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『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念エッセイ①
 「邪馬台国はなかったんだよ」
 九州の東大と言われる国立Q大の女子学生がポツリとつぶやいた。それを聞いたM氏は、「この人何を言っているんだろう」と最初はまともに受け取らなかったという。歴史を多少なりとも学んだものであれば、邪馬台国が存在しなかったなどという考えはバカげた空想にしか思えない。中国の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」に記述され、女王・卑弥呼に贈られた「親魏倭王」の金印こそ見つかっていないものの、国内における弥生時代の遺跡(吉野ヶ里遺跡など)が倭人伝の記述の信憑性を裏付けている。
 ところが、彼女が読んでいた『「邪馬台国」はなかった』(古田 武彦著、1971年)をM氏が手にして見ると、そこには従来の常識を覆すような内容が書かれていたのである。このM氏は現在、プロの家庭教師として首都圏で活躍しておられ、かつてセミナーや文筆活動を通じて、古田史学を紹介し、世に広めた人物であった。
 かく言うこの朱儒国民もM氏から古田史学を紹介され、『「邪馬台国」はなかった』を読んで、驚きのあまり、夜眠るのも忘れて朝まで読み明かしてしまったのだ。私にとってM氏は古田史学のバンガード(先導者)といった存在である。古代史に関連するいくつかの史跡などにも連れていってもらったこともあった。

 小説家の小松左京氏は「古代史論争の盲点をつく快著」と題して『「邪馬台国」はなかった』の紹介文を書いている。
 古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を最初にすすめてくれたのは、文化人類学者の梅棹忠夫先生だった。――一読して、これまでの論議の盲点をついた問題提起の鮮やかさ、推理の手続きの確かさ、厳密さ、それをふまえて思い切って大胆な仮説をはばたかせるすばらしい筆力にひきこまれ、読みすすむにつれて、何度も唸った。何よりも、私が感動したのは、古田氏の、学問というものに対する「志操」の高さである。初読後の快く充実した知的酩酊と、何とも言えぬ「後味のさわやかさ」は、今も鮮やかにおぼえている。
 また、『「邪馬台国」はなかった』の著者・古田武彦氏は次のように語っている。
 今まで「邪馬台国」という言葉を聞いてきた人よ。この本を読んだあとは、「邪馬壹国」と書いてほしい。しゃべってほしい。
 なぜなら、「台」は「䑓」の当用漢字だ。ところが、『三国志』の原本には、どこにも「䑓」や「台」を使ったものはない。みんな「邪馬壹国」または「邪馬一国」だ。それを封建時代の学者が「ヤマト」と読むために、勝手に直したものだった。それがわかった今、あなたが真実を望むなら、この簡単明瞭な「邪馬一国」を誰の前でも恐れず使ってほしい。
 『魏志倭人伝』の原典には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた――これがまぎれもない事実であり、これを論証し明言したところから古田史学が出発していった。実に半世紀前のことであった。



