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 約80年ぶりに「輪抜けさま」(6月30日の夏越大祓)が復活したことで注目を集めた四万十市の不破八幡宮(四万十市不破1392)。ここには高良神社があると言い続けてきたが、今までブログ記事にすることができなかった。現地に足を運んでも、境内社として高良神社が見つからなかったのである。確かに江戸時代の文献などには、境内社として高良神社が記録されている。だが、八幡宮の横にある摂社は三島神社(祭神:大山祇命)と住吉神社(祭神:中筒男命・底筒男命・表筒男命)のみ。いずれも「勧請年月日・縁起沿革等未詳」としながらも、八幡宮が勧請される以前からこの地に祀られ、八幡宮が造営される折、今の地に遷りて摂社として祀られたことが案内板に記されている。

 江戸時代には存在していたはずの高良神社はどこへ行ったのだろうか。消えた高良神社の謎である。とにかく宮司さんに聞いてみることにした。すると「高良神社は八幡宮に合祀されています」とのこと。かつて安芸郡の田野八幡宮で境内社・高良神社を探し回った記憶が思い返された。その時も最終的には宮司さんに聞いて、八幡宮の御祭神として高良玉垂命が祀られているという話を聞くことができた。
 厳密に言うと、田野八幡宮とは多少意味合いが違っている。あくまでも不破八幡宮の御祭神は、品陀和気命・玉依姫命・息長足姫命の三神であり、それとは別に高良神社(祭神:武内宿祢命)が八幡宮本殿に合祀されているというのだ。
 宮司さんの話によると、明治の段階ではすでに本殿に合祀されていたであろうという。昭和41年の解体修理の時点で高良神社の祠が本殿の中に祀られていたのだという。その前の大修理が明治33年であるから、その時点で合祀された可能性が高い。

 まずは不破八幡宮の由緒について、拝殿横の案内板から引用しておこう。

幡多郡総鎮守 不破八幡宮

御祭神 品陀和気命(第十五代天皇 応神天皇)
    玉依姫命
    息長足姫命(神功皇后)
旧格社 県社
由緒
 当社は文明年間(一四六九‐一四八六年)、前の関白一条教房公が応仁の乱を避け、荘園経営のため中村に開府の時、幡多の総鎮守として且つ一条家守護神として、山城国(京都府)に鎮座する石清水八幡宮を勧請し造営されたものである。また、現在の御本殿においては永禄元年(一五五八年)から翌二年(一五五九年)にかけて一条康政氏に京都から招聘された宮大工の北代右衛門氏により再建されたものである。三間社流造、屋根はこけら葺として都風の洗練された技術による室町時代末期の建造物として昭和三十八年七月一日付で国の重要文化財に指定され、土佐一条家の文化を今に伝える唯一の貴重な遺構である。明治以前は正八幡宮、広幡八幡宮と称されていたが、明治初年に不破八幡宮と改称する。同年五月社格を県社に列した。
 また当社の秋の例大祭は一条氏の創設に関わるもので、当時この幡多地域で横行した略奪結婚の蛮風を戒める為に、四万十市初崎に鎮座する一宮神社と共に執り行う結婚式を神事に織り込み始められた結婚儀礼神事であり、昔から地元の氏子崇敬者に神様の結婚式として親しまれ、また全国的に見ても非常に珍しい神事である。秋季例大祭(神様の結婚式)は昭和三十八年三月五日付で市の指定無形民俗文化財になる。
祭日 旧暦三月十五日      春季山川海神事
   九月敬老の日の前の土曜日 秋季例大祭宵宮祭
   九月敬老の日の前の日曜日 秋季例大祭本祭典
   旧暦十月十五日      秋季山川海神事
 山城国の石清水八幡宮を勧請したものとされていることから、高良神社が同時に勧請された可能性も考えられる。だが、摂社である三島神社と住吉神社が、八幡宮の勧請以前よりこの地に祀られていたことから類推しても、おそらく高良神社も八幡宮に先行して鎮座していたと見るべきではないだろうか。
 その根拠を示すことは簡単ではないが、いくつかの傍証となる事柄を示すことはできる。

①不破八幡宮の北10kmほどの四万十市蕨岡に、
高知県で唯一の単立の高良神社(“四万十市蕨岡の高良神社が鎮座している。
②幡多郡にある他社の宮床地名に「宮ノコウラ」「川原山」など、高良神社由来と推測できる地名遺称があること。
③不破八幡宮の「神様の結婚式」(当宮を男神、市内の一宮神社を女神として祭典神事の中で結婚式を執り行う)と呼ばれる結婚儀礼神事は全国的にも珍しいとされる。これと似た神事として、奈良県の高良神社(“瓦権現→川原社→高良神社? 高良玉垂命と神功皇后との結婚”)「まぐわい神事」(高良神社の男神が八幡神社の女神のもとへ出会いに行く)が行われている
 そうなると、前回紹介した“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”の事例が連想される。すなわち、高良神社が鎮座していた場所に後から八幡宮が勧請され、従来の主祭神が相殿の神として置き換わる……。祠が本殿内に祀られることは格の高さの表れでもあり、尊ばれていることの証しであるが、現在の案内板やパンフレットには高良神社に関しては何も触れられていない。こうして表向きは完全に“消えた高良神社”となってしまった。
 不破八幡宮の消えた高良神社の謎は、ここ数年来の宿題となっていたことであったが、今回の調査によって、やっとその謎を解くことができた。そして再び幡多地方の高良神社にスポットを当てることがかなったとすれば幸いである。


 

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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