‘転生モノ’といったら昔は『女神転生』くらいであったが、37歳の会社員が通り魔に刺されてスライムに生まれ変わる『転生したらスライムだった件』、女子高生が爆破に巻き込まれファンタジー世界の蜘蛛に転生する『蜘蛛ですが、なにか?』。そのほかにも『Re:ゼロから始める異世界生活』や『無職転生 -異世界行ったら本気だす-』 など、転生モノが一世を風靡している。韓国ドラマでも『トッケビ~君がくれた愛しい日々~』に代表される転生を扱ったストーリーが目白押しだ。 NHK大河ドラマ『青天を衝け』ではないが、幕末土佐でも「てんせい」ブームが巻き起こっていた。神峯神社(安芸郡安田町神峯山)の石灯籠をはじめとして県下13か所以上で見つかっている「天晴(てんせい)」年号(“幕末土佐で使われた私年号「天晴」”)がそれである。 天晴元年は慶応三年(1867年)に相当し、中でも高知市春野町西諸木には2か所あるとの情報だ。簡単に見つかるだろうとタカをくくっていたが、意外にも地図情報なしで、前を通らなければ、ほぼ見つからないような場所であった。それが前回紹介した“「天政」年号を刻んだ手水鉢――春野町西諸木の森神社”だったのだ。 神道の考え方からすると、人の住む世界と神様の住む世界は別であり、居住地と社地は川などを隔てて分けられていることが多い。ところがこの森神社は住居が立ち並ぶど真ん中にあり、鎮守の森も無きに等しい。森神社で私年号「天政元卯年九月吉日」が刻まれた手水鉢を発見することができたのは幸運であった。 この森神社については『春野町の神社』(吾川郡春野町神社総代会、平成10年)を見ても祭神未詳とされている。森もないのに森神社とはこれいかに?――正体不明といったところだが、ある仮説は浮かんでいる。 しかし、まずはもう一つの「天晴」年号があるとされる「御山所宮」を見つけることだ。その名前から連想されるのは山を御神体とするか、山に祀られている神社ではないかといったイメージである。周囲のに見える山々を調査すべきだろうか。 まずは森神社の周辺を歩いてみることにした。まだ青々とした水田に太陽の日差しがエネルギーを注ぎ続けている。ふと木の間から鳥居が見えた気がしたが、畑に阻まれて道がない。反対側の道に回ったものの、参道らしき道はない。行きつ戻りつしたが、舗装されていない民家へ続くと思われる小径しかない。「ここはどこの細道じゃー♪」――たどり着いた先の鳥居の扁額を見たら「御山所神社」とある。さらに奥の建物には「御山所宮拝殿」と書かれていた。間違いなさそうである。 結果的には森神社の南東20~30mほどの平地のど真ん中にあった。「天晴元卯九月令日」と刻まれた御山所宮の狛犬も発見できた。山がないのに御山所宮(神社)とはこれいかに? ここの祭神は大山祇命とされているがしっくりこない。まるで周囲から見つからないように祀られているような印象さえ受ける。それに、どちらも西諸木内であり、これほど近場で「天政」「天晴」の漢字の違いが生じたのはなぜだろうか。 いくつかの疑問を残したまま、春野町西諸木における「天政」「天晴」年号の確認はできた。あっぱれとまでは言えないが、「歴史は足にて知るものなり」である。 PR |
南海道土佐国における古代官道がどこを通っていたかは、いくつかの説があるものの、まだ明確にはなっていない。ただ、一つ有力視されているものとして、古代官道がのちの四国八十八カ所遍路道に連なっているとの考え方である。
高知市春野町西諸木にも雪蹊寺(33番札所)からの種間寺(34番札所)へ向かう遍路道が通っている。町内を通る遍路道は狭く、駐車警告の張り紙もある。一見、こんな細道がかつての古代官道とはとても思えない。だが、まったく可能性がないわけではない。全国的に見てもかつての古代官道の道幅が広すぎるため、後代に道を狭められたというケースが多々ある。ここ西諸木の遍路道も水路や歩道に一部が変えられているが、かつては3m以上の道幅があったのではないかと思わされるような場所もある。 それはさておき、“幕末土佐で使われた私年号「天晴」”で紹介したように、高知県内には、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」という私年号が刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。
