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越知町横畠北の「高良」地名

 以前から気になっていた高岡郡越知町横畠北の「高良」地名――ついに調査の足を伸ばすことにした。国道33号線で越知町まで行き、仁淀川中流の筏津(いかなづ)大橋を渡ったところが筏津。「いかだづ」ではなく「いかなづ」と読ませる難読地名である。その近くに「高良」地名があるとにらんでいたが、正確な場所は分からない。それでも現地を踏んでみることが大切である。

 初めは何を勘違いしたか、一本下流の橋を渡って今成地区に迷い込んでしまった。現地の人に「高良という地名をご存じないですか?」と尋ねても誰も知らない様子。それもそのはず、全く見当違いの場所に来ていたのだ。川辺に星神社があったので行ってみたが、やはり手掛かりなし。地元の人は妙見様と呼んでおり、後で調べたところ、多くの犠牲者が供養されている場所のようであった。無駄足を踏んだようだが、何か目に見えないものに引き寄せられたようにも感じる。
 「愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」(平原綾香「ジュピター」より)

 勘違いに気づいて本来の調査地点へと向かった。今度はかなりの山道である。途中に大雑把な道案内はあったが、地図や標識などもなく、何を目標にすればよいかも分からない。たまたま庭先に出ておられたご婦人に尋ねてみた。

 「この辺りに高良という地名がありませんか?」
 「この道をもう少し行ったら広い駐車場があるので、そこの右手の山側がそうです。今は人も住んでいませんけどね」
 お礼を言って、教えられたところへ向かった。ちゃんとした駐車場があるわけではなく、細い道に入りこんでしまい、行き過ぎたことに気づいた。隣の仁淀川町との境界の谷川まで来ていた。深瀬神社より手前だったはずなのに、知らずに通り過ぎてしまっていたようだ。コンテナが積み上げられ道幅が広くなっているところまで引き返した。おそらくこの辺りだろう。

 心配されたのか、先ほどのご婦人が歩いて来られていた。確認したところ、生姜畑や竹が生い茂っているところが、昔から「高良」と呼ばれている場所であった。もし単独で探しても現地を特定することは難しかっただろう。この地に60年間暮らし続けている80代の女性との出会いのおかげで、今回の調査はほぼ目的を達成することができた。不思議な導きに感謝である。


 帰宅後、関連するメモを確認したところ、『長宗我部地検帳 高岡郡上の一』645ページに、次のような記載があった。
コウラ 壱反壱代切畑
同村(深瀬ノ村) 同し名(横畠名)
同し(片岡左衛門尉大夫給)
 「壱反壱代」といったら、約10ヘクタール(約1000平方メートル)の土地である。ちなみに古代中国の社に築かれた壇は一辺30メートル四方程度で約一反(段)の面積が必要であった。切畑については、『土佐藩の山村構造―三谷家文書考究―』(間宮尚子著、昭和53年)に次のように説明されている。
 切畑耕作は、山間部の農業を考える時、見過ごすことのできないものである。一般には焼畑ともよばれるが、山の傾斜面の灌木を伐りたおし、これを焼き、一雨あって灰の湿ったところへ、蕎麦、稗、粟、芋、麦、大豆、豆をまくものである。灰のみを肥料とし、別に施肥しないため収量は乏しい。「地方凡例録」によれば、年々の作付は不可能であり、一年二年がわりに作付をする。また地主はきまっており、一作後放棄されるのではなく、何年かののち同一人によって再び作付される課税地である。「土佐国韮生石川氏文書」によれば、穀類は三年ないし五年連作すれば土地は痩せる。沃土は一四・五年、痩土は二・三〇年を経て再び伐畑に作るとある。
 高知県の山間部ではかつて切畑が営まれていた。同じ畑で作物を作り続けると、すぐに土地がやせてしまう。そこで焼畑をしては数年周期で場所を変えながら畑を耕作し、作物を作っていた。江戸時代、土佐藩において林制が確立されるにつれ、切畑耕作は諸制限を受けるようになる。焼き畑をしなくなって、山は竹林に覆われてしまったのであろう。生姜畑が耕作地としての名残りを伝えている。
 標高約260mという山の斜面に石を積んで段々畑にしているところは徳島県三好市山城町の高良神社群の鎮座地を思い出させる。ここにもかつて高良神社があったのだろうか。その宮床跡として「高良」地名が残されているのではないか。この仮説を立証するための根拠を少しでも見出せればとの思いもあっての今回の調査である。
 『地検帳』には深瀬ノ村とあり、すぐ近くに深瀬神社があった。神社名が創建時から地名を冠することは普通あり得ない。祭神に係わる名称で呼ばれるはずである。過去、何段階かにわたり神社整理が行なわれた。その際、由緒不詳の神社については地名を冠して名称変更がなされた例がある。ここでもそうだったのではないだろうか。



 また、「片岡左衛門尉大夫給」とあることから、片岡氏の給地であったことも分かる。片岡氏の祖は詳らかではないが、黒岩城や片岡城などを居城としており、元亀二年(1571年)片岡城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったといわれる。『地検帳』に記録されているのは、茂光の子、左衛門尉大夫(下総守)光綱のことであろうか。

 天正十三年(1585年)に伊予金子の陣(豊臣秀吉による四国征伐)で、片岡光綱は伊予の金子城主・金子備後守の援軍として兵350余りを率い、小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。
 左衛門尉大夫光綱の弟、出雲守継光(光信)は片岡城に拠り、その子長兵衛の子孫は山内家家老で高岡郡佐川の深尾出羽に仕えた。出雲守継光の弟である紀伊守直季は吾川郡上八川に居た。その子八兵衛は長宗我部信親に仕え、天正十四年(1586年)に秀吉の九州征伐に従軍して、豊後戸次川の合戦で討死した。八兵衛の養嗣祐光は土佐郡本川郷の大藪紀伊守祐宗の孫であり、その七世孫が土佐郷士出身で明治期の政治家・実業家の片岡直輝・直温(大蔵大臣)兄弟である。

 『進撃の巨人』ではないが、今回の調査によって400年前の歴史がフラッシュバックしたような感覚になった。しかし、仮に高良神社が鎮座していたとしても、それ以前のもっと古い時代のことである。地元の古老に聞いたとしても、記憶や伝承としては残っていないことだろう。さらに踏み込んだ検証が必要になってくるが、果たしてそのような手掛かりが残されているのだろうか?


