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朱鳥二年の天満宮宝刀はいずこへ③ーー朱鳥は九州年号なのか
 「朱鳥」は『日本書紀』にも書かれているから九州年号などではなく、れっきとした大和朝廷の年号だと主張する人がいるかもしれない。
 「朱鳥元年(686年)秋七月己亥朔(中略)戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮」(天武紀朱鳥元年七月条)
 天武天皇十五年に突然、改元されて「朱鳥」に年号が変わったと書かれている。『日本書紀』の記述を絶対視するなら、朱鳥は元年のみで、翌年から持統天皇の治世になる。

 多少なりとも『日本書紀』の知識がある後世の人物であれば、「朱鳥二年」といった架空と思える年号を刀剣に刻むはずがない。にも関わらず、『皆山集①』によると潮江天満宮の宝刀には「朱鳥二年八月北」と刻まれていたのである。
 一方、九州年号を記録した史料『二中歴』では、686〜694年まで九年間「朱鳥」が続いている。また、『万葉集』の中には「日本紀に曰く」という形でいくつか引用があり、それによれば「朱鳥」年号は少なくとも「七年」までは続いていたと考えられる。
 そのほか「朱鳥」年号は『一代要記 』『會津正統記』など、複数の史料に確認されることから、その実在性は高いとされる。そうなると、潮江天満宮の宝刀に刻まれた「朱鳥二年」の銘はますます同時代性を帯びてくる。
 似たような事例として、「鬼室集斯の墓碑」問題がある。滋賀県大津に鬼室集斯(「白村江の戦い」前後に活躍した百済の将軍「鬼室福信」の子息で、日本に亡命)の墓にも「朱鳥三年戊子十一月八日」という年号が彫られているという。
 いや待てよ。『万葉集』では「右は日本紀に曰く朱鳥七年癸巳の秋」(巻一雑歌作三十四の左注)と書きながら、『日本書紀』の方に「朱鳥七年」は無いんですけど……。この矛盾どうするの?
 当然の疑問である。『日本紀』=『日本書紀』かどうかは諸説あるようだが、書物というものは版を重ねるごとに間違いが訂正されたり、表現が洗練されたりするものである。『日本紀』の段階で朱鳥年号が実際に数年間用いられていたものが、『日本書紀』として校正される段階で、大和朝廷の正史として「九州年号」を用いるのはイデオロギーに合わないとし、カットされたと考えれば理解できる。
 ではなぜ「朱鳥元年」だけ残されたのだろうか。直前に出された「徳政令」(借金の利息と元金とを免除する詔勅)の発布と朱鳥改元がセットだったからとする古賀達也氏の指摘(「朱鳥改元の史料批判」;古田史学論集『古代に真実を求めて』第四集、二〇〇一年)がある。「白鳳大地震」による被災者を救済するための「徳政令」を政権が変わったからと言って、なかったことにはできない。九州王朝の後を引き継いだ大和朝廷の政策上、消すことのできなかった「大化」「白雉」「朱鳥」は残さざるを得なかったというのだ。
 潮江天満宮の宝刀には歴史の謎を切り開く力が隠されていた。果たして、「朱鳥二年の天満宮宝刀」はいずこへ行ったのか。


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【2020/04/29 11:06 】 | 九州年号見つけた! | 有り難いご意見(0)
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