①鎮守の森、②(通常は南北に)まっすぐ伸びた参道、③目印の鳥居ーーなど、これらの特徴が地図や地形から読み取れるものだ。だが、森神社に関しては①鎮守の森も②参道も見当たらない。かろうじて③鳥居はあるものの、遠くからは目立たない。まるで目立たないように隠しているかのようである。 けれども前を通り過ぎようとしたとき、これだというインスピレーションがあった。「森神社」と書かれた扁額などもない。それでも、すぐに私年号を刻んだ手水鉢を発見することができた。「奉献 天政元卯歳 九月吉日 惣中」――間違いなさそうである。広く使用された「天晴」ではなく「天政」という漢字一字違いの年号である。同じ西諸木にある御山所神社(御山所宮)の狛犬には「天晴元卯九月令日 氏子中」とあり、すぐ近くで漢字表記が異なるのは不思議である。どのような事情・背景があったのだろうか。 私年号「天政(晴)元年」に当たるのは慶応三(1867)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。ということは、ほぼ1年先取りして独自の改元をしたことになる。高知県人の県民性を表すものとして「いられ」という言葉がある。熊本県では「あせがり」といった言葉が対応するだろうか。とにかく待っていられない。思い立ったらすぐ行動する。坂本龍馬だけではないがぜよ。などと書くと、「ぜよぜよ龍馬は言わんぜよ」と怒られそうである。 |
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“高知県西部(幡多地方)に集中する白皇神社”の記事を書いてから、「白皇神社、このあたりに密集していること気になってました」「出雲とは関係ないのでしょうか?」など、いくつかの反響をいただいた。全国的にはほとんど知られていない白皇神社が高知県西部の幡多郡に密集している事実――これをどう理解すべきだろうか。 幡多地方の白皇神社はほとんどが「オオナムチ」を祭神としていることから、出雲神話の大国主との関係を考える方も多いだろう。オオクニヌシの別名とされるオオナムチは『風土記』にも登場し、『日本書紀』でもオオクニヌシのことを一貫してオオナムチと書いている。 その一方で、民間伝承にもオオナムチの説話は多く残されており、実際にオオナムチの信仰は広く分布していたことを思わせる。神話の世界にも一元史観と多元史観という視点の導入が必要となってくるのだが、その考察についてはまた回を改めたい。 さて、幡多地方の白皇神社の祭神は「大巳貴命」との表記が大半である。そんな中で旧大内町では「大名持命」という表記になっている。大内町は高知県幡多郡にあった町で、1957年に月灘村と合併し大月町が発足した。現在の大月町の西半にあたり、宿毛湾に面し、柏島を擁する。 『大内町史』(大内町史編纂委員会、昭和32年)には白皇神社が9社(うち合祀2社)記載されている。ところが、グーグルマップ上で神社を検索しても、どういうわけか大月町内で白皇神社は一社も出てこない。インターネット上では数社検索にかかるようだが、ネットの情報が万能ではないことが分かる。 1889年(明治22年)、町村制の施行により、弘見村・添ノ川村・小満目村・頭集村・一切村・鉾土村・平山村・天地村・橘浦村・泊浦村・芳ノ沢村・清王村・柏島村の区域をもって奥内村が発足。1951年(昭和26年)、奥内村が町制施行・改称して大内町となった。 白皇神社は①弘見に2社、②芳ノ沢に2社、③平山、④清王、⑤泊浦に各1社、⑥頭集では音無神社に合祭として記述されている。祭神については、弘見に鎮座する2社のみ「大山祇命」とされているのは不思議だが、他はすべて「大名持命」である。そしてほとんどが旧村社であったことから、一村一社ならぬ「一村一白皇」という形態がとられていたと推測する。つまり、白皇神社をもって各村をまとめていたのではないだろうか。 “高知県西部の「白皇神社」再考③――白川伯王家とのつながりを発見”の回で、やっと白皇神社と神祇伯白川家との関係が垣間見えたところであったが、この大内町にもその片鱗が見つかった。柏島の稲荷神社(幡多郡大月町柏島9番)の扁額に、白川伯王家の手による御染筆があるという。
柏島の稲荷神社は日向国橘に鎮座する稲荷宮の御分霊として、貞和四年(1348年)にこの島に渡ってきたと伝えられている。また、安政元年(1854年)大地震があり、柏島の被害が少なかったのは稲荷神社の加護によるものとして臨時祭を行い、神祇伯家より神体及称号と鳥居額字御染筆を受けたというのだ。 調べれば調べるほど興味深い事実が見えてくるものである。現大月町には月山神社・一宮神社・塩釜神社・音無神社・鷣(はいたか)神社・曽我神社など、謎に包まれた神社が多く残されている。現地の情報をしっかりと拾い上げながら、幡多地方における白皇神社の濃密分布の意味を正しく理解していきたい。 |
香南市野市町といえば、日本一の人気を博した高知県立のいち動物公園(香南市野市町大谷738)があることで知られる。その東方1kmほどの場所に『三代実録』に記録された国史現在社・宗我神社(香南市野市町中ノ村534)が鎮座する。
