「ココログ」(@niftyのブログサービス)と言えば、私が推しているブログに次の3つがある。
①多元的「国分寺」研究サークル
②sanmaoの暦歴徒然草
③肥さんの夢ブログ
いずれも古田史学派のブログで、よく参考にしたり、勉強させてもらっている。「ゴミ屋さんから仏教伝来」のカテゴリーに踏み込んだのも、“多元的「国分寺」研究サークル”の活動に刺激を受けたこともあって、何か情報提供できればと始めたものである。今回は高知県東部の安芸郡奈半利町にある「コゴロク廃寺跡」に関する内容を紹介する。
まず、安芸郡といえば“高良神社の密集地帯”であることを以前報告したことがあるが、安芸郡の中でも奈半利町は高良神社の空白地帯となっている。その一方で延喜式内社「多気神社」「坂本神社」が鎮座(現在は「多気坂本神社」)し、さらに「コゴロク寺」が存在していたとされる。
承平5(935)年12月、任を解かれた紀貫之が京への帰途「奈半の泊まり」に立ち寄ったことが『土佐日記』の中に記載されている。また奈半利川流域は承平年間に著された源順の『和名類聚抄』に安芸郡八郷(里)の一つ、奈半(那波)郷として記され、現在の田野町・北川村も含まれており、古代における奈半利は安芸郡の中心地であったと考えられる。
奈半利町埋蔵文化財発掘調査報告書第1集『コゴロク遺跡群』(奈半利町教育委員会、2003年)に、平成10年度出土遺物実測図および写真が掲載されている。その中に単弁と複弁蓮華文の軒丸瓦が見られ、単弁蓮華文(8葉)、単弁蓮華文(18葉)、複弁蓮華文(16葉)などが発見されている。「古代では、奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して建立され、平安時代前期以降に火災で伽藍の大半が焼失したとされるコゴロク廃寺跡を始め、遺跡周辺でコゴロク廃寺の瓦を焼いたとされる奈半利窯などが現在確認されている」と報告書にも書かれているが、建立年代は本当に奈良時代(8世紀)でいいのだろうか。「奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して」とされているが、聖武天皇の国分寺建立の詔(741年)に結びつける一元史観の影響を受けた判断が見て取れる。
奈良時代はじめ土佐国は幡多・吾川・土佐・安芸の4郡あり、各郡にそれぞれ寺院があったようである。大寺廃寺(吾川)・秦泉廃寺(土佐)などは素弁蓮華文軒丸瓦が出土し、土佐国分寺の創建より古いと考えられる。聖武天皇以前に既に「一郡一寺」の体制が出来ていた可能性すら見えてくる。そこに“多元的「国分寺」研究サークル”の研究活動の意味があると言えよう。
①多元的「国分寺」研究サークル
②sanmaoの暦歴徒然草
③肥さんの夢ブログ
いずれも古田史学派のブログで、よく参考にしたり、勉強させてもらっている。「ゴミ屋さんから仏教伝来」のカテゴリーに踏み込んだのも、“多元的「国分寺」研究サークル”の活動に刺激を受けたこともあって、何か情報提供できればと始めたものである。今回は高知県東部の安芸郡奈半利町にある「コゴロク廃寺跡」に関する内容を紹介する。
まず、安芸郡といえば“高良神社の密集地帯”であることを以前報告したことがあるが、安芸郡の中でも奈半利町は高良神社の空白地帯となっている。その一方で延喜式内社「多気神社」「坂本神社」が鎮座(現在は「多気坂本神社」)し、さらに「コゴロク寺」が存在していたとされる。
承平5(935)年12月、任を解かれた紀貫之が京への帰途「奈半の泊まり」に立ち寄ったことが『土佐日記』の中に記載されている。また奈半利川流域は承平年間に著された源順の『和名類聚抄』に安芸郡八郷(里)の一つ、奈半(那波)郷として記され、現在の田野町・北川村も含まれており、古代における奈半利は安芸郡の中心地であったと考えられる。
