長引くコロナ禍にあって、県や地域を越えた研究協力がより一層必要と痛感させられるこの頃である。そのような中にあって、弊ブログ『もう一つの歴史教科書問題』をご覧になった読者から、メッセージや情報提供などをいただくことは何よりも有り難く、研究の糧にもつながっている。直接、返信できない方々も多いので、この場を借りて感謝の意を表したい。
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「高良神社の謎」シリーズも県外へ足を延ばし、四国を出て関西・中部地方まで情報網を広げるようになった。そんな矢先、新型コロナウイルスの蔓延により、複数の都道府県で緊急事態宣言が出される状況になり、現地を訪れる機会はめっきり減ってしまった。
先ごろ(2020年)、岐阜県で高良玉垂命を祀る神社は朝浦八幡宮のみ(“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”)と拙ブログで紹介したところ、すぐさま福岡県の犬塚幹夫氏より情報提供があった。「実はもう一社、勝神社という神社があります」とのこと。情報をもとに調べてみると、確かにその通りであった。 不破郡垂井町表佐(おさ)に高良玉垂命としてではなく、「筑後玉垂命」を祀る勝神社があったのだ。表向きは高良神社ではないので、岐阜県神社庁のサイトの検索にかからず、祭神としても高良玉垂命でもなく武内宿祢でもない。筑後玉垂命として祀られる例はこれまで見聞きしたことがなかったのだが、高良大社(福岡県久留米市御井町1)が筑後国一宮であることから考えても、高良神社の祭神として間違いなさそうである。 これに対して、美濃国一宮は金山彦を祭神とする南宮大社(不破郡垂井町宮代1734-1)である。古くは仲山金山彦神社と呼ばれたが、美濃国府の南に位置するところから南宮神社と称するようになった。ここには古代官道の駅制に使われた駅鈴が保管されており、毎年11月3日には公開されている。 その東隣りに大領神社があり、祭神は壬申の乱で功績のあった大領宮勝木実(みやすぐりこのみ)とされている。この宮勝氏について『岐阜県史 通史編・古代』(岐阜県、1971年)では、『新撰姓氏録』の「不破勝氏 百済国人渟武止等(ぬむしと)之後也。不破連氏 百済国都慕(つぼ)王之後毗有(びゆう)王ヨリイヅル也。」を引用し、不破勝氏・不破連氏ともに、「おなじ不破郡に定着した百済系の先進的な文化氏族とであったとしておくあたりが、一応穏当なのではなかろうか」(P189)との見解を示している。 百済系渡来人が何の後ろ盾もなく、他国へ移り住むということは通常は考えにくい。倭国九州王朝は百済と同盟を結んでおり、古代寺院建設など技術を持った集団を九州王朝の中枢にいた有力者が用いたとすれば、話は理解できる。現に大領神社付近に宮代廃寺跡がある。 「従四位下勝氏明神 垂井町表佐字四番屋敷一七二九番地鎮座 (旧村社) 勝神社 祭神 勝氏明神 (相殿)受鬘命・筑後玉垂命・諏訪住吉 」さらに東へ1km余りの場所に鎮座しているのが、今回注目している勝神社なのである。『新修垂井町史通史編』(垂井町、1996年)に次のような記載がある。 正直なところ、この勝神社の位置づけをどう理解すべきか思案し続け、一年近く経ってしまった。この神社の本殿の北側には前方後円墳があり、鳥居前に立てられた古墳の説明板には次のような記載がある。 垂井町指定史跡 相川をはさんだ北側にも直径40mの大形円墳である綾戸古墳(垂井町綾戸907)があり、須恵器の三足壺が出土。こちらも武内宿禰の墓との伝承が伝わる。高良玉垂命を武内宿禰に比定する説もあるが、勝神社が「筑後玉垂命」という名前を伝えているということは、大和朝廷の臣下などではなく、九州の筑後から直接来た神様であるとの主張が感じられる。 以前紹介した朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神は飛騨国に、勝神社の筑後玉垂命は美濃国の中心部に祀られていたことが分かる。高良神社の空白地帯と思われていた岐阜県にも、かつて九州王朝の影響が及んでいたことを示しているのではないだろうか。もう少し深く掘り下げて調べる必要がありそうだ。 |
