歴史の研究においては、自然科学のように明快な解答が出ることは少ない。土佐国高岡・吾川両郡の北部地方に中世、勢力を伸ばした豪族片岡氏の出自と土佐入国の時期については大きく2説に分かれる。 平氏説(八幡荘伝承記・片岡物語等)桓武天皇の三代目高望(八八九年)平氏を賜り、その十一代目の経繁は上野国(群馬県)中野荘片岡城主で、坂東太郎と名乗り平清盛の家人であった。源氏説(高吾地方の片岡氏家系図等)桓武天皇より百余年後、宇多天皇の二代目雅信(九二〇年)源氏姓を賜るものと、醍醐天皇の子高明(九二〇年)第一源氏姓を賜るものとあり、この両者を始祖として数代続いた後、忠綱より以後は同一となり上野国片岡郡に食すとある。源氏説では応永十八年(一四一一年)十二月、片岡左衛門大夫直綱のとき土佐の新居浜(現土佐市)に上陸し、仁淀川を遡上し、徳光村(現越知町片岡)に落ち着く。また別家の系図には、足利義政に仕え、応仁の乱の忠勤により地頭職として文明年間の初め(一四七〇年頃)土佐に入国し、吾川郡小川郷徳光村に住むというものもある。 平氏説、源氏説ともに直綱以後は同一であり、それから七代続き、光政が九州大分の戸次川の戦で戦死したため豪族としては絶えた。 問題はこの応永十八年(一四一一年)土佐入国説なのだが、『佐川史談 霧生関38号』(佐川史談会、平成14年)に「豪族片岡氏の土佐入国の考察」という中山半氏の論考がある。 片岡氏によって創建されたとされる天忠寺に関して、中山氏は明徳四年(一三九三年)土佐国吾川郡波川(現いの町)に生まれた僧・義天玄詔との関わりに注目した。天忠寺の創建年月について「義天の記録から推測して南北朝時代末期、少なくとも応永年間以前であることは否定できない」とし、「源氏説の直綱の土佐入国以前に天忠寺があり、それに肩入れした豪族片岡氏が存在したことは明らかである。従って源氏説にいう片岡直綱が初めて土佐に入国したということはあり得なかった」と中山氏は結論づけている。 調べてみると、伝承よりも事実はより古かったということは他でも聞いたことがある。「応永十八年直綱の土佐入国説」も何らかの事実を反映した内容があるかもしれないが、土佐の片岡氏の歴史はもっと古くから連綿と引き継がれていたと考えるべきだろうか。 最後に『越知町史』(越知町史編纂委員会、昭和59年)の見解として「片岡氏の系譜について」(P296)と題する内容を引用しておく。
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