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 ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』の“土佐国分寺伽藍配置考(17)―七重塔の基壇はどこに―”で、土佐国分寺問題について今まで取り上げてきた論点をよく整理してくださっているようで、大変ありがたいことだ。土佐国分寺跡に関しては数次にわたる発掘調査やその報告書などもあり、資料としては豊富なのだが、素人が足を踏み入れるとその情報量に溺れそうになり、私もこれまで手を出せずにいた。
 『新修 国分寺の研究』という本は仰向けに寝転がって読むにはとても体力のいる本であったが、全国的な国分寺関連の資料や論文がまとめられていて、非常に有用な書籍のようだ。しかし古田武彦氏がいつも史料批判から始められたように、対象とする史料の信頼度をよく確認しておくことが必要だ。「新修」と銘打っているものの、使用されている古瓦の図などの資料は意外と昔のままなのではないかとの印象を受けた。現在では疑問とされていることでも、そのまま掲載されているように見受けられる。
 それが浮き彫りになったのが今回、ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』で発せられた疑問である。『新修 国分寺の研究』の「第217図 土佐の古瓦」(P386)の④に複弁六葉半蓮華文軒丸瓦が掲載されているのに、南国市教育委員会はなぜこれを土佐国分寺跡出土瓦に入れていないのかとのご指摘。ごもっともである。同書はこの軒丸瓦を「土佐国分寺出土瓦の内、複弁蓮花文は二形式が知られる。その一④は花弁は六葉半、高い周縁の内側面に輻線と斜格子の複合文を刻み、中房の蓮子は周環をめぐらし、十個を配している」(P385)と説明している。
 実はこの瓦については過去に紹介したことがある。“土佐国府跡、内裏の西から13弁菊紋軒丸瓦(前編)(後編)”においてである。明治期の『皆山集』には「国分寺古瓦ノ図」として「其瓦一枚ハ丸ニシテ菊花アリ 〜 辨十三アリ」と記録されている。

 ところが、江戸時代の国学者・鹿持雅澄(1791‐1858年)の『土佐日記地理弁』では、次のように書かれている。
 国府ノアリシ跡ヲ、里俗内裏屋敷ト称リ、又ソコニ、内裏グロト云伝フル所アリ、紀子旧跡ノ碑ソコニ建リ、コノ内裏グロノ西ヲ瓦畑ト云、ムカシ古瓦多ク出ケルニヨリテ、カク云リ、今ニ瓦ノ小片、マゝ出ルコトアリ、其中ニ菊紋ノ瓦甚稀也、イヅレモ布目アリテ、今ノ製ニ異ナリ、ソコヨリ東一丁余ニ、御門前ト云処アリテ、当昔国府ノ門、ソコニアリシト、(下略)
 土佐国府跡の紀貫之が住んでいたとされる場所が内裏と呼ばれ、記念碑が建っている。『土佐日記地理弁』によると、内裏ぐろの西を瓦畑といい、そこから古瓦が多く出土している。その中に十三弁菊紋瓦があったと記録されているのだ。
 『皆山集』では、国府の西だから国分寺の古瓦と判断したのだろう。単純に内裏の真西であれば土佐国分寺跡の推定寺域の北辺よりももっと北になる。前回の国府小学校校長の証言である「飛鳥時代の蓮弁古瓦」が出土した場所と、ほぼ同じ地点ということになる。地理的には国府小学校の目と鼻の先だ。
 一方の蓮弁古瓦について田所眉東氏は、国司館などに使われた瓦であろうはずがなく、近くの比江廃寺関連の古瓦であろうと推測した。その様式の古さから「之は伊予国小松町北川に於ける聖徳太子建立の法安寺の影響の外はないと観るに就ては、当時の官道に着眼せなければならん」とし、飛鳥時代創建の伊予国(愛媛県)最古の古代寺院とされている法安寺の影響と考えた。
 以上のような理由で南国市教育委員会は「複弁六葉半蓮華文軒丸瓦(13弁菊紋軒丸瓦)」を土佐国分寺跡出土の瓦類から除外したものと理解する。実際に発掘調査で出土したもの、出土地点が明確なもののみについて報告し、出土地点が明瞭でない古瓦については除外する――むしろ学問的な真摯ささえ感じた。
 多かれ少なかれ他県でも同様のことがあるだろう。問題点が修正されないまま『新修 国分寺の研究』が装丁を新たにしていたとすれば少し残念である。単に『新修 国分寺の研究』に書かれているからとか、著名な学者が言っているからということを鵜呑みにすることは危険なのである。
 ところで、伊予国最古の古代寺院とされる法安寺がなぜ西条市などに存在したのだろうか。伊予国府域の今治市や松山平野などではなかったのだろうか。一つ心当たりがある。西条市の明理川に「紫宸殿」地名が残されており、その地名遺称と関連する古代寺院だったのではないか。そして土佐には「内裏」地名が残されている。古代において実際にそのような場所が存在していたとすれば、少なくとも天皇と同格以上の人物が住んでいたと考えるほかない。7世紀以前においては、近畿天皇家も日本列島のナンバーワンではなかった。
 そして、「十三弁花紋は九州王朝の家紋」であったとの説もあり、九州の太宰府市を中心として、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が多く出土しているようだ。現在では蓮華文と呼ばれる「13弁菊紋軒丸瓦」――内裏地区付近で出土したとの伝承は尊重すべきであろう。かつて古田武彦氏は「古瓦の出土があれば、古代寺院が存在したとなぜ分かるのだろうか?」といったニュアンスのことを語られていた。一瞬、何を言っているのだろうと理解に時間がかかったが、必ずしも古代寺院とは限らないのではなかとの意味だったようである。
 ちなみに、複弁六葉半とされている軒丸瓦が単弁に見えるとのご意見もあるが、「1+3+2+2+2+3=13」との説明を目にしたことがあり、別の拓本では確かにそのようにも見える。


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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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