これまで通説とされてきた土器編年には、一元史観による判断が入り込んでいる場合がある。つまり畿内で始まった文化が地方に伝達して普及するまでに、都からの距離に応じて50年や100年流行が遅れる。それを考慮して編年をずらすのが妥当だと判断しているわけである。 そんな事例が『高知県史 考古資料編』(高知県, 1973年) 所収の論考「土佐国分寺古瓦に就て」(田所眉東)の中に典型的に見られる。該当する箇所を引用してみる。
物証だけを見れば飛鳥時代とされるようなものが、流布の時間を考えて白鳳期と判断されている。同じ様式のものでも、地方であるから畿内より50年程度繰り下げて評価をしているわけである。九州に至っては100年のずれを当てはめる場合さえあるようだ。それがさも正当に見えて、実際は土器編年のずれによって、編年の空白が生じる事例も見られる。南九州の成川式土器などはその典型的な例で、編年の空白を埋めるために修正案が出されたりもしている。 烏古瓦〔和名フルカワラ〕について、『本草紀聞』は次のように述べている。「筑前太宰府ノ都府楼ノ瓦古キ也。其レヲ後世地中ヨリ掘出スコトアリテ、硯ナトニスル也。至テ瓦堅ク瓦モ大也。日本ニテモ此太宰府ノ瓦第一ニ古シ。次に大和ノ奈良橘寺・元興寺ナトノ瓦、凡千有余年ニナルト云。其形布目、又ハ一々字アルモアリ」と。一番古いのは太宰府の瓦だと言っているのだ。これが先入観なしの率直な判断であろう。 とりわけ700年以前においては、九州王朝が倭国の主権を握っていたとすれば、九州から近畿へという文化のベクトルを考えるのが自然であり、その時代に一元史観による近畿から九州へという逆のベクトルを当てはめようとすると相当のゆがみが生じてくるのは当然だ。 高知県における空白の5世紀問題も実は、"一元史観による地方の編年50年ずれ"が大きく影響しているのではないかと以前から考えている。 PR |
侏儒国民さんへ
東京の肥さんです。 興味深い記事を提供いただき, ありがとうございました。 〈方位の考古学〉に合致するといいなあと思いました。 今後ともよろしくお願いいたします。
【2021/11/25 16:21】| | 肥さん #4db31dd4fc [ 編集 ]
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