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【2019/07/01 11:52 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
謡曲『放生川』に登場する老翁・武内宿禰
 今回は少し前に書いた「高良の神の正体に迫る『弓八幡(ゆみやわた)』」の姉妹編ともいうべき内容なので、ぜひそちらと併せてお読みいただきたい。

 「高良玉垂命=武内宿禰」説が広まり、定着していった理由の一つが、謡曲『放生川』にあると以前からにらんでいた。能楽における主役のことを「シテ」と呼ぶが、『放生川』では武内の神(武内宿禰)が、『弓八幡』では高良の神がシテとして登場する。どちらも八幡神の神徳を讃え、治世を賛美するという役割や話の設定が似通っているため、高良玉垂命=武内宿禰と解釈したとしても無理からぬところである。
 まずは、『放生川』のあらすじと解説を『能を読む②世阿弥 神と修羅と恋』(監修 梅原猛・観世清和、平成25年)から抜粋して引用してみよう。
新品本/能を読む 2 世阿弥 神と修羅と恋 梅原猛/監修 観世清和/監修 天野文雄/編集委員 土屋恵一郎/編集委員 中沢新一/編集委員 松岡心平/編集委員|dorama2

『放生川』(生ける魚を放つ放生会、大君守護の八幡神、その末社神武内の神による将軍の治世賛美)

あらすじ

 鹿島社の神職(ワキ)が上洛して、放生会が行われる男山(石清水)八幡に参詣すると、魚を桶に入れた老翁(前ジテ)に出会う。神職がそのわけを尋ねると、老翁は今日は生ける魚を川に放す放生会であると言い、その謂われを語って、みずから小川に浸かって魚を放す。老翁はさらに、八幡が欽明帝の御代に垂迹して以来、大君を守護し、万民の迷いを晴らしてきたことを語り、八幡の威徳を称え、自分はじつは八幡に仕えて、その神徳に浴してきた武内の神だと名乗って、山上に消える。山下の里人(アイ)が、その老人は武内の神であろうと言うので、神職が男山に逗留していると、武内の神(後ジテ)が現われ、八幡神の大君守護と、それによる泰平の御代の永続を祈念し、神代と同じように四季の歌で四季の舞を舞い、当代の和歌隆盛を祝福するのだった。

解説

 本曲は、八幡神に仕える武内の神(高良の神)が放生会の場に現れて、代々の大君を守護し、放生会に象徴される泰平の御代を実現させてきた八幡の神徳を賛美する形になっている。いちおう八幡の神徳賛美が主題と認められるが、足利将軍は代々氏神として八幡を篤く尊崇していたから、このような八幡賛美は、つまるところ、将軍の治世賛美に帰着する。八幡の威徳によって、「文武二つの道」が盛んになり、和歌の道が盛んになったとあるのも、将軍を中心にした文学隆盛を念頭においた文辞かと思われる。この点、八幡の神事を舞台にした世阿弥の「弓八幡」がかなりストレートに将軍の治世を賛美しているのに比べると、本曲は主題の表わし方が婉曲的だといえる。

武内の神 八幡の末社で、山上にあった武内宿禰を祀る高良明神。「山上さしてあがりけり」はそれをふまえた表現。武内宿禰は六代の天皇に仕え、仁徳天皇のときに二百八十歳で没したという伝説上の人物(『日本書紀私見聞』)。
百王(しらおう)守護の日の光 八幡は伊勢とならぶ「宗廟の神」(朝廷の祖先神)であり、また守護神でもあった。

 解説にも「
八幡神に仕える武内の神(高良の神)」とあることから、解説者および関係者は「高良玉垂命=武内宿禰」説の立場に立っていることが明白に読み取れる。流派の違いによって異なる解釈も見られ、「弓八幡のシテ高良の神とは高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)であります。この命は八幡宮に合祀されている武内宿禰、月天子の神格化、神功皇后征韓の武将 藤大臣、海底の竜神安曇磯良など諸説ありますが、この曲では藤大臣を想定して作曲されたのではと、小倉師は述べておられます」といった見解もある。

 謡曲『放生川』は「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる祭典がベースとなっており、その内容については「宇佐神宮ホームページ」より引用した。古くは養老4年(720年)大隈・日向の隼人(はやと)の反乱を鎮圧したことがきっかけとなっているようだ。

仲秋祭(放生会)

祭典日:10月体育の日、前日、前々日、3日間

 明治以前まで「放生会」と呼ばれていた祭典で、養老4年(720)大隈・日向の隼人(はやと)が反乱を起こしたとき、朝廷の祈願により八幡神は託宣を下し、鎮定のため同5年両国に行幸、3ヵ年にわたって抵抗する隼人を平定して、同7年ご還幸になられました。
 このとき、百人もの隼人の首をもち帰って葬った所が、神宮より西約1キロの所にある「凶首塚」です。また、すぐ下に「隼人の霊」を祠(まつ)る百太夫殿が、その後造立されました。現在の『百体神社』です。 さらに、神亀元年(724)「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣があり、天平16年(744)八幡神は和間(わま)の浜に行幸され、蜷(にな)や貝を海に放つ『放生会』の祭典がとり行われました。これが「放生会」の始まりです。
(宇佐神宮ホームページより)

