「安芸市の発掘調査最前線 古代の安芸郡を紐解く瓜尻遺跡を中心に」をテーマに、安芸市立歴史民俗資料館・仙頭由香利氏による講座である。安芸市僧津の瓜尻遺跡について、どこまで分かってきたのか話を聞いてみたいものだが、平日にしか日程が取れなかったとのことで、仕事のある人にとっては少し残念。新型コロナウイルス・オミクロン株の旋風が地方都市にも吹き荒れる中、多人数が集らないことをよしとすべきか。


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【2022/01/28 11:28 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
Hey Siri(ヘイ、シリ)教えて「瓜尻遺跡」――小笠原好彦氏講演会
 毎週日曜放送のアニメ『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』第23話で、ついにフィットア領へと戻ってきたルーデウスたち。故郷のブエナ村は荒地になり、ボレアス家のあったロアの街も難民キャンプとなっていた。「まずは井戸づくりですな。ここは川まで少し離れていますので、皆苦労しております」と主人公ルーデウスは依頼される。
 ふつうは近くに川がないから井戸を掘る。けれども、古代において国内最大級とされる直径9.5メートルの瓜尻(うりじり)遺跡の井戸は接岸施設を伴う水路遺構の近くで見つかった。その解釈に専門家も悩んでいるのが正直なところであろう。
 安芸市僧津の統合中学校建設地内の「 瓜尻遺跡」(古墳~平安期)について考える講演会が、12月12日に安芸市民会館で開かれた。考古学者で滋賀大名誉教授の小笠原好彦氏が「大化の改新以後、中央に税を納めるための流通拠点。米やカツオ、塩などが集まり、絹織物の工房があったのだろう」と、集まった約160人に見解を披露した。小笠原氏は「豪族の居館や 郡衙(地方に設けられた役所)にしては規模が小さい」と指摘。井戸のある23m四方の区画には塀が巡らされ、門が設けられた南側には建物の遺構が全くない点に注目。流通拠点や絹織物の工房があった場所との見立てを述べたことが、『読売新聞』(2021年12月15日)の記事から読み取れる。
 当日講演会に参加した方からも「23m四方の方形区画や船着き場や運河を配する構成から、調の集積場ではなかったか」と同様の趣旨の情報提供があった。いただいたコメントに「井戸との関連はまだわからないとも。 解明できそうもないものは祭祀遺構にする話は少し笑いました!」とあり、講演会の様子が伝わってきた。発見当初、安芸市教育委員会は「神聖な行事のための水として使われていたのでは」と推測した経緯もあり、小笠原氏は井戸と祭祀との関連は疑問視しておられるようだ。

 「大化の改新以後、中央に税を納めるための流通拠点」あるいは「公的な市」とする小笠原説はたいへん興味深いところだ。近くには三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の生家があり、この地から日本の水運業、ひいては実業界を担う人物が現れたのは歴史の同時性(歴史は繰り返す)というものか。
 ただし、645年の「大化の改新」については疑問点も多く、多元史観では大宝律令(701年)が大和朝廷による中央集権体制のスタートとされる。そうなると、7世紀代における瓜尻遺跡の存在意義は近畿天皇家との関係を抜きにして考えなければならないだろう。

 ところで、岩崎弥太郎の生家の住所は安芸市井ノ口甲一ノ宮。「井ノ口」とは主に用水取水口の地名であり、伏流水となる前の地点で用水路に確保する所である。瓜尻遺跡の周辺は安芸条里の北端部にあたり、条里の中央付近には「ミヤケダ」地名もある。安芸条里の灌漑施設を管理運営する上で、安芸川からの取水口となる場所が重要とされたと考えられる。そのことは一ノ宮古墳や一宮神社(安芸郡の一ノ宮、土佐国の一ノ宮は「しなね様」で有名な土佐神社)が存在し、古代寺院が存在していたことが明らかになったことでも理解できる。
 AI(人工知能)の登場で囲碁界ではプロ棋士が教えてきたことが、必ずしも正しいとは限らないことが明らかになってきた。古代史の解明にも先入観を持たないAIを導入してみたいものだ。Hey Siri(ヘイ、シリ)教えて「瓜尻遺跡」。


