南国市篠原の埋蔵文化財センターで、弥生時代の硯(方形板石硯)6点が期間限定で公開された。「百聞は一見に如かず」――本当に硯として使われたのか、直接見てみることにした。 第一印象はとても小さいということ。現代人が書道で使っている海(墨汁を溜める部分)付きの重量感あふれる硯のイメージとは似ても似つかない。こんな物で墨を摺って文字を書くのに役立つのだろうか。ちょっと使いづらいのではないかと思われた。中には厚さ3mmという超薄型の物もあるのだ。 従来は刃物を研ぐ砥石(といし)と考えられてきた出土物(石の破片)が、弥生時代の硯と再評価される事例が九州北部を中心に相次いでいる。砥石でなく硯と判断した根拠はどこにあるのだろうか。福岡県朝倉市にある弥生時代の遺跡 「下原遺跡」 で見つかった石の破片に関しては、次の3つの理由が示されている。 ①漢時代の硯と似た形――中国の漢の時代に使われていた古代の硯は現代の硯と違い、墨を入れるくぼみがなく板状になっている。下原遺跡で見つかった石の破片も平らで細長く、漢の時代の硯と形がよく似ている。 ②黒い付着物――石の側面に黒い付着物が付いていた。これを表面から垂れた墨と見なした。 ③表面のくぼみ―― 刃物を研いだ場合、石の表面の全体が緩やかなカー ブを描いてすり減っていく。しかし石の表面は、中央あたりだけにくぼみがあることが分かった。国学院大学の柳田康雄客員教授らはこれまでにも、九州北部を中心に、弥生時代から古墳時代にかけての砥石と見られていた石を再調査。その結果、130点に上る硯を発見している。高知県の場合についても、それらの事例を参考に、柳田さんが同様の鑑定を行ったようである。その結果、次の3遺跡の出土物の中から方形板石硯が見つかった。
高知県内で弥生時代の方形板石硯が確認されたのは今回が初めてだ。とりわけ古津賀遺跡群(四万十市)出土の方形板石が最古と見られ、最多の4点が見つかったことから、「弥生時代の後期の初め頃(紀元前後)高知県の一部の地域で文字を理解していた人がいた可能性」について公式発表した。また、祈年遺跡と伏原遺跡から各一点見つかっており、「弥生時代後期末(3世紀後半)には高知県の中央部の2ヵ所の遺跡で方形板石が確認され、後期の初め頃よりも文字が浸透していた可能性」についても言及している。 『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」について、古田説では足摺岬付近としている。縄文時代においては、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心に石鏃(せきぞく)等の遺物が数多く出土していることから、その妥当性は高いであろう。けれども、弥生時代の遺跡の分布は四万十川流域に集中していることから、その時代における中心は四万十川流域に移っていると考えられる。 『魏志倭人伝』に国名が登場するということは、北部九州に比定される邪馬壹国の中枢部と文化的交流があった可能性は高い。文字使用の形跡はその状況証拠の一つになるものだ。その意味でも弥生時代の硯、とりわけ古津賀遺跡群出土の厚さ3mmという方形板石硯は福岡県糸島市の御床松原遺跡以外では見つかっていない薄型で規格性の高いものである。 「日本列島で文字が使われたのはいつからか?」 諸説あるが5世紀頃には確実に使われていただろうと考えられてきた。しかし、5世紀よりも前の弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した「石の破片」が歴史教科書の記述に変化をもたらすことになりそうだ。最新の研究成果や知見に基づいて報告済みの資料を見直すことで、新たな価値の発見につながる。いわゆる「弥生時代の硯」の登場によって、文字使用の時期が大きくさかのぼるかもしれない。それだけでなく、高知県の古代史についても稲作開始だけでなく、文字使用においても北部九州に次いで早い時期に始まった可能性をも検証していく必要がありそうだ。 今回発見された弥生時代の硯(方形板石硯)は現在、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示中である。 PR |
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