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土佐の国分尼寺はどこか?
 讃岐・伊予・阿波の三か所の国分尼寺は確定され、国や県の史跡となっているが、土佐国分尼寺は未だに確定されていない。最新の説も含めてその候補地を検討してみよう。これまで最も有力とされてきたのは比江廃寺であるが、他に野中廃寺、谷地山法華寺、そして新たな候補地として笠ノ川西村が比定地に挙げられている。

①比江廃寺説(南国市比江字土居屋敷)

 塔の心礎だけしか残っていないが、白鳳時代(645~710年)の古瓦も出土する廃寺。出土の鐙瓦は、複弁蓮花文、単弁蓮花文の両種、宇瓦は、忍冬唐草文、重弧文などの文様がある。その他鬼瓦、鴟尾の断片も発見されており、伽藍配置は法隆寺式と考えられ、古瓦の散布状況から廻廊はなかったと推測されている。 塔の心礎の穴の直径81センチ。「柱の直径を四十倍すると塔の高さが出る」という考古学の定説に従うと、32.4メートルほどの五重の塔であったと推定される。
 塔以外の建造物の礎石は、藩政期に国分川の改修に用いられ残っていない。国分寺ができる以前の白鳳時代の寺院であるが、『長宗我部検地帳』に記載のある「アマシヵウチ」という小字名が寺域内にあることから、国分尼寺として代用された可能性があるという。


②野中廃寺説(南国市野中字仁尾603)

 『南路志第二巻』に「篠原村 鐘楼堂跡 坂折前田中 寺號不知。此所より古瓦出る、礎石も有る也。龍按ニ、此所国分尼寺の跡成へし」(P326)とある。また、P345では国分尼寺について、次のように考察している。
國分尼寺〔古跡未知 續日本紀曰、天平十一年己卯、天皇ノ后光明皇后、六十余州ニ國分尼寺建立。〕
龍按に、當郡篠原村〔坂折山前〕里人鐘楼堂といふ跡有、大成礎石残れり。寺号不知、唯鐘楼堂の跡也と云傳。此大成礎石を、文化四年土人砕きて皆田地に開きし也。此所より古瓦出る。予も拾いて藏めたり。其形國分寺并比江村より出る瓦と同し。按ニ、此鐘楼堂跡ハ古ヘの國分尼寺成へし。幽考に、高岡郡谷地山法華寺を宛て國分尼寺とする説、恐ハ不足。如何となれハ、其国府に建る故俗國府寺とも唱ふ、諸國も又同し。此國ハ長岡郡其國府也。篠原村ハ國分寺より南纔に一里を隔て、供に府たるへし。又淵岳志に云、國分村のホノキに今鐘楼堂・本堂なと云所あり、國分尼寺ならんや矣。此の説も又不審し。今篠原村を指スハ、田字を鐘楼堂と云、又古瓦を出〔国分寺よりも古瓦出る〕、郡も長岡なれハ國分尼寺の跡とすへきか、尚可考。
 野中廃寺跡は国府から南方に伸びる古代官道の東側に位置し、国分尼寺比定地として有力であったが、平安時代以降の寺院跡とされ、説としてはやや廃れている。

③谷地山法華寺説(土佐市谷地)

 谷秦山の門人である安養寺禾麿は『土佐幽考』で、土佐の国分尼寺に現土佐市谷地にあった千手院法華寺を当てている。聖武天皇の詔(741年)で、僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」といい、奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺としたことからの推測だろう。説としては面白いが、禾麿自身も言っているように、国分寺との距離が余りにもありすぎるし、また寺院そのものが山岳仏教系のものである。そういう点で、土佐国分尼寺に比定するには難点がある。現在残っている仁王門の金剛力士は、県の文化財に指定されている。

④笠ノ川西村説(南国市岡豊町笠ノ川)

 『土佐史談269号』(土佐史談会、2018年11月)で「土佐国における国分尼寺ー建立地の歴史地理学的考察ー」と題する論考が朝倉慶景氏によって発表された。土佐国分尼寺比定地の最新説である。
 他県における国分尼寺の立地条件を検討した結果、共通して山際で川に囲まれたような場所であり、国府域から適当な距離の範囲であることが類推される。高知県でこの条件に合致する可能性の高い場所を探ったところ、土佐国分寺よりも西方の南国市岡豊町笠ノ川西村に辿りついた。地名遺称として「尼寺村」→「西村」との関連も見られる。
 高知新聞の楠瀬記者からも指摘があったように、筑後国分尼寺跡も僧寺跡の北約200mの西村地区に推定されており、「西」は「尼寺」の転訛ともいわれる。今後、国分尼寺比定地から古瓦が出土するかどうかが注目点となる。

 以上、土佐国分尼寺について4つの説を紹介した。ところで、741年に出された聖武天皇のいわゆる「国分寺建立の詔」には「国分寺」という言葉が1回も出てこない。それは詔が出された時点において、既に国府寺のような先行する寺院が多く存在したためではないかと考えられる。大半はそのような古代寺院が国分寺や国分尼寺に転用された可能性も見過ごせない。土佐における国分尼寺研究もそういった視点を持って、再度考察していく必要があるかもしれない。
 

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【2019/11/10 09:12 】 | ゴミ屋さんから仏教伝来 | 有り難いご意見(0)
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