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 これまでのブログの中で、岡豊別宮八幡宮の境内社として瓦ノ宮社があり岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した、物部川の西岸に川原神社があった(南国市の川原神社は高良神社だったのでは?ことを紹介した。丁度その中間地点、祈年神社(南国市東崎283)の境内にもう1つの「瓦の宮」があったことが判明した。
 『南国史談第13号』(南国史談会、平成4年)に掲載された「源希義」(山岡哲郎・吉本富雄)と題する論考の中に「瓦の宮」が紹介されている。源希義は源氏の義朝の五男で母は熱田の大宮司藤原季規の女、頼朝の同母弟である。永暦元年(1160)平氏のために捕縛され幼少(三歳位)の身を土佐に流され高知市介良の庄に配流されていた。
 希義は南国市の年越山で蓮池権頭家綱と平田太郎俊遠と血戦をまじえ奮戦したが衆寡敵せず愛馬を失い非業の死をとげる。希義の討死年齢は二十五才位と推定される。希義の死骸は南国市鳶ケ池中学校門の北方十五米位の流れに沿った樹林に放置されていたと云う。またこの樹林の中に瓦の宮と呼ばれる小さな祠があった。これは純朴な村民が希義の霊を慰めるために祀ったものとされ現在は昭和四十六年度鳶ケ池中学校移転改築工事の都合上、南国市東崎祈年神社の境内西北隅に移されている。
 瓦の宮の祠跡に「源希義討死伝承之地」と書かれた地上一・五米、巾十六糎、厚さ十二糎のコンクリートの白塗の柱が建っている。

▲瓦の宮(左)と佐婆為神社(右)

 さて、この瓦の宮は源希義の霊を慰めるために祀ったものとされているが、なぜ名前が「瓦の宮」なのだろうか。「希義はかねて香美郡夜須庄の荘官であった夜須行宗と平氏を討つ密約が出来ていた。亦、夜須庄は源氏にゆかりの石清水八幡宮の所領でもあった」という。

 石清水八幡宮の摂社に高良神社があることは、吉田兼好の『徒然草』にも書かれている。「ぐるりん関西」のホームページには次のように紹介されている。

 高良社(高良神社)は、京都府八幡市にある石清水八幡宮の摂社である。一の鳥居内頓宮の南西にあり、高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を祀っている。
 豊前国(現大分県)宇佐八幡宮から八幡大神を勧請した行教和尚(ぎようきょうわじょう)が、貞観2年(860年)に社殿を建立したと伝えられる。
 社名は、貞観3年(861年)の行教夢記に「川原神」と記され、「男山考古録」は古記に「瓦社」とも記し、また「カハラ神社」と称したとする。
 また放生会が行われた川のそばに座したので、「河原社」と称し、のち極楽寺・頓宮等が建てられて河原もなくなり、筑前国高良社(現福岡県久留米市)の神名と似ているので、同社をここに移したと考えられて、高良の字があてられたという。
 高良神社がかつては「瓦社」「川原社」などと呼ばれていたことが分かる。その名は放生会が行われた川のそばに座したことにも関連していたというのだ。
 実際に岡豊別宮八幡宮の境内社・瓦ノ宮社はもとは石清水川(現在の笠ノ川か?)と呼ばれた川のほとりにあり、放生会が行われていた記録がある。物部川西岸の川原神社や鳶ケ池中学校付近にあったという瓦の宮――鳶ケ池という池があったのだろうか――いずれも放生会には生きた魚を放つ川や池があることが必須条件である。かつて高良神社であったという仮説が成立する余地はありそうだ。
 そしてこれらの三社が国衙を中心として、東・西・南と三方にさほど遠くない距離にある。高良神社および放生会が国府と関係をもっていた可能性もある。それは土佐国府跡の内裏(通説では紀貫之が住んでいた場所)地名中に「コフラ」という塚があったとされることからも連想される。
 もともと筑後国一宮・高良大社はかつて倭の五王を祀る九州王朝の宗廟に位置付けられる神社ではなかったかという指摘がなされている。放生会については以前にも少し触れた。701年の政権交代によって権力を握るようになった近畿天皇家が、戊辰戦争ともいうべき隼人の反乱討伐(720年)以降、八幡宮が新たな宗廟としての地位を確立していく。宇佐神宮で行われた放生会には、滅ぼされた九州王朝に対する慰霊の意味がこめられているように感じられる。後に石清水八幡宮などでも放生会が恒例となっていき、謡曲『放生川』『弓八幡』では、あたかも高良の神が八幡神に仕える臣下のように描かれる。やがて高良の神は八幡神第一の伴神と解釈されるようになり、武神というイメージが定着していった。
 話を本筋に戻すが、源希義の霊を祀った神社の名がなぜ「瓦の宮」なのか。高知県の場合、江戸期であれば先祖を祀る社は若宮神社と相場が決まっている。時代は平安末期から鎌倉初期のことであるから、あまり参考になる事例は少ない。源希義を祀るために、新たに瓦の宮を作ったのだろうか。むしろ、既に存在していた瓦の宮に希義の霊を祀ったと考える方が自然なのではなかろうか。この時代(源平争乱期)には既に高良神が武神と考えられていたことから、源希義を祀ることは違和感なさそうである。
 2020年の初詣として足を運んだ南国市の祈年神社。祭神は「大年神」で、この地区の産土神である。長宗我部元親も毎年正月の元日に参拝し、その年の五穀豊穣を祈願した事が伝わっている。お年玉の語源はもともと「年神の魂」から来たものだというから、「高良神社の謎」を追い求めてきて、思わぬお年玉をもらったような気分になった。
 祈年神社の創建は、『続日本記』文武天皇慶雲三年(706)二月の記述「甲斐・信濃・越中・但島・土佐……の十九社に祈年の幣帛を行うことを決めた」を根拠に、706年鎮座とする。近くの祈念遺跡は「縄文時代から居住域となり、弥生時代の大規模集落や律令期前夜の古墳時代後期の集落、そして律令期に入ってからは道状遺構をはじめとする活発な土地活用がなされていた」(『祈年遺跡Ⅰ』(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター 2011.3)とあるように古代官道とされる遺構も見つかっており、時代的にも適合する。ちなみに、神社の中には「祈年神社」「諏方宮」「熊野神社」と書かれた扁額がかかっていた。

 「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社の祭神、高良玉垂命の光が失われてしまって、今ではかろうじて「瓦の宮」として残されている。「高良神社の謎」を追い求める旅はまだまだ続く。「磨かぬ玉に光なし」である。


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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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