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第八次調査の「内裏」地点
 昭和55年の第八次調査。『土佐の歴史を掘るーー高知県における発掘調査の成果ーー』(宅間一之著、昭和60年)によると、「「ダイリ」地点は地形的にも微高地であり、国府域が見渡せる地理的条件をもち、その中央部には古くから「国司館址」と伝承されてきた場所もある。~(略)~
かつて「国司館址」一帯は小高い丘であったと言われており、おそらく後世において削平されたものと考えなければならない。」としている。
 『長宗我部地検帳』に記された「タイリ中ニツカアリ」である。「コフラ」という地名もあることから高良塚、すなわち古墳だった可能性が見える。

 『皆山集』に比江村出土古瓦小片の拓本が残されているが、「得重菊全紋瓦」とされていたのは、今で言う「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」のようである。また、もう一つは途中で絵が切れているものの「五七桐」の紋が見える。これは高良大社にも縁のある神紋であり、皇族や足利家の家紋にも用いられている。高知県では小村神社、荒倉神社、松尾神社などでも見かけたことがある。

 また「七世紀代の三基の長方形の竪穴住居址のうち二期は、北面の壁近くに、または壁に接して「カマド」を推定させたが、今回も同様「カマド」を推定させるものである。この段階での竪穴住居址内における「カマド」の存在は、南四国ではおそらく最古のものであろう。」といった生活の跡が伺える。

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