 すでにで言及した(「世の中は空しき……令和ブームの宴に興じる)ことがあるが、養老4年(720年)大隈・日向の「隼人(はやと)の反乱」とは大和朝廷側の大義名分であり、実質は九州王朝滅亡後に南九州へ逃れた残存勢力の討伐戦であった。いわゆる明治維新における戊辰戦争のようなものだったと、多元史観の視点から考えることができる。
 701年以降、日本国の中心王朝として君臨するようになった大和朝廷にとって、まず急がれたことが、主権の正統性を確立することであった。その目的に沿って編集されたのが『日本書紀』である。その一方で唐の制度に倣って大宝律令が出され、神祇官が置かれる。歴史の教科書で「二官八省」という言葉が出てきたことを覚えておられるだろうか。二官とは神祇官と太政官のことであり、神祇官は政治を司る太政官よりも上位であり、朝廷の祭祀を司る最高の位とされた。
 西洋において「王権神授説」があったように、古代日本でも先祖神を祀り、その守護を受ける立場に立つ必要性があった。「百王(しらおう)守護の日の光」の語句解説に「八幡は伊勢とならぶ『宗廟の神』(朝廷の祖先神)であり、また守護神でもあった」とあるように、大和朝廷の宗廟となる社を整備することが急務であったと考えられる。ちなみに「百王(しらおう)」という表現は神祇伯・白川伯王家と重ねた表現ではなかろうか。「白王(白皇)神社」との関連も感じさせるところである。
 久留米の高良山に残された『高良玉垂宮神秘書同神背』の一節には、「九州ノコソウヒョウタルカ、天平勝宝元年丑己ノ年、宇佐八幡ノ御社造立アリテヨリ、高良、御マ丶コタルニヨリ、九州ソウヒウノ御ツカサヲユツリ玉フ也」と書かれている。福岡県久留米市の高良大社(筑後国一宮)はかつて九州(王朝)の古宗廟であったが、749年に宇佐八幡宮の造立があって宗廟の役割を引き継いだことが読み取れる。その理由については「高良、御マ丶コタルニヨリ」とあることから、八幡神(応神天皇)が高良玉垂命の継子(ままこ)であったことが伺える。また「譲り給う」という穏当な表現になっているが、神社版「国譲り神話」ともいうべき、政権交代によって宗廟の地位を奪い取られたいきさつが読み取れる。
 このような事情を知ったならば、「八幡神に仕える
高良神」との解釈が成立しないことはご理解いだだけるだろうか。むしろ高良神は八幡神の先祖神の立場なのである。たとえ事実上は高良玉垂命を宗廟の神としてきた九州王朝を滅ぼして獲得した権力だったとしても、古き倭国の時代より国家を守り続けてきた高良神の守護なくしては、大和朝廷の正統性を誇示することはできない。そのために「放生会」が行われるようになり、『放生川』『弓八幡』によって新たな宗廟の神・八幡神の威徳を確立していくことになったと考えるのは、誇大(古代)妄想にすぎるであろうか。



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【2019/06/07 10:42 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
高良神社にまつわる「菊と蕨」
 ルース・ベネディクトの『菊と刀』ではないが、高良神社にまつわる「菊と蕨(わらび)」について触れておきたい。高知県では唯一、単立の社として残されている四万十市蕨岡の高良神社。その屋根には菊紋瓦がずらりと並ぶ。
 地元の人の話によると、高良神社・荒倉神社・金峯神社・天神社・八幡宮が蕨岡五社とされ、高良神社・荒倉神社には大きな御輿がある。高良神社には菊のご紋があるところから本尊は天皇らしいと言われている。私が調べたところでも、明治元年の達しにより、祭神が武内宿禰命になったものの、それ以前は「大武(大夫)天皇」とされていたことが記録にある。
 この菊紋瓦について「もしかして13弁ではないですか?」との質問を受けたことがあるので、少し気になっていた。もちろん「13弁菊紋は九州王朝の紋」との仮説が質問の背景にあることは察していた。写真をご覧いただければ分かるように、残念ながら一般によく見られる16弁菊紋であった。

 実は既にブログ内で紹介していたのだが、13弁菊紋瓦が出土したのは長岡郡の国府付近、国分寺跡からである。「其瓦一枚ハ丸ニシテ菊花アリ 〜 辨十三アリ」と『皆山集』にはっきり記録されているではないか。

 また、長野県上田市では国分尼寺跡から蕨手紋瓦が出土しており、高良社が密集する地域に蕨手紋の文化が存在していることが指摘されている。九州の装飾古墳に見られる文様に近く、九州とのつながりを立証する手掛かりの一つとなりそうなのだ。
 この蕨手紋がどこかにあったような気がしてモヤモヤしていたが、ふと見つけ出すことができた。愛媛県の高良神社である。まだ、正式には紹介していなかったが、伊佐爾波(いさにわ)神社の境内社に高良玉垂社がある。
「伊佐爾波神社、附 末社高良玉垂社本殿、末社常盤社新田霊社本殿、石燈籠、棟札」について

 ともに境内社で、廊下の左右に内に向かい合って建てられる。当社を造立した藩主松平定長や竹内宿祢ほかを祭る。建物は一間社流見世棚造り(いっけんしゃながれみせだなづくり)、桧皮葺(ひわだぶき)。
 柱は土台の上に建ち、身舎が円柱で頭に粽(ちまき)を付け、向拝(こうはい)は方柱で、ともに出組斗きょう(でぐみときょう)を置く。正面向拝の水引貫(みずひきぬき)の上には板蟇股(いたかえるまた)が置かれる。木部の彩色は、前掲の社殿に準じる。

 石燈籠は、両末社の脇に建てられる。総高240cm余り、笠・火袋・中台・竿・基礎はいずれも四角形で、笠の四隅には蕨手(わらびて)を持ち、竿に「道後八幡宮神前・寛文七丁未年五月十五日」の刻銘がある。
        (「松山市ホームページ」より抜粋)
 伊佐爾波神社の末社・高良玉垂社本殿の脇の石燈籠に蕨手があるというのだ。そもそも高知県四万十市の高良神社の鎮座地は「蕨岡」という地名である。その由来については明確なものはなく、満足な説明はなされていない。
 もしかしたら愛媛県の蕨岡家(南宇和郡愛南町正木)とのつながりがあるのではないかと思い調べたこともあったが、十分な手掛かりは得られていない。高知県との県境近く、「戸立てずの庄屋」という伝説がのこる蕨岡家は愛媛県の名家であり、邸宅が有形文化財として保存されている。『愛媛の伝説』には弓の名人・蕨岡助之丞が登場し、江戸時代初期の寛永15年(1638)に書かれたお遍路の記録にはすでに、「伝説は有名で広く知られている」とある。
 また、愛南町には八幡神社(御荘平城1534―1)の境内社として高良神社(祭神:武内宿禰命・玉垂命)が存在する。この地域は古くは幡多郡五郷の一つ「宇和郷」に含まれる可能性があり、四万十市を含む幡多地方と同一文化圏と見ることができる。まだ、断片的な情報の寄せ集めにすぎないが、高良神社にまつわる「菊と蕨」――そこに何か隠された由緒が秘められているのだろうか?