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【2021/12/28 07:00 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
安芸市僧津の瓜尻遺跡の謎——国内最大級の古代井戸
 高知県安芸市僧津の瓜尻遺跡で、一辺約23メートルの溝で四方が囲まれ、溝に沿った柵列跡のある「方形区画遺構」が発見されたことは、当ブログでもすでに報告した(“安芸市僧津の瓜尻遺跡で古代寺院と官衙跡”、“安芸市僧津の瓜尻遺跡の古代瓦はコゴロク廃寺とは別タイプ”参照)。溝から出土した須恵器の年代から、方形区画遺構は7世紀前半くらいに整備が始まったとみられる。「厳重な造りから豪族が利用していた施設と考えられるが、役所にしては規模が小さく、居館にしては生活用具の出土がない。流路や入り江状の遺構が近接していることから水運に関わる港のような機能を持った場所の可能性がある」と考えられているようだ。溝からは木簡のようなものも発見されており、文字資料がないか調べる。
 さらに注目を集めることになったのは、遺構の中に直径約9.5mの井戸遺構が見つかったことだ。その規模は古代の井戸遺構としては国内最大級の大きさ(平城京では約6.6m)だという。井戸遺構は内側に足場のある2段構造になっていて、中心部分に一辺約70センチの木製の井戸枠があった。特殊な構造であることや、近くに川があり井戸を作る必要性が考えにくいことから、安芸市教育委員会は「神聖な行事のための水として使われていたのでは」と推測している。

<国内最大級の古代井戸 直径9.5メートルも 高知・瓜尻遺跡>
https://www.youtube.com/watch?v=VXW_0Au5NEA

 報道の内容を整理しながら、いくつかの疑問点が沸き上がってきた。
①地方の郡になぜ国内最大級の井戸が?
②本当に宗教的な施設なのか?
③郡家や条里制との関係は?
 はっきりしたことが分からない段階で、何か結論じみたことを明言することは危険であるが、現段階の報道内容では不満を感じる人も多いだろう。見当違いもあるかもしれないが、少し踏み込んだことまで言及してみたい。
 まずは安芸市の地政学的位置づけについて。土佐国(高知県)には安芸・香美・長岡・土佐・吾川・高岡・幡多の7郡あり、最も東に位置する。43郷中8郷が安芸郡に属し、うち5郷が現在の安芸市に含まれていたとされることから、古代土佐国において人口が集中する重要拠点であったと考えられる。にもかかわらず、「安芸市内には延喜式内社が存在しないことが不思議だ」と広谷喜十郎氏は指摘する。また、安岡大六氏の説に「キ族とは海洋民族のことで、安芸には水主、すなわち航海業者が比較的に多かった。安芸の語源かと考える」とある。
 川北の江川から銅鉾、伊尾木の切畑で銅鐸が発見されており、安芸市は銅鉾文化圏と銅鐸文化圏の接点に位置する。銅鐸文化圏に銅鉾文化圏の勢力が侵入したと見るべきだろうか。その後、時代的な隔たりはあるだろうが、安芸川右岸には条里制水田が営まれたであろう。安芸市の条里制地割の北辺にあるのが、このほど発掘調査が行われた瓜尻遺跡なのである。その西側に「井ノ口甲一ノ宮」地名とともに一宮神社や一ノ宮古墳が存在する。

 また、古代寺院跡の存在を示す軒丸瓦も出土していることから、この付近が宗教的中心地であったとし、井戸は宗教的儀式に用いられたとの考えは一理ある。しかし古代において政教分離という縛りはない。水路跡も単に護岸施設というよりは、条里制水田の灌漑施設に関係しているのではないかとのアイデアが浮かんできた。現在でも安芸川の栃ノ木堰から取水して、安芸平野を灌漑しているとのこと。昔は5か所から用水路を引き込み、安芸川の氾濫にも悩まされ、治水に苦労したという。

 つまり、僧津の瓜尻遺跡の位置づけとしては、7世紀当時は宗教的中心地であり、港であり、さらには安芸条里を管理する複合的施設なのではなかったか。そして、単なる地方の一豪族が広大な安芸条里を一括管理するには荷が重すぎる。遺跡は7世紀、すなわちONライン(701年)以前と年代比定されており、多元史観によれば九州王朝系の勢力による条里制の施行という可能性が見えてくる。「国内最大級の古代井戸」からは、そのような意味が読み取れるのではないだろうか。

