県外の読者からのコメントで、高知市横浜の清川神社に南学中興の祖・谷時中のお墓があることを教えられた。「灯台下暗し」で、地元の人間にもあまり知られていないスポットかもしれない。そもそも「谷時中って誰?」と思う高知県民も多いのではないだろうか。人気が坂本龍馬に一点集中するあまり、他の高知の偉人たちが十分に発掘・PRできていない弊害があるように感じる。
ところで、神社にお墓があることに違和感を持たれる方もいるのではないだろうか。神道では穢(けが)れを忌み嫌う考え方があり、お寺とお墓のセットはあるが、神社とお墓が共存するというのはどうなのか。「百聞は一見に如かず」――とにかく行ってみることにした。 浦戸湾に面する高知市横浜東町の横浜病院に隣接する箕越山。かつては前の道路をよく通っていたものだった。当時は全く気づくこともなく通過していたらしい。旧道に踏み入れると「谷時中の墓」の案内板がすぐに見つかった。山の一画が墓所になっており、ゆるやかな階段を昇りつめた頂上に清川神社の鳥居が見えてきた。下調べで見た古い写真と違って、つい最近きれいに整備された様子である。 古い頌徳碑碑文は文字が見えづらくなっているが、平成23年に改修工事が行われたようで、地元住民と東京都在住の森夫妻のご尽力があったことが、新しい石碑に刻まれている。森夫人の旧姓名が「カントリー・ガール」の谷山浩子ならぬ谷浩子さん。谷時中の後孫であろうか。 谷家の先祖は奥州の佐藤氏で、高知県の東の玄関口、安芸郡甲浦にやってきた。父宗慶は親鸞派の甲浦真乗寺の住職で、貧乏な寺に生まれた時中は慶長十八年(1613年)、14歳の時、父に連れられ長浜瀬戸村(現高知市瀬戸)真乗寺に移る。ほどなく、長浜雪蹊寺住職天質和尚に弟子入りし、25歳まで朱子学を学んだ。 ある日、天質が『大学』の「財を生ずるに大道あり」の章の講義を終え、さらに「金銭や財産は身をほろぼし、家を貧乏にする故、何一つ所有していないことが安全である」と講義した。孔子の教えである儒学と現世の欲を遠ざける仏教との矛盾を感じとった時中の反論は天質を感心させたという。 当時の南学はこの世を捨てた僧侶から、君臣、父子、夫婦といった現世の人道を学ぶという自己矛盾を抱えていた。時中は還俗して三郎左衛門と改名し、干拓事業をおこして人々の生活を豊かにする儒者としての道を選んだ。殖産興業、経済主義の、理論より実践に重きをおく「実学」を打ち立てたのである。 PR |
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