当初は香美郡に「コウラ」地名(“香美郡に「コウラ」地名が存在していた”)があることを確認するために現地に足を運び、そのすぐ近くに宗我神社があることを知った。その時点ではまだ、この社の存在する意味をよく分からずにいた。 最近、安芸市の古代史を調査していくにつれて、蘇我氏とミヤケおよび条里制との関連性が見えてきた(“安芸市の条里制水田に九州王朝系蘇我氏が関与”)。そして安芸郡家近くには蘇我神社が祀られていたのだ。 安芸市の事例を見た時に、もう一つのよく似た事例があることを思い出した。それが野市町の宗我神社周辺の状況である。香南市野市町は高知平野の東の端にあって東偏13度の条里制遺構が残る場所である。これは国府周辺の香長平野に広がる東偏12度の条里制地割とほぼ一致している。 看板には宗我神社の説明が次のように書かれている。 北方500mの場所には「ミヤケ」という地名遺称があり、付近一帯には曽我遺跡が広がる。漢字表記は「曽我」「宗我」であるが、安芸市と同様、蘇我氏との関連を考えてもよさそうだ。通説では大和国高市郡曽我を蘇我氏の出身地とし、『新抄格勅符抄』に「宗我の神」(806年)、『延喜式神名帳』に大和国高市郡に「宗我坐宗我都比古神社二座」などとある。野市町曽我の地に祀られた宗我神社は、むしろ本来の字形を残しているとも言える。屯倉(ミヤケ)の管理運営に関わった蘇我氏は崇仏派でもあり、「古代寺院の礎石」があることも納得がいく。 不思議なことに蘇我一族は稲目の代から突然、近畿天皇家の重臣として台頭したように見える。その先祖の系図は「韓子」「高麗」など朝鮮半島に関連深い名前であり、造作であると主張する学者も多い。「蘇我氏は九州王朝から派遣された目付役」といった説が登場するゆえんである。蘇我氏の先祖が朝鮮半島との関わりをもって活動してきたということは、地政学上、九州北部に拠点を持たずしてはあり得ない。そのルーツを九州に求めることは的外れではないだろう。神宝の銅剣や近隣の「コウラ」地名が九州とのつながりを推測させる。 最後に『万葉集』で地名「宗我」が登場する数少ない例を紹介しておく。
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鼠年であった2020年11月の高知新聞に、次のような記事が出ていた。世はまさに、空前絶後の『鬼滅の刃』ブームである。
竹ちくわは、人気漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」の主要キャラの禰豆子(ねずこ)が口にくわえている竹をヒントに同社が商品化。子どもたちは早速、ちくわを口にくわえ「禰豆子になった気持ち!」と喜んでいた。(2020.11.12) 実は、高知市長浜の㈱土佐蒲鉾本社の近くに、ついに本命『鬼滅の刃』プチ聖地を発見することができた。高知県にも竈門神社(高知市長浜5792)があったのである。これまでに紹介した「竈」「竈戸」「竈土」でなく、竈門炭治郎や竈門禰豆子と同姓ーー同じ漢字を使用した正真正銘の「竈門神社」なのだ。 小社でありながらも「昭和十四年九月吉日」付で鳥居が奉献してあり、花などが供えてあったりと、地域の人々から大切に祀られている様子だった。 主人公の竈門炭治郎は鬼殺隊に入る前は、炭を売って生計を立てていたようであるから、大分県に伝わる炭焼き小五郎伝説(真名野長者伝説)をモチーフの一部としているように思える。大分県別府市の八幡竈門神社が『鬼滅の刃』3大聖地の一つになったのも分かる気がする。 そうすると竈門炭治郎の竈門(かまど)とは炭焼き窯のことなのだろうか。竈門神社が祀る竈ノ神とはいかなる存在なのだろうか。 「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふことになっている。」(『神道史』清原貞雄著、1941年)とあるように、奥津日子神・奥津比売神の二神を祭神としているところが多い。 『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和58年)によると、荒神社は16社(安芸4、長岡1、土佐1、高岡3、幡多7)である。地検帳には記載されない神社もあるが、少なくともこれらの荒神は16世紀以前に遡る歴史を持つ。 この荒神が、個人の家の竈の神として祭られるものならともかく、社として一般の人々に祭られるのはなぜであろう。先人の研究は参考にはなるものの、謎は深まるばかりである。竃の神には奥津日子神、奥津比売神あるいは迦具突知神、火産霊神などが当てられているが、廣江清氏が言うように、これらは「神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう」との指摘は妥当かもしれない。 『鬼滅の刃』19話で、竈門家にヒノカミ神楽が伝承されていたことが描かれている。九州の竈門神社の縁起等を調べれば、より深淵なるルーツに迫れる可能性はありそうだ。 |
