南海道土佐国における古代官道がどこを通っていたかは、いくつかの説があるものの、まだ明確にはなっていない。ただ、一つ有力視されているものとして、古代官道がのちの四国八十八カ所遍路道に連なっているとの考え方である。
高知市春野町西諸木にも雪蹊寺(33番札所)からの種間寺(34番札所)へ向かう遍路道が通っている。町内を通る遍路道は狭く、駐車警告の張り紙もある。一見、こんな細道がかつての古代官道とはとても思えない。だが、まったく可能性がないわけではない。全国的に見てもかつての古代官道の道幅が広すぎるため、後代に道を狭められたというケースが多々ある。ここ西諸木の遍路道も水路や歩道に一部が変えられているが、かつては3m以上の道幅があったのではないかと思わされるような場所もある。 それはさておき、“幕末土佐で使われた私年号「天晴」”で紹介したように、高知県内には、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」という私年号が刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。
①鎮守の森、②(通常は南北に)まっすぐ伸びた参道、③目印の鳥居ーーなど、これらの特徴が地図や地形から読み取れるものだ。だが、森神社に関しては①鎮守の森も②参道も見当たらない。かろうじて③鳥居はあるものの、遠くからは目立たない。まるで目立たないように隠しているかのようである。 けれども前を通り過ぎようとしたとき、これだというインスピレーションがあった。「森神社」と書かれた扁額などもない。それでも、すぐに私年号を刻んだ手水鉢を発見することができた。「奉献 天政元卯歳 九月吉日 惣中」――間違いなさそうである。広く使用された「天晴」ではなく「天政」という漢字一字違いの年号である。同じ西諸木にある御山所神社(御山所宮)の狛犬には「天晴元卯九月令日 氏子中」とあり、すぐ近くで漢字表記が異なるのは不思議である。どのような事情・背景があったのだろうか。 私年号「天政(晴)元年」に当たるのは慶応三(1867)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。ということは、ほぼ1年先取りして独自の改元をしたことになる。高知県人の県民性を表すものとして「いられ」という言葉がある。熊本県では「あせがり」といった言葉が対応するだろうか。とにかく待っていられない。思い立ったらすぐ行動する。坂本龍馬だけではないがぜよ。などと書くと、「ぜよぜよ龍馬は言わんぜよ」と怒られそうである。 PR |
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