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【2021/04/04 23:21 】 | ONライン | 有り難いご意見(2)
土佐国府跡、内裏の西から13弁菊紋軒丸瓦(後編)
 「十三弁花紋は九州王朝の家紋」とする仮説(古賀説)が正しいかどうかはまだ検証の必要があるが、九州北部に多く見られる紋であることは確認されている。とすると、土佐で見つかった十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦は何を意味するのか。九州王朝との関係があるのだろうか。
 久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は北部九州の中でも、とりわけ太宰府市に集中して分布しているようだ。
太宰府史跡(太宰府市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
 ということは、太宰府と土佐国府の共通点の有無を調べることによって、土佐国における十三弁菊紋軒丸瓦の存在が、必然であったか偶然であったかを知ることができるかもしれない。次の4項目の類似点について紹介して、識者の判断を仰ぎたい。

①大裏と内裏

 太宰府条坊の北方に「大裏」地名があり、土佐国府の北方にも紀貫之の国司館跡とされる場所に「内裏」地名がある。
【名称】旧小字標石 大裏(だいり・おおうら)
【所在場所】観世音寺3丁目 都府楼跡北辺
【文化遺産情報】住居表示により古い地名が失われるため、平成5年(1993)8月に太宰府市が旧小字名を石標に刻して建立したもの。地名「大裏」は内裏、紫宸殿ともいわれ、天智天皇の内裏跡や安徳帝の行宮があった場所だという謂われが残っている。大宰府政庁の政庁域全体がこの地名である。

②観世音寺と観音寺

 太宰府北東部(鬼門)に観世音寺(観音寺と呼ばれたこともある)があった。土佐国府北東部には比江廃寺跡がある。現在、土佐国府跡北方に「永源寺」(えいげんじ)があり、かつては、曹洞宗大本山永平寺の直末で「観音寺」といって鬼門除けのお寺であった。『長宗我部地検帳』にも「タイリ中ニツカアリ……同(観音寺分)」とある。

③都府楼礎石と比江廃寺礎石

 比江廃寺跡の礎石について、凹凸の違いはあるものの、太宰府都府楼の礎石に似ているとの指摘がある。

④大宰府の廃止と土佐国司の派遣 

 天平十四(742)年正月に大宰府が廃止された、と『続日本紀』は伝えている。土佐の国司は、天平十五(743)年六月三十日に任命された土佐守・引田虫麻呂が記録に見える姓名の明らかな国司の始めである。それ以前に国司が派遣されていたかもしれないが、九州王朝滅亡(700年)後も、742年頃まで大宰府の管轄下にあったか、何らかのつながりを維持していた可能性も考えられる。

 以上、①~④の4点をピックアップしてみたが、土佐国に
十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦が存在することは、やはり何らかの意味があるようにも思えるが、いかがであろうか。







