源頼朝の弟といえば、まず真っ先に思い浮かべるのが義経ではないだろうか。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、菅田将暉さん演じる義経が、神戸・一ノ谷の合戦で「逆落とし」の奇襲作戦で手柄を挙げるシーンが登場した。戦場は「須磨」ではなく「鵯越(ひよどりごえ)」との説もあるが、近年は地元の郷土史家の間でも新たな説が出されているようだ。 それはさておき、ドラマの中で一ノ谷が鉢伏山の麓にあることに気づいた。高知県にも鉢伏山があり、その麓には源頼朝の弟の墓所と伝えられる場所がある。高知市介良乙の源希義神社だ。 平治元年(1159年)の平治の乱後、源頼朝の同母弟の希義は土佐国介良(けら)庄に配流された。治承四年(1180年)、頼朝が挙兵すると希義も呼応すべく、夜須七郎行家(行宗)を頼り、夜須荘(現・香南市夜須町)に向かったが、平氏方によって年越山(現・南国市)で討ち取られてしまう。 平氏の威光を恐れ、そのまま放置されていた希義の遺骸を介良の琳猷(りんゆう)上人が手厚く葬り、頼朝から寺領を与えられ、西養寺(真言宗)を創建し、長く法灯を伝えた。正徳三年(1713年)に焼失後衰え、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は当時の石垣の一部を残すのみ。傍らの山林の中に建つ無縫塔が源希義の墓と伝えられている。ちなみに希義の法名は「西養寺殿円照大禅定門」である。
現・高知市春野町弘岡(旧吾川郡)の地で基盤を固め、後の戦国時代の土佐七守護の一人とされる「吉良氏」の系譜が源希望につながるとしているのはロマンあふれる話ではあるが、『吉良物語』の創作かもしれない。けれども、『吾妻鏡』には「時に家綱俊遠ら吾河郡年越山に追到して希義を誅し訖(おわ)んぬ」と、希義終焉の地を吾川郡と記録しており、原文を尊重するなら、一考の余地はあるだろう。
地元の高校生に源希義神社の場所を尋ねても、まったく知らない様子。地図で探してやっと入り口の路地を見つけたものの、山中に入ってから道案内がなく、無事たどり着けたのは幸運であった。現地にはいくつかの掲示板があったが、一つははがれたままになっていた。このまま人々の記憶から消えていくのではないかと案ずるのは杞憂であろうか。 PR |
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全国の一級河川の水質ランキングでも連年1位(国土交通省調べ)を記録している奇跡の清流仁淀川。その川沿いに拓けた吾川郡いの町は土佐和紙の産地としても有名である。春先には花見客でにぎわう仁淀川堤防桜堤公園のたもと。相生川が仁淀川に流れ込む川口付近に、いの町では数少ない竈戸神社の一つが鎮座する。 いののかみ この川ぐまに よりたまひし 近くには中世の荘園制度に由来する地名「今在家」もあることから、有力百姓とそれに連なる小作人で形成された集落があったことが想定される。堤防のすぐ内側にある竈戸神社は今在家の人々によって祀られてきたものだろうか。 |
仁淀ブルーとして県外にも知られるようになった仁淀川。その河口に位置する高知市春野町西畑地区は「西畑人形」の発祥の地である。高知県では人形を「デコ」といい、人形芝居を「デコ芝居」といっていた。明治~大正期には農民が一座を組み、最盛期には34座が活動したという。農閑期には四国内のみならず 中国・九州方面でも興行を行い人気を博した。 昭和に入って次第に衰退し、戦後は全く見られなくなったが、1996年に「西畑人形芝居保存会」が発足し、春野町西畑の岐(ふなと)神社の夏祭り(旧暦6月25日)などで活動が復活した。西畑バス停の近く、「介護予防施設高知市春野デコの里」の前には「西畑人形発祥之地」と刻まれた大きな石碑が建っている。
