横浜から瀬戸へ通じる旧道の切通し。東側の石段を登った箕越山の丘陵上に、木立に囲まれた小祠堂がある。これが谷時中の墓で、清川神社(高知市横浜東町10)とも呼ばれている。時中はその性豪胆にして、官途につくことなく、最後まで民間にあって学を講じた。その門下に家老の野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らがおり、水戸学にも影響を与えた土佐南学を発展させることとなった。 谷といったら「柔ちゃん(谷亮子)」ではなく、谷秦山や谷干城などを思い浮かべるところだが、彼らは南学の系譜を受けつぎながらも谷時中の血統ではなく、息子は谷一斎(1625-1695年)。 時中は実学を実践した人物でもあった。瀬戸村には浦戸湾の海水が北から入っていたので、真乗寺前は一面の沼や沢であった。多くの人夫を雇い、入口に東西約40mの堤防を築いて、低湿地を干拓し、三十町余り(約300石)の新田を完成させた。 慶安元年(1648年)、この田地と山林24町歩を高知城下の豪商播磨屋宗徳(はりまやそうとく)に銀16貫目で売却し、息子の一斎を京都に遊学させている。まさに「子孫に美田を残さず」である。後に、谷秦山も自分の田地を売りはらって、『六国史』などの書籍を買い込み、子垣守に与えたという。時中に学んだものであろうか。 「土佐の高知のはりまや橋で坊(ぼん)さん、かんざし買うを見た」と『よさこい節』に歌われ、今でこそ、がっかり名所として知られる「はりまや橋」だが、その朱塗りの橋をかけたのが播磨屋宗徳である。その橋のたもとで、元お坊さん(谷時中)が田んぼを売った話はあまり知られていない。
幕末土佐から武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎など多くの勤王の志士が輩出され、明治維新の大業が成し遂げられた。 彼らの精神的な支柱となった土佐南学の礎を築いた先人たちの魂は、意外と身近なところに眠っていたのだった。 PR |
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