前回までに、古代官道上には御坂峠や三坂峠などのような「みさか」地名が多く見られることを紹介した。それと共に、大坂峠や逢坂峠のような「オオサカ」地名が存在することも複数の研究者によって指摘されている。今回は南海道における「オオサカ」峠にスポットを当ててみたい。 大宝二年(702年)正月一〇日に「始めて紀伊国賀陁駅家を置く」(『続日本紀』)とある。『続日本紀』は『日本書紀』に比べるといくらか正直に書かれている印象を受ける。どういうことかと言うと、四国内の古代官道は7世紀には既に存在しているのに、8世紀になってから初めて、紀伊水道を畿内側から四国へ渡るための渡津地点となる駅家を設置したと記録されているのである。 これこそまさに倭国・九州王朝(Old)から日本国・近畿王朝(New)への政権交代が701年であったとする"ONライン"の存在を傍証する代表的事例である。その段階では九州王朝時代の官道がそのまま利用されていたので、土佐国へのルートは伊予国経由であった。 このことは奈良時代の僧侶・行基(ぎょうき)が作ったとされる古式の日本地図『行基図』にも読み取れる。四国内の街道が阿波、讃岐、伊予を経て土佐国へと連結している。土佐国・阿波国間のルートが開かれるのが718年であるから、『行基図』原型となる地図はそれ以前に作成された可能性さえ読み取ることができる。 余談になるが、九州は筑後国を中心としてその周囲を8国が取り囲むように描かれている。これは筑後国に天子がいて中央と四方八方合わせて九つの州を治めるという九州王朝のイデオロギーが反映された地図表記なのではないかと感じている。ついでながら、古代寺院に見られる八葉蓮花文軒丸瓦のデザインにも通じるものがあるのではないだろうか。 四国の初駅である阿波国石隈駅は鳴門市木津付近に、同郡頭駅は旧吉野川北岸の板野町小字郡頭付近に比定され、香川県東かがわ市引田町に比定される讃岐国引田駅へと続く(服部昌之「阿波国」藤岡謙二郎編『古代日本の交通路』Ⅲなど)。板野町から引田町に向かう途上、徳島県と香川県の県境に大坂峠がある。古代官道上に見られる「オオサカ」地名である。 実は高知県内にも逢坂峠があって、これも同様に古代官道上に見られる「オオサカ」地名であるとすれば、土佐国の古代官道の推定に役立つはずだ。場所は高知市一宮、南国市の土佐国府跡から真西方向で、土佐神社(土佐国一宮)に行く途中の切通しである。718年以前の伊予国経由の古代官道がこの逢坂峠を通っていた可能性は高い。今後、発掘調査等で明らかになることを期待する。 残す課題は坂本神社と古代官道との関係である。全国的にも坂本神社はいくつか存在しているが、とりわけ高知県には複数の坂本神社が鎮座する。次回はそこにスポットを当ててみたい。 PR |
『古代を考える――古代道路』(木下良編、1996年)の一節に「大宰府を介して宮都に結び付いていた西海道を除けば、ほかの六道の官道はすべて宮都と各国を結合するものであった。したがって宮都の移動は、当然のことながら官道のルートにも大きな影響を与えた」とある。西海道だけは特殊であったということを、近畿王朝一元史観の学者たちも認めざるを得なかった。発掘によって分かってきた古代官道の広がりは、九州においては太宰府を中心に六道が伸びていたのである。大和朝廷に先行する九州王朝が実在したとすれば、おそらく太宰府付近を首都としていたことが予想される。太宰府は単なる地方の出先機関などではなかったのだ。 大和朝廷一元支配が始まるのが701年以降であり、710年(なんと見事な平城京)こそがまさに九州から近畿へという宮都の大規模な切り替えであった。それに伴って、南海道土佐国に通じる官道に変化が起こる。 「土佐国申 公私の道 直土左指 其道伊予国経行程迂遠山谷険難 但阿波国境出相接往還甚易 請此国就為通路以許之」(『続日本紀』養老二年<七一八年>五月七日条)718年以前は伊予国経由であったものが、阿波国経由へと付け替えられることになったのだ。まさに「宮都の移動は、当然のことながら官道のルートにも大きな影響を与えた」わけである。 718年以降の阿波国ルートはいくつかの説が出されていたが、「阿波国那珂郡武芸駅・薩麻駅」の名称が記された平城宮出土木簡(『木簡研究』九)も見つかって、ほぼ野根山越えのコースであったという結論に落ち着いている。問題は伊予国経由のルートである。従来は仁淀川に沿うような国道33号線に近いコースも考えられていた(金田章裕「南海道」藤岡謙二郎編『日本歴史地理総説』古代編。日野尚志「南海道の駅路」『歴史地理学紀要』二〇。栄原永遠男『奈良時代流通経済史の研究』など)が、近年は宿毛市・四万十市など幡多郡を通る海岸付近の道であったとする足利健亮説が有力視されている。 