岐神社には何度か足を運んだことがあるが、西畑地区には岐神社の他に、近くに森神社が鎮座しているはずだ。以前来たときは見つけられずに帰ってしまったが、岐神社の春祭りの日の夕刻、何かに誘われるままに森神社へと向かった。山の登り口に森神社の案内板があった。後から知ったことだが、岐の谷の東側の山を鼓鳴山(こめいざん)といい、岐の里では真夜中にこの山から鼓の音が聞こえてくるという話が伝わっている。 この鼓鳴山の頂き近くに小さいお宮さんがあります。古くから不入〔いらず〕権現〔ごんげん〕と呼んでいますが、文書の上では森神社となっています。祭神は谷の西側にある岐神社の祭神の姉神様だそうです。不入権現というのは、前は女人禁制となっていたからだろうと思いますが、昔から女性がこの山にはいると大雨になる、といわれています。(『はるの昔ばなし』「鼓鳴山」より)入山して、はたと困った。道がないのである。断片的には道らしきものがあるが、つながっていない。崩れやすい急な斜面で、倒木もある。正規ルートでないところから入ってしまったのだろうか。滑落する危険も考えないではなかったが、下山するときは分かりやすい道に出れるだろうと期待して、そのまま道なき道を登っていった。 そこまでして森神社にこだわったことには理由がある。春野一帯を支配していた国人領主としての吉良氏は、戦に敗れて戦国期には衰亡した。吉良氏に与(くみ)した森山氏も森氏へと姓を変えて命脈を保ったとされる。 実は、その森氏に関係する神社が、春野町西諸木にある2つの神社「森神社」「御山所神社」ではないかという推測があった。まるで、かつての「森山」姓を「森」と「山」に分けて祀っているかのようである。ブログで紹介した際は私年号をテーマとして、“「天政」年号を刻んだ手水鉢――高知市春野町西諸木の森神社”、“御山所神社にもう一つの「天晴」年号――高知市春野町西諸木”という形で取り上げた。実際に西諸木には数軒の「森」さんが住んでおられるようだ。機会があれば森山氏をルーツとしているかどうか調べてみたい思いもある。 一方、西畑の森神社はどうなのか。森神社を山に祀るという点でいえば、これも「森山」につながるという連想もできる。しかしながら、西畑地区では森姓は電話帳にも出ていない。 道なき山の急斜面を尾根まで登ると参道らしき道が現れた。少し行くと、扁額に「森神社」と書かれた鳥居がある。その左脇の立て札にも何か記されていた。「奉納 天晴一五三年五月吉日予定 芳実」ーー知識がなければ意味するところが分からないことだろう。「天晴一五三年」とはいつのことなのか? これに関してはピンと来るものがあった。幕末土佐で使用された私年号である。もちろん国家主権が定めた正規の年号ではないが、土佐では明治維新よりも1年早く、天晴年号が民間で用いられた。すなわち天晴元年=1867年ということが知られている。当然ながら「天晴一五三年」などは架空の年号ということになるが、春野町西諸木の森神社や御山所神社の「天政」「天晴」年号を知る人のウイットか、あるいはルーツや思想を共有する者たちによる何らかの意図が感じられた。 一応「天晴一五三年」がいつになるか計算してみると、1867年を元年として、1867+153-1=2019年。ほんの3年前だ。現在では西畑の森神社は夏祭りしか行われていないと聞く。 さて、夕日も傾き、暗くなる前に下山しようと道を探したが、やはり迷ってしまった。登ってきたルートよりもさらに南方の山の急斜面を恐る恐る下っていった。標高がさほど高くなく、無事民家の脇道に出られたから良かったものの、あまり人に勧められたものではない。けれども今回、「天晴」年号を用いた幕末土佐の志士たちの精神が春野町西畑の地にも受け継がれていることを垣間見た気がした。 |
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大学時代を過ごした福岡市。中央区天神の交差点では『通りゃんせ』の音楽が信号音として流れていて、まさにご当地アイデアといったところで、ちょっと粋だと感じていた。
その記憶からか、天満宮に向かう時、脳内でこの音楽が自然と流れてくる。「仁淀ブルー」で有名になった仁淀川右岸、土佐市から吾川郡いの町へ抜ける土佐伊野線。その道沿いに、いの町大内の天満宮の鳥居がある。 かつては受験生のための合格祈願もあって、九州の太宰府天満宮へよく行っていたものだが、近年はコロナ禍にあって、しばらく参拝できていない。そういう理由もあり、以前から気になっていた近場の天満宮へと向かった。 「天神さま」といえば一般的には、学問の神様として祀られる平安時代の菅原道真(845-903年)公のこととされているが、本当だろうか。八幡宮に次いで、高知県で2番目に多い神社が天満宮である。