高知県東部の安芸地方で、高良神社及び高良玉垂命に関連している神社は、現在確認しているところ次の7社。
6つまでは過去のブログで紹介しているが、まだ一社だけ実見できずに漏れていたところがあった。③安田町東島の城八幡宮である。やっと現地を踏むことができたので、今回紹介することにしたい。 安田城(泉城)は安田川の東岸にあり、南西に伸びた尾根の先端頂部の城山に築かれている。築城年代は定かではないが、延文2年・正平12年(1357年)頃には安田城主として安田三河守信綱の名が残っている。安田氏は惟宗を祖とする。信綱の後は益信、七郎次、親信、鑑信と続き、安芸城主安芸氏に属していたが、永禄12年(1569年)長宗我部元親が侵攻するとこれに降った。鑑信の後は千熊丸、又兵衛、泰綱、弥次郎と続き、安田弥次郎は長宗我部盛親に従って関ヶ原合戦で戦功を挙げ、大坂の陣にも大坂方として参陣したが、大坂城が落城すると和泉へ逃れ、のちに剃髪して波斎と号した。 ナビを頼りに近くまで行くと案内板があって、安田城と大木戸古墳についての解説があった。「鎌倉時代永仁3年(1295年)佐河四郎左衛門盛信が、安田川流域を制圧して守護となった。……城山の最上段(詰の段)に今は城八幡宮があり阿弥陀如来が祀られている」ーー興味深い記述である。佐河四郎左衛門のことは平尾賞受賞者・原田英祐氏から教えてもらったことがあって、頭の片隅にあった。信頼度の高い『佐伯文書』にも見える名前であり、東の安芸郡安田町(および田野町)と西の高岡郡佐川町を結びつけるキーパーソンなのだ。 高岡郡佐川町庄田の鯨坂八幡宮には「本宮に品陀別命(応神天皇)を祀り、左右二社に息長帯日売命(神功后皇) 高良玉多礼日子命(竹内宿禰)の三神を祀り」と『土佐太平記』(明神健太郎著)に書かれ、安芸郡からの勧請と伝えられている。 この三柱を祀る祭神形態は、③安田町東島の城八幡宮および④田野町淌涛の田野八幡宮の祭神形態とほぼ同じなのである。城八幡宮には「阿弥陀如来が祀られている」と案内板に書かれていることは事実かもしれないが、おそらく神仏習合の名残りなのだろう。安芸郡においては阿弥陀如来が祀られている八幡宮がいくつかある。文献等を調べると、③④は八幡宮の祭神「応神天皇・神功皇后・高良玉垂命」の三柱として祀られている。大分県の宇佐神宮における比売大神が高良玉垂命に置き替わった形態である。 さらに、②安田八幡宮境内摂社・若宮神社の祭神が「仁徳天皇・気長帯姫命(神功皇后)・高良玉垂命」となっている点が注目される。古代において、安田川河口にはラグーンがあって天然の良港であったと推定されている。この安田川を中心とする安芸郡安田町・田野町に高良玉垂命を祀るトライアングルが形成されていたのだ。 前置きが長くなってしまったが、西側から城八幡宮への登り口を見つけて徒歩で登っていく。竹林に覆われた城山を安田城の最上段(詰の段)まで進んでいった。少し開けたところに神社が祀られ、詳細な案内板もある。「城様」という看板が気になったが、どうやら地名のようである。なぜこのような場所に高良玉垂命が祀られているのか? 山の麓の大木戸古墳に何かヒントがあるように感じた。 6~7世紀の古墳としては高知県東部では珍しいものである。昭和29年赤土採取中に発見され、三基とも横穴式で中から須恵器などを発見し、町文化センター内に保管している。 大木戸古墳群(安芸郡安田町東島大木戸)は『土佐の須恵器』(廣田典夫著、1991年)によると「高知県内では最も東に位置する古墳群」とされている。しかも、「横穴式石室古墳で3基」もあるのだ。お隣の安芸市が銅矛出土の東限という情報と組み合わせても、九州王朝勢力の安芸郡への進出が読み取れる。「高良神社の分布と横穴式石室古墳の分布が一致する」という指摘は、ここでも完全に成立しているようである。これには『ポケット・モンスター』の大木戸博士も、ダジャレの一つ出ないだろう。 倭国・九州王朝との関係性が見い出された「2018年秋の安芸郡調査」から2年半、「2021年春一番の安芸調査」でその根拠はさらに深まることになった。 |