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【2019/06/04 09:29 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
高良の神の正体に迫る『弓八幡(ゆみやわた)』
 高良神社の祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)については謎が多い。引っ張りすぎと思われるかもしれないが、あえて安易な結論を出さず、多面的な方向からフィールドワークや史料収集などを通じて様々なアプローチをしてきたのが「高良神社の謎」シリーズである。世阿弥(1363?~1443年?)の謡曲『弓八幡(ゆみやわた)』に「高良の神」が登場することは、能に関心のある方でなければ、あまりご存じないかもしれない。『弓八幡』に登場する「高良の神」をどう解釈するかは、大きく2つに分かれるようである。
 名探偵コナンの「真実はいつも一つ」という名セリフは多くの人に受け入れられやすい考え方であるが、そんなに単純なものでもない。私は東京にいた頃、アメリカの神学校卒のA先生から主観主義という考え方を教えてもらったことがある。「真理は客観的に存在するものではなく、一つの事実に関しても解釈は受け止める人の主観によって変わる。真理を伝えるためには表現方法の工夫・無限なる説得の努力が必要である」といった内容だったと覚えている。
新品本/能を読む 2 世阿弥 神と修羅と恋 梅原猛/監修 観世清和/監修 天野文雄/編集委員 土屋恵一郎/編集委員 中沢新一/編集委員 松岡心平/編集委員|dorama2
 まずは『能を読む②世阿弥 神と修羅と恋』(監修 梅原猛・観世清和、平成25年)P438の『弓八幡』(八幡大菩薩の神徳をもって描く、泰平の御代の到来、高良の神による祝福)のあらすじを紹介しておく。読者の皆様はどのように感じられるであろうか。 
 後宇多院の宣旨をうけた廷臣(ワキ)が男山(石清水)八幡宮の初卯の神事に参詣すると、袋に桑の弓を入れて担いだ老人(前ジテ)に出会う。老人は袋に弓を包むことは、周の時代から泰平の御代の象徴とされていると言い、このたび桑の弓を大君に献上せよという八幡神の神託があったので、廷臣の参詣を待っていたのだと言う。老人は、続いて男山八幡と初卯の由来を語り、いまのような泰平の御代の到来は男山八幡の大君守護のたまものだと言い、じつは、自分は八幡神に仕える高良(かわら)の神(しん)だと言って、姿を消す。山下(さんげ)の里人(アイ)から八幡や初卯の神事の由来を聞いた廷臣が、さきほどの老人が高良の神であることを知り、帰洛してこのことを奏上しようとすると、高良の神(後ジテ)が現れ、神々しい舞を舞い、泰平の御代の到来をことほぐのだった。

 本曲『弓八幡』が書かれた時代背景は室町時代であり、袋に入れた弓が大君に献上されるという設定やシテの高良の神が「天下一統」を祈念していることなどから、南北朝の合一がなって、泰平の御代の到来をことほいで制作された作品かと思われる。本曲の「天下一統」「弓箭を包む」という言葉が南北朝の合一を記した当時の文献にみえること、「治まる御代に立ちかへり」が両朝合一による平和の到来にふさわしい表現であることなどが、その根拠とされている。南北朝合一直後の応永元年(1394年)に、足利義持が父義満のあとをうけて将軍となった頃のことで、義持が実質的な将軍になった応永十五年の制作とする説もある。


 八幡社は全国各地に約4万社あり、鎌倉幕府を開いた源頼朝も鎌倉の中心地に鶴岡八幡宮を造営し、源氏の氏神として崇拝していた。八幡宮の隆盛については、一般的には鎌倉幕府の寺社政策によるものが大きいと考えられている。高知県でも6月の「アジサイ祭り」で有名な六條八幡宮(高知市春野町西分3522)の勧請は鎌倉幕府とのつながりがあるとされる。
 ただそれだけでなく、室町時代に入って南北朝の争乱を経つつも、その寺社政策の方向性は引き継がれたようである。幕府が京都に置かれた事もあって足利将軍の社参は特に多く、室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍義満は、石清水八幡宮(京都府八幡市八幡)には15回も社参しており、第4代将軍義持に至っては、その数は37回にも及んだという。
 高知県の八幡宮には大分県の宇佐八幡宮からの勧請によるものがある一方、京都の石清水八幡宮から勧請されたものもあり、それぞれに時代的な背景がありそうだ。

 さて、足利義満にその才能を見出された世阿弥の『弓八幡』に話題を戻そう。世阿弥も「すぐなる體は『弓八幡』なり、曲もなく真直なる能、當御代の初めに書きたる能なれば秘事もなし」と『申楽談儀』に書いているように、八幡大菩薩の神徳を称え、室町幕府による泰平の世の到来を讃揚することを表向き主題としているようである。
 問題は「八幡神に仕える高良(かわら)の神(しん)」とあらすじに説明してあることだ。神功皇后が異国退治のために、九州の四王寺の峯(太宰府の北西の山)において七か日の御神拝をした後に、高良神の登場となる。「高良の神とは我なるが、この御代を守らんと、ただいまここに来たりたり」のセリフには臣下を思わせる言葉はないにもかかわらず、「じつはわたくしは八幡神に仕える高良の神で……」と現代語訳されている。ここには解説者の解釈が混入しており、監修者・梅原猛氏の責任も大きい。「高良の神は石清水八幡宮の末社神で、武内宿禰」とする一元史観的な解釈が表れている。
 しかし、遠藤真澄氏が「『弓八幡』における高良の神の夜神楽」の中で「高良の神は、単なる末社の神ではなく、それなりの位を持った神」と推測しているように、研究者の多くは古き時代より国家を守護してきた高良神の超越的なイメージを素直にとらえている。
 「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」とした『風姿花伝』の内容は、まさに「高良の神=高良玉垂命」の正体について、多くを語らず、推して知るべしといったメッセージを込めているように感じられる。世阿弥がどこまで分かっていて、この作品を制作したのかは不明であるが、この問題についてはさらに検証を深めていきたい。