『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)には、県内の144社が紹介されている。 かつて土佐国(高知県)は、菅原道真に連座して長男の菅原高視が左遷されている。また菅原道真が立ち寄ったという伝承もあり、小筑紫といった地名も存在する。確かに無関係というわけではないが、そこまで道真公を信仰する必要があるだろうか。 菅原道真については尊敬すべきところもあり、学問の神様としてあやかりたいところではあるが、これだけの広がりを見せる天神信仰が単なる一個人を崇拝するものとは考えにくい。もしかすると、道真以前から北部九州を中心として存在していた、歴史的に古い淵源を持つ信仰なのではなかろうか。 真理探究の道は細く険しい。「ここはどこの細通じゃ 天神さまの細道じゃ」――『聖書』にも「狭き門からはいれ。……命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書7章13・14節)とある。 ふと、天満宮への道脇に白梅の木があるのが目にとまった。東日本では雪。高知県では雨となった日曜日。たくさんのつぼみの中に、すでに咲いている花があった。天神さまのご利益かどうかは分からないが、翌日、予期せぬ2人の大学合格の嬉しい報告を聞くことになろうとは……。 |
横浜から瀬戸へ通じる旧道の切通し。東側の石段を登った箕越山の丘陵上に、木立に囲まれた小祠堂がある。これが谷時中の墓で、清川神社(高知市横浜東町10)とも呼ばれている。時中はその性豪胆にして、官途につくことなく、最後まで民間にあって学を講じた。その門下に家老の野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らがおり、水戸学にも影響を与えた土佐南学を発展させることとなった。 谷といったら「柔ちゃん(谷亮子)」ではなく、谷秦山や谷干城などを思い浮かべるところだが、彼らは南学の系譜を受けつぎながらも谷時中の血統ではなく、息子は谷一斎(1625-1695年)。 時中は実学を実践した人物でもあった。瀬戸村には浦戸湾の海水が北から入っていたので、真乗寺前は一面の沼や沢であった。多くの人夫を雇い、入口に東西約40mの堤防を築いて、低湿地を干拓し、三十町余り(約300石)の新田を完成させた。 慶安元年(1648年)、この田地と山林24町歩を高知城下の豪商播磨屋宗徳(はりまやそうとく)に銀16貫目で売却し、息子の一斎を京都に遊学させている。まさに「子孫に美田を残さず」である。後に、谷秦山も自分の田地を売りはらって、『六国史』などの書籍を買い込み、子垣守に与えたという。時中に学んだものであろうか。 「土佐の高知のはりまや橋で坊(ぼん)さん、かんざし買うを見た」と『よさこい節』に歌われ、今でこそ、がっかり名所として知られる「はりまや橋」だが、その朱塗りの橋をかけたのが播磨屋宗徳である。その橋のたもとで、元お坊さん(谷時中)が田んぼを売った話はあまり知られていない。
幕末土佐から武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎など多くの勤王の志士が輩出され、明治維新の大業が成し遂げられた。 彼らの精神的な支柱となった土佐南学の礎を築いた先人たちの魂は、意外と身近なところに眠っていたのだった。 |
県外の読者からのコメントで、高知市横浜の清川神社に南学中興の祖・谷時中のお墓があることを教えられた。「灯台下暗し」で、地元の人間にもあまり知られていないスポットかもしれない。そもそも「谷時中って誰?」と思う高知県民も多いのではないだろうか。人気が坂本龍馬に一点集中するあまり、他の高知の偉人たちが十分に発掘・PRできていない弊害があるように感じる。
