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玉垂命を武内宿禰としたいきさつ②――御祭神取り換え決意文
 前回、“玉垂命を武内宿禰としたいきさつ(大善寺玉垂宮の事例)”について紹介した。大善寺玉垂宮は久留米市役所から南西に約6kmの福岡県久留米市大善寺町宮本という場所にある。この神社の創建は古く、およそ1900年前の創祀とも伝えられており、筑後国一宮・高良大社に先行する古社であったことは宮本の地名からも伺える。
 昔は大善寺と玉垂宮という神仏習合であったようだ。それが明治の初期に起きた廃仏毀釈運動で、神仏混淆(しんぶつこんこう)の廃止、神体に仏像の使用禁止などが叫ばれて、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。その時に、寺であった大善寺はなくなり玉垂宮だけになったようだ。その際、ご祭神の玉垂命を武内宿禰としたいきさつを伝える史料が残されていた。詳細が、『俾弥呼の真実』(古田武彦著、2013年)に書かれていたので、お伝えしておきたい。
 二〇〇三年(平成十五)の八~九月、久留米市におもむき、その所蔵文書を長時間、調査させていただいたことがある。「東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)」「多元的古代研究会」「古田史学の会」等の合同調査であった。
 そのとき、刮目した史料群があった。そこには江戸時代末、戊辰戦争直後、大善寺玉垂宮の宮司「御祭神を取り換える」旨の決意がしたためられていた。従来の「玉垂命」に換えて、天皇家に“由縁”のある「武内宿禰」を以って、今後の「御祭神」にしたい、という、その決意が「文書」として明記されていた。
 そして明治初年に至り、社中の各村の各責任者を招集し、右の決意に対する「承認」を求め、賛成の署名の記された文書である。
 この「新祭神」としての武内宿禰の存在は、近年(戦後)までつづいていたようであるが、ようやくこれを廃し、もとの「玉垂命」へと“返った”ようである(光山利雄氏による)。
 「吉山旧記」(B)の場合、「昭和二十九年一月」の「第二序文」があり、「第八十三代薬師寺 悟、謹誌」となっているけれども、右の経緯はしるされてはいない。「公の立場」を継承したからであろう。
 この祭の本質への探究、それは当然「鬼面尊」と「玉垂命」との関係、そしてそれらの悠久なる起源へと向けられることであろう。(P57~58)
 「高良神社の謎」シリーズで追い求めてきた高良玉垂命の正体は何者か? 大善寺玉垂宮の祭神は『福岡県神社誌』(昭和20年)では竹内宿禰・八幡大神・住吉大神となっていて、『飛簾起風』(大正12年)では高良玉垂命(江戸時代の記録の反映か)となっている。表面的に見ただけでは、従来から根強く流布していた「高良玉垂命=武内宿禰」説が正しいのではないかと誤解されそうだ。これを非とする根拠はいくつかあったものの、全国的に高良神社の祭神を武内宿禰とするところが多いという事実もあって、完全には否定できずにいた。
 その長きにわたる論争も、この大善寺玉垂宮に関する史料によって一区切りつけることができたのではなかろうか。祭神を天皇家に由縁(ゆかり)のある武内宿禰としたのは、あくまでも時の政権に対する忖度であった。なぜそうしなければならなかったかというと、やはり近畿天皇家に先立つ倭国の中心権力者に関わる内容が秘められていたからであろう。
 日本三大火祭りの一つに数えられている鬼夜(おによ)の由来については『吉山旧記』に記されている。仁徳天皇五六年(368年)1月7日、藤大臣(玉垂命)が勅命により当地を荒し、人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取り焼却したのが始まりだと言われている。 毎年1月7日の夜に行う追儺の祭事で、1600年余りの伝統があり、松明6本が境内を巡る火祭りである。
 この『吉山旧記』の内容についてもそれが書かれた当時の権力者、江戸幕府の顔色を伺いながら編纂された内容であり、表向きには書けなかった内容も多かったことであろう。
 「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)」の「卑弥呼―難升米」といった記述からの“書き換え”である。そういう可能性の高いこと、特に注意しておきたい(あるいは「壹与」か)。
 また問題の「桜桃沈淪(ゆすらんちんりん)討伐」譚において、討伐側の主体として登場する「籐大臣」もまた、近畿天皇家の人物ではなく、「倭国(九州王朝)」の人物である点も当然ながら、わたしたちの視野に入れておかねばならぬ。
 この事件自体は、「倭国(九州王朝)」が大陸側(朝鮮半島)で高句麗・新羅と激戦していた「四~六世紀間」の歴史事実の反映なのではあるまいか。この事件は、仁徳五十三年(三七六)、第六代の葦連(あしのつら)の時とされている(古事記、日本書紀の方には「桜桃沈淪」の名は出現しない。「倭国」が百済と盟友関係にあったこと、高句麗好太王碑の記す通りであるが、これに対し、「桜桃沈淪」は、高句麗・新羅側と提携しようとしたのであろう(もちろん、歴史事実の反映とみられる)。(『俾弥呼の真実』P55)
 福岡県に多く祀られる「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)」の「卑弥呼―難升米」の事績が『日本書紀』に取り込まれ、表向きは近畿天皇家の業績とされ、伝承されてきたものであろうか。
 約2年前(2019年1月)、徳島県のN氏より「やはり、高良玉垂命と武内宿禰は別人(神?)なんですか? このテーマはどのあたりに投稿されてますか?」という質問があった。心苦しいことに、その時点ではまだ、明確な回答はできずにいた。今回の内容で十分ということではないかもしれないが、一定の解答を示すことができたとすれば幸いである。



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【2020/11/28 03:58 】 | 高良神社の謎 | 有り難いご意見(0)
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