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徳島県の高良神社③ーー三好市山城町佐連

 西日本豪雨災害から1か月。片道交互通行の道路を抜けて3番目の高良神社(祭神・武内宿禰)探しに向かう。伊予川(銅山川の徳島側の呼称)をさかのぼり、迂回路を通って山城町佐連カジヤ谷へ。地名からすると製鉄との関係があるかもしれない。近くの銅山川では古くは砂金も採れ、鉱産資源が豊富だったことが伺える。

 郵便配達のバイクと競争するように西へ移動して行く。愛媛県との県境に近い山間の集落で、案内板も見当たらない。よっぽど郵便屋さんに聞いてみようかとも考えたが、忙しそうでそのタイミングを逃した。
 途中、四所神社に立ち寄った。この地域では中心的な神社と見える。多くの場合、高良神社は八幡神社などの境内社として合祀されている事例が存在するが、徳島県ではまだ境内社としての高良神社は目にしていない。
 さらに奥へと進むと閑静な山林の中に神社があった。境内を流れる小川が神の世界と人の世界を分けているようだ。社名がどこにも見当たらないが、ネット上で見た覚えのある風景。確認はできていないが、おそらく高良神社だろう。

 裏手に回ると、超急峻な石段の上に本殿が……。その左手に壊れてしまっているが、摂社らしき跡もあった。

 徳島県は急峻な斜面が多いため、石垣を積み上げる技術が不可欠であるが、近年その技術が失われつつあるとも聞く。その一方で石垣を積み上げる技術を復活させようと取り組んでいる人もいる。歴史ある神社等を維持していく上でも大切なことである。あちこちで崖崩れしている被災地を目の当たりにして、つくづく思った。自分の意思とは裏腹に、山間部へ導かれたのも深い意味(単に「山の日」だからではなく)があったのかもしれない。

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【2018/08/11 23:29 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
徳島県の高良神社②ーー三好市山城町末貞
次に目指したのは山城町末貞の高良神社。地図に示された場所はかなり山の上。いつもながら細い山道が気にかかる。
 途中、大歳神社に出くわし、昨日、美馬市の天都賀佐彦神社で見た五角柱と同じ物を発見した。社日(しゃにち)といい、五柱の神名を刻んだ石碑で、出雲の神社に多く見られるという。合格祈願で神社興しに役立つのではないかとのアイデアも浮かぶ。
 後で知ることになるが、この大歳神社(と寄木神社)は高良神社と共に昭和27年、同町に鎮座する伊邪那岐神社(山城町下川東449)の飛び地境内社とされている。
 集落を上へ上へと登る。目的の神社が見つからない時は思い悩むが、発見した時の喜びはひとしお。「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ」(箴言13・12)である。 この日、2つ目の高良神社(末貞字的場242)を発見。鳥居をくぐる前から虻(あぶ)に付きまとわれ、歓迎されていないのではないかとの思いになる。
 右手側に摂社らしきものがあるが、何も書かれていない。近所の人の話によると右隣りは八坂神社で、京都から御札をもらってきているとのこと
 ふと、高知市鏡の「コウラ」という場所に建つ八坂神社
のことを思い出した。一体、高良神社と八坂神社が置き替わるなどということがあり得るのだろうか? 当初は半信半疑であったが、今目の前に、いわれの分からない高良神社と、京都から勧請された八坂神社とが並んでいる。この二社の位置づけが、将来どうなっているか分からない。

 昭和34年発行の『山城谷村史』によると「享保8年3月1日の創建にかかり聖午王と称した。明治5年2月3日改称」、旧午王が高良神社(祭神・武内宿禰)となった。
 牛頭天王(スサノオノミコト)と高良神社は直接的な関係はなさそうだから、高良大明神(同町内、他の三社は旧高良大明神)が祀られていた所に、牛頭天王が江戸時代に勧請されたと考えるべきか。
 明治維新による神仏分離および名称変更の際、高知市鏡梅ノ木の事例とは逆のコースをたどったようである。喩えは悪いが「軒先貸して母屋取られる」とはならなずに済んだと思われる。この辺りはもう少し調査が必要かもしれない。


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【2018/08/11 20:47 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
徳島県の高良神社①ーー三好市山城町相川
  徳島県の高良神社は徳島市に2社、山城町に2社の計4社の存在が分かっていた。西日本豪雨災害から1か月。山間部は土砂崩れで、その傷跡が各地で見られる。
 当然今回の調査は徳島市と決めていた。ところが神様事は人間の思惑通りには運ばないものである。前日の天都賀佐彦(あまつかさひこ)神社を調査した流れから、何故か三好市に導かれてしまった。
 