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【2019/06/01 19:28 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
筑紫神社は高知県にもあった③

筑紫神社は高知県にもあった①
筑紫神社は高知県にもあった②

 上記の過去のブログを読まれた方はご存知かもしれないが、長野県に高良玉垂命を祀る筑紫神社が存在したという情報に触発されて、高知県にも旧東津野村(現津野町)に高良神を祀る筑紫神社が存在していたことを紹介した。

 しかし、その筑紫神社が現在どこにあるのか、ずっと分からずにいた。それがやっと手掛かりがつかめたので報告しておきたい。『高知県神社明細帳』に次のように記されていた。

高岡郡北川村字菅ノ谷

 村社 大元神社 
一、祭神 古老伝説ニ云延喜年間ニ天御中主尊ヲ祭リシニ慶長年間ニ至リ其躰を伊勢ノ国ニ求シニ天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大明神ノ三神像キタリシヨリコレヲ崇祭スト 其真否未詳。
一、合祭神社五社
 八王子宮 六拾余社 拾二社
 筑紫神社 六拾余社

筑紫神社
一、祭神 高良神
一、由緒 勧請年月縁起沿革等未詳
或云「寛文十戌年勧請スト」古来ヨリ当村ノ内宮谷部落ノ崇敬神ニテ字東ノ越ニ鎮座シ筑紫大権現ト称ス 明治元年辰三月達ニヨリ筑紫神社ト改称シ三年爰ニ合祭ス

 高岡郡津野町北川の宮谷地区はその名のごとく、かつては20ほどの神社があったという。筑紫神社もその一つで、明治元年の達しにより、北川菅ノ谷の大元神社に合祭されていたのだ。高岡郡は高知県でも高良神社の空白地帯と思われていたが、これで高良玉垂命を祀る神社は郡内で3社(他に高岡郡佐川町の鯨坂八幡宮土佐市の松尾八幡宮摂社・武内神社に高良玉垂命)あったことになる。
 その大元神社(祭神:天御中主尊、天照大神外二神)については、HP『高知の河川』(http://river.nomaki.jp/index.html)によると、延喜14年(914)に津野の家臣藤原時景という武士が、宮谷の山の上穴神山の宕(ほら)の上に、奉祭したのが始まりといわれている。その後上谷に移行してお祭りをしていた。嘉永6年(1853)に菅ヶ谷の八王子神社があった現地へ、合祀したものである。秋の大祭は、毎年11月18日に行われ、五穀豊穣、無病息災などを祈願して津野山古式神楽の「山探し」と「花米」などの舞が奉納される。
 ところで「大元(本)神社」は県内に44社ほどあり、多くは天御中主尊を祭神とする。また「星神社(旧妙見)」も主に天御中主尊を祭神とし、県内に約61社存在する。他県と比較したことはないが、かなり多い方ではないかと推測する。そして、高知県内で最も古い部類となる津野山古式神楽が津野町や梼原町で古くから伝えられてきたことは、何か歴史の重みを感じさせる。

津野山古式神楽

 津野山古式神楽は、延喜13年(西暦913年)藤原経高が京より津野山郷に来国したときに、神話を劇化したものを神楽として伝えたことが始まりとされている。『宮入り』から『四天の舞』まで全部で17の舞がありすべての舞を舞い納めるには8時間ほどかかる。秋祭りに氏子が五穀豊穣、無病息災を祈願して神社へ奉納するがその他、氏子が願ほどきに奉納することもある。

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【2019/05/05 22:49 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
『古代に真実を求めて第22集』と高良神社
 最新の『古代に真実を求めて第22集 倭国古伝ーー姫と英雄(ヒーロー)と神々の古代史』(古田史学の会編、2019年)がついに出版された。目次は次の通り。

  目 次

003 巻頭言 勝者の歴史と敗者の伝承[古賀達也]
005 古代伝承を「多元史観」で読み解く理由[西村秀己]
特集 倭国古伝――姫と英雄と神々の古代史
 I  姫たちの古代史
012 太宰府に来たペルシアの姫[正木裕]
024 大宮姫と倭姫王・薩末比売[正木裕]
053 肥前の「與止姫」伝承と女王壹與[古賀達也]
063 糸島の奈留多姫命伝承と「日向三代」の陵墓[正木裕]
072 駿河国宇戸ノ濱の羽衣伝承[正木裕]
081 常陸と筑紫を結ぶ謡曲「桜川」と「木花開耶姫」[正木裕]
  II  英雄たちの古代史
092 讃岐「讃留霊王」伝説の多元史観的考察[西村秀己]
101 丹波赤渕神社縁起の表米宿禰伝承[古賀達也]
114 六十三代目が祀る捕鳥部萬の墓[久冨直子]
119 関東の日本武尊[藤井政昭]
129 筑後と肥後の「あまの長者」伝承[古賀達也]
133 天の長者伝説と狂心の渠[古賀達也]
138 コラム1 肥前・肥後の「聖徳太子」伝承 古賀達也
140 コラム2 湖国の「聖徳太子」伝承 古賀達也
 III  神々の古代史
144 縄文にいたイザナギ・イザナミ[大原重雄]
152 「天孫降臨」と「神武東征」の史実と虚構[正木裕]
175 恩智と玉祖―河内に社領をもらった周防の神さま[服部静尚]
185 安曇野に伝わる八面大王説話[橘高*修]
189 甲斐の「姥塚」深訪[井上肇]
193 荒覇吐神社の現地報告―和田家文書から見た風景[原廣通]
165 コラム3 天孫族に討たれたあらぶる神 服部静尚
168 コラム4 「国譲り」と「天孫降臨」 橘高*修
173 コラム5 紀国の鎮西将軍伝承 古賀達也
184 コラム6 日本海側の「悪王子」「鬼」伝承 古賀達也
199 コラム7 羽黒山修験道と九州王朝 古賀達也
   一般論文
202 一般論文 「実証」と「論証」について[茂山憲史]
   フォーラム
210 『東日流外三郡誌』と永田富智先生[合田洋一]
216 倭国溶暗と信濃[鈴岡潤一]
  付録
228 ○古田史学の会・会則
230 ○「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
233 ○編集後記 服部静尚