ところで、神社にお墓があることに違和感を持たれる方もいるのではないだろうか。神道では穢(けが)れを忌み嫌う考え方があり、お寺とお墓のセットはあるが、神社とお墓が共存するというのはどうなのか。「百聞は一見に如かず」――とにかく行ってみることにした。 浦戸湾に面する高知市横浜東町の横浜病院に隣接する箕越山。かつては前の道路をよく通っていたものだった。当時は全く気づくこともなく通過していたらしい。旧道に踏み入れると「谷時中の墓」の案内板がすぐに見つかった。山の一画が墓所になっており、ゆるやかな階段を昇りつめた頂上に清川神社の鳥居が見えてきた。下調べで見た古い写真と違って、つい最近きれいに整備された様子である。 古い頌徳碑碑文は文字が見えづらくなっているが、平成23年に改修工事が行われたようで、地元住民と東京都在住の森夫妻のご尽力があったことが、新しい石碑に刻まれている。森夫人の旧姓名が「カントリー・ガール」の谷山浩子ならぬ谷浩子さん。谷時中の後孫であろうか。 谷家の先祖は奥州の佐藤氏で、高知県の東の玄関口、安芸郡甲浦にやってきた。父宗慶は親鸞派の甲浦真乗寺の住職で、貧乏な寺に生まれた時中は慶長十八年(1613年)、14歳の時、父に連れられ長浜瀬戸村(現高知市瀬戸)真乗寺に移る。ほどなく、長浜雪蹊寺住職天質和尚に弟子入りし、25歳まで朱子学を学んだ。 ある日、天質が『大学』の「財を生ずるに大道あり」の章の講義を終え、さらに「金銭や財産は身をほろぼし、家を貧乏にする故、何一つ所有していないことが安全である」と講義した。孔子の教えである儒学と現世の欲を遠ざける仏教との矛盾を感じとった時中の反論は天質を感心させたという。 当時の南学はこの世を捨てた僧侶から、君臣、父子、夫婦といった現世の人道を学ぶという自己矛盾を抱えていた。時中は還俗して三郎左衛門と改名し、干拓事業をおこして人々の生活を豊かにする儒者としての道を選んだ。殖産興業、経済主義の、理論より実践に重きをおく「実学」を打ち立てたのである。 |
高知市春野町秋山。用水路沿いに、雪蹊寺(33番札所)からの種間寺(34番札所)へ向かう四国八十八ヶ所遍路道(県道279号線)が通っている。秋山城址を通り過ぎ、JA集出荷場の脇道を南西に入ってしばらく行くと、旧郷社・星神社(春野町秋山3276)が鎮座している。 町はずれの田園地帯に鎮座する星神社が、かつて当地域32集落の産土神であり、郷社として崇敬されていたことは、現在の姿からは想像しにくい。近所の人の話では、「今では氏子も減って、祭りも行われなくなった」とのこと。 いまでこそ春野町役場や春野文化ホール「ピアステージ」、春野中学校などが林立する西分が春野町の中心であるように見えるが、これは市町村合併に伴うもの。合併の歴史を簡単に記しておこう。
このように現在では高知市に編入された春野町であるが、かつては吾川郡であった。古代において吾川郡の郡家がどこに置かれていたかについては、長らく岡本健児氏の「いの町枝川説」が有力であったが、近年、朝倉慶景氏による「春野町秋山説」が出された。その比定地が今回紹介する星神社の南方数百メートル地点なのである。 この新説が正しいとすれば、吾川郡の郡家がその北方に星神社を祀っていたという位置づけとなり、後の時代に郷社として引き継がれていったことが十分納得できる。鳥居手前の井戸脇に「奉寄進 惣中 天保十二辛 丑九月吉日」と刻まれた立派な手水鉢が、かつての崇敬の名残りを伝えているようだ。 『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』(竹内荘市著、2009年)によると、星神社の祭神は「天之御中主神、明星尊」としているが、『高知県神社誌』(竹崎五郎著、昭和6年)では出雲の国引き神話に関連する「國所引座八束水臣津野命」も併記されている。古い歴史を感じさせるところだが、『鎮守の森は今』では省略したのかもしれない。勧請年月縁起沿革等未詳。元は妙見大明神と称した。 |
前回紹介した『鬼滅の刃』3大聖地の一つ、溝口竈門神社(福岡県筑後市溝口)は1014年に筑前国竈門山(現在の太宰府市)より勧請された。 竈門山というのは宝満山のことで、信仰の山として知られる。現在では竈門神社上宮(山頂、標高 829m)、下宮(本社殿、標高 175m)が鎮座する。ここが『鬼滅の刃』3大聖地の筆頭とされる宝満宮竈門神社(祭神・玉依姫命)のことである。 中宮跡は8合目、標高 725m に位置し、現在堂社は無い。山の名称は歴史的には「御笠山」の異称もあり、阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(『古今和歌集』巻九)に歌われた三笠山というのは、奈良県の山などではなく、玄海灘から東方に見える竈門山(宝満山)のことだとの指摘(“春日なる三笠の山ーー『土佐日記』紀貫之の証言”)もある。 