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安芸市の条里制水田に九州王朝系蘇我氏が関与

 よく飽きもせず、また安芸市の話題である。高知県安芸市と蘇我氏と何の関わりあらんやと思われるかもしれないが、『安芸市史 概説編』(安芸市史編纂委員会、昭和51年)に、次のように書かれている。

 壬申の乱(六七二)で左大臣蘇我赤兄が土佐国安芸に配流されたということが、伝説のままに昔からあまねく知られている。……(中略)……吉野に隠遁した大海人を警戒し蘇我赤兄、中臣金が兵備を整えていたのを中傷するものがあり、大海人はこれに激して大伴吹負や河内の国司などの応援を得て兵を挙げ、吉野を出て伊勢、美濃の兵を募り不破の一線で天皇の兵を撃破、天皇は瀬田に敗れて山崎で崩御、大海人が皇位を継いだ。これが天武天皇である。大海人に抵抗した中臣金は斬に処せられ、蘇我赤兄、蘇我果安、巨勢巨比は流刑になったが、この時赤兄が流されたのが土佐国だと伝えられたのである。
 蘇我赤兄の土佐流謫は国史に明記されたものでなく、あくまでも伝説であるが、この伝説の因となったものは安芸家系図(土佐国名家系譜所蔵)である。すなわち赤兄について「左大臣、天武天皇白鳳元年八月土佐国に配流さる。裔孫是より代々安芸に住み、安芸一円並びに夜須大忍庄を領す」とあるのがそれであって、そのことが後代にあまねく伝えられたものらしい。(P14~15)
 ここに登場する安芸家とは、戦国時代に長宗我部元親と覇権を争って敗れた安芸国虎の家系(“ 橘系安芸氏と蘇我氏との関係”参照)である。居城とした安芸城は、今注目されている瓜尻遺跡の東方にある。蘇我氏を先祖とする安芸氏に関する伝承があることは知っていたが、これまであえて触れることはしなかった。家系図や伝承といった類は史料としては信頼度が低く、それを論証の中心に据えることは危険なのである。

 だが、これまで見てきたように、瓜尻遺跡をはじめとする発掘データと安芸条里の存在や地名遺称、周辺寺社の由緒、先人による郡家比定の論文などを検討していくと、一つのイメージが浮き彫りになってくる。蘇我氏を先祖とする安芸氏の伝承が歴史的事実を反映したものであるということだ。蘇我馬子の孫である蘇我赤兄個人につながるかどうかまでは特定できないものの、蘇我氏系の勢力が安芸地方に入ってきていたとすれば、これまで疑問とされていたことがよく説明できるのである。
 蘇我氏について、高校の日本史教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2017年)には「6世紀中頃には、物部氏と蘇我氏とが対立するようになった。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権を握り、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた」と記述されている。また「斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の三蔵(みつのくら)を管理し、屯倉の経営にも関与したと伝えられる」との注釈もある。
 屯倉(みやけ)とは朝廷の直轄地であり、朝廷の重臣・蘇我氏は西日本から中部地方にかけての屯倉の経営に関わっていたことが、『日本書紀』の記述からもうかがえる。倉本一宏氏は『蘇我氏—古代豪族の興亡』(2015年)の中で、次のように説明している。
 蘇我氏は「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田、須恵器、綿、馬の飼育の技術など大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって政治を主導することになった。
▲安芸城跡から安芸平野を臨む

 安芸川右岸の安芸平野には広大な条里制水田が出現し、条里の中央付近に「ミヤケダ」という地名遺称がある。『和名類聚抄』に見える丹生郷・布師郷・玉造郷・黒鳥郷などが現在の安芸市に比定され、人口が集中していたと考えられる。安芸条里の北辺には水路や護岸施設とともに、最大級の古代井戸の存在が瓜尻遺跡(7世紀)の発掘によって明らかになった。また、近くには古代寺院があったことも推定されており、出土した素弁蓮華文軒丸瓦が、やはり7世紀ごろの創建を示している。西隣りの地名は「井ノ口」であり7世紀後期の一ノ宮古墳が存在する。

 蘇我氏は崇仏派であり、古代寺院の存在と後に延喜式内社として記載されるような歴史の古い神社が安芸市にないことも理解できる。渡来人の技術集団による条里制水田の開発と屯倉の管理。『平家物語』にも「ここに土佐の国の住人安芸郡を知行しける安芸大領実康が子に安芸太郎実光とて、およそ30人が力頭たる大力の剛の者、われに劣らぬつわもの一人具したりける、弟の次郎も普通には勝れたるもののふなり」とあるように、安芸郡家の大領が蘇我氏を先祖とする有力豪族の流れを汲んでいたとすることは理にかなっている。
 ところで、「倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)」と日本史の教科書にもあるように、蘇我氏は『日本書紀』では悪役として描かれている。
 『日本書紀』は大和朝廷の正当性を主張する性格の歴史書でもあるので、大和朝廷と対峙・敵対する勢力について悪く描かれることが随所に見られる。
倭とは当時九州を中心とした国家であり、多元史観の研究者からは蘇我氏は九州王朝の重臣であったとする指摘がなされている。これまでの考察から、安芸条里を開拓した九州王朝系の勢力こそが蘇我氏一族の流れを汲むものであった。
 安芸川左岸の郡衙比定地の北には蘇我神社が鎮座する。付近の安芸市川北小字横田には「厩尻」という地名も残っていて、須恵器・土師器・勾玉・杭列などを多く発見する遺物包蔵地でもある。また、安芸川上流の畑山地区には「水波女命 、敏達天皇 、蘇我赤兄 、蘇我乙麻呂」を祭神とする水ロ神社も存在し、古くから雨乞いの神として信仰されている。
 家系図や伝承のみを根拠とするのは危険であると言ったが、周囲の遺物・遺構の出土状況と歴史的経緯などを踏まえると、それらが荒唐無稽ではなかったことが判明してくる。いやむしろ、九州王朝系蘇我氏の安芸地方への進出は、蘇我赤兄よりも古かったのではないかとの印象さえ受ける。公式的な見解よりもかなり先走った内容を発表しているので、さらに今後の研究の積み重ねが必要となってきそうだ。



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【2021/04/25 11:34 】 | 教科書 | 有り難いご意見(0)
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