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 1997年に書いた「神話理解の3段階」というタイトルの文章が出てきた。もう20年以上前の話である。「日本神話と聖書の秘密」シリーズを始めた手前、その原点に立ち返ろうと思って探したところ、ちゃんと残されていた。今読み返すと稚拙な文章だったと恥ずかしくも感じるが、当時の思いが蘇ってもくる。そのままの内容でお届けしよう。

神話理解の3段階

“真実かウソか”ではなくどちらも段階的真理。

 物事を正確に理解するためには、一つの方向から見ただけでは十分ではありません。少なくとも3段階の視点を経験することが、全体像を正しく把握することにつながります。神話の理解においても、この原則がよく当てはまります。歴史的にも次の3段階の認識の過程があったことを見ることができます。
①絶対の段階
神話を神の啓示として、あるいは実際にあった出来事としてそのごとくに信じる段階。
②相対化の段階
「神話は史実ではなく、後代の偽造、作り話である」と相対的にとらえる段階。
③中和の段階
「神話は史実そのものではないが、全くのでたらめではなく、史実に基づく内容が投影されている」というように、より高次元的な理解がなされる段階。

子供の発育と同様に神話認識も発展する

 人類の知性が、無知の状態から啓発されていくにつれて、神話に対するとらえ方も次第に発展していきます。それは子供の知的発育の過程にも似ています。子供は自らの主体性を持たないうちは、親の言うことをすべてそのごとくに信じます。学校でいろいろな知識を身につけるようになってくると、科学的説明のないもの、論理的でないものに対して反発を覚えるようになります。しかし、さらに大人になると、言葉の背後の動機を酌み取るようになってきて、一見論理的でない事柄にも、何かしら深い意味を見いだすようになってくるのです。
 例えば、子供が成長すると、幼い頃に信じていたサンタクロースが実在しないことを知って失望してしまいます。しかし、サンタクロースが貧しい人々を助けた聖ニコラスという人に由来することを教えられれば、まったく無意味とは考えないでしょう。
 これと同様に、人間の知性がいまだに開発されていない時代においては、神話が絶対的な支配力を持っていました。やがて理性を中心とする合理主義が台頭し、科学万能が叫ばれるようになると、神話というものは「人間が勝手に作ったもの」と解釈されるようになります。しかし、古代の遺跡が発掘され、文献や資料の検証が進んでくると「単なる作り話と言い難い内容がある」というように見直されてくるのです。

シュリーマンのトロヤ遺跡の発掘

 ギリシャ神話の中心をなしている『イリアス』『オデュッセイア』というホメロスの古代叙事詩があります。古典時代(紀元前600~300年)のギリシャ人たちは、叙事詩の多くは自分たちの正真正銘の歴史であると見なしていました。けれども19世紀までは歴史家たちが証拠として確認できるようなものは何一つ見つかりませんでした。それゆえ、神話は基本的に伝説に過ぎないという結論に至るのです。
 ところが、トロヤ遺跡の発掘がそれまでの定説を根底から覆したのです。“燃え上がるトロヤ城”の絵に心動かされたハインリッヒ・シュリーマンは、物語の舞台が実在すると信じ続け、ついに遺跡を掘り当ててしまったのです。その発見により、ギリシャ神話のトロヤ戦争が現実に起きた事件であったことが証明されたのです。
 聖書の物語についても、歴史をたどれば、かなりとらえ方が変化してきました。
 中世までは聖書は一字一句神の啓示として、そのごとくに信じられていました。しかし、聖書が研究の対象とされ始め、20世紀初頭に登場した「キリスト神話論」という説が、当時の西欧キリスト教世界に衝撃を与えました。「イエスは架空の人物、後から作りだしたもの」と断定したのです。しかし、その後の研究は、必ずしもこの結論を支持しませんでした。聖書が神話的要素を含むものの、イエスの実在性など、多くは事実に基づくことが証明されてきたのです。
 日本神話についても、太平洋戦争を前後して、その地位が大きく変化しました。
 戦前は軍国主義のイデオロギーを正当化するために神話が用いられました。『古事記』や『日本書紀』が絶対的なものとして、教育の中心となっていました。しかし、敗戦によって状況は一新します。「神話は作り話である」とする津田左右吉の学説が主流となったのです。この風潮は戦後長く支配的でしたが、遺跡の発掘や詳細な文献批判により、「古事記や日本書紀は荒唐無稽なものではない」と言われるようになってきています。

受け手のレベルで神話の意味は変わる

 このように見てくると、神話が真実か虚構かという論争が、もはや的外れであることが分かるでしょう。神話理解の3段階を通過して初めて、神話の本質が見えてくるのではないでしょうか。
 神話とは「歴史であって歴史でなく、啓示であって啓示でない。それらが統合されたもの」とぐらいに考えてもらったらいいでしょう。現代人にはとかく、一つの言葉に一つだけの意味を持たせたがりますが、神話という言語は受け手のレベルに応じて、理解の仕方が変わってきます。その一つ一つを段階的な真理として認めつつ、さらに深い意味を求めていくことが重要なのではないでしょうか。

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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