それはさておき、問題は『鬼滅の刃』の聖地とされる本場九州の宝満宮竈門神社や溝口竈門神社の祭神がいずれも玉依姫命であるということだ。これに対して高知県の竈戸神社の祭神は奥津日子神・奥津比売神の二神とするところが多い。「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふことになっている」(『神道史』清原貞雄著、1941年)といった専門家の解釈が影響しているようだ。 『神社明細帳』の竈戸神社(荒神)の祭神は、前述の二神の外、迦具突知神、火産霊神(火武主比神)がある。いずれも火の神であるが、これは神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう。(『長宗我部地検帳の神々』廣江清著、昭和58年)明治維新により新政府は神道の国教化を進め、神仏習合の信仰形態はよろしくないということで、神仏分離令を発した。神社自体も仏教色を廃し、神社の名所変更や祭神・沿革等の差出しを求めた。それらをもとに作られたのが『神社明細帳』である。このとき「荒神宮」「三宝荒神」は一律「竈戸神社」に名称変更されている。祭神についても明治政府に忖度してか、体裁を整えたようなところが見られる。マジカルバナナではないが、竈といったら火。火といったら火産霊神といった具合である。 『鬼滅の刃』の作品中では「炎の呼吸を火の呼吸と言ってはならない」と戒められている。竈門家に伝承されてきた「ヒノカミ神楽」の「ヒ」は単なる「火」ではないのかもしれない。主人公・竈門炭治郎を助ける医者の珠世(たまよ)も作品中では重要な役割を果たしているようだが、その名は玉依姫命に由来するとも推測されている。 今回紹介する高知市春野町芳原299の竈戸神社の祭神は「火産霊神ほか五柱」とされている。名称変更前は荒神宮。春野町でも人口が集中する南ヶ丘団地とキャンプ地として知られる春野球場との中間地点。観音正寺観音堂(高知県指定有形文化財)の近く、106段の石段の上に鎮座する。 現地を訪れたとき、石段の下に若一王子宮の巨大な鳥居があったので、場所を間違えたかと思ったほどだったが、若一王子宮自体はさらに離れた場所に鎮座していた。春野町芳原の竈戸神社もまた他と同じように回りが見渡せるような高台の岡の上にあった。近くには馬頭観世音菩薩が祀られており、白土峠に向かうこの場所は、古来より山越えの要所となっていたようだ。
高知県には7郡あって、「中5郡」という表現がある。高岡郡・吾川郡・土佐郡・長岡郡・香美郡の5つは中央の指示・伝達が行き届き、ある程度同じの文化を共有してきたが、東の端の安芸郡と西の端の幡多郡は独自の文化を保ってきたとされる。神社行政においても幡多郡だけは吉田家直支配の歴史があって、中央の意向にすんなりとは従わなかったところがある。 九州の竈門神社に関係する「玉依姫命」が幡多郡の歴史ある八幡宮の祭神として残されてきたことに何か深い意味を感じる。 |
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9月25日に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が地上波で初放送された。2019年4月から9月に放送されたテレビアニメ『鬼滅の刃 竈門炭治郎 立志編』で登場した「ヒノカミ神楽」の秘密が少しは解けるかと期待していたが、「炎の呼吸」を使う鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎でさえ、まったく知らない様子だった。 煉獄杏寿郎は何の脈絡もなく、主人公・竈門炭治郎に対して、開口一番「溝口少年」と呼びかける。この場面と福岡県筑後市溝口1553の溝口竈門神社(祭神:玉依姫命)との関連性を見つけ、最初に聖地化のアドバイスを観光協会にしたのが、地域活性化コスプレイヤー・丹タキさん。その後、丹さんが属するコスプレイヤー集団『奇抜の刃』は、イベントや祭事、テレビ取材に協力しながら溝口竈門神社を鬼滅3大聖地の一つに押し上げたという。 