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第八次調査の「内裏」地点
 昭和55年の第八次調査。『土佐の歴史を掘るーー高知県における発掘調査の成果ーー』(宅間一之著、昭和60年)によると、「「ダイリ」地点は地形的にも微高地であり、国府域が見渡せる地理的条件をもち、その中央部には古くから「国司館址」と伝承されてきた場所もある。~(略)~
かつて「国司館址」一帯は小高い丘であったと言われており、おそらく後世において削平されたものと考えなければならない。」としている。
 『長宗我部地検帳』に記された「タイリ中ニツカアリ」である。「コフラ」という地名もあることから高良塚、すなわち古墳だった可能性が見える。

 『皆山集』に比江村出土古瓦小片の拓本が残されているが、「得重菊全紋瓦」とされていたのは、今で言う「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」のようである。また、もう一つは途中で絵が切れているものの「五七桐」の紋が見える。これは高良大社にも縁のある神紋であり、皇族や足利家の家紋にも用いられている。高知県では小村神社、荒倉神社、松尾神社などでも見かけたことがある。

 また「七世紀代の三基の長方形の竪穴住居址のうち二期は、北面の壁近くに、または壁に接して「カマド」を推定させたが、今回も同様「カマド」を推定させるものである。この段階での竪穴住居址内における「カマド」の存在は、南四国ではおそらく最古のものであろう。」といった生活の跡が伺える。

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【2018/07/12 23:10 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
縄文人は豊後水道を渡った
    愛媛県南予郡愛南町御荘平城(ひらじょう)に所在する平城貝塚(県指定史跡)は、明治24(1891)年に高知県の地域史研究者・寺石正路氏によって発見され、早くから知られた縄文時代後期(約3500年前)の貝塚である。その後、昭和初年にかけては愛媛県内の研究者や中央の考古学者が平城貝塚を訪れ、発掘を行っている。本格的な調査は、昭和29(1954)年以降、平成8(1996)年まで5回にわたり、行われた。
    この貝塚は、縄文時代後期の磨消(すりけし)縄文という手法で製作された平城式土器の標識遺跡として著名である。この土器は対岸の東九州の小池原(こいけばる)式土器と類似しており、豊後水道を介した人々の交流がうかがえる。また、貝製の笛や貝製の腕輪、獣骨で作られた漁具、当時の人々が食べた貝殻など、約3500年前の暮らしに密着したた資料が多い。


    一方、九州姫島産黒曜石の分布に注目すると、西四国から石鏃(200本以上)、石錐、尖頭状石器、スクレイパーなど多数出土している。木村剛朗氏は「九州姫島産黒曜石よりみたる西四国縄文期の交易圏(中)」(『土佐史談125号』昭和45年3月)の中で、縄文時代早期の押型文期~前期前葉を黒曜石交易の最盛期とし、次に中期、最後に後期と順位付けしている。そして晩期以降の遺跡、入田弥生遺跡をはじめ弥生期の遺跡からは黒曜石製石器、剥片は発見されておらず、黒曜石交易の終末を示すとしている。
    いずれにしても、縄文人は豊後水道を渡った。

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【2018/05/31 07:17 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
古代官道ができる前は水運がメインだった
  『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠とすれば、7世紀初頭には既に、古代官道の整備が始まっているようである 。当然ながらこの時代であれば九州王朝の京(山口県の豊浦宮か?)が基点となって官道が造られていったはずである。九州王朝が東日本経営に乗り出す第一歩として、副都としての前期難波宮の建設と交通網としての山陽道の整備であった。
  当然ながら、それ以前は海上交通がメインであった。関西方面へは瀬戸内海の船による移動となるが、船の寄港地となる古代の津がどこにあったか?  それを調べることで、九州王朝が進出していった足取りが掴めるかも知れない。
  古代において、天然の良港とされるのはラグーンや大河の河口である。実は高良神社の分布と古代の津がよく一致していることに、最近気づいた。

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【2018/05/27 11:58 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
龍馬脱藩の道は古代官道?ーー3つの鈴権現
 武藤致和編『南路志 闔国之部 下巻』の高岡郡の項に、次のようなメモの張り紙があったことが記録されている。

 檮原村
 (張紙)
 延喜式兵部条
 頭駅五埼丹治川
 五埼は今の檮原ならん
 谷地志篇に説あり(公文)
    谷秦山による「五埼=檮原説」があるとのことだが、まだ目にしたことがない。通説では古代官道の駅家として丹治川駅(通説では立川)とともに新設された五埼駅は、かつての吾橋荘すなわち現在の本山町付近に比定されている。この北山越えルートから大きく外れるとは考えにくい。
    ただし、古代官道が檮原を通っていた可能性はないわけではない。

○舟戸村に鈴権現(ミツキ山)ーー駅鈴に関係?
○羽山谷村(舟戸之内)今書半山ーー現在の葉山、早馬(ハユマ)すなわち駅家関連地名。
○白山権現(ムマセキ)・三所権現(馬セキ)ーー須崎市との境付近に「馬関」地名が残る。
○三ツ又村(大野見之内)に鈴権現(高山)ーー駅鈴に関係?
    これらに加え、高岡郡の郡家比定地と推定される佐川町永野にも鈴神社(元 鈴権現)が存在する(鈴神社は駅鈴と関係があるか?)。
    龍馬脱藩の道として有名になった佐川・津野山・檮原ルート(現在の国道197号線付近)は、もしかして野根山官道(718年)以前の古代官道だったのではないか?
    ちなみに岐阜県の南宮大社(美濃国一宮)には駅鈴が保管されており、毎年11月3日には公開される。レプリカではなく、実際に使用されていたものであることを先日、案内所で確認してきた。