横浜、瀬戸、長浜ーーこれらの地名を聞いて何県を思い浮かべるだろうか。いずれも高知市南部の浦戸湾近くにある地名である。サニーマートやダイソーなどが建ち並ぶ中心街、寿し一貫の向かいの小丘に竈戸神社(高知市瀬戸西町2-115)が鎮座する。瀬戸東町及び西町の氏神で「瀬戸荒神宮」とも称される。 明治元年3月28日の太政官布告第196号による神仏分離令で、具体的な名称変更の達しがなされた。「三宝荒神は竈戸神社、弁財天は厳島と称えること」。『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎の姓とは一字違いの竈戸神社の表記を、高知県では一律使用している。神仏分離令の達しに従った結果であろう。江戸時代以前は「三宝荒神」「荒神宮」などと呼ばれていたところが多い。 十七条憲法にも「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、則ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直くせん。」とあるように、三宝荒神(さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。 仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神とされたことから、名称変更の対象となったと考えられる。 また、荒神については『風土記』に登場する荒ぶる神、『東日流外三郡誌』のアラハバキ(荒覇吐)などに当てはめる研究者もいるようだ。
明治39年12月の「神社合祀令」は「一村一社を標準とする。ただし地勢および祭祀理由において特殊の事情あるものは合祀に及ばず。云々」とされ、高知県でもその政策に翻弄された様子が案内板から読み取れる。 神社合祀令に基づいて小社小祠をこわし、他の神社へ併合させるという神社整理政策を忠実に行なったのは、四国では愛媛県に代表される。 1906~1911年末まで、全国でおよそ8万の村社が合併または廃止された。最も極端な破壊が行われたのは三重県で、数において6.8分の1に減じ、次いで和歌山県が4.7分の1に減少した。逆に、熊本県や岩手県のようにほとんど減らなかったところもある。 南方熊楠の神社合祀令反対運動に柳田国男が協力したこともあって、1920年神社合祀無益の議決が貴族院を通過した。 高知県内の竈戸神社は、一部が村社で大半は無格社であったが、境内社よりは単立の神社として多く残されている。『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると高知県内の竈戸神社は24社とされていたのが、リストアップしてみると、その2倍以上の50社ほどになりそうだ。 本場九州の竈門神社へ行くことが難しい状況もあり、身近な『鬼滅の刃』プチ聖地化を目指して、県内の竈戸神社一覧表でも作成してみたいところである。 |
主人公の竈門炭治郎の姓と同じなどの共通点から『鬼滅の刃』三大聖地の1つとされ、話題を集めているのが宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)である。主祭神が玉依姫命(たまよりひめのみこと)であり、作中の医者「珠世(たまよ)」を連想させる。 火で鬼をあぶり出す「鬼すべ」神事がある太宰府天満宮は学問の神様として九州でも随一の参詣客を集めている。かつて九州王朝の首都であったとされる太宰府の鬼門封じとして建立されたのが宝満宮竈門神社であった。 2019年(平成31年)4月、西高辻信良氏は息子の信宏氏に第40代太宰府天満宮宮司職を譲り、自らは宝満宮竈門神社の宮司に就任した。『今夜も生でさだまさし ~まっさん高知に来るっ土佐~』によると、西高辻信良宮司は宝満宮竈門神社を「太宰府天満宮より大きくしてやる」と語っていたそうだが、『鬼滅の刃』ブームがそれを後押しした。 話の舞台を高知県に移そう。高知市の中心部はりまや橋より約5kmの地点に位置し、市の南部では最も人口が密集するところが長浜蒔絵台の住宅地である。住宅団地の鬼門の位置に鎮座するのが今回紹介する竈土神社(高知市横浜新町)である。高知県では「竈」「竈戸」の表記がほとんどであるが、「竈土」とするのは珍しい。 住宅街の第4公園「夕焼け広場」からでも東方に、竈土神社の鳥居を見ることができる。