近年、古代官道についての研究が進み、各地方ごとに「古代官道探し」への関心が高まってきている。3月下旬発売予定の『古代に真実を求めて第21集』(明石書店)でも古代官道特集を組んでいるとのこと。 さて、古代南海道で最も謎に包まれているのが土佐国府への道である。まずは『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)から見てみよう。 「公私の使いが土佐に行く場合、その道筋は伊予の国(愛媛県)を経ている。したがって、その行程は遠回りで遠く、それに山は高く、谷は深く険難である。ただし、阿波の国(徳島県)は、土佐の国と境しており、交通はいたって便利である。したがって阿波から直接土佐の国に入る通路を、官道に指定して欲しい」 土佐の国司からの請願は許可され、新たに「養老官道」が718年に開設されることになった。 では、それ以前には土佐と阿波をつなぐ官道はなかったのだろうか? なぜ、わざわざ伊予経由の遠回りで険しい道を経て来なければならなかったのか? これこそまさに九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代を示す有力な状況証拠なのである。700年以前は九州王朝の首都と推定される太宰府を基点とした古代官道が整備された。 それが702年、「始めて紀伊国賀陀駅家(和歌山県加太港)を置く」(『続日本紀』大宝二年)ところから畿内大和朝廷を基点とした南海道の再整備が始まる。 PR |
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