 私が特に注目している記事は、以前ブログで紹介した"佐賀県「與止姫伝説」の分析"の元ネタとなる【肥前の「與止姫」伝承と女王壹與[古賀達也]】と題する論稿である。
 それと最近ブログで紹介した"長野県の高良神社②ーー千曲川流域に分布"に関連して、【安曇野に伝わる八面大王説話[橘高*修]】【倭国溶暗と信濃[鈴岡潤一]】の2つの論稿。「高良神社の謎」シリーズにも深くリンクしてくる内容であり、高知県の「八面神社」や「八つに分かれる面」など、長野県とのつながりを研究する必要が出てきたようだ。

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【2019/04/23 09:55 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
長野県の高良神社②ーー千曲川流域に分布
 長野県千曲(ちくま)川水系に集中する高良神社についての情報をいただいたので、早速紹介することにしよう。以前に「長野県の高良社の分布」で紹介した12社のリストと一部重なるが、新たな発見を加えて、その数、何と現在では23社になるという。長野県内には大小2400余りの神社があり、神社総数は高知県とほぼ同数である。
 上田市の吉村八洲男氏の“「科野」の「高良社」と多元史観”(『TAGEN』2018年9月号)と題する論稿から、高良神社のリスト「十三社の概要」を引用させていただく。

【表】 十三社の概要

(所在地  神社名  主祭神名 「高良社」の状況 特記事項 八幡と若宮)
一、飯山市瑞穂 小菅神社 伊弉諾尊・他6神 「玉垂社」今は無いが『明治神社誌』にあり 白鳳8年 役小角創建社伝 柿本人麻呂歌碑あり 
二、長野市塩崎 軻良根古神社 誉田別命・他2神  石柱上の「高良社」石祠 八幡・若宮(共に石祠あり)
三、長野市松代 祝神社 生魂命・他2神(境内社に「応神天皇」あり) 「高良社」現在は無い、が『明治神社誌料』には掲載 合祀されて現在地へ 八幡社
四、須坂市小山 墨坂神社 品陀和気尊・他3神(a.) 境内社「高良社」 白鳳2年創建 社伝 八幡宮・若宮(境内社・額) 同市「芝宮」地にも同名社あり
五、千曲市八幡 武水別神社 誉田別命・他3神(a.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 「さざれ石」あり 裏に「天神7代」「地神5代」神名・社 八幡命(地名も)若宮(額)
六、千曲市上山田 佐良級神社 誉田別命・他2神(a.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 若宮(額・地名)
七、上田市本原 誉田足玉神社 誉田別命・他2神(a.b.) 境内社「高良社」(鳥居あり) 八幡さま(口伝)
八、上田市国分 国分神社 応神天皇 境内社「高麗社」 国分寺の鬼門 八幡宮(額)
九、上田市下之条 葦原淵神社 大鷦鷯命(仁徳天皇だが応神天皇と同一人物とのこと) 「高良社」(樹の洞中) 本殿「若宮八幡宮」表示 八幡・若宮(社名・地名)
十、上田市下本郷 誉田別神社 応神天皇 境内社「高良社」・「高良玉垂命」あり 八幡宮(額)
十一、上田市五加 八幡大神縣社 誉田別神・他2神(a.b.) 境内社「高良社」「高良玉垂命」 拝殿あり(武内宿祢神) 八幡(社名)若宮(額)
十二、佐久市蓬田 浅科八幡神社 誉田別命・他2神(a.b.) 境内社「高良玉垂社」(武内宿祢 配祀) 八幡(社名)
十三、佐久市岩村田 若宮八幡社 誉田別命・他4神 「高良社」額・説明板にも明示 合祀あり(他に多くの神名) 八幡・若宮(社名)

(注記)
・神名は「誉田別神」を先頭に表記し直した。神名で多い「a.息(気)長足比売命(神功皇后) b.玉依姫(比売)命」は「他」に含めた。数字はこれを含めたものとなっている。

 現地を見てみなければいけないところだが、とりあえず私自身の高良神社探究の経験から感じることを少し言及しておきたい。


 ① 八幡神社摂社としての高良社が多い。平安期、石清水八幡宮の荘園時代ないしは戦国時代の勧請によるものか。高良神が八幡神の伴神とされ、若宮神社とともに八幡神社の脇宮として祀られるケースがある。これは全国的な傾向と類似する。

 ② 祭神が誉田別天皇(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、玉依姫命の三柱となっている八幡神社については、高知県西部(高知県で唯一、四万十市蕨岡に単立の高良神社が残る)の八幡宮に多く見られるタイプと同型。
 ③ 鳥居付き境内社「高良社」はかつて単立の高良神社であり、明治39年の神社合祀令により整理された可能性がある。
 ④ 千曲川水系に集中しているところは、香川県の財田川水系に集中する分布と類似する。
 ⑤ 高良社の数としては多く、歴史が古いと推測される。単立の高良神社は残されていないが、「筑紫神社は高知県にもあった①」で紹介した筑紫神社(下伊那郡泰阜村字宮ノ後 3199)は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祭神(相殿:誉別尊)として祀っており、他にも高良神を祀る神社が存在する可能性がある。

 いずれにしても筑後地方を除けば、他県に抜きんでた高良社の密集度であり、高良大社を擁する筑後地方ないしは古代九州と長野県とのつながりを否定することはできないだろう。長野県(科野国)は阿蘇神社の祭神ともつながりがあり、高知県の一の宮・土佐神社の「しなね様」とも語源的な関連(“土佐神社の「志那ね様」は支那にルーツ(根)をもつ?”)があるようにも感じられる。
 また、『鯰考現学』(細田博子著、2018年)にも紹介された要石を信仰する神社もあり、鯰(なまず)をトーテムとした「東鯷人(とうていじん)」の文化圏(“到底考えない東鯷人と鯰のつながり”)との関連もあるように思える。どこまで的を射ているか保証はないが、さらに地元における研究の進展に期待したい。