奈半利町埋蔵文化財発掘調査報告書第1集『コゴロク遺跡群』(奈半利町教育委員会、2003年)に、平成10年度出土遺物実測図および写真が掲載されている。その中に単弁と複弁蓮華文の軒丸瓦が見られ、単弁蓮華文(8葉)、単弁蓮華文(18葉)、複弁蓮華文(16葉)などが発見されている。「古代では、奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して建立され、平安時代前期以降に火災で伽藍の大半が焼失したとされるコゴロク廃寺跡を始め、遺跡周辺でコゴロク廃寺の瓦を焼いたとされる奈半利窯などが現在確認されている」と報告書にも書かれているが、建立年代は本当に奈良時代(8世紀)でいいのだろうか。「奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して」とされているが、聖武天皇の国分寺建立の詔(741年)に結びつける一元史観の影響を受けた判断が見て取れる。
奈良時代はじめ土佐国は幡多・吾川・土佐・安芸の4郡あり、各郡にそれぞれ寺院があったようである。大寺廃寺(吾川)・秦泉廃寺(土佐)などは素弁蓮華文軒丸瓦が出土し、土佐国分寺の創建より古いと考えられる。聖武天皇以前に既に「一郡一寺」の体制が出来ていた可能性すら見えてくる。そこに“多元的「国分寺」研究サークル”の研究活動の意味があると言えよう。
中世になるといくつかの古文書が現存し、安芸郡の多くは金剛頂寺の寺領とされているが、奈半利に関しては『岩清水八幡宮記録』によれば「奈半荘」と記され、11世紀半ばには既に荘園化していたことが知られる。通常は石清水八幡宮の荘園に勧請された八幡宮摂社として高良神社が存在する事例が見られるが、どうやら安芸郡では逆転現象が起きている。金剛頂寺の寺領のほうに高良玉垂命が祀られているようなのだ。
「あなたの笑い声は よく聞けば波の音でした」(コブクロ『ここにしか咲かない花』より)
コゴロク廃寺が語りかけてくる声に、よく耳を傾ければ、何か真実が聞こえてくるかもしれない。出土遺物「軒丸瓦」に関する部分を引用し、紹介しておく。
「あなたの笑い声は よく聞けば波の音でした」(コブクロ『ここにしか咲かない花』より)
コゴロク廃寺が語りかけてくる声に、よく耳を傾ければ、何か真実が聞こえてくるかもしれない。出土遺物「軒丸瓦」に関する部分を引用し、紹介しておく。
出土遺物 瓦
16~20は軒丸瓦で、単弁と複弁蓮華文がみられる。16は単弁蓮華文で、約1/3が残存し、TR-50の第Ⅳ層から出土する。弁区は中房より盛り上がり、蓮華文3葉、中房には蓮子3顆が残り、元は8葉で、1+8顆の蓮子であったものとみられる。弁は丸く、間弁が弁を囲んでいない。外区は不明である。復元径は、直径が約20.5㎝、外区が16.6㎝、中房が約5.4㎝とみられる。焼成はやや不良で、色調は灰白色を呈する。17も単弁蓮華文で、約1/4が残存し、16と同じTR-50の第Ⅳ層から出土する。直径14.0㎝、外区径12.4㎝、中房径4.8㎝を測る。弁区には間弁が囲む12葉の蓮弁が残り、元は18葉であったと復元できる。中房は弁区より突出し、蓮子は1+6+11顆と二重に配置される。外縁は素文縁となる。焼成はやや不良で、色調は灰白色を呈する。18は複弁蓮華文で、TR-39のSD0001から出土する。直径18.0㎝、外区径11.7㎝、中房径5.0㎝を測る。弁区には2葉1単位の複弁が3単位残り、元は8単位16葉とみられ、中房は弁区から突出し、蓮子は1+6+12顆と二重に配置される。外縁は素文縁となる。焼成は良く、色調は灰白色を呈する。19は複弁蓮華文で、TR-44のSD0002から出土する。中房と弁区の一部が残存し、蓮子は1+6+12顆と二重に配置される。大きさや形態は17と酷似する。焼成は良好で、色調は灰色ないし灰黒色を呈する。20は外縁の一部が残存し、直径15.4㎝を計り、TR-50の第Ⅳ層から出土する。外縁は平行線文と鋸歯文を組み合わせたものである。焼成は良く、色調は白色を呈する。(『コゴロク遺跡群』P10~11より)
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『探訪―土左の歴史』第20号
(仁淀川歴史会、2024年7月)
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高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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