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【2020/06/07 23:43 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
土佐国府跡、内裏の西から13弁菊紋軒丸瓦(前編)
 久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は、次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているという。
鴻臚館跡(福岡市)
筑後国分寺跡(久留米市)
堂ヶ平遺跡(八女郡広川町)
太宰府史跡(太宰府市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)
 古田史学の会代表・古賀達也氏は「十三弁花紋は九州王朝の家紋」ではないかと推定している。その根拠として、高良玉垂命の家系の一つ、稲員(いなかず)家の家紋が菊だったと伝えられ、皇室の十六弁の菊とは異なり、十三弁の菊だったとのこと。
 実はこの十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦が高知県からも出土している。何かつながりがあるのだろうか。江戸時代の国学者・鹿持雅澄(1791‐1858年)の『土佐日記地理弁』に、次のように書かれている。
 和名抄ニ、土佐ノ国国府在長岡ノ郡ト見ユ、コノ長岡ノ郡日吉村ニアリ、其日吉村ハ、イニシヘハ、江村ノ郷ニ属タルナルベシ、和名抄ニ、長岡ノ郡江村〔衣牟良〕トアリ、土佐ノ郡今ノ高智城ヲ東ニ距ルコト、今道二里余ナリ、国府ノアリシ跡ヲ、里俗内裏屋敷ト称リ、又ソコニ、内裏グロト云伝フル所アリ、紀子旧跡ノ碑ソコニ建リ、コノ内裏グロノ西ヲ瓦畑ト云、ムカシ古瓦多ク出ケルニヨリテ、カク云リ、今ニ瓦ノ小片、マゝ出ルコトアリ、其中ニ菊紋ノ瓦甚稀也、イヅレモ布目アリテ、今ノ製ニ異ナリ、ソコヨリ東一丁余ニ、御門前ト云処アリテ、当昔国府ノ門、ソコニアリシト、(下略)
 土佐国府跡の紀貫之が住んでいたとされる場所が内裏と呼ばれ、記念碑が建っている。『土佐日記地理弁』によると、内裏ぐろの西を瓦畑といい、そこから古瓦が多く出土している。その中に十三弁菊紋瓦があったと記録されているのだ。
 「ぐろ」というのは土を盛り上げたところで、『長宗我部地検帳』の「長岡郡廿枝郷衙府中・国分地検帳」には、
タイリ中ニツカアリ   二郎三郎作
一所壱反 出六代四分中 同(観音寺分)
 と書かれており、「ツカアリ(塚あり)」との表現に対応している。内裏という区画の中に「コフラ」という地名も見える。ここが「内裏グロ」あるいは「ツカ(塚)」があった場所に相当するのではないかと推測する。
 正確な出土地点ははっきりとしないが、『皆山集』にも「其瓦一枚ハ丸ニシテ菊花アリ 〜 辨十三アリ」と記録され、土佐国分寺付近から出たものと考えられている。いずれにしても国府近辺であることには相違ない。土佐国府付近から出土した十三弁菊紋軒丸瓦は九州王朝との関係があるのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。さらに検証してみたいところである。


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【2020/06/06 02:07 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
『日本書紀』のα群・β群とは何か
 「α群・β群」という概念なしに最先端の『日本書紀』研究はできなくなってきた。かつて『古田史学会報140号』(2017年6月号)に「七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと」と題する国立天文台・谷川清隆氏の論考が掲載された。その中にも「森博達のα群・β群」として要約されていたが、当時はまだその意味するところがよく理解できずにいた。このほど『日本書紀成立の真実 書き換えの主導者は誰か』(森博達著、2011年)を読んでみて、その重要性が分かってきたので少し紹介しておきたい。

 言語学者・森博達氏は『日本書紀』全三十巻が、唐代の正格漢文で書かれた巻の集まりα群、倭習(日本語の発想に基づく漢字・漢文の誤用や奇用)に満ちた漢文で書かれた巻の集まりβ群と、どちらとも言えない持統紀の3つに分類できるとした。すなわち、巻一四~二一・二四~二七がα群、巻一~一三・二二~二三・二八~二九がβ群で、最後の巻三十はα群にもβ群にも属さないとした。
 分かりやすく喩えるならα群はネイティブ英語、β群は和製英語といった違いだろうか。安室奈美恵のヒット曲「Can you celebrate?」は作詞をした小室哲哉さんも認める和製英語。ネイティブはあまり使わない表現だという。同様にα群はネイティブ中国人(唐人)が書いた漢文で、β群は日本人が書いた和製漢文ならぬ倭習漢文というわけだ。
 森氏は注目する漢字や語句についての使用例を『日本書紀』中においてピックアップし、正しい漢文(正格漢文)の用法であるか、それとも倭習による誤用あるいは奇用であるかを分類し、中国人によって書かれた巻(α群)と日本人によって書かれた巻(β群)があると結論づけた。これは『三国志』中の「壹」と「䑓」を全数調査した古田史学の方法論と通じる学問的方法である。今や『日本書紀』研究において、このような統計的に導かれた傾向性を無視して、独自の理論を展開することは難しくなってきた。
 谷川清隆氏も森氏の研究の成果をベースとしながら、『日本書紀』中の天文記録の記事に注目した。その結果、α群の天文記事には観測に基づくものはなく、β群の天文記録は観測に基づくものと結論づけている。持統紀は特別で、1つは観測に基づくが、残りの日食記録6個はすべて予測であるとした。
 谷川氏はα群を地群の人々(唐側に味方した勢力)によるもの、β群を天群の人々(百済に味方し白村江の戦いを戦った勢力)と考察している。いわゆる、大和朝廷と九州王朝の新旧両勢力に対応するものと見なしているようだ。
 最先端の研究成果を踏まえつつ、『日本書紀』の史料批判を深めていくことで、701年(ONライン)を前後する政権交代の流れに研究のメスが入れられそうである。