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【2019/04/10 23:37 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
徳島県の高良神社⑦ーー鴨神社の境内社・国瑞彦神社に合祀されていた
 「裏の小山の小池に子鴨が200羽、小米1俵。子鴨小米かむ、鴨米かむ」
 どちらかというと無口であった父はかつて、そんな早口言葉を言っていた。

 徳島県に新たな高良神社を発見! 鴨神社(三好郡東みよし町加茂字山ノ上3250)の境内社・国瑞彦(くにたまひこ)神社に合祀されている26社のうちの一つである。よって高良神社としての社殿や祠があるわけではない。
 国瑞彦神社には、以下の26社が合祀されていると記されている。
 鎮守神社・幸神社・宇賀比神社・八幡神社・若宮神社・八将神社・山塚神社・木神社・友與志神社・市坪神社・荒神社・高良神社・市杵島姫神社・熊丸鎮守神社・杉尾神社・松尾神社・毘沙門神社・古塚神社・稲荷神社・藤木神社・厳神社・若宮神社・奥森末神社・日吉神社・日之出神社・会川八幡神社。

 確かに「高良神社」が含まれている。できれば旧鎮座地を知りたいところだ。また、隣りの境内社・天神地祇社には、以下の27社が合祀されている。
 奥成山神社・熊丸山神社・谷奥山神社・秋葉神社・奈良神社・三島神社・愛宕神社・山神社・出雲神社・両皇神社・神通神社・神通龍神社・神通大山祇神社・神通愛宕神社・速大神社・妙見神社・榧森神社・天満宮・荒神社・蛭子神社・大谷山神社・井神社・境神社・金毘羅神社・伊勢神社・奥谷神社・奥森神社。

 他の境内社として豊受大神宮社ほか3社が祀られている。

 『式内社調査報告』には明治末の神社合併に際し天神地祇社に19社、国瑞彦神社に35社が合祀されたとある。数的なバランスをとったのだろうか。現在は国瑞彦神社に26社、天神地祇社に27社が合祀されている。
 これまで徳島県における神社合祀の実態がなかなかつかめずにいたが、そのリストを見れば他県ではあまり聞かないような社名も多く、多元的に捉える必要がありそうだ。杉尾神社・松尾神社などは高知県にもあり、一見ありふれた名前だが意外と珍しい。神社には土地に合った木が植えられ、その木の名前で呼ばれたという「中国の社」に淵源を持つようにも思える。
 いずれにしてもこれだけの数の神社が合祀されていたとなると、「一町村一社を標準とする。ただし地勢および祭祀理由において特殊の事情のあるものは合祀におよばず。云々」とする明治39年の神社合祀令が、この地域ではかなり忠実に実行されたと考えられる。ここでの「一町村一社」は古代における「一村一社」とは反対の性格を持ち、増え過ぎた神社を整理しようとするものである。南方熊楠らが反対運動を展開したことは以前
神社合祀令に反対した南方熊楠」で紹介した。
 合祀された時点では国瑞彦神社や天神地祇社は単立の神社であっただろうから、その後鴨神社の境内社に取り込まれるという2段階の神社整理があったのではないか。地元の史料を確認する必要があるかもしれない。
 さて、阿波國美馬郡の延喜式内社に比定される鴨神社の祭神は別雷命・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神。創建は不詳。社伝によると貞観2年(860年)以前、京都上賀茂神社より勧請。

 「鴨祠、延喜式小祀と為す加茂村に在り旧事紀に所謂、事代主の神孫鴨王是也、延喜式大和高市、鴨事代主神あり白川氏、宮川河原氏世々祝と為る」(『阿波志』)

 京都の賀茂社といえば、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)であるが、上賀茂神社の祭神は賀茂氏の祖・賀茂別雷大神 。『阿波志』の記述に白川伯王家の伯家神道が垣間見える。


▲那賀川沿いの阿南市「加茂宮ノ前遺跡」

 個人的には高良神社の発見に浮かれていた頃、世の中では考古学界に激震が走るようなニュースが流れていた。2019年2月18日(月)、 縄文の「朱」の生産拠点、阿南・加茂宮ノ前遺跡で国内最大・最古級の祭祀と居住一体となった遺構が出土したことが翌日(2月19日)、徳島新聞朝刊の第1面に報じられたのである。


 来たー。加茂宮ノ前遺跡というからてっきり、高良神社を合祀する国瑞彦神社を境内社に持つ鴨神社の前から出土したと思い込んでいた。新聞記事をよく確認したら、三好郡東みよし町ではなく反対側の阿南市の那賀川沿いの遺跡であった。古代阿波国(『古事記』では大宜都比売、オホゲツヒメ)が水銀朱の一大産地であったことが明らかとなる大発見だ。
 私が「高良神社の謎」を追っているのは、高良神社マニア(そうなりかけている感もあるが……)だからではなく、一つには九州王朝の足取りをつかむ目的がある。では、これほど重要な場所に九州王朝は進出しなかったのか。ご心配なく。隣りの勝浦郡勝浦町(旧・森村)に高良神社があったことまでは確認している。那賀川の地名にも福岡県の那珂川に通じるものを感じさせる。こちらはまだ調査してから発表しようと思っていたが、時が急がれているようである。地元からの情報提供もぜひお願いしたい。



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【2019/02/23 08:19 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
筑紫神社は高知県にもあった②

 東津野村(現津野町)にあった筑紫神社。グーグルマップや住宅地図などでは見当たらない。最後の手段は『長宗我部地検帳』である。しかし、ここで一つ問題がある。
『東津野村史 上』(高知県高岡郡東津野村教育委員会、昭和39年)には「筑紫神社 高良神 北川村管の谷 寛文十年(一六七〇)筑紫大権現」とある。1670年が創建の年代であれば、検地が行なわれた時点(天正十六年、1588年)では存在していないことになる。もし再建等ならば同様のものがあった可能性はある。
 『長宗我部地検帳 高岡郡下の一』436ページに「コウラ 十代 下ヤシキ 古宮名 
宮内兵衛 同し(公領) 祖母ゐ」と出ている。「コウラ」というのがホノギ(小字)である。高知県下において、既に「コウラ」地名がいくつも見つかっており、その大半は地形由来とは思われず、神社由来地名と考えられる。だが、場所が「津野芳生野村」となっており、北川村ではなかった。

