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  • 2024.05
古代南海道の側に正倉跡か?――官道ルートを大胆予想
 平成20年に士島田遺跡(現在は祈年遺跡)、昨年(平成30年)高田遺跡と、古代官道と思われる遺構が発見された。さらに今年3月、南国市篠原若宮ノ東遺跡で、古代役所の穀物庫とされる「正倉」3棟を県内で初めて確認したとのニュースが報道されていた。遅まきながら周辺との位置関係を考察しつつ、古代官道ルートを大胆に推定してみたい。
 高知新聞(2019年3月16日)によると、3棟(うち1棟は2016年度の調査で発見)は南北方向に並び、いずれも南北5個、東西4個の計20個の柱穴を持つ。縦8~9メートル、横6~7メートルの高床式倉庫。柱穴から出土した土器から8~9世紀に使用されたとみられる。
 香長平野の条里制(東偏12度)に基づいた地割と並行に建設され、倉庫が複数並ぶ構造が県外の事例と一致することから、南国市教育委員会は「古代の租税である租・庸・調のうち租(穀物)を納めた郡の役所・郡衙(ぐんが)の穀物庫『正倉』ではないか」と推測する。
 この若宮ノ東遺跡はおなが通りの若宮八幡宮の北西数百mの場所。国府から南に延びる古代官道の想定ルートよりやや西側と見られる辺りで、発掘を担当した山崎美希主事は「周辺で郡衙の関連遺構が見つかる可能性もある。今後の調査で遺跡の全体像を明らかにしていきたい」と話している。

<国府の南方に伸びる古代官道の想定図>
▲赤線が古代官道推定ルート(東偏12度の香長条里に沿う)

 土佐の国府は現在の国分寺の東方一帯にあったと推定されており、そこから南方に伸びた古代官道は祈年遺跡の幅6mの古代官道跡を通り、南国小籠郵便局付近の切通しを抜けてさらに南へ。今回発見された南国市篠原の若宮ノ東遺跡の高床式倉庫群跡の東方を通過していたのではないかと推定する。国道55号線よりもやや南を東方へ折れ
高知龍馬空港の北側を通過し、物部川を渡って、高田遺跡(香南市野市町下井)の幅10.35mの古代官道跡に連結するルートを予想しているが、どうであろうか。
 土佐国の南海道については、718(養老2)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に野根山街道を経由する阿波国ルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代(701年のONライン)によるものとする指摘もある。さらに796(延暦15)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に変更されている。
 今回推定している古代官道は718〜796年の間に使用された道路と考えられる。国府から南下し、祈年遺跡遺跡よりもさらに南の篠原方面へ官道が直線的に抜けていたとすれば、南国小籠郵便局付近の切通しは8世紀には既に掘削されていたということになる。さぞかし大規模な工事であったことだろう。

 今後期待されるのは、愛媛方面に伸びていた7世紀以前の古代官道跡の発見・発掘である。コースの推定材料になるということもあるが、土佐国における官道の規格がどのように変遷したかなど、古代南海道を知る重要な手がかりとなることが予想される。

若宮ノ東遺跡

 若宮ノ東遺跡は南国市篠原(しのはら)に所在し、弥生時代から江戸時代にかけての複合遺跡です。都市計画道路高知南国線建設に伴い、平成28年に初めて本格的な発掘調査を行いました。調査では弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての竪穴建物跡が25軒以上も確認され、円形が4軒、方形が20軒、多角形が1軒など様々な形態のものが確認されています。遺構密度が高く、今後調査が進めばさらにその数は増えるものと考えられ、大規模な集落であったとみられます。また、竪穴建物跡からは遺物がまとまって出土しており、多量の弥生土器のほか、石庖丁や鉄鏃(てつぞく)も出土しています。
 古墳時代後期ではL字状を呈する溝跡が確認されています。この溝跡は幅約2mを測る大規模なものであり、集落や施設の区画である可能性が考えられます。また、この溝跡に沿うように一辺1.2m、深さ1.1m、柱痕径30㎝を測る大型の柱穴が7基確認されており、全長18mを測る県内最大級の建造物であり、集落の象徴的な建物が存在したものと思われます。また、この建物跡の西約60mの地点では梁間(はりま)3間、桁行(けたゆき)4間の大型総柱建物跡も確認されています。これらの大型建物跡の柱穴からは弥生土器片のみしか出土しておらず明確な時期については不明ですが、県内で確認されている大型建物跡はいずれも古代の官衙(かんが)関連の遺跡で確認されており、今回の調査で確認された建物跡が同時期のものとすれば官衙関連の建物跡である可能性が高いと思われます。これらの大型建物跡の時期や性格については、今後の資料整理や隣接地の調査が進み解明されることが期待されます。
(高知県立埋蔵文化財センターHPより)

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【2019/09/11 23:48 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
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