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龍馬脱藩の道は古代官道?ーー3つの鈴権現
 武藤致和編『南路志 闔国之部 下巻』の高岡郡の項に、次のようなメモの張り紙があったことが記録されている。

 檮原村
 (張紙)
 延喜式兵部条
 頭駅五埼丹治川
 五埼は今の檮原ならん
 谷地志篇に説あり(公文)
    谷秦山による「五埼=檮原説」があるとのことだが、まだ目にしたことがない。通説では古代官道の駅家として丹治川駅(通説では立川)とともに新設された五埼駅は、かつての吾橋荘すなわち現在の本山町付近に比定されている。この北山越えルートから大きく外れるとは考えにくい。
    ただし、古代官道が檮原を通っていた可能性はないわけではない。

○舟戸村に鈴権現(ミツキ山)ーー駅鈴に関係?
○羽山谷村(舟戸之内)今書半山ーー現在の葉山、早馬(ハユマ)すなわち駅家関連地名。
○白山権現(ムマセキ)・三所権現(馬セキ)ーー須崎市との境付近に「馬関」地名が残る。
○三ツ又村(大野見之内)に鈴権現(高山)ーー駅鈴に関係?
    これらに加え、高岡郡の郡家比定地と推定される佐川町永野にも鈴神社(元 鈴権現)が存在する(鈴神社は駅鈴と関係があるか?)。
    龍馬脱藩の道として有名になった佐川・津野山・檮原ルート(現在の国道197号線付近)は、もしかして野根山官道(718年)以前の古代官道だったのではないか?
    ちなみに岐阜県の南宮大社(美濃国一宮)には駅鈴が保管されており、毎年11月3日には公開される。レプリカではなく、実際に使用されていたものであることを先日、案内所で確認してきた。


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【2018/05/11 00:25 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
士島田遺跡の古代官道跡をどう解釈するべきか?
   もう十年前となる平成20年、高知県初の古代官道と見られる遺構が発見された。南国市小籠の士島田遺跡である。丁度、国府跡とされる場所の南方に当たり、道幅6メートルで側溝もある。
   この幅6メートルの古代官道は大和朝廷時代のものとの指摘があるように、奈良~平安時代のものとされる。問題はこの地点に見つかった古代官道跡をどう位置づけるかである。
   香長平野には県内最大の条里制が敷かれており、その条里余剰帯から推定すると国府から東西方向に伸びる古代官道が想定されていた。ところが遺跡が示したものは国府から南方に伸びる官道の存在であった。

  [9月19日掲載分] 
 高知県南国市小籠の士島田(ししまだ)遺跡から、県内初となる古代の官道「南海道」とみられる道路遺構が見つかったことを、県埋蔵文化財センターが19日発表した。
 南海道は紀伊半島、淡路島、四国にあり、高知県内では記録はあったものの、実際に発掘されたのは初めて。
 同遺跡の西側で幅約6mの道が見つかり、道の両側には幅約90cm・深さ約30cmと、幅約75cm・深さ約30cmの2本の排水溝とみられる溝が、約30mにわたって平行に走っていた。 溝は7世紀中ごろの竪穴住居跡を壊して建設されており、官道は奈良時代から平安時代に存在したとみられる。
 この6m道路は近くの国分寺(同市国分字国分寺)から南にかけて約4kmあったとみており、瀬戸内海側の伊予に向けて抜ける山越えルートの起点部分と推測される。
 21日午後1時半から現地説明会が開かれる。[参考:産経新聞]

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【2018/04/03 23:57 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
鈴神社は駅鈴と関係があるか?

 肥沼孝治氏のコラム「九州王朝は駅鈴も作ったか?」の中に「平城京で発掘された木簡には、兵士が二時間ごとに駅鈴を見張っている」とあり、現存する駅鈴は隠岐の二個だけだという。
 ところが美濃国一宮、南宮大社にも、二つの駅鈴が保存されているという。この駅鈴は、寛仁元(1017)年、後一条天皇即位の際、諸国の大社四十八社に奉献されたものの一つとされている。
 駅鈴には刻み目があり、その数によって調達できる馬の数が決められていた。南宮大社の駅鈴には刻み目はないが、底に付いている出っ張りの数に意味があったと伝えられている。


   高岡郡佐川町永野には鈴神社がある。佐川町永野は高岡郡の郡家が置かれ、馬牧が近くにあったと推定されている。だとすれば、駅家が置かれた可能性もあり、もしかすると鈴神社には駅鈴が保管されていたのではないかとの仮説も出てきそうだ。この駅鈴探しも古代官道を復元する重要な手がかりとなる。



駅鈴

 古代官道の整備に伴って、律令で駅伝の制が定められた。唐の制度にならったもので、官吏の旅行を容易にするため、主要道路に二十キロ前後の間隔で駅をつくり、馬や宿泊所を置いた。ここで公儀の旅行者の証として使用したものが駅鈴と呼ばれる鈴。駅鈴は特権の象徴で、官吏は、これを鳴らしながら往来した。



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【2018/04/03 01:04 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
古代官道に関する古伝
 古代南海道について、いくつかのリアルすぎるとさえ感じる伝承がある。
   例えば、『仁淀村史』(仁淀村史編纂委員会、1969年)は、初代官道を「幡多回りの道」としながらも、別に「久万官道」を想定している。古伝として「斉明天皇七年(661)に天皇が伊予に上陸し、土佐に行幸、朝倉明神木丸殿に着」とあり「これ古の駅路也。外に道なし、伊予の場所より土佐の朝倉まで陸地相去ること30里、其間、山高く嶺重なり坂長く道険し」とあり、また、仁淀村沢渡の「三島神社」の鎮座から「古代伊予との交通の要路で、付近一帯は古代人の小集落であったことを立証するものである」と述べている。
   また、「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。
   さらに山崎氏は他の著書で「久万官道(655年)開設」としており、その根拠となる出典については触れられていない。果たして伊予と土佐を結ぶ久万高原越えの古代官道が存在したのだろうか?


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【2018/03/24 01:53 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
古式官道想定図『土佐の道 その歴史を歩く』より
 近年、古代官道についての研究が進み、各地方ごとに「古代官道探し」への関心が高まってきている。3月下旬発売予定の『古代に真実を求めて第21集』(明石書店)でも古代官道特集を組んでいるとのこと。
   さて、古代南海道で最も謎に包まれているのが土佐国府への道である。まずは『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)から見てみよう。

   「公私の使いが土佐に行く場合、その道筋は伊予の国(愛媛県)を経ている。したがって、その行程は遠回りで遠く、それに山は高く、谷は深く険難である。ただし、阿波の国(徳島県)は、土佐の国と境しており、交通はいたって便利である。したがって阿波から直接土佐の国に入る通路を、官道に指定して欲しい」
   土佐の国司からの請願は許可され、新たに「養老官道」が718年に開設されることになった。
   では、それ以前には土佐と阿波をつなぐ官道はなかったのだろうか? なぜ、わざわざ伊予経由の遠回りで険しい道を経て来なければならなかったのか?
   これこそまさに九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代を示す有力な状況証拠なのである。700年以前は九州王朝の首都と推定される太宰府を基点とした古代官道が整備された。
   それが702年、「始めて紀伊国賀陀駅家(和歌山県加太港)を置く」(『続日本紀』大宝二年)ところから畿内大和朝廷を基点とした南海道の再整備が始まる。

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【2018/03/22 11:53 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
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