前回、“玉垂命を武内宿禰としたいきさつ(大善寺玉垂宮の事例)”について紹介した。大善寺玉垂宮は久留米市役所から南西に約6kmの福岡県久留米市大善寺町宮本という場所にある。この神社の創建は古く、およそ1900年前の創祀とも伝えられており、筑後国一宮・高良大社に先行する古社であったことは宮本の地名からも伺える。 昔は大善寺と玉垂宮という神仏習合であったようだ。それが明治の初期に起きた廃仏毀釈運動で、神仏混淆(しんぶつこんこう)の廃止、神体に仏像の使用禁止などが叫ばれて、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。その時に、寺であった大善寺はなくなり玉垂宮だけになったようだ。その際、ご祭神の玉垂命を武内宿禰としたいきさつを伝える史料が残されていた。詳細が、『俾弥呼の真実』(古田武彦著、2013年)に書かれていたので、お伝えしておきたい。
「高良神社の謎」シリーズで追い求めてきた高良玉垂命の正体は何者か? 大善寺玉垂宮の祭神は『福岡県神社誌』(昭和20年)では竹内宿禰・八幡大神・住吉大神となっていて、『飛簾起風』(大正12年)では高良玉垂命(江戸時代の記録の反映か)となっている。表面的に見ただけでは、従来から根強く流布していた「高良玉垂命=武内宿禰」説が正しいのではないかと誤解されそうだ。これを非とする根拠はいくつかあったものの、全国的に高良神社の祭神を武内宿禰とするところが多いという事実もあって、完全には否定できずにいた。 その長きにわたる論争も、この大善寺玉垂宮に関する史料によって一区切りつけることができたのではなかろうか。祭神を天皇家に由縁(ゆかり)のある武内宿禰としたのは、あくまでも時の政権に対する忖度であった。なぜそうしなければならなかったかというと、やはり近畿天皇家に先立つ倭国の中心権力者に関わる内容が秘められていたからであろう。 日本三大火祭りの一つに数えられている鬼夜(おによ)の由来については『吉山旧記』に記されている。仁徳天皇五六年(368年)1月7日、藤大臣(玉垂命)が勅命により当地を荒し、人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取り焼却したのが始まりだと言われている。 毎年1月7日の夜に行う追儺の祭事で、1600年余りの伝統があり、松明6本が境内を巡る火祭りである。 この『吉山旧記』の内容についてもそれが書かれた当時の権力者、江戸幕府の顔色を伺いながら編纂された内容であり、表向きには書けなかった内容も多かったことであろう。 福岡県に多く祀られる「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)」の「卑弥呼―難升米」の事績が『日本書紀』に取り込まれ、表向きは近畿天皇家の業績とされ、伝承されてきたものであろうか。
約2年前(2019年1月)、徳島県のN氏より「やはり、高良玉垂命と武内宿禰は別人(神?)なんですか? このテーマはどのあたりに投稿されてますか?」という質問があった。心苦しいことに、その時点ではまだ、明確な回答はできずにいた。今回の内容で十分ということではないかもしれないが、一定の解答を示すことができたとすれば幸いである。 |
前回、香川県観音寺市の琴弾八幡宮摂社・高良社が明治維新を契機として武内神社に変わったということ("香川県の高良神社⑦ーー観音寺市原町野田")をブログで紹介した。そんなことが本当にあるのかと疑問に思われる方がおられるかもしれない。実は古田武彦氏もそのような事例を語っていたことをつい最近知った。福岡県久留米市の大善寺玉垂宮で、祭神を玉垂命から武内宿禰としたいきさつが文書に残っているというのだ。 この話によると、古田氏はそのいきさつを記した史料を確認したということだろうか。大善寺玉垂宮のもう一つの祭神は玉垂命。江戸時代の終り頃、天皇の世の中になりそうだというので、宮司さんが氏子から了解を取って祭神を武内宿禰(注=『古事記』では竹内宿禰であるが『日本書紀』の用法に統一した)に変更した。戦後また玉垂命に戻したという歴史があります。そういう歴史の文書が残っていることが貴重だと思います。