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【2020/07/04 01:20 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
なぜ邪馬壹国でなく邪馬台国が主流となったのか
 『魏志倭人伝』の原文には「邪馬台(䑓)国」でなく「邪馬壹国」と書かれている。「邪馬壹国」が正しいことは、古田武彦氏が著書『「邪馬台国」はなかった』の中で既に論証したことである。では、なぜ邪馬壹国でなく邪馬台国が主流となったのだろうか。
 初めて「邪馬台国」と記述されたのは范曄(はんよう、398〜445年)の『後漢書東夷伝』においてである。『魏志倭人伝』を信頼するなら「邪馬壹国」であり、『後漢書東夷伝』が正しいと考えるなら「邪馬台国」となるだろう。問題は後代の学者たちにとって、どちらがより信用できるかという点にある。
 『粱書』『北史』『隋書』などはいずれも『後漢書』に右へ倣えで、「邪馬台国」と記述した。日本の歴史家たちもまたしかり。松下見林、本居宣長、東大の白鳥蔵吉、京大の内藤湖南など、歴代の邪馬台国研究者は『後漢書』中心主義の流れの中で「邪馬台国」が正しいとして疑わなかった。
 これを喩えるなら、2000年前にイエスと洗礼ヨハネ(バプテスマのヨハネ)のどちらがより信じられるかという選択を迫られたユダヤ人たちの立場と似ている。
 イエスは嘘偽りなく真実を述べ伝えようとした。大工の子として馬小屋で生まれ、母マリヤは婚約中に身ごもったため父親が誰か疑問が持たれていた。律法と矛盾するような言動、「汝の敵を愛せ」など、当時の常識や倫理観を超越する教えを述べ伝えた。当時のユダヤ人たちの目に映ったイエスは、決して信じられる存在ではなかったのである。
 一方、洗礼ヨハネは、①当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれた(ルカ福音書1/13)。②彼の父親が聖所で香を焚いていたとき、その妻が男の子を懐胎するだろうという天使の言葉を信じなかったために唖(おし)となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった。この奇跡によって、ユダヤの山野の隅々に至るまで世人を非常に驚かせた(ルカ福音書1/8〜66)。そればかりでなく、③荒野でいなごと野蜜を食しながら修道した素晴らしい信仰生活を見て、一般ユダヤ人たちはもちろん、祭司長までも、彼がメシヤではないかと問うほどに(ルカ福音書3/15、ヨハネ福音書1/20)素晴らしい人物に見えたのである。
 クリスチャンたちはイエスの十字架の死は神の予定であったと言うかもしれない。しかし、そこには洗礼ヨハネの無知と不信があったなどとは考えも及ばぬことであった。
 このような喩えを出したのは「邪馬台国」問題にも同じことが言えるからである。当時の中国および、後の日本の歴史家たちにとって、陳寿(ちんじゅ、233〜297年)の『魏志倭人伝』と范曄の『後漢書東夷伝』のどちらがより信頼できるかという問題に置き換えることが可能である。
 『魏志倭人伝』は①里程に誇張があって信用できない。②記述された寿命が長すぎることへの疑問ーー理性的な学者たちは信ずるに値せずとの判断を下したことだろう。その先頭に立ったのが范曄であった。『魏志倭人伝』の記述をベースとしながらも、疑問とするところは自分の判断で改定し、『後漢書東夷伝』を記していった。この一見合理的とも思える范曄の記録を多くの学者たちが信用した。だが、そこには無知によるとんでもない錯覚があったことが古田氏によって指摘されている。もちろん、范曄独自の新情報を盛り込んだ部分もあったかもしれないが、多くは机上の作文であったことが露呈してきたのだ。
 一方、『魏志倭人伝』の問題点とされてきた①里程問題は「短里(1里=約76m)」の実在によって、かなり正確な実測値であったことが分かってきた。また②長寿問題は「二倍年暦」によって当時の寿命とも整合性がとれ、『三国志』全体に統一的な基準で記載されていたことが判明している。本来信ずべきは『魏志倭人伝』のほうだったのである。
 だが、これまでの歴史の大家たちは2000年前のユダヤ人たちと同じ道をたどっていった。新しい真理を受け入れることができず、かえって闇に葬り去ろうとしたのである。今一度、『魏志倭人伝』と『後漢書東夷伝』のどちらがより信頼すべき史料であるか史料批判してほしい。少なくとも3世紀当時においては「邪馬壹国」という表記を尊重すべきことはご理解いただけるのではないだろうか。もちろんそれぞれに情報価値があるので、一方を捨てる必要もないのであるが……。


