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 『日本書紀』の編者は『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼や壹與の業績を神功皇后の手柄として取り込もうとした(“高良玉垂命の業績が神功皇后紀に取り込まれていた”)。『日本書紀』の編者は海外の史書などにもよく目を通していたようである。そして倭人伝に「橘有り」と記述されていることも知っていた。

 邪馬壹国が北部九州であるならば、このとき魏の使いが見た橘は、当然九州に自生していたものであろう。勝手な推測かもしれないが、弥生時代には奈良盆地をはじめとする畿内の内陸部には、タチバナは自生していなかったのではないか。古来中国と外交関係を持っていたと主張したい大和朝廷にとっては、どうしてもこの矛盾を埋める必要があったという。

 『日本書紀を批判する――記紀成立の真相』(古田武彦/澁谷雅男【共著】、1994年)によると、垂仁天皇の時代である「一世紀の半ばに田道間守は橘を採りに行って持って帰っているわけです。だから倭人伝のいう通り、三世紀には橘があります、という話になっている」とうまく時代設定しているというわけだ。
 しかし、全くの無から話を創造することは難しい。もともとあった話をベースとしながら、ただ「時じくの香の木の実は今の橘なり(今謂橘是也)」と解説を入れるだけで、見事に『魏志倭人伝』との整合性を取り持とうとした。では本来の話はどのような内容であったのだろうか。
 ①田道間守は非時香菓を常世国から持ち帰った。常世国は「海外の国」とされ、『日本書紀』神代上に少彦名(スクナヒコナ)命は大己貴(オホナムチ)命との国作りの後、熊野の御崎から「常世郷」に帰っていったとされる。
 ②田道間守は非時香菓を常世国から持ち帰るのに10年もの年月を要した。垂仁天皇の年齢(140歳で崩御)からしても二倍年暦の時間軸で描かれた物語と考えられることから、今の暦では5年間に相当する。
 ③「常世国」「非時香菓」の語義から連想されるのは、常夏の国や一年中果実が実る赤道直下の国といったイメージだろうか。
 ①~③の条件によく適合する話が『魏志倭人伝』の中にある。
 「又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至」(又裸国・黒歯国有り、復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し)
 『魏志倭人伝』の最後を飾る文章である。倭人伝に記述された一年は二倍年暦であり、現代の暦では半年に相当するものとし、古田武彦氏は「裸国・黒歯国」を南米大陸のエクアドル付近と比定。その基点となる「侏儒国」を四国の西南端、足摺岬(高知県)の周辺とみなしている。
 田道間守が常世国から「非時香菓」を持ちかえった話が、この『魏志倭人伝』の記述と何か関連があるのだろうか。それとも単なる荒唐無稽な作り話だったのか。さらに踏み込んで考えてみることにしたい。


 

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
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