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【2019/09/16 00:03 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
世の中は空しき……令和ブームの宴に興じる



 令和元年の初詣や福袋の販売など、巷では令和ブームに乗っかろうという風潮があちらこちらに見られる。オーテピア高知図書館でも、新元号「令和」の出典となった万葉集の江戸時代の写本が展示されていた。郷土史関係の本が並ぶ同館3階の「高知資料コーナー」奥にある展示室で、6月23日まで常設展示されているようだ。.


 『万葉集』は7世紀後半から8世紀前半にかけて編まれた、日本にのこる最古の和歌集。編者は不明だが、最終的には大伴家持によって、全20巻にまとめられたという説が有力だ。天平宝字3(759)年までの約130年間の歌が収められている。一万首の歌が収められているから万葉集かと思いきや、実際は約4500首で、そのうち約320首が筑紫国で詠まれたもの。量もさることながら優れた作が多く、「筑紫歌壇」という言葉さえ付けられている。
 新年号「令和」は万葉集「巻五 梅花歌三十二首并(ならびに)序」からの引用。これは天平2(730)年に太宰府の大伴旅人(家持の父)邸の梅園で催された「梅花の宴」の宴席で詠まれた32首を集めたもので、その序文にある「于時初春令月気淑風和 梅披鏡前粉蘭薫珮後香」から採ったものだ。

 「時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」
「折しも初春の佳き月で、空気は清く澄み渡り、風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている」という意味だ。
 ところで「筑紫万葉の大きな空白 倭国=九州王朝論・傍証」と題して、福岡市のいき一郎氏は次のような内容を論じている。

 『万葉集』の歌枕のない地方は筑後国、肥前南部、肥後北部であって、南北七十キロ、東西百キロにおよぶ。しかも、この地域は、杷木(はき)、帯隈山、おつぼ山、高良山、女山(ぞやま)という五神籠石群をふくんでいる。また、壁画古墳の密集する地域である。いまの地理でいえば、筑後川から有明海(筑紫海)、雲仙、阿蘇をつつみこむ。風光明眉な地方である。

 養老4(720)年、隼人の反乱の報告を受け、征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人は反乱の鎮圧にあたる。しかし、隼人の反乱というのは大和朝廷の大義名分であって、実質は九州南部へ逃れた九州王朝の残存勢力の討伐戦、いわば明治維新の際の戊辰戦争の如きものではなかったか。いき一郎氏は「万葉集の空白地帯=旧倭国の本陣のあった地域」と傍証している。
 その10年後、大宰帥であった大伴旅人邸(現在の太宰府市、坂本八幡宮)に九州全土(大隅・薩摩を含む)の官人を集め、「梅花の宴」を催していることから、九州王朝が完全に滅び、大和朝廷の天下になったと考えられる。多くの犠牲の上に新たな時代を迎えたのだった。『万葉集』巻五は、次の歌(七九三)で始まる。
大宰帥大伴卿の凶問に報(こた)へる歌一首
世の中は 空(むな)しきものと 知る時し
  いよよますます かなしかりけり

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【2019/05/04 22:17 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
一元史観の副都と複都ーー前期難波宮
 巨大な条坊制を伴う難波宮については、一元史観にとっても多元史観にとってもまだ明快な位置づけはなされていない。九州王朝説の立場から、①太宰府を首都とし、難波宮を副都とする。②首都が九州から難波宮に遷都した。ーーなどの考えができるが、どちらが首都でどちらが副都か結論が出ていない状況でも、「複都」という表現であればどちらの説にも対応可能というわけだ。