そこで検討材料となるのが“古代官道上にある「みさか」峠”である。前回“古代官道上にある「みさか」峠①”で紹介したように、全国的に見ても、古代官道上に「御坂峠」のような「みさか」地名が多く見られるという。それが愛媛県にも存在している。松山と高知を結ぶ国道33号線の途上に「三坂峠」がある。この峠道は古くから松山と高知を結ぶ主要陸路として土佐街道(松山街道)と呼ばれ、利用されてきた。そして松山市の海岸には三津浜(三津)という古くから交易に利用されてきた港もある。これらは古代においては「御坂」と「御津」でセットだったのでなかいかと推測する。 『延喜式』段階の南海道淡路・四国の駅家と官道については、細部を除けば、従来の研究者の見解がほぼ一致していると言ってよい。阿波国・讃岐国・伊予国の今治まではおよそのルートが分かっている。さらに『新説 伊予の古代』( 合田洋一著、2008年)の第九章「風早に南海道を発見――上難波・下難波の地名考察を通して」の中で、今治の「国府から旧玉川道を経て松山まで古代官道が延びていたことが判明した」との発見を伝えている。 それが間違いないとすれば、三津浜は豊後水道を渡る渡津地点であった可能性があり、九州王朝時代の古代官道において、太宰府から豊後、豊後水道を渡って三津浜、そこから北へ向かえば伊予国の国府(今治)へ。他方、三坂峠を越えて土佐国へと通じていたのではないだろうか。この港の位置と道路網は、畿内を基点とすれば明らかに非効率であり、九州を基点としてこそ合理的な配置であることが理解できる。 やはり九州王朝時代の古代官道上に「三坂峠」はあったと推測する。さらに古代官道との関連が指摘されている「オオサカ」「坂本神社」などについても検証していきたい。 |
ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に長野県上田市の吉村八洲男氏によるコラム"科野からの便り(9)「みさか」編"が掲載されている。注目すべきは、古代官道上に「御坂峠」などの「みさか」地名が数多く見られるという指摘である。
「科野の国」にも「御坂峠」は2つあるとのこと。一志茂樹(いっし しげき、1893―1985年)博士の先行研究によると「おそらく、『みさか』の称呼をもつ峠は、全国で30個処前後はあろうか」としている。 そのうちの博士は具体的な地名として、論考中で10カ所程を例示しており、吉村氏作成のリストと長野県の古東山道想定図を引用させていただく。その際の根拠や引用文献も列記してあり、今後の「古代官道」研究の参考となりそうだ。
「越國之鼠、昼夜相連、向東移去」「数年、鼠、向東行」という各文中にある「東」、つまり「東方へ向かう道」が、この道にあたるのではないかと博士は想像している。越國から「東」へ行く「古代道」が、これ以外には見当たらないからです。 さて、「古代官道」研究者にとっては、古代官道上に「みさか」地名が多く見られるという指摘は早くから知られていた。例えば、『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』の補論2「古代東山道と神坂」(宇野淳子)の中で、次のように言及されている。 ここでは「オオサカ」地名についても触れられている。百人一首でも有名な「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」〈蝉丸(10番)『後撰集』雑一・1089〉に代表される地名である。 他方、一志博士は「さらに『みさか』の麓の坂本神社の所在例(「延喜式」その他)を勘案したとき……」というように、「さかもと」名称にも注目すべきと指摘しているとのこと。 不思議なことに、長野県の事例から貴重な手掛かりを得ることになった。古代南海道における「みさか」「オオサカ」「坂本神社」ーーこれらは四国にも確かに存在しているーーが古代官道復元のキーワードになりそうである。 |
||