 一方、404ページ「津野北川村」には「カワラ」のホノギが出ている。『角川地名大辞典39高知県』(昭和61年)にも、東津野村北川に「川原毛」「河原」などが見える。高良神はかつて「カワラ神」とも呼ばれていたことから関連性があるかもしれないが、地形由来地名の可能性も高い。また行政区域も時代変遷があるので、資料がなければ正確なところまでは言及できそうにない。
 しかしながら、新たな「コウラ」地名の発見により、16世紀以前から高岡郡津野町に高良神が祀られていた形跡はつかめたと言えるだろう。高良神を祀る筑紫神社はその流れを汲む神社であったと推測される。

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【2019/02/02 14:07 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
土佐市の松尾八幡宮摂社・武内神社に高良玉垂命

 土佐市及び高岡郡は「高良神社の空白地帯」ということを以前にも書いた。のみならず、延喜式内社すら一社もないという、高知県内でも特異な地域である。

 土佐市高岡町乙に鎮座する松尾八幡宮は1100年以上の歴史を持ち、正八幡宮と呼ばれていた。境内社として高良神社がないかと見てきたが、あったのは武内(たけのうち)神社と竈(かまど)神社だった。狛犬の裏に菊の紋と五七桐の紋が隠されていたので何かありそうだと気にはしていたが、最近明らかになったことを含めて報告しておこう。

 『高知県神社明細帳』を見ると、この境内社・武内神社の祭神が武内宿禰命ではなく、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)であったのである。やはり高良神社が武内神社に変わっていたのである。間違っても、武内宿禰命が高良玉垂命に置き換わったはずはない。高良玉垂命→武内宿禰命と変化することはあっても、その逆は聞いたことがない。

 「いや待たれよ。高良玉垂命=武内宿禰命なのではないか?」との反論もあるだろう。そもそも「高良玉垂命=武内宿禰命」説はどこから出てきたのだろうか。
 筑後国一宮・高良大社(福岡県久留米市御井町1)の祭神を「高良玉垂命」という。延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』に「筑後国三井郡高良玉垂命神社(名神大)あり」とあるが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』には登場しない。にもかかわらず、朝廷からは正一位を授かっている。
 高良玉垂命については武内宿禰説、藤大臣説、月神説、物部祖神説、中臣烏賊津臣説、芹田真誰説、新羅神説、綿津見神説、彦火々出見説、水沼祖神説、景行天皇説など実に多くの説がある。
 祭神の「高良玉垂命」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、全国の八幡宮・八幡神社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる。
 ここには謡曲「弓八幡(ゆみやわた)」で高良の神、「放生川(ほうじょうがわ)」で武内宿禰が登場することも「高良玉垂命=武内宿禰命」説を後押ししたのではないかと思われる節がある。この点については機会があれば、さらに掘り下げてみたい。
 高良の神を武内宿禰とする説が広まったのは、江戸期に久留米藩(有馬氏)が祭神を武内宿禰に特定したためといわれており、明治期までは武内宿禰説が主流であった。高良大社の奥宮が高良廟と称して武内宿禰の墓所とされ、また、筑前域の分霊社など、多くの高良社が武内宿禰を祭神としている。結局のところ、一元史観において最も落ち着きが良かったのが武内宿禰説だったのであろう。
 ところが、京都の石清水八幡宮では「上高良」「下高良」といい、「上高良」には武内宿禰を祀る武内社が本殿内に、「下高良(高良神社)」は男山の麓にあり高良玉垂命を祀る。石清水八幡宮の神職に聞いても高良玉垂命と武内宿禰命は別神との見解であった。


 話を高知県に戻そう。土佐市といえば亀泉酒造に代表されるように、お酒造りが有名である。松尾八幡宮と聞くと、酒の神様・松尾大社(京都市西京区嵐山宮町3)からの勧請かと連想したが、石清水八幡宮からの勧請であったことが案内板からも読み取れる。その境内社を表向きは武内神社とし、祭神を高良玉垂命として残したのにはどういう経緯があったのだろうか? 明治維新における名称変更等の紆余曲折があったことを感じさせられる。
 入口案内板の由緒等には、やや疑問が感じられるかもしれないが、そのまま引用しておく。

松尾八幡宮

祭 神:足中津彦尊・息長足姫尊・品陀和気尊
由緒等:当社は約一千百有余年の昔、人皇第五十一代平城天皇の第三皇子高岳親王が創建されたと伝えられている。高岳親王は幼くして皇太子に即位され、次の天皇が約束されていた尊貴の人であられた。しかし、大同年間、薬子の乱(810年)が起こり、親王は追われる身となった。やがて仏門に入り弘法大師空海に師事、諸国を行脚し、人心の救済と求道一筋の道を歩んだ。貞観三年(861年)三月南海道に向い海路をもって仁淀川の川口に至り更にさかのぼり、高岡の地に上陸の第一歩をしるしたという。(日本三代実録)
 清瀧寺に逗留修行すること暫し、感ずるところあり京都の産土神石清水八幡宮をこの八幡の聖地に勧請鎮斎したという。この社が松尾八幡宮である。社領八町八反を賜り古来高東近郷の総鎮守たり。随身池田琢雲をして初代神主にあたらしめたという。

 一方、親王はその後、畢生の悲願であった入唐を果たし、当時、世界最大と言われた国際都市長安の都(現、中国北京市)に留学。更に学究の志は高く、仏果の成就を求め、遙かなる仏陀の母国、インドに向う。

 元慶五年(881年)在唐の留学僧の報告によれば、親王七十八歳の時、羅越国付近で薨去されたという。あぁ!! かかる壮挙は日本史上最初の人であったと伝えられている。



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【2019/01/11 21:18 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
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