 『日本古代宮都史の研究』(橋本義則著、2018年)の第一章「藤原京造営試考-藤原京造営史料とその京号に関する再検討―」にも、一元史観の立場から難波宮の位置づけが論じられている。

 京師は漢語では、京がみやこ(都)、師がおおぜいの人々(衆)の意で、「都のうちの特に大なるもの」、すなわち首都を意味する語彙である。
 ……(中略)……
 天武八年の難波における都城の造営を前提として採られた政策が、中国思想に基づく複数制の採用であったと考えられる。……(中略)……この時難波で造営された都城が副都とされたとの明徴はないが、もはや難波における京の存在は自明のことである。

 この宮は建物がすべて掘立柱建物から成っていたが、『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であったとされる。『難波の宮』(山根徳太郎著、昭和39年)には十七次に及ぶ発掘調査の内容が記され、その全容が明らかになっていく様子が読み取れる。
 7世紀中頃(孝徳紀白雉3年<652年、九州年号の白雉元年>か?)に造営された前期難波宮を九州王朝の都であったとする根拠は、次のようなものである。
 7世紀前半において、畿内には、前期難波宮の前身となるような条坊都市は存在しない。大和朝廷の宮とするには飛躍がありすぎる。一方、7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在していた(『古代に真実を求めて第21集――発見された倭京 太宰府都城と官道』古田史学の会編、2018年)。異論はあるものの、前期難波宮にも太宰府と同様に条坊が存在した。よって、前期難波宮は九州王朝の副都であるとするのが、「前期難波宮・九州王朝副都説」である。
 この説は当初、古田史学派からも反論が多かったが、大和朝廷の副都とするにも、都市計画の連続性から見て、かなりの無理がある。前期難波宮の正しい位置づけが、ONライン(701年)前後における王朝交代の流れを明らかにする重要な手掛かりとなりそうだ。

発見された倭京
目次
001 〔巻頭言〕巻頭言 真実は頑固である 古賀達也
 l  九州王朝説による太宰府都城の研究
010 太宰府都城と羅城 古賀達也
017 倭国の城塞首都「太宰府」 正木裕
038 「都督府」の多元的考 古賀達也
054 大宰府の政治思想 大墨伸明
061 太宰府条坊と水城の造営時期 古賀達也
075 太宰府都城の年代観 -- 近年の研究成果と九州王朝説 古賀達也
087 太宰府大野城の瓦 服部静尚
096 条坊都市の多元史観――太宰府と藤原宮の創建年 古賀達也
110 「碾磑」が明らかにする観世音寺の創建 正木裕
118 よみがえる「倭京」太宰府 -- 南方諸島の朝貢記録の証言 正木裕
016 コラム1 「竈門山旧記」の太宰府 古賀達也
036 コラム2 三山鎮護の都、太宰府 古賀達也
049 コラム3 『養老律令』の中の九州王朝 古賀達也
073 コラム4 太宰府条坊の設計「尺」の考察 古賀達也
108 コラム5 大宰府政庁遺構の字地名「大裏」 古賀達也
  II  九州王朝の古代官道
136 五畿七道の謎 西村秀己
139 「東山道十五國」の比定――西村論文「五畿七道の謎」の例証 山田春廣
149 南海道の付け替え 西村秀己
153 風早に南海道の発見と伊予の「前・中・後」 合田洋一
160 古代官道――南海道研究の最先端(土佐国の場合) 別役政光
168 古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か? 肥沼孝治
 
146 コラム6 東山道都督は軍事機関 山田春廣
165 コラム7 『長宗我部地検帳』に見る「大道」 別役政光
175 コラム8 九州王朝は駅鈴も作ったか? 肥沼孝治
 
   一般論文
180 倭国(九州)年号建元を考える 西村秀己
184 前期難波宮の造営準備について 正木裕
196 古代の都城 -- 「宮域」に官僚約八〇〇〇人 服部静尚
203 太宰府「戸籍」木簡の考察 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也
 
217 フォーラム 「倭国(九州)年号」と「評」から見た九州王朝の勢力範囲 服部静尚
 
  ◎付録
224 ○古田史学の会・会則
226 ○「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
229 ○編集後記 服部静尚


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【2019/04/19 07:16 】 | ONライン | 有り難いご意見(0)
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