平成20年に士島田遺跡(現在は祈年遺跡)、昨年(平成30年)高田遺跡と、古代官道と思われる遺構が発見された。さらに今年3月、南国市篠原若宮ノ東遺跡で、古代役所の穀物庫とされる「正倉」3棟を県内で初めて確認したとのニュースが報道されていた。遅まきながら周辺との位置関係を考察しつつ、古代官道ルートを大胆に推定してみたい。 高知新聞(2019年3月16日)によると、3棟(うち1棟は2016年度の調査で発見)は南北方向に並び、いずれも南北5個、東西4個の計20個の柱穴を持つ。縦8~9メートル、横6~7メートルの高床式倉庫。柱穴から出土した土器から8~9世紀に使用されたとみられる。 香長平野の条里制(東偏12度)に基づいた地割と並行に建設され、倉庫が複数並ぶ構造が県外の事例と一致することから、南国市教育委員会は「古代の租税である租・庸・調のうち租(穀物)を納めた郡の役所・郡衙(ぐんが)の穀物庫『正倉』ではないか」と推測する。 この若宮ノ東遺跡はおなが通りの若宮八幡宮の北西数百mの場所。国府から南に延びる古代官道の想定ルートよりやや西側と見られる辺りで、発掘を担当した山崎美希主事は「周辺で郡衙の関連遺構が見つかる可能性もある。今後の調査で遺跡の全体像を明らかにしていきたい」と話している。
土佐の国府は現在の国分寺の東方一帯にあったと推定されており、そこから南方に伸びた古代官道は祈年遺跡の幅6mの古代官道跡を通り、南国小籠郵便局付近の切通しを抜けてさらに南へ。今回発見された南国市篠原の若宮ノ東遺跡の高床式倉庫群跡の東方を通過していたのではないかと推定する。国道55号線よりもやや南を東方へ折れ、高知龍馬空港の北側を通過し、物部川を渡って、高田遺跡(香南市野市町下井)の幅10.35mの古代官道跡に連結するルートを予想しているが、どうであろうか。 土佐国の南海道については、718(養老2)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に野根山街道を経由する阿波国ルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代(701年のONライン)によるものとする指摘もある。さらに796(延暦15)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に変更されている。
|
||
12月14日の高知新聞に「南海道か 県内最大遺構」との見出しで、香南市野市町下井・高田遺跡で古代官道とみられる道路遺構の発見を報じた。気になった点は次の記述である。 道路は、溝出土の土器などから8世紀に使用されたと推定。道幅10.35mは、律令国家が713年以前に使った「大尺」と呼ばれる長さの単位でちょうど30尺にあたる。 ここで「大尺」と呼んでいるのは、1尺=約35cmのいわゆる高麗尺のことを指しているのだろうか? 「ちょうど30尺」としているというからには、1035÷30=34.5(cm)を1尺と見ていることになる。これは高麗尺の元になったとされる東後魏尺(1尺=34.5cm)に相当する。 大和朝廷は唐の影響を強く受けて、唐の律令制度を取り入れていることから、それに先行する長さの体系が存在していたことは、九州王朝といった旧王朝の存在を示唆することにもなり、相当に食指が動くところである。 しかし、学問を志す者は真理の前に謙虚でなければならない。『古田史学会報』140号に「高麗尺やめませんか」と題する八尾市の服部静尚氏の論考があるが、高麗尺に相当する物差しは見つかっていないという。法隆寺再建論争で有名になった仮説段階の物差しであって、その実在は専門家の間でも疑問視されている。新井宏氏の「日韓古代遺跡における高麗尺検出事例に対する批判的検討」などが参考になる。 そもそも今回見つかった道幅は、小尺(1尺=29.6cmの唐尺あるいは天平尺)で35尺のほうがピッタリのような気がする。29.6×35=1036(cm)、すなわち10.36mになり、新聞発表の数値とも合っている。この阿波経由の古代官道は718年以降に大和朝廷主導で設置されたものとすれば、713年以前に使用されたという大尺を適用する必要はない。令の雑令に「高麗法を用いると地を度るに便なため」とある内容に引きずられ過ぎたのではないか。 また、九州王朝においては魏との関係が深かったことから南朝系の尺度が使用されたと考えられ、1尺=24.3cmとする魏尺(正始弩尺)などが候補として検討されるところである。ここでも「ONライン(701年)」を前後する度量衡の変遷が研究課題となりそうだ。 |