(『古田武彦の古代史百問百答』古田武彦著、2015年) 確かに明治維新の際の神仏分離令のために、寺院だけでなく神社も仏教色を排除することを余儀なくされた。江戸時代までの神仏習合において、高良大明神は本地・ 大勢至菩薩とされており、仏教色を残したまま神社の縁起等の差出しを行えば、存続が危ぶまれる怖れもある。具体策として神社名変更あるいは祭神の変更などを行ったところもあるようだ。 福岡県や愛媛県をはじめとして、応神天皇・神功皇后・武内宿禰を祭神とする八幡宮が多くみられるのは、高良玉垂命から武内宿禰への祭神名変更が行われた可能性を示唆する。もちろん筑前地方においては、三韓征伐の神功皇后を補佐した武内宿禰が共に祀られているのはあり得るところであるが、その神功皇后の業績には卑弥呼・壹與ひいては九州王朝の倭王の事績が取り込まれているということが『日本書紀』の史料批判によって浮かび上がってきた。 古田武彦氏は神功皇后が祀られている福岡市の香椎宮あたりが本来、卑弥呼の廟なのではないかとの考えも持っていたようである。そうすると、それに付随する武内宿禰の伝承も後付けの感があり、倭の五王に前後する九州王朝による半島進出こそが本来の歴史的事実だったのではなかったか。
また、土佐市高岡町乙に鎮座する松尾八幡宮の境内社として武内(たけのうち)神社が高良玉垂命を祭神としていることは以前にも紹介した(”土佐市の松尾八幡宮摂社・武内神社に高良玉垂命”)。『高知近代宗教史』(廣江清著、昭和53年)によると「廃仏の盛んな諸藩をみると、その事に当たった者が、国学者や水戸学派であったことが、一つの特徴である。土佐藩もその例にもれない」とあるように、約3分の2の寺院が廃寺に追い込まれるほど、高知県における神仏分離令の影響は大きかったようである。
福岡県の大善寺玉垂宮で玉垂命を武内宿禰としたいきさつはリアルであった。同様のことは、他県でも行われたようであり、明確な史料が残るケースは少ないが、武内宿禰命を祭神とする神社で違和感があれば、その過去(江戸時代以前)にさかのぼって祭祀形態を調べることで、本来は高良玉垂命あるいは高良明神などの本来の姿が見出せるかもしれない。 |
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香川県観音寺市といえば琴弾八幡宮・境内社として高良神社があることを以前紹介した(“香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社”)。その時点では触れなかったが、四国遍路八十八箇所の第六十八番札所・琴弾山神恵院はかつて琴弾八幡宮の神宮寺として創建された。江戸時代以前の神仏習合の時代に刊行された『金比羅参詣名所図絵巻之三』(1847年)に描かれた琴弾宮の絵および説明を見ると、現在とは違った姿を知ることができる。 琴弾八幡宮 現在は参道の階段途中に、小さな境内社として祀られている高良神社(祭神:高良玉垂神)が、かつては山頂に大きく祀られていたことが分かる。いや、もしかしたら今の高良神社とは別なのかもしれない。山頂に現在祀られているのは住吉神社・若宮・武内神社(祭神:武内宿禰命)である。どうやら江戸時代まで高良社と呼ばれていたものが、明治以降に武内神社と名前を変えたことが推察される。 筑後の一宮・高良大社(福岡県久留米市)の両部鳥居から連想されるように、高良神社は神仏習合の色合いが強い。明治維新直後の神仏分離令に対して、神社側も極力仏教色を排することを余儀なくされた。社名変更もその一貫である。高知県土佐市の松尾八幡宮に境内社として武内神社(祭神:高良玉垂命)が鎮座しているが、同じような理由から本来は高良社であったかもしれない。 余談が長くなってしまったが、実は観音寺市にはもう一つの高良神社がある。『観音寺市誌 資料編』(観音寺市誌増補改訂版編集委員会、昭和六十年)によると、菅生神社の末社として原町野田の二社が次のように併記してある。
