高知県土佐市に家俊という小集落がある。初めて聞いた時から地名というより人名のような印象を受けていたことは、まんざら筋違いでもなかったようだ。「家俊之村」は中世織豊期にみえる村名で、天正17年(1589年)の戸波地検帳に戸波郷の小村として記され、かつて家俊名があった。土佐市役所は高岡町にあるが、家俊は西部地域(戸波)の中心をなしている。この家俊に天草のジャコメ大矢野又十郎家俊が定住し開発したというキリシタン伝承がある。 天正年間、天草から土佐に移住したキリシタン大矢野又十郎家俊のことは、高岡郡須崎町(現須崎市)矢野家文書の中に見えるという。 すなわち、先祖は蒙古襲来(1274年文永の役、1281年弘安の役)のとき、肥後の菊池武房や竹崎季長らと出陣した大矢野種保・種村兄弟につながるという。兄弟の活躍は『蒙古襲来絵詞』にも描かれており、種保・種村兄弟は種能の子孫とみられる。また、絵詞には種保・種村兄弟らが桐の紋を打った旗を掲げて異国の敵に打ちかかっている様子が描かれている。
この矢野家文書に書かれている事はどこまで信頼できるのだろうか。熊本県の大矢野島にはキリシタンに関する報告はたくさん残っているが、天正年間にキリシタンが土佐国に追放されたといった事例は見当たらないようだ。 文書によると、島原・天草一揆の指導者であった森惣(宗)意軒は又十郎家俊からキリスト教の秘伝を伝授されたとある。小西行長にも仕え、大坂の陣では真田信繁の軍について戦うが落城し、肥後国天草島へ落ちのび、天草四郎の右腕となった人物だ。熊本県上天草市大矢野町中柳地区には森宗意軒神社もあり、「五三桐紋」が掲げられている。 ルイス・フロイスの『日本年報』のオオヤノドノ(殿)ジャコメの欄には、天草領主ドン・ジョアン天草種元の甥であると報ぜられている。この人物が土佐へやって来たのだろうか。 又十郎家俊は「キリスト教に深く帰依し邪法(マホウ)を諸人に行う」というのが彼の天草立ち退きを命ぜられた理由である。天正15年秀吉の宣教師追放令が発布され、天草の会堂が破壊されても天草はかえってキリシタンの盛時を迎え、キリシタン人口は3万人にも達した。キリシタン大名小西行長の支配となったこともあり、キリスト教の取締りは不徹底に終わった。 一方、土佐ではキリシタンとなった幡多郡の一条氏は長宗我部氏に滅ぼされ、江戸時代になって山内家の治めるところとなったが、とりわけ島原・天草一揆以降はキリシタンに対する取り締まりはさらに厳しくなった。 そのような中にあって一揆の首謀者との関係を示すような文書が矢野家に存在しているということは非常に危険なことである。ずっと後代ならばまだしも、迫害の厳しい時代にそのような文書を偽作するとは到底考え難い。 問題は別にある。大矢野又十郎家俊が土佐に移り住んだのが天正15年(1587年)以降だとすれば、検地の時点と近すぎるのである。『長宗我部地検帳』には「家俊之村」とあるが、他国から来て1、2年程度ですぐに地名に反映し、「因テ戸波村ニハ家俊ト称ス小部落有リ」としているのはこじつけのように思える。 『探訪』創刊号(仁淀川歴史会、平成26年)掲載の"「土佐市家俊」の村"と題する論考の最後に、尾崎糺氏は「戸波の小字『家俊』の地名の由来は『家俊大良衛門』という姓によったもので『ジャコメ大矢野又十郎家俊』の名前に由来するのではないと考える」と付け加えておられる。移動の時期が間違っていなければ、もっともな推論である。地検帳に複数見られる矢野氏の大元の先祖とはなり得ず、一家系の先祖にすぎないことになるだろう。家俊小学校の卒業生名簿を見ても、約5分の1程度が矢野姓である。 しかし、「土佐の豪族片岡氏のルーツは平氏か源氏か?」で言及したように、伝承より事実はもっと古かったということもあり得る。公の歴史に現れない家伝が、有名な表の歴史によって付け足され、補強されることがあるからである。もしかしたら、キリシタン云々を抜きにして、さらに古い時代に土佐へ入国した矢野氏の祖となる大矢野氏がいたのではないだろうか。「戸波の家俊は、キリシタン伝承の話題となっているが、宗教的な遺跡はまだ発見されていない」と『増補版・土佐とキリシタン』(石川潤郎著、2002年)は述べている。 PR |
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