待ちに待っていたニュースが飛び込んできた。高知県香南市野市町下井の高田遺跡の発掘調査で古代官道と見られる県内最大の道路遺構が発見されたのだ。「高知 NEWS WEB」では、次のように報道している。 古代の道路跡は「南海道」か12月13日 17時09分 香南市で行われていた遺跡の発掘調査で幅10メートルを超える古代の大きな道路の跡が確認されました。いまから1300年ほど前の奈良時代に、中央と地方を結んだ、「南海道」ではないかと見られています。 道路跡が見つかったのは香南市野市町の高田遺跡です。高知県の埋蔵文化財センターが高速道路の工事に伴う今年度の発掘調査で確認し、13日に報道関係者に公開されました。 見つかったのは、並行にまっすぐ伸びる2本の溝で、溝と溝との幅は10メートル長さは170メートルに及び、古代の大きな道路の跡とみられています。 この近くでは、いまから1300年ほど前の、奈良時代の建物の跡なども見つかっていることから、この道路は、奈良時代に、中央集権国家を目指し朝廷が整備した、中央と地方を結ぶ幹線道路である「南海道」の可能性が高いということです。 高知県内で、南海道とみられる道が見つかったのは初めてで、これまでに香川県の一部でのみ見つかっている南海道と比べても、かなり規模が大きいということです。 調査にあたった県の埋蔵文化財センターの池澤俊幸さんは「中央にいち早く情報を伝達するのに馬が走れる大きな道路が必要だったと考えられる。本来、推定されている南海道のルートとは異なる場所での発見だが、道路の特徴などから、南海道の可能性は高い」と話していました。 今回の遺跡調査の結果については、今月16日、一般向けの現地説明会が予定されています。 まずお断わりしておくが、古代官道と見られる道路遺構の発見は県内で2例目である。ちょうど10年前の平成20年、南国市の士島田遺跡で幅6メートルの古代南海道の一部と見られる遺構が見つかっている。「本来、推定されている南海道のルート」とコメントされているのは、南国市比江の推定国府跡から東西に伸びるルート(条里余剰帯の存在などを根拠とする)のことであろうか。そこからはかなり南方を東西に走っていることになる。 「遺構は偶然にも高知東部自動車道・南国安芸道路の建設予定地で見つかり、県立埋蔵文化財センターは『最短距離で人や物を運ぶ現代の高速道路と古代の官道のルートが一致する事例は全国にもあり、大変面白い』」とした報道もあるが、もし、このコースを全く想定していなかったとしたら研究不足かもしれない。一部の郷土史家の間では、この位置に古代官道が発見されて当然と見る者もいる。 現地説明会の内容は聞いていないが、今回の発掘調査で整合性が見えてきた感もある。土佐国の南海道については、718(養老2)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国経由の野根山街道を経由するルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代(701年のONライン)によるものとする指摘もある。さらに796(延暦15)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に変更されている。 今回発見された古代官道は718〜796年の間に使用された道路と考えられる。国府から南下し、士島田遺跡と廿枝を経てさらに南へ。香長中学校(道路遺構らしきものが見つかっている)あたりを通るように東へ向かい、そのまま高知龍馬空港の北側を通過し、物部川を渡って、今回見つかった高田遺跡の道路遺構にほぼ直線的に連結するようなルートである。 今後の課題として、①さらに東の延長がどのように伸びているのか? また、②国府以西がどのコースを通っているかーー従来の想定位置、国分寺北側からほぼ真西(土佐北街道沿い)に逢坂峠方面ヘ伸びているのか? あるいは、今回発見された南方のルートを香長中学校あたりから、そのままほぼ真西に伸びているのか? 「古代南海道を探せ」と銘打って情報発信してきた古代南海道研究が新たなステージに入ったと言えるだろう。 |
『古代の地方史2 山陰・山陽・南海編』(八木充編、昭和五十二年)頁一四二に以下のような土佐国に向かう古代官道の変遷が記されている。 土佐国府(南国市比江)に達する公式ルートは、はじめ讃岐から伊予国府を経由した。おそらく周敷郡付近から南下して石鎚山脈を越え、仁淀川の支流を下るという、現在の国道一九四号線に近いルートをとり、仁淀川下流付近で東行し、土佐国府に至ったものであろう。しかし、このルートは、遠まわりの上に相当険難であったらしく、七一八年(養老二)五月、那珂川沿いにさかのぼり、四ッ足堂峠を経て物部川沿いに下る阿波国経由のルート(現在の土佐中街道)に切りかえられた(『続日本紀』)。しかし、このルートも、結局問題が多かったとみえて、七九六年(延暦一五)に至って、讃岐—伊予間の川之江市付近(旧宇摩郡)から南下し、水無峠を経て立川川沿いに下るように、再び切りかえられた。 国道一九四号線といえば寒風山トンネルを抜けるルートで、現在は道も良くなっており、西条市に行くには最短コースかもしれない。近くの山中に「越裏門(えりもん)」という地名があり、まさに土佐国の裏門を象徴しているようでもある。 また、四ッ足堂峠ルートを採用しているところを見ると初期の頃の説であり、西は中村経由、東は野根山ルートをとる近年の説(足利健亮説など)とでは、かなり異なっている。 しかし、完全に結論が出たわけでもないので、従来説として尊重しておこう。官道でなかったとしても、古くから利用されていた道のようであり、直短距離をつないでいる利点は感じられる。 |