地図上では野田自治会場の隣に荒魂神社と地神宮の名前が書かれているだけ。現地でも高良神社かどうかは判断できなかった。おそらく三豊市山本町辻の菅生神社(“香川県の高良神社②――山本町辻の菅生神社・境内社”)の末社として高良神社が合祀されているということだろう。距離的には1キロメートル以内の場所である。 観音寺市には2基の古墳が知られている。一つは原町の青塚古墳で、帆立貝形の前方後円墳で、墳丘の長さは約43メートルで周濠をめぐらしている。もう一つは室本町(琴弾八幡宮の北)の丸山古墳で、径約35メートルの円墳である。前者は竪穴式石室、後者は横穴式石室を持ち、共に刳(く)り抜き式舟形石棺で、石材に阿蘇の凝灰岩を使用している。 この2基の古墳と2つの高良神社のロケーションとが見事に一致する。これまでは倭の五王時代に対応する5世紀頃の横穴式石室古墳の分布に注目してきたが、竪穴式石室古墳となるとさらに古くなる。しかも石材が阿蘇の凝灰岩ということであるから、その産地である熊本県宇土市辺りとの交流があったことは、まず間違いない。5世紀の段階で讃岐地方に九州王朝が進出していたことの根拠となるのではないだろうか。銅矛などの分布を見ても、それは弥生時代からの歴史の継続性があると見てとれる。 香川県にはまだ紹介できていない高良神社がいくつかあり、とりわけ県西部は高良神社の密集地帯であることがよく分かる。調べることはまだ多くあるが、高良神社の分布を追うことによって、九州王朝とのつながりが見えてくるようである。 |
滋賀県神社庁のホームページから「高良」で検索すると、次の4社がヒットする。 〔大津〕 宇佐八幡神社
既に当ブログで紹介した4社である。滋賀県の高良神社を最初に紹介したのは、2年前の2018年5月であった。その後の調査をベースにとしながら、上表のように、滋賀県に密集する高良神社を公表しはじめたところ、研究協力の呼びかけたに呼応するように、関連するような情報が飛び込んできた。 その一つが、滋賀県で日本最古級の絵画が発見されたというニュースである。 古田史学の会・代表の古賀達也氏によると、近江大津宮から離れた湖東に九州年号および聖徳太子伝承が多いという。これは高良神社の分布にも対応している。飛鳥時代の絵画が発見された甲良町西明寺も同町甲良神社の南方に位置する。 また、ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』の次の記事が示唆に富んでいる。
上図を示しつつ、「三関」について次のように結論づけている。
確かに、壬申の乱(672年)で大海人皇子を支援した美濃国や伊勢国などを仮想敵国と想定しているかのようである。 実は滋賀県には、まだ他にも高良神社が存在する。近江最古の大社と呼ばれる白鬚神社(滋賀県高島市鵜川215)の境内社・八幡三所社に祀られる高良神社(祭神:玉垂命)である。高島市の白鬚神社は全国に多い白髭神社の本社とされ、琵琶湖の湖西に立つ大鳥居は観光スポットにもなっている。 神社の略記では、祭祀は古代から始まり、垂仁天皇二十五年皇女倭姫命が社殿を再建、天武天皇白鳳二年(674)比良明神の号を賜ったとある。祭神は猿田彦大神であり、境内には次に列記するように、11の摂社が鎮座する。
このうち、八幡神社、高良神社、加茂神社は3社相殿の八幡三所社として合祀され、社殿は慶長期の造営で、高島市指定有形文化財にもなっている。 八幡神社と高良神社の関係の深さはこれまで見てきた通りであるが、加茂神社とのつながりをどう見るべきか。思い出されるのは、徳島県三好市山城町瀬貝西の高良神社(祭神・武津見命)である。建角身命を祭神とする加茂神社とも何がしかの縁があるのだろう。 ところで、九州から畿内への移動ルートといえば、ふつう瀬戸内海航路をイメージする人が多いかも知れない。しかし、近江地方へは日本海ルートで若狭湾辺りから上陸するコースも考えられる。 第11代垂仁天皇をいつの時代に比定するかは難しいものの、一般的には弥生時代頃とされる。それほど古代にさかのぼる歴史があるのか疑問に思う人がいるかも知れないが、琵琶湖周辺の遺跡(近江八幡市の元水茎遺跡、彦根市の松原内湖遺跡、長浜市湖北町の尾上浜遺跡、高田遺跡など)からは縄文時代の丸木舟がたくさん出土している。 このことは近江朝廷よりも遥かに先行する歴史があったことを示唆するものだ。弥生・古墳・飛鳥時代――九州王朝の勢力がこの地方に進出したのはいつ頃だったのか。琵琶湖周辺の高良神社の分布は、それを推定する材料の一つになるかもしれない。 |