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【2020/02/14 11:53 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
魏の曹操墓と大分県日田市のダンワラ古墳
 「長野県の高良神社②――千曲川流域に分布」のところで紹介した吉村八洲男氏が、以前からブログ『sanmaoの暦歴徒然草』で「科野からの便り」を連載されている。最新ニュース「中国河南省安陽市安陽県の曹操(155~220年)墓出土の鏡が、大分県日田市から出土していた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)に酷似している」との報道に関して、すぐさま「科野からの便り――真田編(四)」として論考が出された。
 この鏡は、日田市で戦前に見つかっていて、その装飾の巧みさと中国でも稀な鏡である事から、1964年に「重要文化財」に指定されている。紹介したのは梅原末治博士で、同市の「ダンワラ古墳」から発掘したものと推定されている。
 「ダンワラ」とは不思議な地名だと思いつつ、天子の「壇」が築かれた「原」ではないか、などと想像を膨らませていたところ、吉村氏の指摘はまた違った角度からのアプローチであった。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に蕨手文が施されているというのである。
 この「蕨手文様」が出現するのは、筑後地域のほぼ連続して築造された9つの「装飾古墳」の中からであり、長野県上田市真田町でも「蕨手文様」が複数発見されている。詳しくは「科野からの便り――真田編(一)(二)(三)」で確認していただきたい。
 ところで、「魏の曹操と九州の山中にある日田と何の関わりあらんや」と不思議に思われる方も多いのではなかろうか。『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』に邪馬壹国の女王・卑弥呼が魏に使いを送ったことが書かれている。
 中学1年の生徒に聞いたら、やはり239年と覚えていた。原文には238年と書かれているのに、「戦時中に使節を送ることは不可能」との考えから、終戦後の239年と修正しているのである。しかし、239年だとかえって矛盾が生じることを『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦氏が指摘している。朝鮮半島がいまだ戦乱にある中での派遣であったからこそ、魏は邪馬壹国を同盟国として信頼し、豪華すぎるほどの下賜品を賜ったのだった。


 さらに『「三国志」を陰で操った倭王卑弥呼』(斎藤忠著、2004年)では、安徽省亳州市にある曹家一族の古墳から出土した字磚(じせん)という文字の刻まれたレンガ片に注目している。元宝抗村一号墓から出た倭人字磚には「……有倭人以時盟不」(倭人が時を以て盟すること有るか)と書かれていて、この一文から、曹家が倭人と盟約関係にあったことが推測されている。共に出土した字磚には建寧三(170)年の年号が刻まれていたことにより、ほぼ同年代のものと考えられる。
 卑弥呼が魏に使者を送ったのは、それから半世紀ほど後のことになるが、当時倭国は呉・狗奴国連合と対峙しており、魏・倭同盟の成否は生命線であった。曹操は「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍に敗れるが、魏公から魏王へと位を進め、魏の基礎を築く。息子の曹丕が魏の初代皇帝となり、再三呉に攻め込もうとするが呉の水軍に苦しめられ敗走する。魏からすれば、倭国の水軍の力を頼みにしたいところもあっただろう。
 折しも9月初めに狗奴国に関する新説が出されたばかりである。「卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈」と産経新聞(2019年9月2日)で報道されていた。

 この説は免田式土器の分布図が、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察するもの。九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、狗奴国の実態に迫る学会発表を行った。魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。
 畿内銅鐸圏の国々を狗奴国と比定した古田武彦説とは異なるが、最近の考古学的成果を踏まえつつ、再検討するべき時機が来ているのかもしれない。


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【2019/09/29 02:22 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
脊振、加布里、むちゃぶり――利歌彌多弗利(りかみたふり)
  『広辞苑 第七版』(岩波書店、2018年)に新たに収録された言葉の一つに「むちゃぶり」がある。

むちゃ‐ぶり【無茶振り】

漫才などで、返事に困る無茶な話題を振ること。転じて、無茶な仕事などを振り当てること。

 ここで唐突に『隋書』俀国伝に書かれている俀国王・多利思北孤(たりしほこ)の太子の名前「利歌彌多弗利(りかみたふり)」の話題を持ち出すのは、"むちゃぶり"であろうか。多利思北孤については日本史の教科書では「日出ずる処の天子」を自称し対等外交を試みた聖徳太子とされてきたが、摂政が天子を名乗るのはとんでもないことであり、妻がいることから推古天皇にも当てはまらない。あくまでも近畿天皇家とは直接関係のない九州王朝の王なのである。