2020年末に新型コロナウイルス感染者が過去最高を記録し、2021年新春の初詣も遠出を控えなければならなくなりそうだ。近場でプチ鬼滅聖地気分を味わいたい方にはおすすめスポットかもしれない。 かつて「100円ちりんトンネル」との愛称で呼ばれていた有料道路・高知桂浜道路(県道36号線)も、今では無料化して、その道沿いに鎮座する神社は、いつも横目に見ながら神社名も意識されることなく通り過ぎることが多かった。 連敗記録を持つハルウララ(生涯成績113戦0勝)で有名になった高知競馬場には、愛媛県の知人もよく通ってきていた。そこから北上した右手(東側)に竈土神社が見える。祭神、勧請年月等未詳とのことだが、狭い境内には境内社が3社ある。蒔絵台に近い立地だが、鎮座地は横浜新町になる。ドライブスルーで横目に参詣するのも、コロナ禍時代の新スタイルで良いかもしれない。 |
『千と千尋の神隠し』を抜いて、興行収入が歴代1位を記録した『鬼滅の刃』。身近な中学生に聞いても、映画を2回以上観たという人がかなりいた。 当初は『炎炎ノ消防隊』推しの女の子も、キメハラ(『鬼滅の刃』ハラスメント)に屈したわけではないだろうが、『鬼滅の刃』のコミックを全巻買ったと言っていた。 この社会現象に伴って、九州の竈門神社が『鬼滅の刃』の聖地と化している。いつもなら初詣等で参詣客が殺到しそうなところだ。密を避けるためにも、年末年始は高知県内の竈戸神社でプチ鬼滅聖地気分を味わってもらおうという試みである。主人公・竈門炭治郎の姓と漢字表記が違うのはご容赦願いたい。 今回紹介するのは高知市春野町秋山の竈戸神社である。四国八十八カ所・第34番札所 本尾山 朱雀院 種間寺の東方、小高い丘の上に竈戸神社が鎮座する。祭神は火産霊神外六柱とされている。コヤド山の急な石段を登ると、木造の山小屋かと思うような神社が現れた。前回、紹介した土佐市塚地の竈神社とよく似た印象を受けた。 「慶應三夘二月令日」と刻まれた燈籠、「文政九丙戌」と書かれた手水鉢。やはり江戸時代には篤く崇敬されていたことが伺える。現在は周囲に竹林が生い茂っているが、それに遮られなければ、春野町の中心部の平野を一望できそうな高台である。 ここ春野町秋山には古代において吾川郡の郡家があったとする論考「土佐国三郡の郡家について」(朝倉慶景氏、『土佐史談265号』2017年7月)も発表されている。やはり古い歴史を持った土地柄のようである。 扁額もなく、見ただけでは竈戸神社とは分からない小社であったが、境内社を一社擁し、古来当32集落の崇敬神で、古くは荒神社と称した。ナビがなければ気付きにくい、隠れ家的な神社であった。 |
『君の名は。』がヒットした時にも神社ブームの波が来たが、それにも増して『鬼滅の刃』人気で、さらなる神社ブームが巻き起こっている。鬼滅の三大聖地として、①宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)、②溝口竈門神社(福岡県筑後市)、③八幡竈門神社(大分県別府市)が有名になり、多くの『鬼滅の刃』ファンが詰めかけている。 コロナ禍のご時世でもあるので、密になるのを避けて、高知県内の竈(かまど)神社でプチ鬼滅聖地気分を味わってもらいたい。
『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると高知県内の竈戸神社は24社と出ている。大半が境内社かと思い込んでいたが、調べてみると意外にそうでもなさそうである。 まず足を運んだのは、土佐市塚地の竈神社。JA高石直販所の脇道から入っていき、急勾配の坂道を登った丘の上にある。そもそも塚地という地名からも連想されるが、近くの塚地大サルバミでは古墳が見つかっている。古くから人が住みついた土地だったようだ。 塚地の竈神社は単立の神社で鳥居もある。扁額には確かに「竈神社」と書かれていた。『鎮守の森は今』にも紹介されていないようなので、初っ端から穴場スポットを見つけてしまったようだ。それもそのはず、本来の表参道の石段は荒れて使われていない様子で、横瀬展望所登り口から、雨が降ったら滑りそうな坂道を登り、神社の裏側にたどり着いた。木の枝が遮らなければ高石地区を一望できそうなロケーションである。 鳥居の脇には「天保十五辰」と書かれた手水鉢がある。少なくとも江戸時代までは遡る歴史がありそうだ。昔は宇佐に抜ける塚地坂トンネルもなかったので、浦ノ内湾に行くのに、横瀬山〜大峠を経る尾根道が利用されていたのではなかろうか。 |