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約80年ぶりに「輪抜けさま」(6月30日の夏越大祓)が復活したことで注目を集めた四万十市の不破八幡宮(四万十市不破1392)。ここには高良神社があると言い続けてきたが、今までブログ記事にすることができなかった。現地に足を運んでも、境内社として高良神社が見つからなかったのである。確かに江戸時代の文献などには、境内社として高良神社が記録されている。だが、八幡宮の横にある摂社は三島神社(祭神:大山祇命)と住吉神社(祭神:中筒男命・底筒男命・表筒男命)のみ。いずれも「勧請年月日・縁起沿革等未詳」としながらも、八幡宮が勧請される以前からこの地に祀られ、八幡宮が造営される折、今の地に遷りて摂社として祀られたことが案内板に記されている。 江戸時代には存在していたはずの高良神社はどこへ行ったのだろうか。消えた高良神社の謎である。とにかく宮司さんに聞いてみることにした。すると「高良神社は八幡宮に合祀されています」とのこと。かつて安芸郡の田野八幡宮で境内社・高良神社を探し回った記憶が思い返された。その時も最終的には宮司さんに聞いて、八幡宮の御祭神として高良玉垂命が祀られているという話を聞くことができた。 厳密に言うと、田野八幡宮とは多少意味合いが違っている。あくまでも不破八幡宮の御祭神は、品陀和気命・玉依姫命・息長足姫命の三神であり、それとは別に高良神社(祭神:武内宿祢命)が八幡宮本殿に合祀されているというのだ。 宮司さんの話によると、明治の段階ではすでに本殿に合祀されていたであろうという。昭和41年の解体修理の時点で高良神社の祠が本殿の中に祀られていたのだという。その前の大修理が明治33年であるから、その時点で合祀された可能性が高い。 まずは不破八幡宮の由緒について、拝殿横の案内板から引用しておこう。
山城国の石清水八幡宮を勧請したものとされていることから、高良神社が同時に勧請された可能性も考えられる。だが、摂社である三島神社と住吉神社が、八幡宮の勧請以前よりこの地に祀られていたことから類推しても、おそらく高良神社も八幡宮に先行して鎮座していたと見るべきではないだろうか。 ②幡多郡にある他社の宮床地名に「宮ノコウラ」「川原山」など、高良神社由来と推測できる地名遺称があること。その根拠を示すことは簡単ではないが、いくつかの傍証となる事柄を示すことはできる。 ①不破八幡宮の北10kmほどの四万十市蕨岡に、高知県で唯一の単立の高良神社(“四万十市蕨岡の高良神社”)が鎮座している。 ③不破八幡宮の「神様の結婚式」(当宮を男神、市内の一宮神社を女神として祭典神事の中で結婚式を執り行う)と呼ばれる結婚儀礼神事は全国的にも珍しいとされる。これと似た神事として、奈良県の高良神社(“瓦権現→川原社→高良神社? 高良玉垂命と神功皇后との結婚”)で「まぐわい神事」(高良神社の男神が八幡神社の女神のもとへ出会いに行く)が行われている。 そうなると、前回紹介した“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”の事例が連想される。すなわち、高良神社が鎮座していた場所に後から八幡宮が勧請され、従来の主祭神が相殿の神として置き換わる……。祠が本殿内に祀られることは格の高さの表れでもあり、尊ばれていることの証しであるが、現在の案内板やパンフレットには高良神社に関しては何も触れられていない。こうして表向きは完全に“消えた高良神社”となってしまった。 不破八幡宮の消えた高良神社の謎は、ここ数年来の宿題となっていたことであったが、今回の調査によって、やっとその謎を解くことができた。そして再び幡多地方の高良神社にスポットを当てることがかなったとすれば幸いである。 |