 九州王朝の倭王が中国風一字名称を名乗ったことは、『宋書』における倭の五王「讃・珍・済・興・武」に例がある。さらに邪馬壹国の女王壹與の「與」、七支刀の「旨」、隅田八幡人物画像鏡の「年」などもその可能性があるという。そうなると、倭国・九州王朝では少なくとも3世紀から7世紀初頭に至るまで、中国風一字名称が使用されていたことになる。
 そして『隋書』に見える多利思北孤の太子・利歌弥多弗利についても、「利」が中国風一字名称であり、「太子を名付けて利となす、歌弥多弗(かみたふ)の利なり」とする読みを古田武彦氏が発表している。「利歌彌多弗利」を「利、上塔(かみとう)の利」、すなわち「利」を倭語ではなく、中国風一字名称と理解したのだ。中国風一字名称であればラ行で始まっても不思議ではない。
 古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は無かったとされ、この問題をクリアする上で古田説は最有力である。しかし、シンプルな読みを捨て、「上塔」地名と結びつけたことで、不利になった点もあることを知る必要がある。新たに問題点として浮上するのは次のような疑問である。
①文法・用例的に成立する読みか。
②上塔の地が倭国の太子と縁のある地であるのか。
③北部九州は言素論から見ると「脊振(せふり)」「加布里(かふり)」など「〜ふり」地名が存在する。それとの関連性を断ち切る読み方で良いのか。

 とりわけ③については、戦国時代に龍造寺氏を苦しめたという山内の鷲・神代勝利(くましろかつとし)が活躍した佐賀県の脊振山系を眺めながら、ふとひらめいた。そういえば大学時代、週末によく加布里(福岡県糸島市)に行ったよなー。「せふり」と「かふり」、そこからむちゃぶりの「りかみたふり」となったわけだが、別に古田説に反旗を翻すつもりはない。仮説が正しいとされるためには、総合的な観点から整合性があってこそである。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に 出(い)でし月かも

 糸島市加布里付近の港から出航して、壱岐「天の原遺跡」あたりで「ふりさけ見れば」、東方に脊振山系をはじめとし、春日(福岡県春日市近辺)なる三笠の山(宝満山)が見える。「ふり」地名に囲まれた九州北部一帯こそ「利歌彌多弗利(りかみたふり)」の生まれ育った地なのではないかと思えるのだが……。古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は本当に無かったのだろうか?

           

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【2019/04/28 09:15 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
到底考えない東鯷人と鯰のつながり

 ホワイトデー(3/14)に佐賀嬉野温泉日帰りの旅をしてきた。と言っても、のんびり温泉に浸かったり、観光を楽しむためではない。のっぴきならない急用ができたためだ。
 もし、許されるものなら、研究テーマとなっていた太良町(淑人がいた「多良」はどこか?)や河上神社(佐賀県「與止姫伝説」の分析)など、寄りたいところは山のようにあった。ただ、嘉瀬川や脊振山系を見ることはできたので、ブログに書いてきたことが単なる妄想ではなかったと手応えは感じられた。また、折しもこの日に、佐賀県でも弥生時代の硯(すずり)が発見されていたことが報道されていた。

 さて、佐賀市大和町、嘉瀬川の上流に鎮座する肥前国一宮・與止日女(よどひめ)神社(別名・河上神社)には「鯰(なまず)」に由来する伝説が残っているという。『肥前国風土記』に、以下の記述がある。
 「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神鰐魚を謂ふ年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る」