ところで、無限列車に乗り込んだ鬼殺隊員の竈門炭治郎・我妻善逸・嘴平伊之助の3人は「かまぼこ隊」と呼ばれている。前回紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈門(かまど)神社⑤――高知市長浜”は、海外からも注文が殺到している禰豆子の「竹ちくわ」を製造する土佐蒲鉾(かまぼこ)本社のすぐ近くでもあり、高知県におけるプチ『鬼滅の刃』聖地として盛り上げてほしいところである。高知市観光協会にでも話を持ちかけるべきだろうか。 それはさておき、今回紹介するのは南国市野中、西福寺と道を隔てた向かいに鎮座する竈戸神社である。高知県では漢字表記が「竈門」でなく「竈戸」が主流であることはこれまでにも言及してきた通りである。神社関係の資料にも掲載されず、小さな祠であるが、境内社ではなく「竈戸神社」と書かれた扁額付きの鳥居がしっかりある。野中という地名が示すように、この場所は先だって発掘調査で法起寺式伽藍配置が確認された野中廃寺跡のすぐ北、年越山の南麓に位置する。 年越山といえば、頼朝の実弟、源希義が平家方の家人・蓮池家綱や平田俊遠らと激戦を交えた由緒ある場所とされる。源氏方夜須行家の援軍も間に合わず、無惨にも25歳の若さで斬り殺されてしまったのがこの年越山の近くだと考えられてきた。 “眠り鬼”魘夢(えんむ)と激闘。その後に登場した“上弦”と呼ばれる幹部クラスの鬼・猗窩座(あかざ)と、壮絶な死闘を繰り広げた末に若くして命を落とした鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎の姿とオーバーラップする。テレビ放送をきっかけに再燃する『鬼滅の刃』ブームに合わせて、これまで紹介した高知県のプチ『鬼滅の刃』聖地をリストアップしておく。 |
2021年、今年も6月30日がやって来た。ハーフタイム・デイ、一年間の折り返し地点となる日である。夏越大祓――高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日でもある。近年は初詣(はつもうで)をもじった夏詣(なつもうで)といった言い方も出回っているようだ。 昨年は土佐市高岡町丁天神の三島神社(祭神:大山祇神)でも輪抜け様が行われていたことや四万十市不破の不破八幡宮で輪抜け様が復活したという報道を紹介した。さらに輪抜け様を実施する神社を新たに開拓しようと思っていたところ、有力な情報を得ることができた。不破八幡宮以外にも四万十市で輪抜け様を実施している神社があるというのだ。
昨年から「輪抜け様」を一日集中にならないように、数日間にわたって実施するところが増えた。高知八幡宮でも7月7日まで実施しているとの報道もあった。身近な人に聞いたところ、①潮江天満宮 ②土佐神社 ③高知八幡宮などが毎年よく行くベスト3という印象である。新型コロナウイルスに始まった負のスパイラルの輪を早く抜け出したいものである。 夏越の祓「輪抜けさま」実施神社一覧<神社名> <現住所> 土佐神社 高知市一宮しなね2丁目16−1 朝倉神社 高知市朝倉丙2100−イ 石立八幡宮 高知市石立町54 出雲大社土佐分祠 高知市升形5-29 潮江天満宮 高知市天神町19-20 小津神社 高知市幸町9-1 郡頭神社 高知市鴨部上町5−8 高知大神宮 高知市帯屋町2丁目7−2 高知八幡宮 高知市はりまや町3丁目8−11 仁井田神社 高知市仁井田3514 八王子宮 香美市土佐山田町北本町2-136 山内神社 高知市鷹匠町2-4-65 若宮八幡宮 高知市長浜6600 愛宕神社 高知県高知市愛宕山121-1 薫的神社 高知市洞ヶ島町5-7 鹿児神社 高知市大津乙3199 清川神社 高知市比島町2丁目13−1 天満天神宮 高知市福井町917 本宮神社 高知市本宮町94 多賀神社 高知市宝永町8−36 掛川神社 高知市薊野中町8-30 六條八幡宮 高知市春野町西分3522 仁井田神社 高知市北秦泉寺 椙本神社 吾川郡いの町大国町 三島神社 土佐市高岡丁天神 不破八幡宮 四万十市不破 常栄神社 四万十市具同8712番 ※ 今年の実施状況については不正確なところがあるかもしれません。 |
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