前回、“玉垂命を武内宿禰としたいきさつ(大善寺玉垂宮の事例)”について紹介した。大善寺玉垂宮は久留米市役所から南西に約6kmの福岡県久留米市大善寺町宮本という場所にある。この神社の創建は古く、およそ1900年前の創祀とも伝えられており、筑後国一宮・高良大社に先行する古社であったことは宮本の地名からも伺える。 昔は大善寺と玉垂宮という神仏習合であったようだ。それが明治の初期に起きた廃仏毀釈運動で、神仏混淆(しんぶつこんこう)の廃止、神体に仏像の使用禁止などが叫ばれて、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。その時に、寺であった大善寺はなくなり玉垂宮だけになったようだ。その際、ご祭神の玉垂命を武内宿禰としたいきさつを伝える史料が残されていた。詳細が、『俾弥呼の真実』(古田武彦著、2013年)に書かれていたので、お伝えしておきたい。
「高良神社の謎」シリーズで追い求めてきた高良玉垂命の正体は何者か? 大善寺玉垂宮の祭神は『福岡県神社誌』(昭和20年)では竹内宿禰・八幡大神・住吉大神となっていて、『飛簾起風』(大正12年)では高良玉垂命(江戸時代の記録の反映か)となっている。表面的に見ただけでは、従来から根強く流布していた「高良玉垂命=武内宿禰」説が正しいのではないかと誤解されそうだ。これを非とする根拠はいくつかあったものの、全国的に高良神社の祭神を武内宿禰とするところが多いという事実もあって、完全には否定できずにいた。 その長きにわたる論争も、この大善寺玉垂宮に関する史料によって一区切りつけることができたのではなかろうか。祭神を天皇家に由縁(ゆかり)のある武内宿禰としたのは、あくまでも時の政権に対する忖度であった。なぜそうしなければならなかったかというと、やはり近畿天皇家に先立つ倭国の中心権力者に関わる内容が秘められていたからであろう。 日本三大火祭りの一つに数えられている鬼夜(おによ)の由来については『吉山旧記』に記されている。仁徳天皇五六年(368年)1月7日、藤大臣(玉垂命)が勅命により当地を荒し、人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取り焼却したのが始まりだと言われている。 毎年1月7日の夜に行う追儺の祭事で、1600年余りの伝統があり、松明6本が境内を巡る火祭りである。 この『吉山旧記』の内容についてもそれが書かれた当時の権力者、江戸幕府の顔色を伺いながら編纂された内容であり、表向きには書けなかった内容も多かったことであろう。 福岡県に多く祀られる「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)」の「卑弥呼―難升米」の事績が『日本書紀』に取り込まれ、表向きは近畿天皇家の業績とされ、伝承されてきたものであろうか。
約2年前(2019年1月)、徳島県のN氏より「やはり、高良玉垂命と武内宿禰は別人(神?)なんですか? このテーマはどのあたりに投稿されてますか?」という質問があった。心苦しいことに、その時点ではまだ、明確な回答はできずにいた。今回の内容で十分ということではないかもしれないが、一定の解答を示すことができたとすれば幸いである。 PR |
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