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2021年6月21日、夏至の極み
 2021年6月21日、夏至の日である。夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せて二至二分という。春分・夏至・秋分・冬至――このうち人類が最も古くから意識していた日はいずれであろうか?
 夏至の日はともすれば、父の日と同様、あまり気付かれないままに過ぎ去っていく。それに対して春分の日や秋分の日は国民の祝日であり、また彼岸の中日ということもあって、わりと馴染み深い。「昼と夜の長さが等しくなる日」「太陽が真東から昇り真西に沈む」といった定義は現代人には明確で分かりやすいと感じるかもしれないが、古代の人々にとってはどうだったのだろうか。
 時計がなく方位磁針もない時代に、昼と夜の時間や真東・真西というものをどう認識するのだろうか。逆に太陽や星座の観測を通してそれらを知ろうとしたことが、古代の遺跡などを調べることによって推し量ることができる。
 とりわけ三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)など縄文時代の遺跡の多くは冬至や夏至の日を意識して造られているように見える(“縄文人はカレンダーを持っていたか?”)。方位磁針があっても真東や真西は正確には見つけにくい。磁北そのものが真北とは一致していないからである。それに比べると、日の出や日の入りが最も南寄りになる冬至の日は長期間にわたって日々の観測を怠らなければ、わりと正確に割り出せることだろう。

 それは夏至の日でも条件は同じと思われるかもしれない。日の出・日の入りが最も北寄りになる日を見つければよいわけである。しかし、6月は梅雨シーズンである。雨の日が多ければ日の出・日の入りの観測は難しくなる。よって夏至の日よりは雨が少ない12月の冬至の日のほうが観測にはより適していると言えるだろう。
 『魏志倭人伝』に裴松之の注として「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす) とある。これが古代における「二倍年暦」を示唆する文献的な根拠として、古田史学では「短里説」と並ぶ一つの柱となっている。
 さて、一年を2つに分ける際に、①春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ一年とした。②冬至から夏至、夏至から冬至をそれぞれ1年とした。ーー他にも可能性はあるだろうが、大きくはこの2説に分けられるのではなかろうか。どちらが実態に即しているだろうか。
 ブログ<sanmaoの暦歴徒然草>では、次のように言及している。私も②なのではないかと考えてきたので、この意見には大いに同意するところがある。
 ただ一つ、私見を述べれば「春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である」という見解には同意できません。「暦法」は長い間、太陽年(回帰年)を「冬至から次の冬至までの日数」としてきました。それは観測方法が簡単で間違い難いからです。冬至から夏至までを「春年」、夏至から冬至までを「秋年」とした、これが私の見解です。『魏略』の「春耕秋収」によって春・秋を出発点とする考えには同意できません(文献と天文学・暦部のどちらをとるかという観点から)。
 三内丸山遺跡や大湯環状列石など、縄文時代の遺跡は冬至や夏至に合わせて造られた建造物が多い。その点から考察しても、二倍年暦では‘春一年’の始まりは冬至、‘秋一年’の始まりが夏至だったのではないか。そうだとすると「春分の日」は単に彼岸の中日となるだけでなく、冬至から夏至までの‘春一年’を真ん中で分ける日、まさに「春分の日」という言葉がピッタリとなる。
 また、春分・秋分の日とお彼岸・お墓参りが関連付けられるのは、仏教伝来以降と考えられることから、それ以前、悠久なる縄文時代においては、やはり春分・秋分の日よりも冬至・夏至の日、とりわけ冬至の日が一年の変わり目として意識されていたのではなかろうか。西洋のクリスマスでさえ、元来は冬至の祭りに上書きされたものとの話もあるように、洋の東西を問わず、冬至の日が一年の変わり目となっていた可能性が高い。その対極にあって二倍年暦のもう一方の起点になっていたのが夏至の日だったと考えるが、いかがであろうか。





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【2021/06/21 23:49 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(1)
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有り難いご意見
二倍年暦のこと
「春耕秋収」には「耕」と「収」という農業(というより「稲作」)に関連した語が使用されていますから、これが「二倍年暦」を表しているとすると「夏至」と「冬至」は「縄文時代」等「稲作以前」の「切れ目」であったとみるべきでしょう。私見では「稲作」が始まった後は「耕」するタイミングと「収」するタイミングで「切れ目」が改めて作られたとみています。それには「起点」となる日からの日数で「耕」する日を決めていたと思われ、その「起点」としてはいくつかの可能性が考えられますが、かなり最近まで「すばる」(プレアデス星団)を見て「種まき」や「田植え」を決めていたという地域もあったようですから、このような「星当て」が考えられるのではないでしょうか。(日数は「刻木」で数えていたとみています)
ちなみに以前「春耕秋収」について「貸稲の利息を計算する期間」と見て検討したものを書いたことがあります。(「「春耕秋収」と「貸食」 ―「一年」の期間の意味について―」(『古田史学会報』125号2014年12月10日に採用・掲載されたもの。)
これは当時すでに「貸稲」が集落単位で行われていたとみて、それに付随する「利息」を計算する期間として「春耕」から「秋収」までというものを「一年」としていたと考えたものです。何かの参考にしてくださればと思います。
【2021/07/04 21:39】| | James mac #1d707b923c [ 編集 ]
Re:二倍年暦のこと
大変、有益な情報をありがとうございます。

>「夏至」と「冬至」は「縄文時代」等「稲作以前」の「切れ目」であったとみるべきでしょう。私見では「稲作」が始まった後は「耕」するタイミングと「収」するタイミングで「切れ目」が改めて作られたとみています。

たしかに、縄文時代と弥生時代で暦に対する意識が変化した可能性は考えるべきだと思います。

>かなり最近まで「すばる」(プレアデス星団)を見て「種まき」や「田植え」を決めていたという地域もあったようですから、このような「星当て」が考えられるのではないでしょうか。(日数は「刻木」で数えていたとみています)

天球上の黄道付近を12等分する星座ないしは星を基準として12か月を定めたという話もあり、星の年周運動が暦や農耕と関連づけられていたことは検討すべきです。

>「春耕秋収」について「貸稲の利息を計算する期間」
>当時すでに「貸稲」が集落単位で行われていたとみて、それに付随する「利息」を計算する期間として「春耕」から「秋収」までというものを「一年」としていた

「貸稲の利息」という視点は興味深いものです。『魏志倭人伝』からも弥生時代には貧富の格差・身分制がすでに生じていたと読み取れるので、考慮すべき問題です。参考にさせていただきます。
【2021/07/05 08:41】


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