 日が昇る前から場所探し。相川に来てみると杖立神社の案内の矢印が道中にある。とりあえず矢印に従って行くと山中の剣神社と金毘羅神社が見つかった。その間の道が杖立神社道となっており、車両通行禁止。
 グーグルマップ上では高良神社まで850メートル。道は表示されないので、手探りに進むしかない。とりあえず別のルートへ。

  かなり近づいたが中々見つからない。車から降りて周囲を探すと、栗林から鳥居が見えた。あれだ。お城のような立派な石垣の上に鎮座する、まぎれもなく高良神社であった。

 昭和34年発行の『山城谷村史』によると、住所は山城町相川字堂ノ尾858。祭神は武内宿禰、旧高良大明神。改地に関する石碑が境内に立っているが文字ははっきりしない。山城町における最初の高良神社との対面に胸が躍った。


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【2018/08/10 23:26 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
いの町枝川の「コウラ」地名
 高知市朝倉と吾川郡いの町の境に咥内坂と呼ばれる、ゆるやかな坂道がある。古くは標高50メートル程の細長い峯で南と北は繋がっていて1つの山丘であった。国道施設のため切り取られ、今は標高20メートル前後の坂になっている。
 この付近に高良神社に関連する「コウラ」地名があるとにらんでいるのだが、正確な場所までは確定できていない。手掛かりは『長宗我部地検帳』に記録されているホノギ(小字)なのだが、「コウラ城ノ前道懸テ外池アリ」と記録されており、咥内坂を下った西浦、ウネ沢辺りはかつては湿田地帯であり、池があった可能性が見えてきた。


 では付近に城跡があるだろうか。琴平山の周囲には多くの石垣があり、もしかしたらかつて山城があったのではないかと想像させるが、地元の人に聞いても城跡ではないと言う。「コウラ」は東浦、西浦などと同様の「浦」地名に過ぎなかったのだろうか?

 一方「高良神社の分布と横穴式石室の分布が割合一致しているようだ」との指摘もある。特に愛媛県ではその傾向がよく見られる。高良神社は倭の五王との関係が深く、九州系の横穴式石室は年代的に倭の五王の活躍した時代に近い。そして琴平山南斜面には、1~3号墳の枝川古墳群があって、鉄鏃などが発見されている。

 結論を急がず、この問題はもう少し宿題としておこう。


枝川古墳群
琴平山の南斜面に築造された古墳群。

6世紀末~7世紀前半に築造された古墳3基が保存されている。1号墳は径10m前後の円墳で、両袖式の横穴式石室が南東に開口、人骨片のほか銀環や玉類、武具、須恵器などが出土している。2号墳・3号墳は墳形・規模不明。埋葬施設は1号墳と同じ両袖式の横穴式石室で、2号墳は南西、3号墳が南の方向に入口をもつ。出土遺物は鉄鏃や須恵器など。
町指定史跡。出土品も町の文化財に指定されている。

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【2018/07/07 23:54 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
石立八幡宮にも武内宿禰が祀られていた
  高知市を流れる鏡川。その南岸に鎮座する石立八幡宮(高知市石立町54)には武内大臣(武内宿禰:高良神社の祭神にされていることが多い)も祀られていた。高良神社としては見当たらないので、どこから合祀されたのかはっきりしたことは分からない。高知市から吾川郡·高岡郡にかけての県中央部は高良神社の空白地帯であるが、逆に「コウラ」地名遺称は数か所見つかっている。
 古代の海岸線(浦戸湾)はこの辺りまで入り込んでいたと考えられ、近くには弥生時代から中世にかけての遺跡も多く存在する。古くはこの付近に港があったとされる。

 説明板の文字が見えにくくなっているが、御祭神は以下の通り。

    応神天皇 人皇第15代
    神功皇后 応神天皇御母
    多岐理姫 大国主神の御妃
    水速女神 水の神
    玉依姫神 神武天皇の御母
    多岐都姫 恵美須神の御母
    金山彦神 金の神
    狭依姫神 宗像の神
    武内大臣 長寿?護の神
  先祖及び水子の祭壇


境内社:恵美須神社、竃戸神社、国津神社他
由緒:勧請年月は不明であるが、宇佐八幡宮からの勧請と思われる。
 『和漢三才図会巻79』に「正八幡宮在高知天正年中長宗我部元親建之」とあるが、おそらく再建であろう。
 地元で信仰を集めていた社であったが、戦国時代、長宗我部元親が岡豊城(おこうじょう)から大高坂山城(現高知城の山)に遷って来た際、この社が丁度大高坂城の裏鬼門(西南)に当たることから、居城鎮護の社として尊崇され、以来山内氏等の武士からも崇敬されるようになったと伝えられている。
 社殿は明治17年11月23日火災のため全焼、同18年再建したものである。村社西王子宮外十社を合祀。境内に竃戸神社、神母神社がある。

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【2018/07/01 16:36 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
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