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【2018/05/11 00:25 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
士島田遺跡の古代官道跡をどう解釈するべきか?
   もう十年前となる平成20年、高知県初の古代官道と見られる遺構が発見された。南国市小籠の士島田遺跡である。丁度、国府跡とされる場所の南方に当たり、道幅6メートルで側溝もある。
   この幅6メートルの古代官道は大和朝廷時代のものとの指摘があるように、奈良~平安時代のものとされる。問題はこの地点に見つかった古代官道跡をどう位置づけるかである。
   香長平野には県内最大の条里制が敷かれており、その条里余剰帯から推定すると国府から東西方向に伸びる古代官道が想定されていた。ところが遺跡が示したものは国府から南方に伸びる官道の存在であった。

  [9月19日掲載分] 
 高知県南国市小籠の士島田(ししまだ)遺跡から、県内初となる古代の官道「南海道」とみられる道路遺構が見つかったことを、県埋蔵文化財センターが19日発表した。
 南海道は紀伊半島、淡路島、四国にあり、高知県内では記録はあったものの、実際に発掘されたのは初めて。
 同遺跡の西側で幅約6mの道が見つかり、道の両側には幅約90cm・深さ約30cmと、幅約75cm・深さ約30cmの2本の排水溝とみられる溝が、約30mにわたって平行に走っていた。 溝は7世紀中ごろの竪穴住居跡を壊して建設されており、官道は奈良時代から平安時代に存在したとみられる。
 この6m道路は近くの国分寺(同市国分字国分寺)から南にかけて約4kmあったとみており、瀬戸内海側の伊予に向けて抜ける山越えルートの起点部分と推測される。
 21日午後1時半から現地説明会が開かれる。[参考:産経新聞]

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【2018/04/03 23:57 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
鈴神社は駅鈴と関係があるか?

 肥沼孝治氏のコラム「九州王朝は駅鈴も作ったか?」の中に「平城京で発掘された木簡には、兵士が二時間ごとに駅鈴を見張っている」とあり、現存する駅鈴は隠岐の二個だけだという。
 ところが美濃国一宮、南宮大社にも、二つの駅鈴が保存されているという。この駅鈴は、寛仁元(1017)年、後一条天皇即位の際、諸国の大社四十八社に奉献されたものの一つとされている。
 駅鈴には刻み目があり、その数によって調達できる馬の数が決められていた。南宮大社の駅鈴には刻み目はないが、底に付いている出っ張りの数に意味があったと伝えられている。


   高岡郡佐川町永野には鈴神社がある。佐川町永野は高岡郡の郡家が置かれ、馬牧が近くにあったと推定されている。だとすれば、駅家が置かれた可能性もあり、もしかすると鈴神社には駅鈴が保管されていたのではないかとの仮説も出てきそうだ。この駅鈴探しも古代官道を復元する重要な手がかりとなる。



駅鈴

 古代官道の整備に伴って、律令で駅伝の制が定められた。唐の制度にならったもので、官吏の旅行を容易にするため、主要道路に二十キロ前後の間隔で駅をつくり、馬や宿泊所を置いた。ここで公儀の旅行者の証として使用したものが駅鈴と呼ばれる鈴。駅鈴は特権の象徴で、官吏は、これを鳴らしながら往来した。



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【2018/04/03 01:04 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
古代官道に関する古伝
 古代南海道について、いくつかのリアルすぎるとさえ感じる伝承がある。
   例えば、『仁淀村史』(仁淀村史編纂委員会、1969年)は、初代官道を「幡多回りの道」としながらも、別に「久万官道」を想定している。古伝として「斉明天皇七年(661)に天皇が伊予に上陸し、土佐に行幸、朝倉明神木丸殿に着」とあり「これ古の駅路也。外に道なし、伊予の場所より土佐の朝倉まで陸地相去ること30里、其間、山高く嶺重なり坂長く道険し」とあり、また、仁淀村沢渡の「三島神社」の鎮座から「古代伊予との交通の要路で、付近一帯は古代人の小集落であったことを立証するものである」と述べている。
   また、「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。
   さらに山崎氏は他の著書で「久万官道(655年)開設」としており、その根拠となる出典については触れられていない。果たして伊予と土佐を結ぶ久万高原越えの古代官道が存在したのだろうか?


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【2018/03/24 01:53 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
古式官道想定図『土佐の道 その歴史を歩く』より
 近年、古代官道についての研究が進み、各地方ごとに「古代官道探し」への関心が高まってきている。3月下旬発売予定の『古代に真実を求めて第21集』(明石書店)でも古代官道特集を組んでいるとのこと。
   さて、古代南海道で最も謎に包まれているのが土佐国府への道である。まずは『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)から見てみよう。

   「公私の使いが土佐に行く場合、その道筋は伊予の国(愛媛県)を経ている。したがって、その行程は遠回りで遠く、それに山は高く、谷は深く険難である。ただし、阿波の国(徳島県)は、土佐の国と境しており、交通はいたって便利である。したがって阿波から直接土佐の国に入る通路を、官道に指定して欲しい」
   土佐の国司からの請願は許可され、新たに「養老官道」が718年に開設されることになった。
   では、それ以前には土佐と阿波をつなぐ官道はなかったのだろうか? なぜ、わざわざ伊予経由の遠回りで険しい道を経て来なければならなかったのか?
   これこそまさに九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代を示す有力な状況証拠なのである。700年以前は九州王朝の首都と推定される太宰府を基点とした古代官道が整備された。
   それが702年、「始めて紀伊国賀陀駅家(和歌山県加太港)を置く」(『続日本紀』大宝二年)ところから畿内大和朝廷を基点とした南海道の再整備が始まる。

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【2018/03/22 11:53 】 | 古代南海道を探せ | 有り難いご意見(0)
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