高知市の西、土佐市家俊に有限会社天草工業という建設会社があるのを見かけて驚いたことがある。なぜかというと、私の兄弟は熊本県の天草工業高校を卒業しているからだ。きっとここの社長さんも天草出身で、天草工業高校の卒業生なのではないかと想像が膨らんだ。 その確認は出来ていないが、『探訪』創刊号(仁淀川歴史会、平成26年)掲載の"「土佐市家俊」の村"と題する尾崎糺氏の論考が気になった。次のような内容が紹介されている。
戸波の小字「家俊」の地名の由来は「家俊大良衛門」という姓によったもので「ジャコメ大矢野又十郎家俊」の名前に由来するのではないと考える。 豊臣秀吉は、初めキリスト教の布教を認めていたが、1587(天正15)年、九州平定におもむき、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付していることを知って、まず大名らのキリスト教入信を許可制にし、その直後バテレン(宣教師)追放令を出して宣教師の国外追放を命じた。 秀吉がキリスト教に対して強硬な態度を取るようになったいきさつについては、土佐国も無関係ではない。 1596(慶長元)年、土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の乗組員が、スペインが領土拡張に宣教師を利用していると証言したことから(サン=フェリペ号事件)、秀吉は宣教師・信者26名を捕えて長崎で処刑した(26聖人殉教)。その背景には、日本への布教のため進出したスペイン系のフランシスコ会とイエズス会との対立もあったとされる。 大矢野島は現在上天草市となっているが、江戸時代初期に島原・天草一揆(1637年)の火種となったところである。バテレン追放令後も大矢野一族は信仰を守り続け、大矢野島は天草におけるキリスト教信仰の中心地として栄えた。この大矢野氏の庇護があってこそ、天草(益田)四郎時貞が神の使者として出現し、宣教師が残した預言の成就を人々に印象付けることとなった。 その大矢野一族の一人である大矢野又十郎家俊なる人物が、豊臣秀吉により天草島立ち退きを命じられ、四国へ渡り、土佐国高岡郡戸波村にやってきたというのだ。 尾崎糺氏も「遠い肥後の天草より戸波村家俊に流れてきたキリシタン、『ジャコメ大矢野又十郎家俊』が長宗我部軍団の一員となりカタバミの旗の下で戦国の世を生き抜く姿はロマン漂う」と述べているように、これが歴史的事実であるとは一見信じがたい。 はたして熊本と高知との歴史的なつながりはありやなしや? 大矢野又十郎家俊が肥後から土佐へやって来たとする根拠はどこにあるのか。それを事実と肯定するに足る整合性は存在するのか。「論理の赴くところへ行こうではないか。たとえそれがどこであろうとも」――後編ではそれらについて、深く掘り下げて考えてみたい。(後編に続く) PR |
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