 この魚がナマズと考えられており、祭神の使いであるナマズを土地の人は食べないという話を聞いていたので、本当にそうなのか、地元の人に質問してみた。
 「ああ、淀姫さんですね。長年地元に住んどりますけど、あんまり知らんとです。元々、ナマズを食べる風習自体なかけんですね」
 そう言われればそうだ。好んでナマズを食べている日本人が一体どれくらいいるだろうか? それよりは河上神社のことを本当に地元の人は「淀姫さん」と呼んでいるという事実を知ることができたのが新鮮だった。
 ナマズと言えば、後漢(一世紀前葉)の班固の書いた『漢書』地理志に、「倭人」と「東鯷人(とうていじん)」のことが対句のように記述されている。「鯷」は鯰(なまず)を意味する漢字である。

 「樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云」(楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。)

 「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」(会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。)

 古田武彦氏も「東鯷人」問題ではかなり悩み考えた跡が伺える。『邪馬壹国の論理 古代に真実を求めて』(2010年)に、次のような考察があった。
 第二字「鯷」が難関だった。“東のなまずの人”では何とも奇妙だ。……「東鯷人」とは“東の一番はしっこの人”という意味になるではないか。
 ……(中略)……
 “倭人の、さらに東の一番はしっこに当たる、とされる「東鯷人」とは何者か”――その答えは、もはや疑う余地もない――“銅鐸圏の人々”である。(P249)

 古田氏は「東鯷人」の「鯷」について、第一義的な鯰との関連を否定してしまった。意味が通じないと考えたためであろう。しかし、意外にも鯰を祀る人々は肥前・肥後を中心にかなりの広がりがあった。
 民俗学の谷川健一氏も「この東鯷人はナマズをトーテムとする人種と解することが出来る」としてこの記事に注目。「それらの住む国がどこであるか不明とされているが、強いてそれをわが列島の中に求めるとするならば、九州の阿蘇山の周辺をおいて他にはない」と『古代史ノオト』(1975年) のなかで述べている。
 阿蘇には大鯰(なまず)の逸話が伝わっていて、阿蘇神社の祭神、健磐龍(たけいわたつ)命の「蹴破り神話」とも呼ばれる。昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であったとされ、健磐龍命は湖水を流して田畑を拓くため、外輪山を蹴破る。そして湖の水は流れ出したが、大鯰が横たわり水をせき止める。健磐龍命はこの大鯰を退治し、湖の水を流すことに成功した。
 この大鯰の霊は、阿蘇の北宮と呼ばれる「国造神社」の鯰宮に祀られ、国造神社では鯰を眷属としている。『鯰考現学 その信仰と伝承を求めて』(細田博子著、2018年)を見ると、阿蘇信仰をはじめとして、九州を中心に鯰をトーテムとした信仰の広がりがあることがよく分かる。


 東鯷人についての記載は「呉地条」の最後にある。この東鯷人は会稽郡治(今の蘇州付近)を通して貢献していることから、呉国との関係が強かったことは容易に想像できる。
 古く、呉人の風俗が提冠提縫とされる。提も鯷と同様、鯰の意。すなわち呉人は鯰の冠を被るという。BC473年、呉が滅亡したことで東シナ海を渡って九州方面に逃れた人々もいたようだ。中国では倭人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。
 『漢書』地理志の記述は、呉地において「鯰」をトーテムにする人々がいることを周知の事実としながら、海の向こうにも、鯰を祀る「東鯷人」がいることを伝え、読者もそのように解釈することを予測した表記に思える。
 東鯷人を“銅鐸圏の人々”と結びつける古田説も魅力的ではあるが、「呉」との関係の深さを検討した上で、再考証を要する問題なのではなかろうか。


 

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【2019/03/27 11:18 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
春分の日に二倍年暦を考えた
 春分の日(3月21日)に『扶桑略記』を見ていたら「六十九年己丑四月,天皇春秋百歲,崩」のように「天皇春秋○○歳、崩」という記述がいくつかあった。昔の天皇は百歳も生きたのか。長生きだったんだなあ。なんてことを思う人もいるかもしれないが、この記述に遭遇して、これは「二倍年暦」なのではないかと考えた。
 『魏志倭人伝』に裴松之の注として「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす) とある。これが古代における「二倍年暦」を示唆する文献的な根拠として、古田史学では「短里説」と並ぶ一つの柱となっている。