滋賀県および長野県が高良神社の密集地帯であることは、これまでの「高良神社の謎」シリーズ(滋賀県の高良神社①~④、長野県の高良神社②ーー千曲川流域に分布)を読んで下さった方には伝わったのではないかと思う。とりわけ長野県については23社もの高良社が鎮座することを調査した吉村八洲男氏の研究が大いに参考になる。不思議なことに、その中間である岐阜県は逆に高良神社の空白地帯と私の目には映っている。厳密に言うと美濃地方と言うべきだろうか。飛騨地方の朝浦八幡宮(飛騨市神岡町朝浦601)にはかなり古くから高良神が祀られているようである。 まずは朝浦八幡宮の由緒から見ておこう。
ポイントとなるのは、往古高原郷開拓の祖神である高原神(高良神)を祀っていたところに、平治元年(1159年)頃に宇佐八幡宮を勧請し、従来主神であった高良神を相殿とし、応神天皇を主祭神としたと伝えられていることだ。前回、紹介した滋賀県の宇佐八幡宮境内社・高良社によく似た背景を持っている。 実は高知県安芸郡芸西村にも宇佐八幡宮があり、境内社として高良玉垂社が鎮座している。また、相殿として高良玉垂命が祀られている田野八幡宮のような事例も見られる。さらに関東では、高良神社の鎮座地に後から八幡宮が勧請された例も存在する。 けれども、岐阜県で高良神を祀る神社はこの一社のみ。しかも、かなり富山県よりのロケーションである。岐阜県神社庁のホームページで検索しても、他に見つからない。旧美濃国は高良神社の空白地帯なのである。 そこで思い起こされるのが壬申の乱(672年)である。高校の歴史教科書では、次のように説明している。
壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)を支援したのは美濃国をはじめとする東国の勢力であった。高良神社の分布を九州王朝の勢力圏ないしは影響圏と見なした場合、美濃国はどうやら反九州王朝勢力あるいは九州王朝の勢力圏外と考えられる。従来の見方と食い違う点もあるかもしれないが、高良神社というフィルターを通して見た印象では、親九州王朝系近江朝廷の大友皇子VS反九州王朝勢力の大海人皇子という構図になりそうだ。 天武天皇のバックボーンとしては諸説あり、「天武天皇は筑紫都督倭王だった」(八尾市・服部静尚氏)とする説も最近出されている。一つの検討材料としてほしい。 |
滋賀県といえば、競技かるたを描いた映画『ちはやふる』の舞台となった近江神宮が有名である。天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀された。よって後世の近江神宮を調べたところで天智天皇の近江朝を知ることはできない。だが、近江神宮の西に、かつて宇佐山城が築城された宇佐山がそびえる。この山腹に鎮座する宇佐八幡宮(滋賀県大津市錦織町)の境内社として高良社が存在することはあまり知られていないのではないだろうか。 まずは宇佐八幡宮についての由緒を現地の案内板から引用しておこう。
また、源頼義がこの神社を創建した当時の礎石と伝わる石があることから、平安中期までさかのぼる歴史があることは言えそうだ。
さらに「金殿井」と呼ばれ、天智天皇の病気を癒したと伝わる霊泉がある。「天智即ち近江の御代に『中臣ノ金』によって発見されたもので、天智天皇の御病気を癒したという霊験あらたかな霊泉と伝えられています」との説明。ついに近江朝との接点が見えてきた。地理的にも近江大津宮跡とされる場所から北西の方角にすぐの立地である。 宇佐八幡宮の勧請は源頼朝より5代前の源頼義の時代としても平安時代中期であるから、直接には7世紀の近江朝との関連は見出せない。そこで境内社・高良社の由緒が問題となってくる。 境内社の成りたちとして、主に次の3つのタイプが考えられる。
石清水八幡宮や宇佐八幡宮の勧請に際しては、通常②の同時勧請と説明されることが多いが、本場大分県の宇佐神宮では見られない高良社が共に勧請されることには疑問がある。そうなると③のパターンを想定する必要がありそうである。実際に高良神社が鎮座していた場所に後から八幡宮が勧請された例は、関東地方などで見られる。 そのことを傍証するかのように、大津市園城寺町には三井寺が存在する。筑後の高良大社の麓にもやはり御井寺(三井寺)がある。やはり「九州王朝系近江朝」という理解は正しいのだろうか。『日本書紀』でも天智天皇の近江遷都については、斉明天皇の大規模な土木工事と同様に“悪政”と描かれており、九州王朝系であることを暗示しているかのようだ。 |