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『古賀達也の洛中洛外日記』第2238話(2020/09/22)に「天智天皇を祀る神社の分布」として、次のリストが紹介された。 ○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村) ○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村) ○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村) ○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町) ○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦) ○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦) ○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村) ○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町) ○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村) ○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。 ○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷) ○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村) これらを県別に見ると、次の様な分布数になる。 □滋賀県 2社 □香川県 1社 □愛媛県 1社 □福岡県 1社 □鹿児島県 7社 近江神宮を含めると滋賀県は3社。鹿児島県の7社は他にお任せするとして、四国で天智天皇を祀る神社3社について分かる範囲で紹介してみたい。 ①愛媛県の村山神社合田洋一氏が『葬られた驚愕の古代史』等の著書で、伊予国に残る斉明天皇行宮伝承地の一つとして紹介したことから、古田史学派の間では有名になった神社である。現在は四国中央市。『愛媛県神社誌』の記述を抜粋する。
②香川県の鉾八幡宮 かつて“香川県の高良神社⑤ーー財田町財田上の鉾八幡宮・境内末社”で紹介したことがある。八幡宮が天智天皇を祀っているというのは不思議だと思って、もう一度確認してみた。するとやはり、明治42、43年に近隣の神社を多数合祀している。 合祀されたのは「大物主命 天智天皇 菅原道眞 奧津彦神 奧津姫神 火産靈神 大己貴神 阿須波大神 稻倉魂神 天御中主神 大山祇神 五十猛命 素盞嗚命 市杵嶋姫命 宇賀大神 久久能知神 豐受比賣神 水分神 少彦名神 」とそうそうたるもの。推測した通り、神社合祀令によるもののようだ。
③高知県の大森神社大森神社(旧村社) 所在地 高知県吾川郡いの町中野川126番 祭神未詳(伝天智天皇) 勧請年月縁起沿革等未詳。 古来当地域の産土神で、もと大宝天皇と称した。道路がヘアピンカーブする間の大木の茂る林内に鎮座。 “「大宝天皇」は政権交代の礎を築いた天智天皇をさしていた!”で紹介したように、天智天皇を祀る神社が高知県内に存在していることは早くから知っていた。しかし、古老の話によるものであり、現在は祭神未詳となっている。何かの差出しの時に祭神を伏せるようにとの配慮があったことが、ある史料に出ていたように記憶している。 はじめはなぜこのような険しい山中に天智天皇を祀っているのかと不思議に思っていたが、村山神社との位置関係を見てもらえば、むしろ愛媛県との県境に近いからこそというもっともな理由が見えてくる。そこは長沢という地名もあり、もしかしたら無量寺『両足山安養院無量寺由来』「聖帝山十方寺由来之事」に記載されている「長沢天皇」との関連があるのではとの連想も浮かぶ。 伊予国は合田氏が言うように斉明天皇の伝承が色濃く残る場所であり、天智天皇とも関連が深いわけである。鉾八幡宮にしても、大森神社にしても、伊予国を中心とする伝承の辺縁部という位置づけになる。 さらに“長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①~④”で言及したように、愛媛県と徳島県との県境の町である大豊町に「斉明6年棟札」が存在していた。もっと言えば、高知市の朝倉神社周辺にも斉明天皇および天智天皇の伝承(『愛媛県神社誌』に天智天皇の土佐国朝倉行幸)は数多くあり、秦泉寺廃寺近くに天智天皇のミササギ伝承地も存在している。 それらはあたかも天智天皇が近江朝を築く前に、四国に滞在していたことを指し示すかのようでもある。多元史観による考察が求められるところだ。 |