 古田史学の会・関西例会(2019年3月16日)が大阪市中央区のエル大坂で開かれた。「『扶桑国』はどこにあったか?」「古事記を歴史書として読む」など、NHKカルチャーの講師としても名高い神戸市の谷本茂氏から「二倍年暦」モデル想定案がいくつか発表された。その中でも蓋然性の高いモデルとして、次の計算式が示されている。

「二倍年暦」モデル

基本の1年*=180日(=15日×12)[1年*=12カ月*]
5年*に1回の閏月*(=15日)を置く。
180×5+15×1=915日/年* →平均183日/年*[366日/年]
*印は「二倍年暦」における年や月

 これは一月を15日とし、一年を12か月とするモデルで、春に1才歳をとり、秋にも1才歳をとるので、今の暦と比べると2倍の年齢になる。日本の伝統行事(お盆と正月)や風習(1日、15日の月次祭)などと照らし合わせても、あまり矛盾がなさそうである。有力な考えと言えそうだ。
 三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)など、縄文時代の遺跡は冬至や夏至に合わせて造られた建造物が多い(「縄文人はカレンダーを持っていたか?」)。その点から考察すると、二倍年暦では‘春一年’の始まりは冬至、‘秋一年’の始まりが夏至だったのではないか。そうだとすると「春分の日」は単に彼岸の中日となるだけでなく、冬至から夏至までの‘春一年’を真ん中で分ける日、まさに「春分の日」という言葉がピッタリなのではなかろうか。

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【2019/03/23 22:12 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
住吉神社が『魏志倭人伝』の「一大率」とは?
 最新の「四国の高良神社分布図」(2019年2月現在)を発表したところ、「住吉神社についてはどうですか?」との質問を受けた。『古田史学会報』144号で「住吉神社は一大率であった」とする奈良市の原幸子さんの論稿がある。近畿は「住吉神社」を設置した時点から九州王朝の治世下にあったとする考察で、一見突拍子もないが、『住吉大社神代記』の分析による論拠は、一笑に付すことのできない内容がある。『魏志倭人伝』には、次のように書かれている。
 「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史」
 すなわち、女王国の北側には、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国は畏(おそ)れている。女王は常に伊都国で治めており、中国(漢、魏)の刺史(しし、監察官)のようだというのである。

 筑後国の一宮・高良大社の祭神に住吉大神が含まれており、九州王朝の水軍と関連があるのではないかというイメージは以前から持っていた。その住吉神社の分布が高知県ではどうですかとの質問の意図であろう。
 高知県のいくつかの住吉神社が浮かんだが、「資料を見てみないとはっきりは分かりません」と答えた。多いような、少ないような漠然としたイメージしかなかったが、『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)を開けば、神社数上位のランキング表があったので確認できると踏んでいた。


 ところが、実際に表を見てびっくり。10社以上のランキング表に載っていない。一桁しかないということだろうか。そこまで少ないというのは意外な気がして、すぐに数え上げることにした。その結果22社が確認できた。多いというほどでもないが、妥当な線であろう。しかし、なぜこれほどポピュラーな住吉神社がランキング表から漏れたのであろうか。
 『鎮守の森は今』は著者・竹内氏のフィールド・ワークと神社愛によって書かれた本なので、多少の漏れや間違いがあっても、文句を言う筋合いなどない。むしろ、県内の神社に関する基本資料を作っていただいて感謝するばかりである。
 調査結果としては、県内にバランスよく分布しているという状況が掴めた。一覧表を作成したので、ご
参考までに。