地検帳中村郷「中村」(現在は四万十市)には「大道」に係わる記載が14筆ある。「大道」地名は古代官道との関連が指摘されることがあるが、『土佐の「小京都」中村ーーその歴史・町並み復元と史跡ーー』(西南四国歴史文化研究会中村支部、平成19年)によると、それらは大きくは4本の道を示しているという。足利健亮説では伊予経由の古代官道は中村を通っている。もしかしたら地検帳の「大道」のどれかが古代官道と重なっている可能性があるが、同時に官道以外の道にも「大道」というホノギが当てられていることにもなる。 『長宗我部地検帳』に登場する「大道」というホノギ(小字のようなもの)を追っていけば、もしかしたら、古代官道が浮かび上がってくるのではないか? そんな淡い期待を抱いていたところ、すでに先人達によって検証された事例があった。春野町(現在は高知市に合併)については、『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)の中にホノギ「大道」をもとに大道の推定がなされている。図のように東西にほぼ一本の点の束になっているが、南北方向に枝分かれした道も見られる。朝倉慶景氏はこの春野町を通る南ルート(高知市からやや南下して春野町―土佐市―須崎市へとつながる海岸よりのコース)を古代官道と推定している。 また、佐川町における「大道」に関するホノギを拾って中世における道路の推定復元図(『佐川町史 上巻』佐川町史編纂委員会、昭和57年)が作られているが、それを見ると一本ではなく複数の枝分かれした道路網である。木下良氏の著書に見られる古代南海道の図では、この佐川町を経る北ルート(JR土讃線が通っているコース)が採用されている。この二つのルートは二者択一的で、春野町と佐川町の両方を通っている可能性はかなり低いといえよう。とすれば、『長宗我部地検帳』に見えるホノギ「大道」は、仮に古代官道と重なっている部分があるとしても、全く関係のない道にも対応している地名だと結論づけられるのではないだろうか。 地域差はあるにしても他の市町村にも「大道」というホノギは広く見られ、「道」(多数)や「小道」(大道よりは少ない)も存在する。中には「タイトウシリ」(~シリは跡の意)、「コタイシキ道」など、古代官道を連想させるようなホノギも見受けられる。県全体をくまなく調べていけば何らかの傾向が見えてくるかもしれないが、一足飛びに古代官道までさかのぼるというわけにはいかないようである。 |
古代の条里制の南北線をどのように定めたのか。ある人から「東西線を先に決めたのだ」という話を聞いたことがあったが、春分・秋分の日の出や日の入りの方角という考えには納得できない思いがあった。なぜなら、縄文時代の建造物はむしろ冬至や夏至を意識した造りになっているものが多いからだ。 「肥さんの夢ブログ」でも東偏5度問題がテーマとなっている。ちなみに古代土佐(高知県)の条里制は香長平野で東偏12度(N12°E)、鏡川下流域で西偏16度(N16°W)となっている。 調べてみると、奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」に、古代の方位測定法について書かれていたので、以下に引用させていただく。 平城京をはじめとする都城や寺院、道路など、古代の土木建造物には、真北や真東西に方位を合わせたものが少なくありません。工事にあたって測量がおこなわれたことは確実です。では、具体的には、どのような方法で方位を測ったのでしょうか。
平城京は、このうちの下ツ道を基準に設計されていますから、造営時にあらためて方位を測定したわけではありませんが、その精度は古代の測量技術がかなりの水準に達していたことを物語っています。 (2013年6月のブログより)棒の影の長さが円の半径に等しくなる時刻が、午前と午後で一回ずつある。その方角は太陽が南中する真南の方角から対称なので、かなり正確に東西方向を決めることができそうである。その線に垂直な方向を南北線と決めるというわけだ。 しかし、問題は敢えて真北より東へ5度(東偏5度)ずらした方角で建てられた建造物群が存在するということだ。果たして、どのような意図があったのだろうか? 県内の古代建造物についても検証してみたいところである。 |