神社名現住所祭神
住吉神社香南市吉川町吉原住吉大神
住吉神社香南市夜須町手結底筒男命、中筒男命、表筒男命
住吉神社室戸市浮津町三筒男命
住吉神社安芸郡奈半利町横町底筒男命、中筒男命、表筒男命
住吉神社安芸市本町一丁目不明
四社住吉神社香南市吉川町吉原三筒男命、級津彦神
住吉神社南国市前浜不明
住吉神社南国市大埇船岡山底筒男命外三神
住吉神社高知市春野町甲殿上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、応神天皇
住吉神社高知市長浜三筒男命
住吉神社高知市池三筒男命
住吉神社高知市浦戸・桂浜三筒男命
住吉神社吾川郡いの町勝賀瀬三筒男命
住吉神社須崎市浜町一町目不明
住吉神社四万十市下田三筒男命
住吉神社高岡郡津野町水野筒男三柱命
住吉神社高岡郡中土佐町久礼底筒男命外四神
住吉神社須崎市上分乙樽三筒男命
住吉神社幡多郡大月町大浦三筒男大神
住吉神社土佐清水市下ノ加江三筒男神
住吉神社宿毛市山奈町山田三筒男命、神功皇后
住吉神社宿毛市小筑紫町小浦三筒男命


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【2019/03/20 10:00 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
地震学者・都司嘉宣氏の「侏儒国=幡多国」説
 ホーキング博士の宇宙論がブームであった大学時代、理学部物理学科で人気の研究室は量子力学と宇宙物理学であった。どの研究室に進むべきかと迷っていたが、敢えて誰も行こうとしなかった地震学の研究室へと進んだ。


 昔はそれほど注目されなかった分野であるが、今となっては地震や災害の専門家は引っ張り凧である。元東大地震研究所准教授の都司嘉宣(つじよしのぶ)氏は、四万十市における地震津波対策を推進するにあたってのアドバイザーであり、防災講演会を開いたりしている。高知新聞にも広告が出ている『歴史地震の話〜語り継がれた南海地震〜』(都司嘉宣著、2012年)を読むと、歴史文献に対する造詣の深さに驚かされる。

 というのも、防災を考えるには日本で起きた昔の地震を知ることが大事であり、歴史時代の地震を知るには、各地の旧家や寺社に残された古文書が大きな手がかりとなる。地震学者の都司氏にとって、本来は専門外であった膨大な古文書のデータを集め、コツコツと解読作業を続けてきた。

 その都司嘉宣氏が四万十市における防災講演会の中で、『魏志倭人伝』の話に触れたという。『魏志倭人伝』には女王・卑弥呼のいる邪馬壹国が記されており、「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」、つまり豊後水道を渡ると倭種の国がある。その南には「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」と記されている。
 都司氏は「邪馬台国=北九州」説に立ち、そこから方角、距離の記述を解き、侏儒国は幡多にあたると語った。すなわち「侏儒国=幡多国」説である。
 もしかして都司氏は古田武彦説をご存じなのではないかと思って調べてみると、やはり接点があった。古田氏が立ち上げた「国際人間観察学会」の会報『Phonix』No.1(2007)に都司氏の寄稿があるようだ。題名は「Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon」。

 さて、都司氏の「侏儒国=幡多国」説のポイントは、2004年、インドネシアのフローレス島から大人の身長1mほどの「こびとの人種」の化石(約1.8万年前、ホモ・サピエンスとは異人種)が見つかっており、このフローレス島人(ホモ・フローレシエンス)が海流に乗って幡多にやってきたという推論である。
 侏儒国には身長三・四尺(90~120cm)の人が住んでいたと記されている。都司氏は自ら四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけたというのだ。
 「猩々」とは中国の想像上の生き物で、少年の姿をして舞う赤い妖怪とも言われる。まさに「侏儒」(小人)あるいは「朱儒」(朱は赤あるいは南に通じる)の国である。


 フローレス島人と結び付けられるかどうかは今後の研究課題であるが、「侏儒国の痕跡を沖の島(宿毛)に見た 」(『なかった 真実の歴史学』第六号、2009年)と題する合田洋一 氏の論稿にも「侏儒国=幡多国」説を補強する有力な論拠が示されている。

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【2019/02/28 23:48 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
邪馬壹国の女王・卑弥呼は佾(いち)か?

 『「邪馬台国」はなかった』(昭和46年)が出版される時、著者・古田武彦氏も悩んだという。『三国志』全体の中に「壹(いち)」は86個、「臺(だい)」は56個あった。誤謬率の統計的調査を行なったのである。その結果、「臺→壹」の形の誤記は生じていないことが確認されたのだ。すなわち『三国志』の原本には「邪馬壹国」と書かれていて、3世紀の段階では“邪馬台国はなかった”のである。
 商業主義に立つ出版社はインパクトのあるタイトルとして「邪馬台国はなかった」を提示した。しかし、後の時代には天子の居所を意味する至高文字「臺」のインフレーション現象が起きる。『後漢書』における「邪馬台国」の表記がそれである。
 タイトルの「邪馬台国」にカギ括弧が付いたいきさつは、そのような内容だったと聞いている。つまり卑弥呼の時代、3世紀段階では邪馬台国はなかったという限定的な表現を込めたのだ。ではなぜ「壹」という字を国名としたのだろうか。古田氏は「二心(ふたごころ)無き忠誠心」を表す漢字として「壹」を使用したと考えた。

 この考えには反対ではないが、「壹」にはもう一つの意味があるのではないかと最近、考えるようになった。高知県では神に仕える巫女のことを、かつては「佾(いち)」と呼んでいた。『長宗我部地検帳』をはじめ、古い文献には時折り登場する。『魏志倭人伝』に「名を卑弥呼と曰い、鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わす」と描かれた邪馬壹国の女王・卑弥呼(ひみか)はまさにこの「佾(いち)」に相当する女性である。邪馬(やま)国の「いち」が治めた国なので邪馬壹国(やまいちこく)と呼んだのではないか。より実態に即した命名のように思われる。

 卑弥呼ならびに壹與の時代はまさに「邪馬壹国」だったのであろう。その後、再び男王の時代に戻ったと考えられるが、そうなると既に「いち」の国ではなくなったことから、邪馬壹国という国名は使われなくなったとするのが理にかなっているように思われる。

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【2018/12/13 08:11 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
吉野ケ里環壕は水路であった

 古田史学の会・関西例会で「弥生環濠集落を防御面で見ることの疑問点」というテーマで、
大原重雄氏から、吉野ヶ里遺跡の環濠集落は「環濠」や「土塁・柵」が考古学者の誤った解釈により誤「復元」されたものであり、土塁や柵の存在は確認されておらず、防衛のために集落を囲んだとされた「環濠」は川から集落へ生活用水を取り込むための流路(人工河)、あるいは洪水に備えた治水設備とする見解が紹介された。
 ホームページ「吉野ケ里歴史公園」によると次のように紹介されている。

 発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mです。
 堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため、壕の外に土塁が存在したものと考えられます。
 環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭、南内郭に比べて規模が大きく、深く中世の城郭に見る「空堀」のような状態であり、防御的性格の強い施設と想定し、土塁上に柵列を設けました。

 「防御的性格の強い施設と想定し」とあるように、復元された「土塁」やその上の「柵」が実際は出土していなかったというのだ。吉野ヶ里は弥生時代の遺跡であり、『魏志倭人伝』の「倭国大乱」と結び付けられ、防御施設と空想されたものではないだろうか。

 一方、多元史観に立ち、吉野ヶ里を邪馬壹国の水軍の拠点の1つと見なした場合はどうだろうか。弥生時代の舟が行き来する水路として十分な幅と深さがあるように思われる。ただし、水を蓄えない空堀であったとの主張もあるので、妄想に走り過ぎないようにしたい。
 吉野ヶ里遺跡は弥生時代の終わりと共に終焉を迎える。船の巨大化に伴って水軍の拠点が嘉瀬川流域へと移行していったのかもしれない。倭国の中枢と考えられる筑後から、古代官道が吉野ケ里を経て佐嘉郡国府方面へと伸びている。

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【2018/11/21 14:33 】 | 魏志倭人伝 | 有り難いご意見(0)
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